どうして悪人を弁護するのか?

 知り合いの方や、中学校での講演、そして私が弁護士であると知ったタクシーの運転手さんなどから、私に向けられる質問として、結構多いのが、「どうしてオウムなどの事件のように悪いことをしたと分かり切っている人間を弁護するのか?、さっさと判決をすればいいのに。」という質問です。

 確かに、犯罪が発生し被告人もそれを認めているときに、どうしてその人間を弁護する必要があるのか、いちいち裁判する必要があるのか、と思われる方も多いのではないでしょうか。

 この点については、刑事手続きがどのように進化してきたかという点と大きく関わる非常に難しい問題です。しかし、誤解を恐れずに敢えて簡単に説明すれば、次のように説明できるかもしれません。

 人を処罰する手続を作る際には、基本的な考え方として

①疑わしい人間は、例え無実の人がえん罪で処罰を受けることになってもかまわないので、どんどん処罰してしまうべきだとする立場、

②何があっても無実の人が処罰を受けることになってはならないので、そのためには、手続を尽くして審理する必要があるし、相当疑わしい犯人を証拠不足で逃してもやむを得ないとする立場、

 の二つが考えられると思います。

 そして、現在の日本を初め殆ど全てと言っていいほどの現代国家は、②の立場を採用しているのです。無実の人が処罰を受けることが最もいけないことであると考えています。そのためには、容疑者に弁護士に依頼して防御する機会を与える、きちんと客観的な証拠で事実を認定するなど、適正に手続を尽くす必要があります。

 手続を尽くしていく上で相当疑わしい容疑者が証拠不足であるなら、無実の人を処罰しないために、本当は罪を犯しているかもしれない証拠不足の容疑者を逃してもやむを得ないと考えるのです。

 もちろん②の立場を採用しても、裁判は人間のやることですから100%えん罪を防ぐことはできません。しかし、②の立場は、①の立場をとるよりも可能な限り、えん罪の危険を防ぐことができる可能性が高くなると思います。

 現代国家は②の立場を採用しています。それは専制君主時代に、刑事手続きが恣意的に用いられることの恐ろしさを知った人類が、徐々に身につけてきた知恵というべきかもしれません。

 確かに、自分が犯人や容疑者でない場合は①の立場の方がいいように思えるかもしれません。しかし、人は過ちを犯すものです。いざ自分が、間違って容疑者にされた場合、①の立場だとどうなるでしょうか。疑わしいのだからさっさと処罰してしまえと言われて、自分の主張もろくに言えずに、えん罪で処罰されてしまう危険が非常に高くなると思われます。①の立場をとっている国にいながら、自分が容疑者にされたときだけ②の立場で扱ってくれと言ってもそれは無理な話です。

 このように、まかり間違っても無実の人を誤って処罰してはいけないという考えから、日本では②の立場で、刑事手続きが行われているのです。ですから、一見明らかな犯人であったとしても、弁護人に依頼して自分の主張を述べる機会を与える必要がありますし、きちんと客観的証拠を積み重ねて犯罪を立証していく手続が必要とされているのです。

 だから、悪いことをしたと分かり切っているように見える被告人にも、弁護人は必要とされますし、きちんと適正な手続で裁判を進める必要があるのです。 

弁護士会の執行部というもの

 月刊大阪弁護士会という雑誌があります。大阪弁護士会での状況等を弁護士に伝えてくれる刊行物です。

 その3月号が届きました。中を読んでみると、山田会長を初め執行部の方々が1年間を振り返って座談会を行っている内容が最初の特集でした。

 山田会長は、会長選挙の際に当事務所に選挙期間中に2度ほど来られ政策を説明されました。1度では足りず再度足を運ばれたフットワークの軽さは評価できますが、結局、2度とも私や加藤弁護士から増員問題を含めて厳しい吊し上げに逢い、「当選してもせんでも君らのことは忘れんわ」と言って帰られました。その際に、増員問題については「弊害を検証してから対応する」と仰っておられたのを記憶しています。

 私達は、弊害が出てからでは遅すぎるので直ちに対応をとるよう求めたのですが、増員問題検証PTを立ち上げるなどということで、その場は、お茶を濁されてしまいました。結局なんら増員問題については具体的な対策をとれずに、次の会長にバトンタッチすることになりそうです。山田会長は、増員問題に関して、この雑誌の中で「今求められているのは法曹人口の数ではなしに戦略だ」と述べておられますが、その戦略とはいったい何なのか、当選前の話し合いでも、この特集でも、ついに解りませんでした。

 そんなに大事な戦略があるならどうして自分が会長の時にやらないのでしょうかね?

