いったい、弁護士の潜在的需要とは何なんだ

法曹養成制度改革顧問会議も、どうせ法科大学院ありきの議論しかしてくれないと思って、議事録チェックをだいぶサボっていたが、ちょっと気になって、第19回議事録をざっと読んでみた。

未だに納谷顧問は、「法曹に対する需要は今の状況でもある。少なくとも潜在的には広がっていくであろうということだけははっきり言えるのではないか」と、未だに餅を絵に描いてばかりいるようだ。

弁護士の潜在的需要を開拓するなんて、何十年も前から言われてきたことだが、目に見えて実現した例をついぞ知らない。仮に、無料なら弁護士に相談したい人が山ほどいても、それは弁護士の需要ではない。

 当たり前のことだ。

無料でバスに乗りたい人がたくさんいるからといって、バスの需要があるとは言えないだろう。

無料で新聞を読みたい人がたくさんいるからといって、新聞の需要があるとは言えないだろう。

無料で働く人ならいくらでも雇用したいと思う企業が大多数でも、求人の需要があるとはいわないだろう。

商品やサービスに見合った対価を支払っても良いという人がいて初めて、その商品やサービスの需要があると言えるのだ。

だから、適正な対価を支払って解決を弁護士に依頼しようとする人が存在して、初めて、弁護士の需要があると言えるのだ。

ところが、顧問会議のエライ構成員・説明員の方々は、この当たり前の需要に関して、ほとんど注意を払わない。

例えば、岩井参事官はこう言う。

「依頼を考えたが結局依頼しなかった層があって、弁護士に対する需要を有する市民が一定程度いること、それから弁護士による対応が求められている法的需要があると考えられる分野、例えば高齢になって財産を管理できなくなったときなどがあり高齢者の需要といったことも認められること、弁護士へのアクセス改善によって、需要増加の可能性があること、社会の複雑化や紛争案件の複雑化に伴って専門家としての弁護士への需要増加の可能性があること、弁護士費用について、事案によって弁護士費用を低くすると依頼意欲が高まる傾向あって、・・・・・」

これだけ読めば、なるほどと思えなくもないが、冷静に見てみると、めちゃくちゃな論法である。

例えば、ここでいう「弁護士」を、増加させすぎて経営困難に陥り再度台数を規制した「法人タクシー」に変えてみるとこうなる。

・タクシーに乗ろうと思ったが結局乗らなかった層があって、タクシーに対する需要を有する市民が一定程度いること。

→タクシーに乗りたいなと思っても結局乗らない人は、タクシー代を支払ってタクシーを利用すること自体をやめたのだから、需要があるとは言えないはずだが、参事官によると需要があることになっている。

・それから、タクシーによる対応が求められている需要があると考えられる分野、例えば高齢になって移動が困難になった場合などがあり高齢者の需要といったことも認められること。

→実際高齢者が移動困難になっても近親者に送迎してもらうなどタクシー以外の方法も考えられるところであり、必ずしもタクシーの需要に結びつくとは限らないのだが、参事官によれば需要があることになっている。

・タクシーの増台により流しのタクシーが増えることにより、タクシーの需要増加の可能性があること

→タクシーが増台して流しのタクシーが増えるなど、タクシーへのアクセスが改善されても、タクシー代を支払ってタクシーを利用しようとする人が増えない限り、需要増加につながるとは限らないのだが、参事官によれば需要増加の可能性ばかりが見えるらしい。

・JR民営化や公共交通機関の慢性的赤字など社会の事情変化に伴って、運輸専門家としてのタクシーの需要増加の可能性があること

→果たして、公共交通機関が赤字になっていたとしても、利用困難になるかどうかは分からないし、自家用車の利用などにシフトされたらタクシー需要は増加しない。しかし参事官には、どんな根拠に依拠しているのか知らないが、かなり需要増の可能性が高いように見えているらしい。

・タクシー代を安くすれば利用意欲が高まる傾向にあって・・・

→どんなサービスも安くすれば利用意欲が高まるだろう。しかし、無制限なダンピングは生じない。それは、タクシードライバーも職業であって、その職業で生計を立てる以上ある程度の価格はどうしても設定せざるを得ない。価格を下げれば需要が増えるから需要はあるとの主張は、サービスへの適正な対価を無視した暴論である。

つまりは、結論ありきで、議論しているようにしか思えないのだ。

日弁連は随分前から潜在的需要を開拓すると言い続けてきたけれど、潜在的需要があるというのなら、どうしてそれが何十年も顕在化しないのだ。

(続く・・・かも)

