弁護士感覚とビジネス感覚

 弁護士感覚とビジネス感覚はときにぶつかり合うものだ。

 言っちゃあ悪いが、やっていることは普通の弁護士とほとんど変わらないにもかかわらず、○○専門、凄い実績!と、専門的な内容を知らない大々的に営業を行って、今までの通常の弁護士費用と比較すると法外と言えるほど高額な弁護士費用をふんだくろうとする法律事務所も実は存在する。

 他の弁護士からも、いろいろ実例は聞くが、私が経験したのは次のような案件だった。

 合意の上で女性と関係を持ったある男性が、その後女性から「合意はなかった、告訴する」と言われ、インターネットで調べた刑事専門を謳う法律事務所に相談に行った。
 ところが、相談を受けた弁護士から「その案件は、あなたでは解決できない。絶対に女性から告訴される。そうなるとあなたは今の職も社会的地位も失う。それが嫌なら、私が解決するから、示談費用とは別に300万円(税別)をもってすぐ来なさい。」と言われたという。
 その男性は、とてもそのような高額な費用を準備できないということで、私のところに相談に来たという案件だった。

 私が男性から話を聞いてみると、○○という事情等(特定防止のために伏せ字)から、告訴の可能性は高くはないとすぐわかる案件だった。しかし、あまりにその男性が心配するので、「今後の社会生活を安心して送るために、ある程度の解決金で解決する方向はどうか」と提案し、交渉の結果、もちろん告訴しない約束を盛り込んだ上で数ヶ月後に若干の解決金で示談することができた。弁護士費用は着手・報酬金合わせて某事務所の着手金の10分の1以下であった。

 仮にその男性が受けたという某事務所の説明が真実だったと仮定した場合、上記法律事務所の担当弁護士の説明は、かなり不当な説明であると言わざるを得ないだろう。相手の女性から告訴すると言われ不安に陥っている人に、弁護士が「絶対告訴される」と言えば、誰だってさらに不安に陥れられ、まともな判断など出来なくなるだろう。その状況に追い込んでおいて、弁護士費用の相場も知らない人に法外な値段をふっかければ、心に余裕を持てない状況にある人は、藁をもつかむ思いでその費用を出そうとするにちがいないからである。

 そして、上記のようなやり方は、弁護士感覚からすれば弱者を窮地に追い込んで食い物にする許されるべきではない手法である。しかし、そのような法律事務所の売り上げがどんどん伸び、利益を上げているのであれば、ビジネス感覚からすれば、その手法は正しいと言えてしまうのだ。
 新自由主義下の規制緩和・自由競争の社会では、手段はどうであれ、結局は儲けた者勝ちであり、儲けられない者は退場せざるをえない。そして、弁護士も自由競争するようにマスコミは叫び続けているし、大量の就職未定者を出しつつも弁護士大増員は未だ止められていない。

 実際にそのような噂を聞く法律事務所の所長弁護士が経済誌に取り上げられたり、弁護士マーケティング本で成功例として取り上げられている可能性すらあるだろう。ビジネス感覚からすれば、現に儲けていることは正義なのだから。

 新自由主義下では、儲けた者だけが勝者であり、正義とされる傾向にある。また、自由競争に伴う弊害が生じたとしても、それは自己責任(そのような弁護士を選んだ者の自己責任)とされてしまうことがほとんどだ。

 でも、本当に自己責任で片付けて良いのだろうか。
 どこかが狂っている。
 そんな気がしてならない。

飛行機好き

インターネットで、とても面白いアプリ?を発見した。

http://www.flightradar24.com

 世界中の現在飛んでいる飛行機が分かり、飛行機のマークにカーソルを合わせクリックすると、その飛行機のデータが出るのだ。

 その昔、パイロットに憧れ、大学時代はグライダーを飛ばしていた飛行少年にとっては、面白くてたまらない。日本・ヨーロッパなどは飛んでいる飛行機のマークで、地図が見えないくらいのところもある。

 飛行機好きの方には、お勧めである。

花岡幸代ライブ~その5

 ライブの最後の曲は、私も大好きな「サイド・バイ・サイド」だった。私が勝手に想像するに、一昨年に永遠に分かれることになってしまった世界で一番大事な人と、花岡さんが一緒に歩けるようになったときの想いを曲にしたものなのかもしれない。
 この曲が作られたときには、一昨年の突然のお別れ、少なくとも花岡さんがブログで書かれていたような形でのお別れは、想像すらしていなかったはずだ。