 山田会長は、日弁連副会長として、少年法改悪阻止などの実績も上げられました。その点については、「打ち首覚悟の発言」を何度も目にしたので食傷気味ですが、確かに評価に値すると思います。しかし、その反面、国選弁護報酬の引き上げを目指しつつ、大阪弁護士会執行部として国選付添人の報酬から弁護士会費をピンハネする議案を提出するなど、理解に苦しむ行動も見られました。

 山田会長によると、平山日弁連会長は「至誠を尽くせば動かざるものなし」と発言したそうですが、あまりの平山日弁連会長のマスコミでの無軌道な発言(就職は2010年まで大丈夫・政府が言ってくるなら増員反対に耳を傾けてもよい、等)に対し、弁護士の将来を憂い、至誠を尽くして質問をおこなった私と加藤弁護士の質問については、平山氏は、無視する対応しかとりませんでした。

 それなら、「至誠を尽くさば動かざることなし、但し、至誠を尽くしても日弁連会長は動かじ」と正確に表現してもらいたいところです。

 やはり、弁護士会の執行部に入ろうかというほどエライ(そして余裕のある)先生は、解ったふりをするのは上手いけど、若手のことなどな~んにも解っちゃいないんだということだけはよくわかりました。

 同じことを、大阪弁護士会所属の小林正啓先生(弁護士)が、ブログに書いておられるので以下に引用させて頂きます。

(以下、小林先生の花水木法律事務所2008年2月9日のブログから引用)

 宮崎選挙事務所のお手伝いをして痛感したことは,20期代の大先生方は,40期以下の弁護士の気持ちなど,本当に何も分かっていない,ということだった。これは大先生方も悪いが,きちんと声を挙げない40期以下の我々にも責任がある。

この選挙を終えて,次回までに希望したいことは,40期以下の声を日弁連執行部に反映させる仕組みを作ってほしいということだ。そして,健全な野党勢力が組織され,かみ合った議論が日弁連内に醸成されることを望む。そうすれば,今後の日弁連は,衰退の道を脱することができるかもしれない。

(引用終わり)

はたして、弁護士会・日弁連は若手の意見を取り入れて衰退の道を脱することができるのでしょうか。

証人調べは疲労する・・・・。

 民事裁判においては、お互いが主張を出し合い、争点が明確になった時点で証人・本人を取り調べることがあります。

 具体的には、まず証人を申請した方が尋問し、自分たちの言い分を述べます。これを主尋問といいます。

 次に、相手方が、証人に対しておかしいと思う点や、証人の言い分のおかしな点を聞きます。これを反対尋問といいます。

 再度証人を申請した側が尋問したければ、再主尋問、それに対する再反対尋問もあります。

 今日は、弁護団事件で相手方の証人の取り調べがありました。相手方にとっては主尋問ですから、言わせたいことは相手方にとっては明確です。リハーサルもできます。

 ただ、反対尋問をする側にとってはそうはいきません。証人も反対尋問に対しては、身構えて、素直に答えてくれない場合もあります。相手方の主尋問に問題はないか、証言に矛盾はないかなど、考えながらずっと相手の尋問を聞いていなければなりません。また、自ら尋問する場合も、かなりの緊張を強いられます。下手に質問すれば、墓穴を掘る危険もあるからです。

 今日は一日で、4名の尋問があり、10:00からはじまって、終了したのは17:15くらいでした。

 尋問時間中相当緊張していますので、終わると、ほっとします。ものすごいストレスを感じていたことが後で解ります。

 弁護団事件だったので、一人で尋問するよりは、はるかにマシでしたが、正直言って、今日は疲れました・・・・・。

国選報酬予算減額

 司法支援センターの委託費が、来年度は約10億円減額されるそうです。この委託費には国選弁護事件の報酬が含まれるということなので、国選弁護に充てられる費用が減額されたということになるそうです。

 公共交通機関の交通費も出してもらえず、記録のコピーも実際にかかった費用の半分以下しか出してもらえず、時給にして通訳人の4分の1~7分の1しかもらえない国選弁護事件は、弁護士のボランティア精神により維持されています。したがって、これ以上いじめられると維持できなくなるかもしれません。