太地町イルカ追い込み漁に関して~2

 それに、欧米のクジラ・イルカを偏愛する価値観も、昔からの伝統あるのものではない。

 クジラをかつて鯨油目的で大量殺戮してきたのは欧米である。

 しかも、私の聞くところによると、鯨油以外は、ほとんど利用せずに捨てていたとのことである。日本の捕鯨では、クジラの脂肪・肉はもとより、皮・筋・髭に至るまでも利用してきた。それが、自分達が生きていくために命を頂いた生物に対するせめてもの礼儀だからだ。クジラを供養する石碑も太地町にはある。だが、かつての欧米の鯨油目的捕鯨には、そのような命への礼儀は感じられない気がする。

 全米で50億羽もいたといわれるアメリカリョコウバトは、その美味な肉のこともあり、わずか100年あまりの期間で絶滅させられたそうだ。食べる量を越えた分は塩漬けにして販売していたようだから、商売としても成り立っていたのだろう。
 仮に鯨油が欧米諸国の産業発展に現在でも必要不可欠な状況にあったとしたら、おそらく彼らは鯨油目的の捕鯨をやめていない可能性が高いと私は考える。

 誤解を恐れずに極論をいわせてもらえば、彼らは自分達の生活・商売に必要な生物の命は、それを利用することに何ら疑問を感じない。しかし一方、自分達の生活に必要がない生物の命は、その生物が他の国の人間の生活に必要であったとしても、奪うことを許さないと主張する。
 そこには、他国の文化を尊重する姿勢は一切ない。むしろ、自らの価値観が正しく、その価値観に沿わない行動は野蛮だと決めつける、傲慢さが多分に含まれているように感じる。

 そして、イルカ・クジラの保護は、彼らにとって愛すべき存在を愛すべき存在として見続けていたいという、彼らの都合に合致するものなのだ。

 こんな例え話を聞いたことがある。

 ある女性の問題に関する世界大会が日本で開催された。大会が終わり、開催地は温泉地でもあったため、各国の女性達は大浴場で温泉につかり、疲れを癒していた。そこに、掃除の時間を間違えた旅館の男性職員が数名、うっかり木戸を開けて入ってしまった。
 女性達は、悲鳴を上げて手に持った小さなタオルで身体を隠した。
 ある女性は胸を隠し、ある女性は下を隠した。だが、恥ずかしくて見られたくない!と一番大きな声を上げた女性が小さなタオルで隠したのは顔だった。

 というものである。

 顔を隠した女性を笑ったり、隠す場所を変えるよう強要することは、正しいのだろうか。

 各国にはそれぞれ、地域、人種、宗教等から創り上げられた文化がある。その文化は、人類の存続に危険を及ぼさない限りは、価値的には平等であるべきではないのだろうか。

太地町イルカ追い込み漁に関して~1

 まとまりのない文章になるであろうことを最初にお詫びしておきます。私の雑感なのでご容赦下さい。

 ZAWAが和歌山県太地町のイルカ追い込み漁が残酷だとして、JAZAにプレッシャーをかけ、JAZAがそれに屈した形となった報道を目にした。報道によれば、どこが残酷なのかという質問にも全く具体的な回答がないそうだ。明確な説明もできずに圧力をかけていることから、またもや日本に対する欧米の価値観の押しつけではないかと、私には思える。

 私は、和歌山県太地町出身であり、子供の頃、父親が趣味で持っていた漁船に乗って、組合のイルカ追い込み漁のお手伝いをさせて頂いた経験もあるが、追い込み漁自体は残酷だとは思わなかった。追い込んだ後、イルカを脅かしたり、いじめたりすることも当然無い。生き物を追い込んで捕まえる手法は、昔から人間がとってきた狩りの手法でもあるし、私自身、子供の頃、友人と川魚を追い込んで捕まえる遊びをやっていたが、残酷であるという認識はなかったし、残酷だからやめるようにと叱られた覚えは一度もない。

 その後、学校帰りに魚市場でイルカやゴンドウクジラを解体するのを見ていたときに、つい「かわいそうだ」と思って口に出してしまったのだろう、無骨な漁師さんから、「無駄にせんと、ちゃんといただかなあかんで、命をいただいたんやから」と突然説教された記憶もある。

 おそらく今回の事件は、捕鯨に関する問題も背景には多分に含まれているのだろう。

 人間は、生きていく上で、やむを得ず他の生物の命をいただかなければならない。ニワトリ、牛、豚、さかな、野菜だってそうだ。人間が生き物である以上、これは仕方のないことだ。欧米人の肉の摂取量は日本人よりも多いと聞いているから、欧米人は、日本人よりも多くのニワトリ、牛、豚などを殺すことを容認していることになるだろう。

 その屠殺現場をどれだけの欧米人が目にしているのだろうか。そこで殺されて食用にされる、ニワトリ、牛、豚はかわいそうではないのか、それらの命は、彼らにとっては命ではないのだろうか。イルカやクジラは賢い動物だからという反論もあるかもしれないが、賢い動物の命がそうでない動物の命よりも尊いとなぜ言えるのか。私には分からない。

(続く)