 大切な人と一緒に歩くことができたものの、その輝いていた時間に突然の終わりが訪れ、その大切な時間にはもう想い出の中でしか戻れない。そして、時という残酷な存在は、人から痛みを引き受けていくのと引き替えに、その想い出をもゆっくりと、しかし確実にセピア色の霧に包み、色褪せさせていくのだ。

そんな今、花岡さんはどのような気持ちでこの曲を歌うのだろう。

 ゲストの板倉雅一さんの、ピアノの優しいイントロだけで、私はもう、ダメになりかかっていたが、花岡さんの歌うサビの部分

「いつまでも忘れないで
 初めて逢ったあの日の二人を
 いつまでもはぐれないで
 つないだ指と指の温もり
 忘れずに」

で、やはり私は、ダメになった。

いつまでも、一緒に同じ夢を見ていたかった。
いつまでも一緒に歩きたかった。
ずっと大事にしてきた音楽をおいてまでも、その人との時間を大切にしたかった。

それなのに、、、、

見事にもう一度、涙ぼろぼろの中年のおっさんの出来上がりである。

ライブが終わり、ようやく鼻水を止めて落ち着いた私は、友人との待ち合わせもあったため早めに帰途についた。

つきなみの言葉しか出ないが、

素晴らしかった。

本当にいいライブだった。

来て、本当に良かった。

心の底からそう思った。

そして、何故だかわからないが、

「その道は、苦しいし大変だけれど、心を汚さないようにして生きていくほうが、つらくてもきっと素晴らしい。」

そういう心の種火を、ぽっと小さく自分の中に、ともしてもらえたような気になった。

ライブハウスの出口で、お知り合いの方々だろう、板倉雅一さん、そして18年ぶりのライブの緊張感から解き放たれた花岡幸代さんらがにこやかに談笑されていた。花岡さんはやはり小柄で、そして笑顔の似合う女性だった。

 どうしても一言お礼が言いたくて、私は、花岡さんに、「素晴らしい音楽を、ありがとうございました。」などとお伝えした。もっと気の利いたことが言えれば良かったのかもしれないが、そのときの私には無理だった。

花岡さんは、私を見て、「あの、ブログの方ですよね」と言ってくださった。
私は、以前ブログに花岡さんのことを書かせていただいたこともあるし、花岡さんのブログにコメントさせていただいたこともある。どちらの意味かまではお聞きするだけの余裕はなかったが、私としては、すばらしい時間を分けていただいたことをお伝えできただけでも良かった。

そんな花岡さんの新曲CD「十六夜」が出されている。
私はライブ会場で購入できたが、まだ、アマゾンでは出ていないようだ。
購入方法がわかればまた、私のブログでお伝えすることができるかもしれない。

もし花岡さんの音楽に興味をお持ちの方は、復刻されたアルバムも今なら入手できるので、是非聞いていただきたい。

そして、できるならライブで花岡さんの生の歌声に、是非直接ふれていただきたいと思っている。

このような音楽を聴くことのできる幸運を逃してしまうのは、あまりにも惜しい。

真剣にそう思うからだ。

(この項終わり)

花岡幸代ライブ~その4

その曲を単に音楽として捉えただけなら、私も普通に聴いていられただろう。しかし、その歌を聴いているうちに、上手く言えないのが本当にもどかしく、ありきたりの言葉になってしまうのが残念だが、曲の世界に引き込まれてしまった。

いや、より正確に言えば、単に曲の世界に引き込まれたというようなものではなかった。

ライブ会場に座って花岡さんの音楽を聴いている、私という客観的存在の中に隠され、普段の生活では様々な仮面の中で守られている、私の本質いうか、心そのものとも言うべき存在が、全くの無防備で、ありのままの姿で、その歌詞と曲に、すっと自然に優しく抱き寄せられてしまったのだ。

普段の自分が曲の世界にいるのではない。

それならまだ自分を保っていられる。

しかし今回は違う。

私という殻を脱ぎ去った全く無防備の、むき出しの、素の、私の心に、歌が優しく届いてしまうのだ。

こうなるともうダメだ。

花岡さんの音楽を聴いているはずなのに、もはや音楽を越えて、花岡さんの歌う歌詞を現実に追体験するのに近い感覚につつまれてしまう。

ああ、大事な人にこういう言葉を伝えたかった。
大事な人からこういう言葉を聞きたかった。
もっといろいろ話をしたかった。
もっと一緒に歩きたかった。

でも、、、、

自分のことではないのに胸が痛む。
自分の体験ではないのに勝手に涙腺がゆるむ。

一方、涙腺がゆるみ始めた頃、そういう状況を冷ややかにみようとする自分も、まだ、私の心の片隅には、恥ずかしながら少しだけ残っていた。

何なんだいったい。
仕事ではいつも冷静に対応しているじゃないか。
周りに大勢の人がいるぞ。
いい年こいたおっさんが、泣いているなんて滑稽なだけじゃないか。

だが、花岡さんのステージでの真っ直ぐな姿を目にし、伸びやかに透る歌声を聴いていると、もう今は、少なくともこの曲を聴いている今だけは、これでいいんだ、という気持ちに自然と傾いていった。