 仮にタクシーに乗って、「5000円分走って下さい。」とお願いし、5000円分走っていただいた後で、「タクシーは人を乗せるのが商売だろう、無料で、もっと乗せろ」と言っても、当然拒否されますよね。それは、メーター料金以上走行させると、タクシー会社・運転手さんが生活できないからです。だから、ボランティアでない場合、支払うお金に見合った仕事しかしてもらえなくても当然なのです。このことに文句を言う人もいないでしょう。また、人によっておまけをしていれば、正規の料金を支払っている人に対しても差別をすることになります。

 ところが、国選弁護事件ですと、「弁護士費用は、わずかしか出さない。しかし、料金以上の仕事をしろ。」ということがまかり通っているのです。

 弁護士も職業です。生活する必要があります。逆に言えば(極論になりますが)、頂くお金に見合った仕事しかしなくても、そんなに文句を言われる筋合いはないともいえます。

 そうだとすれば、交通費が出ないのであれば、被告人に接見しに行かなくても文句を言われるべきものではありません。記録の閲覧・謄写に関しても、閲覧しに行く際の交通費も、コピーの実費も出ないのであれば、記録を閲覧・謄写せずに公判に臨んでも、文句を言われる筋合いはありません。せめて通訳人の方くらいの仕事はしていると思いますので、その方々の時給が1万円前後とすれば、国選弁護報酬が6万円とした場合、6時間働けば終わり。それ以上はできません、ということになります。

 それでもいいんですか?

 国選報酬予算の減額を決めた方。

裁判の見通し

 裁判所の判断も、人間のやることですから正しいとは限りません。

  いずれにしても、裁判は証拠に基づいて判断されるので、証拠がないと勝負にならない場合が多いのです。なぜなら、裁判官はドラえもんのように以前の真実を映し出す魔法の鏡を持っているわけではないので、当事者の主張が食い違う場合、客観的な証拠に基づいていずれの主張がより真実に近いかを判断していかざるをえません。

 そのような場合、負けた判決の事実認定や論理、法適用に、さして問題が見あたらない場合には、新たな証拠でもない限り不服申立をしても勝てないと判断する場合もあります。(もちろんおかしな部分がある判決には当然戦うべき場合が殆どですが、ここでは、そうおかしな部分がない場合と考えて下さい。)

 だから、私の場合、いくら不服申立をして欲しいと言われても、「このまま不服申立(控訴・抗告など)をしても、新しい有力証拠がないと勝てないと思います。」と正直に言います。それがプロとしての見通しであるし、プロとして明確にすべき点だと思うからです。

 以前、私と加藤弁護士が共同で受任していた事件(依頼者が複数いました)に、年輩の弁護士がそのうちの一人の依頼者から依頼を受けたと乗り込んできて、勝ち目もないのにさも勝ち筋があるかのような説明をして自分に依頼させようとしたのを経験しました。私達は、きちんと判例や法律を示して説明し、裁判ではよほどのことがないと負けてしまうので、和解するよう勧めたのですが、困っている人たちは少しでも可能性があるかのように話すその年輩の弁護士を選び、私達は辞任しました。

 結果は、私達の見立てどおりその弁護士の負けだったようです。

 裁判を起こす前、判決がでる前、であれば相手からもある程度の譲歩を引き出すことも可能な場合もあります。100対0であっても、話し合いで90対10にすることも可能な場合もあり得ます。弁護士費用、時間など相手方としても裁判をすることは大変ですし、判決がひょっとしたらどちらに転ぶか分からないからです。

 しかし、一度裁判で勝ち負けがつき確定してしまうと、勝った方は譲る理由は一切なくなります。裁判で負けてから相手に譲歩してもらおうとしても、まず無理です。おそらく依頼した方達は、弁護士費用を支払ってさらに相手から譲歩も引き出せずに終わったと思います。

 今後弁護士が増加して、日々の生活に困る弁護士が増えると、常識的には負けであっても少しでも可能性がある点を強調して、裁判に持ち込み、弁護士費用をせしめようとする弁護士が増加するでしょう。如何なる訴訟でも可能性の話をすれば、勝てる可能性がゼロということは、まずありません。ですから、生活に困った弁護士が勝てる可能性があるので訴訟しましょうという提案をしても、それは不適切だとは思いますが、嘘ではないし、弁護過誤ではないからです。

 そのような社会が健全な社会だとは思えませんが、マスコミが言うように弁護士の爆発的な増加が国民の願いなのであれば、そのような社会を国民が願っているとマスコミが述べていることになります。

