太地町イルカ追い込み漁に関して~2

 それに、欧米のクジラ・イルカを偏愛する価値観も、昔からの伝統あるのものではない。

 クジラをかつて鯨油目的で大量殺戮してきたのは欧米である。

 しかも、私の聞くところによると、鯨油以外は、ほとんど利用せずに捨てていたとのことである。日本の捕鯨では、クジラの脂肪・肉はもとより、皮・筋・髭に至るまでも利用してきた。それが、自分達が生きていくために命を頂いた生物に対するせめてもの礼儀だからだ。クジラを供養する石碑も太地町にはある。だが、かつての欧米の鯨油目的捕鯨には、そのような命への礼儀は感じられない気がする。

 全米で50億羽もいたといわれるアメリカリョコウバトは、その美味な肉のこともあり、わずか100年あまりの期間で絶滅させられたそうだ。食べる量を越えた分は塩漬けにして販売していたようだから、商売としても成り立っていたのだろう。
 仮に鯨油が欧米諸国の産業発展に現在でも必要不可欠な状況にあったとしたら、おそらく彼らは鯨油目的の捕鯨をやめていない可能性が高いと私は考える。

 誤解を恐れずに極論をいわせてもらえば、彼らは自分達の生活・商売に必要な生物の命は、それを利用することに何ら疑問を感じない。しかし一方、自分達の生活に必要がない生物の命は、その生物が他の国の人間の生活に必要であったとしても、奪うことを許さないと主張する。
 そこには、他国の文化を尊重する姿勢は一切ない。むしろ、自らの価値観が正しく、その価値観に沿わない行動は野蛮だと決めつける、傲慢さが多分に含まれているように感じる。

 そして、イルカ・クジラの保護は、彼らにとって愛すべき存在を愛すべき存在として見続けていたいという、彼らの都合に合致するものなのだ。

 こんな例え話を聞いたことがある。

 ある女性の問題に関する世界大会が日本で開催された。大会が終わり、開催地は温泉地でもあったため、各国の女性達は大浴場で温泉につかり、疲れを癒していた。そこに、掃除の時間を間違えた旅館の男性職員が数名、うっかり木戸を開けて入ってしまった。
 女性達は、悲鳴を上げて手に持った小さなタオルで身体を隠した。
 ある女性は胸を隠し、ある女性は下を隠した。だが、恥ずかしくて見られたくない!と一番大きな声を上げた女性が小さなタオルで隠したのは顔だった。

 というものである。

 顔を隠した女性を笑ったり、隠す場所を変えるよう強要することは、正しいのだろうか。

 各国にはそれぞれ、地域、人種、宗教等から創り上げられた文化がある。その文化は、人類の存続に危険を及ぼさない限りは、価値的には平等であるべきではないのだろうか。

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