その結果、ぼろぼろと涙を流し、鼻をすすっている中年のおっさんが、一丁上がりで、出来あがってしまった。
照明が暗くて、またハンカチを持っていて本当によかった。

(続く)

花岡幸代ライブ~その3

前にステージがあるから当然前から現れると思っていたので不意をつかれた感じだ。花岡さんは、すっと私の後ろを通って、ステージの方へ向かって行った。少し小柄な方だ。仕事柄、法廷では裁判官は、法壇の横か法壇後ろ(つまり前)から現れる。傍聴席を通って法壇に上ることはない。

裁判官の登場方法になれてしまっていたせいか、少しだけ違和感を感じてしまった。違和感を感じた自分に、職業病かなと少し苦笑気味になる。

拍手ののち、花岡さんはギターを抱えて歌いだした。

ヴィブラートをあえてかけない、透る声。
ああ、CDで何度も聴いてきた、花岡さんの、あの声だ。

「る」が、私には、時折「とぅ」とも聞こえてしまう特徴も、おんなじだ。

花岡さんの素晴らしい歌声を、聞いたことがない方にお伝えするのはとても難しい。

聞いて頂くしかないと思うが、どうしても言葉で表現するなら、初冬の高原、ひんやりと肌寒い風が木々をゆらす中、枯れ葉を踏みしめて歩く誰もいない白樺林、その中から、絹雲たなびく、遠く高い青空をふと見上げた瞬間に感じる、感覚。どんなに悲しくて涙が浮かんでいても、その澄んだ青空を見上げたときに、悲しさとは違う、別の何かを一瞬だけ感じるその感覚。

これが私の、花岡さんの歌声から受ける印象に一番近い感覚だ。

だが今聞こえてくる、花岡さんの歌は、いつも聞いているCDとは何かが違う。

うまくいえないが、より、心に響くのだ。より、心に届くのだ。

CDでは、ご自分でハーモニーを入れているので、その部分はどうしても割愛されてしまう(当然ながら、一人で同時に違う音程の音は出せない。)。音楽の客観的な構成上は、音の厚みが減ってしまうはずだ。
だが、ライブで聞こえてくる音楽は、CDで聴く音楽より遙かに温もりと厚みがある。少なくとも私にはそう聞こえた。

それは、ライブという表現方法自体の効果なのか、音楽活動を中止していた18年の間に花岡さんが経験されたことによってもたらされたものなのか、それは私には、わからない。ただ、私は、「すん」と心に響いてくる花岡幸代さんの曲と歌詞にある種の幸福感を覚えながら浸っていた。

途中、ゲストの板倉雅一さんも参加され、何曲か一緒に演奏された。お二人は出会ってから1週間たっていないということだったが、とても息が合っていたように思う。

花岡さんは、来てくれた方にはできるだけたくさんの歌を聴いてもらいたい、と言っていた。現に、途中で簡単なお話しは挟むが休憩なしで、次々に音楽を紡ぎだしていく。

そして、世界で一番大切にされていた方が突然星になってしまい、その方を送る際に奏でた曲を、花岡さんが次に歌う曲として紹介された。

多分、花岡さんにとって一番大事な曲だったのではないだろうか。

できればその方お一人のためだけに取っておきたかった曲だったのかもしれない。
その方のために、この曲を封印しても誰も花岡さんを責めたりはしないはずだ。

しかし、花岡さんは、何かを自分の心の中で確かめるかのように、小さく息を吸って、そして、歌いはじめた。

(続く)

花岡幸代ライブ~その2

 チケットと裏面に花岡さんのディスコグラフィーが書かれたアンケート用紙、今後のスタジオ・ウーの講演予定者の広告を受け取る。入ってみると既に50人位はいただろうか。しまった、これでは来るのが遅すぎたくらいなのか。年代的には、私と同じ位かその前後の方が多いようだ。無理もない、花岡さんが音楽活動を停止してから18年も経っているんだから。