本当なのでしょうかね。

沈丁花

 先日家庭裁判所の、中庭で、ふと良い香りを感じました。沈丁花の香りです。

 名前こそ沈丁花(ジンチョウゲ)ですが、皆さんご存じのとおり、とても良い香りがします。キンモクセイの香りと並んで私の好きな香りの一つです。しかも、沈丁花は、全く予期していないときに不意打ちのように香ってくることが殆どですので、いつもいい匂いだなと思いながらも、「やられた。」という気にさせられます。

 なぜだか、沈丁花の香りに逢うと、少年の頃まだ寒い中、私の実家の裏にあるちいさな川で、友達とプラモデルの戦艦・モーターボートを走らせて遊んだ記憶がかなり鮮明に、よみがえります。他にも、沈丁花の香りと共にたくさんの経験があったはずなのに、きまって先ほどの記憶が勝ります。沈丁花の香りを初めて良い香りだと思ったときの記憶なのだと思いますが、相当印象が強かったのでしょう。

  音楽もそうなのですが、匂いも、ある記憶と結びつくと一体化してしまってなかなか分離できない場合が私にはあります。そのような記憶は他愛のない記憶であっても、なぜか懐かしい感じを受けてしまいます。その記憶が例え辛い記憶だったとしても、それでも、その頃の自分は幸せだったのだと、理由もなくそう感じてしまったりします。

 今は、その川も治水工事のために拡幅され、常に枯れた状態の川になってしまいました。もう、私達が遊んでいた頃の川の面影は、全くありません。でも、多分、来年も沈丁花の香りに触れると、昔の川の様子や川での遊びを、再び鮮やかに思い出すことができるに違いありません。

F1開幕

 今年も自動車レースの最高峰、F1グランプリが開幕しました。私は、キミ・ライコネン選手のファンですが日本人ドライバー(佐藤琢磨・中島一貴の両選手)にも注目しています。

 今年の話題は、なんといっても中島悟氏の息子である、中島一貴選手のF1デビューだと思います。

 中島悟氏は、日本初のF1レギュラードライバーとして、日本人のF1挑戦のパイオニアとも言える存在です。私も、学生時代に、中島悟氏がロータス・ホンダで鈴鹿サーキットに初めて凱旋したとき、友人と二人で車中泊しながらF1GPを観戦しました。当然指定席など買える余裕もなく、自由席しか買えませんでした。朝早くから場所をとり、交代でトイレに行きながらレース時間まで待ち、レース中もずっと立ち見で応援したことを覚えています。

中島悟氏の息子さんがF1参戦する程の年齢になったこと考えると、時の流れの速さを実感します。中島一貴選手はデビュー戦でいきなり入賞しポイントを上げるなど、非凡な才能を発揮しつつあります。中島選手に頑張って欲しい反面、私は、資金難に苦しむチームであるにも関わらず、性能の劣るマシンで全力で戦い続ける佐藤琢磨選手にも頑張って欲しいと思っています。

父親の涙

 人身保護申立に関する、期日がありました。

 事案は、子供を認知していた父親が、監護権者である母親の監護に不安を覚えて、保護したという事案でした。母親からは、無断で我が子を連れ去られた事案と捉えられていると思います。

 このような事案では、父親には監護権がないため、母親から人身保護手続を申し立てられた場合には、よほどの事情がない限り父親の監護は相当と認めてもらえません。監護権者指定審判申立、審判前の仮処分申立など、手を尽くしたものの、結局家庭裁判所には監護権者を父親に指定してもらうことはできず、人身保護手続の期日になりました。

 父親は、父親から離れたがらない子供を、どうしても裁判所に連れてくることができませんでした。

 父親に、法的には監護権はありませんので、散々手を尽くした結果であれ、人身保護手続き上は、圧倒的に不利な(ほぼ確実に負ける)状況にありました。私としても父親に嘘を言うわけにはいかないので、その見通しを伝えていましたが、父親を慕う子供の様子を聞かされると、父親を慕う子供とその子供を守ろうとする親子の情が、法に優先してはなぜいけないのか、という気持ちが心の中で湧き出てくるのを抑えることができませんでした。

 父親は、期日の席上で、自分が保護して、ようやく落ち着いた生活ができるようになった我が子を、返さなければならなくなる、自分で守ってやれなかった、という自責の念で、涙が止まりません。裁判長も非常によい方で、情理を尽くして説明をしてくれましたが、法的な観点からみても結論を変えることはほぼ無理であり、その事実を知る父親の涙を止めることは、最後まで、できなかったのです。

 席上で父親が「どうやって〇〇(子供の名前)に謝ったらええんやろ」と、小さくつぶやいたその押し殺した声は、おそらくしばらくは忘れられないだろうと思います。

 もちろん母親には母親の言い分があるのでしょうが、本件に限っていえば、私個人には、客観的に見ても、父親の愛情の方が勝っているように思われました。しかし、だからといって誰もが、自分の方が愛情に勝っていると主張して自由に子供を奪い合えば、社会は混乱し、社会秩序も失われます。何よりも奪い合いにさらされる子供のためにならないでしょう。本当は子供の意思で決められればいいのですが、子供が小さい場合には限界があります。裁判所に争いが持ち込まれている以上、どこかで判断が下されなければなりません。 

 本件の父親の行為は、監護権もなく子供を保護したという点、期日に子供を連れて来るという裁判所との約束を守らない点では問題です。しかし、それだけの理由で父親だけを責めることができないのではないか、という気がしてなりませんでした。結局、本件では、父親が任意に子供を返す代わりに、養育状況を報告する、母親がきちんと養育する旨確約するなどの条件で和解することになりました。

 法律の限界、社会制度の限界、等様々な限界を感じた事件でした。

職業講話その2

 職業講話をしたしばらく後に、中学校から子供達の感想が送られてくることがあります。実はこの感想が結構面白いので、この感想を楽しみに、職業講話をしている面もあるのです。

 今回は話したいことがたくさんあったため、時間不足となり、駆け足の講話になってしまったので、結構きついこといわれるかなと思っていたのですが、概ね好意的な内容を書いてくれていて、ほっとしました。

 直接弁護士バッジを触らせて上げたので、「思ったより弁護士バッジは重かった」などの感想も多かったのですが、やはり、中学生にとってショックだったのは、弁護士の生活が決して安定しているわけではないということのようでした。

 最近は弁護士過剰のため、就職難や赤字経営の弁護士もいるという話をしたところ、「僕が考える弁護士の長所は、金持ちなので弁護士にはなりたくないと思いました。」という、ある意味正直な意見も書かれていました。

 これまでなら、自信を持って弁護士はやりがいのある仕事ですから頑張って弁護士になって下さいと言えたのですが、実際に就職難や赤字弁護士が発生している現状では、「責任も重いですがやりがいのある仕事で、たくさん収入のある方もいます。しかし、必ずしも生活が安定しているわけではありません。赤字の方もおられます。今後も弁護士が増えれば相当大変になる可能性があります。」と正直に言わざるを得ない状況です。

 誰だって、どんなに重要な意味がある仕事でも、生活が安定しない仕事には魅力を感じにくいでしょうね。魅力なき仕事には人材は集まりません。

 弁護士という職業が、今後の日本を支える子供達に、そっぽを向かれなければいいのですが。

職業講話その1

 私は、ほぼ毎年、中学校で職業講話を行います。職業講話とは、弁護士が実際にどのような仕事をしているのか、どのような一日を過ごしているのか、どうすれば弁護士になれるのか、などについて、具体的に理解してもらうために行うものです。

 今年は、高倉中学校の日時が裁判と重なってしまったため、阿倍野中学校だけで職業講話を行いました。当日は私以外にも、保育士さん、キャビンアテンダントさん、美容師さん、落語家さん、など様々なお仕事の方が、職業講話を担当されていました。その中に、えらく体格の良い方がおられるなと思ってよく見てみたら、元プロ野球選手の石毛博史さん(投手・セリーグで2年連続セーブ王 巨人→近鉄→阪神)でした。

 阿倍野中学校では、1年生が職業講話の対象でした。中学校1年生と言っても、まだ小学校7年生といった感じで、まだまだ幼さが残る顔立ちの子が多くいました。少し時間オーバーになりましたが、職業講話を終えたあと、帰り道が同じ方向だったので、少し石毛さんとお話しすることができました。

 全国に数多く存在する野球少年の頂点とも言うべきプロ野球選手は、球団保有選手枠があり、その中で1軍登録されなければならず、さらに1軍でも使ってもらえるだけの成績を上げないと、2軍に落とされてしまう、非常に厳しい世界です。その厳しい世界で、一生懸命頑張ってこられた石毛さんは、「夢を持つことのすばらしさを伝えたい、と思って話をしました。」と仰っておられました。

 きっと、夢を持ち続けて本当に頑張ってきた方にしかできない素晴らしいお話をされたのだろうと思います。

 私も聞いてみたかったなぁ。