 ライブ会場は、左右の壁側にテーブル・椅子、真ん中に4人掛けテーブルと椅子がいくつか並び、最後方に高さのあるテーブルと、バーカウンターにありそうな椅子がある。

前方にはステージがあり、向かってやや左側にグランドピアノがおいてある。ステージ中央にイスとマイクがセットしてあるから、おそらくここで弾き語りをするはずだ。ということは、最前列が一番上等の席になるのかもしれないが、もういっぱいになっている。他のテーブルをざっと見渡したが、前の方は多くの人が既に着席している。何人もの方が坐ってお話ししている席に座りに行くのも少し気が引ける。

結局、4人掛けテーブルで坐っている方が一人だった、真ん中最後方に位置するテーブルを選ぶ。「すみません、よろしいですか」と声を掛けてから席に付く。私と同年代か少し若い位の男性だ。大きな会場ではないし、少し真ん中側に身を乗り出せば、花岡さんの姿も見ることが出来るはずだから、これでいいかと納得。

 アンケート用紙をもらったものの、筆記用具を忘れていた。これは失敗だ。ただ、同じテーブルの方が持っていたので、お借りする。ただ、ライブ終了後はその方がアンケートに記入するだろうから、仕方ないけど先に全部埋めてしまう。

 その男性と話してみると、花岡さんが音楽活動を停止する前から、何度もライブに出かけては終電で帰ったりしていたようだ。花岡さんのことはラジオ放送で知ったという。私は、花岡さんのラジオ番組を知らず、ふと気になって購入したCDがファンになるきっかけだったため、実は少し珍しいパターンだったのかもしれない。

 ふとライブ会場の後ろを振り返ってみて、ライブ会場入り口付近で花岡さんの新曲CDを販売している事に気づいた。ファンとしては花岡さんの新曲となれば、買わないという選択の余地はない。1000円だったけれど、消費税はいいのだろうか。余計な心配をしながらも時間は経過する。開演時間を5分ほど経過し、同じテーブルの空席に女性二人が着いた頃、ライトが消え、スポットライトを浴びながら花岡さんが、後ろから現れた。

(続く)

花岡幸代ライブ~その1

 以前のブログにも書いたが、花岡幸代さんというシンガーソングライターがいる。

 決してメジャーであったとは言えないが、20年ほど前に、素晴らしい2枚のアルバムといくつかのシングルを残した。

 私は、続編を待ち望んでいたが、その後、花岡さんの活動は、眼にすることが出来なかった。

 花岡さんが、世界で一番大事な人と一緒に穏やかな時間を過ごすために、音楽活動を停止していたということ、その一番大事な人が突然星になってしまったこと、については昨年開設された花岡さんのブログ(http://blogs.yahoo.co.jp/hanaokayukiyo)で知ることが出来た。

 その花岡さんが、18年ぶりにライブを再開すると聞き、これはどうしても聴いておきたくなった。

(以下 ライブの記憶である。)

 ライブ会場は、千葉県柏市のスタジオ・ウー。もちろん柏市なんて私にとっては見知らぬ街である。ド近眼の私は普段はメガネを掛けているが、道に迷った時のことを考え、より遠くまで見えるコンタクトレンズで出かけた。

 東京駅から上野駅までは山手線で、上野からは常磐線快速で柏に向かう。駅前は何となく、大阪の茨木市に似ていなくもないように思う。途中、目が乾いてきたので、マツモトキヨシで、コンタクト用目薬を購入し、スタジオ・ウーを目指す。途中段差で躓きながらも、HPに書かれていたとおり、マクドナルドを目印に、なんとかウーに続くエレベーターを発見。

 エレベーター前に貼られた今後の講演予定のビラなどを眺めてみると、大学時代に何度か聞いた沢田聖子の公演予定もあった。確か、アデューという曲もあったよなぁ、頑張っているんだ、などと少し懐かしく思いつつ、エレベーターで5階まであがる。

 開演30分前だが、既に数人の方が並んでいる。

 こういう場所は初めてに近いので、よく分からない。ただ、おのぼりさん丸出しというのも少し、しゃくなので、当然よく分かってますよ、という表情で、密かに前の人のやり方を伺う。

 システムとしては、前売りを予約した人は、名前を告げて確認してもらい、ドリンクを一つ注文するようだ。

 そこまで分かれば、かんたんだ。勝手知ったる振りをしつつ名前を告げて、ドリンクを注文する。アルコールがからっきしダメな体質なのでジンジャーエール(ウィルキンソン)を頼む。よく飲まれているカナダドライに比べて辛口だが、まあいいだろう。

(続く)

年頭雑感

 最近の日本は、どうもおかしいとずっと思っていた。

 小泉純一郎元首相は改革なくして成長なしといったが、規制緩和・改革を進めてみても、これまで日本を支えてきた中間層の没落は加速する一方で、結局は貧富の差が拡大するだけだったように思える。安倍首相が唱える女性の活用だって、多くの中間層で夫の収入だけでは家計が立ちゆかなくなりつつあることの裏返しではないか。

 規制緩和・自由競争を旗印とする新自由主義を推し進めればそうなることは当然だった。かつて、規制緩和を推し進める急先鋒であった中谷巌氏が自らの著書「資本主義は何故自壊したのか」で、反省を込めて次のように書いている。

 ~手段はどうであれ、自由競争の中で上手に稼ぐことが「資本主義の正義」であり、その競争に敗れて職や財産を失うのはあくまで自己責任なのだとする新自由主義思想には、格差の拡大を正当化こそすれそれを是正して皆が幸福な社会、皆が心豊かに暮らせる社会を創ろうという意図は皆無である。~

 私も同感だ。
 昨今、米国や日本で推し進められてきた新自由主義は、一見、旧弊を打破する公平な考えのように見えなくもない。
しかし、
①自由競争で儲けた者が勝者(正義)である。
②儲けるための手段は問われない(極論すれば、他人を騙してでも儲けた者勝ちである)。
③競争に敗れるのはあくまで自己責任の結果である(救済をしたり救済を求めるのは、自由競争に反する甘えである。)
この三点に新自由主義の特徴を見出すなら、この考えは、貧富の差をさらに推し進める悪魔の考えかもしれない。

 中谷氏も分析するとおり、①に関しては、情報がどうしても偏在する現代社会においては、真の意味の自由競争は存在していない。だから、情報を有する強者が圧倒的に有利な立場で勝負できるのだ。例えばアメリカの大手証券会社の保持する情報と一般投資家の保持する情報ではその量と質において、著しい差がある。それどころか、アメリカの大手証券会社は、ある企業の適正株価を表示して株価を動かすことさえできてしまう。これでは、一般投資家は餌食になるしかない。
 ところが、昨今の日本政府の動向は投資を誘導する政策の方向性が強い。これは誰にとってプラスになるのか。結局、餌食になる確率が極めて高い一般投資家を大量生産しようという方策と見えなくもない。
 ②に関しては、リスクの高い商品や嘘の表示をした商品であっても、そこを誤魔化して売りさばきさえすれば良いというモラルなき販売方法に現れている。食品産地偽装や、サブプライム問題などもこの範疇だ。とにかく儲けさえすればいいというのであれば、安く仕入れた商品を嘘をついて高く売るか、リスクの高い商品をリスクを誤魔化して売るのが手っ取り早い。手段を問わず儲けた者が正義となれば自然とそういう流れになりがちだ。
 これは、かつての日本の、愚直に良い製品・良い品質を追及する企業の姿勢に反するかもしれない。しかし、競争相手が手段を問わずに儲け始めた場合、儲けた者が勝つシステムの中で対抗して生き残るためには、どこまで今までのやり方でやっていけるのか、それでいいのか、疑問を持つ経営者もいるのではないか。
 ③に関しても、競争に敗れるというのは本当に自己責任なのだろうか。どんなに正直に堅い商売をしていても、取引先から不渡手形をつかまされ連鎖倒産した場合、騙された方が悪い、自己責任なんだ、として放置すべきなのだろうか。一度貧困に陥った人も自己責任だとして放置するのが本当に国のあり方として正しいのだろうか。貧困は差別や怒りを生み、差別や怒りは暴力へとつながりかねない。むしろ、貧困を克服し皆が安心して暮らせる社会を目指して行く方が、国のあり方として正しいのではなかろうか。

 厄介なことは、この国を動かしている人達にとっては、新自由主義の方が都合が良いということだ。現在富裕層に位置している人達にとっては、すでに勝者だし情報面でも圧倒的に有利な立場にあるから、敢えてその地位を捨てたくはないだろう。政治家もそのような富裕層らの関係するロビー活動に尻尾を振っているように見える。また、競争に敗れるということは自己責任だと言い張ることは、敢えて社会保障制度などによる救済を手厚くする必要はないという意見を正当化する、格好のツールになるだろう。

 東京五輪の招致の際に、滝川クリステルが「お・も・て・な・し」といったが、本当に外国人をもてなすのは、日本国民1人1人だ。滝川クリステルではない。日本国民全体がもっている美徳を訴えるのなら、その美徳を守れるよう日本国民全体の幸せをもっと考えるべきではないか。
 その点、未だ新自由主義を捨てきれていないように見える日本は、どこかおかしいままであるように思われるのだ。

 雑駁な、年頭雑感になりました。
 今年もよろしくお願いします。