日弁連の感覚はズレまくっている?!

 日弁連委員会ニュースによれば、日弁連が近年の法曹(裁判官・検察官・弁護士)志願者の減少対策として、(法曹の)魅力発信PT(プロジェクトチーム)を設置し、積極的に活動しているとのことだ。

 最近の司法試験受験者数は、概ね5000人未満であり、私が受験していた頃の受験者数約3万人に比べると約80%も減少している。
 日弁連は、この法曹志願者減少の原因を法曹の魅力が伝わっていないと考え、様々な対応を行っているとのことだが、そんなことで法曹志願者が増えるなどあり得ないと、私は思っている。

 私が受験していた頃は、法曹の魅力なんて誰も、学生なんかに伝えてくれなかった。


 だが、当時の司法試験は、誰でも何回でも受験でき、司法試験に合格すれば、人生の一発逆転をもたらす切符と見る向きもあり、一部では人生のプラチナチケットと呼ばれており、10年以上司法浪人してでも合格を目指す人もいた。


 旧司法試験では合格率2%前後の極めて狭き門(最近の司法試験は合格率は40%を超えている。)であったが、法曹の魅力なんか宣伝されなくても、年々受験者は増加していたのである。

 それは、司法試験に合格して得られる、法曹資格の価値が高く、資格に魅力があったからだ。

 現在の司法試験は、前述したとおり合格率で言うと、20倍以上合格しやすくなっている。同じ資格を20倍以上合格しやすい試験で手に入れられるなら、受験者が増えそうなものだが、むしろ受験者は減っている。

 その理由としては、原則として法科大学院を卒業しなければ受験できないという、大学側の利権に阿った制度改悪も大きな原因の一つだが、それよりも、端的に言えば、法曹資格濫発により、資格の価値が下がったから目指す人が少なくなったと考えるのが最も合理的である。

 現実を見てみると、司法制度改革により弁護士の数は激増したが、裁判所に持ち込まれる事件の数(全裁判所の新受全事件数)は増えていない。
 全裁判所の新受全事件数は、約35年前の平成元年に約440万件であったが、令和4年には約337万件に減少している。
 この間に弁護士数は約14000人から約43000人へと3倍以上に増えている。

 わかりやすく言えば、年々減っていくパイを、年々増える(激増する)競争者達と奪い合う業界構図なのである。

 このように、仕事は増えていないのに競争相手は3倍になった(資格濫発した)ことから、弁護士も「資格で食える」資格から、「食える保証がない」資格に格落ちしたのである(月刊プレジデントだったと思うが、ずいぶん前から弁護士資格をブラック資格と正しく評価していた記憶がある。)。
 しかも、誰でも何回でも受けられた旧司法試験と違い、いまの司法試験を受験するためには原則として法科大学院を卒業しなくてはならず、費用も時間もかかってしまう。

 弁護士といえども仕事であり、職業である。自らの仕事で収入を得て、生活を支え、家族を養っていく必要がある。いくら仕事にやりがいがあっても、その仕事で食っていけないのなら(食っていけないリスクが増大しているのなら)、その仕事を目指す人間は確実に減っていく。

 終身雇用が原則だった高度経済成長時代よりも、将来の見通しが難しく未来が不安視される昨今、今後の長い人生を生きていかねばならない若者達にとって、ほぼ確実に食える可能性が高い資格に人気が集中することは明らかだ。

 現在の医学部人気を見ても明らかだろう。
 医師の仕事のやりがいが特に宣伝されているわけでもないのに、現在の医学部人気は凄まじく、医師になる道はどんどん狭く(競争率が高く)なっている。しかし、それでも医学部人気は衰える兆しが一向に見えない。

 少なくとも現時点で、資格で食っていける可能性が一番高い資格は、医師免許資格であることはおそらく異論がないだろう。このように、現時点では医師資格の価値が高いからこそ、苦労してでも手に入れる値打ちがあるし、だからこそ厳しい道でも多くの若い人材がその資格を目指しているのだろう。

 仕事が生計の手段でもある以上、仕事のやりがいだけで将来の仕事を選ぶことは、滅多にない(できない)。

 だから、日弁連がやろうとしているように、いまさら法曹の仕事の魅力を伝えたところで、法曹志願者が激増するなんてことはあり得ないだろう。

 むしろ、日弁連の宣伝に乗っかって、現実の収入面も考えずに、やりがいのある仕事だからと安易に志願する人たちが、どんどん法曹になっていく世界の方が恐ろしい気がする。

 以上から、私から端的に言わせれば、法曹志願者を増やす最も単純で効果的な手段は、資格の価値を上げることに尽きる。
 しかし、法科大学院制度維持のために、司法試験合格者を減らすことができず、ここまで資格を濫発してしまった以上、もはや法曹資格の価値を上げることは不可能に近いだろう。

 日弁連執行部は、現実をしっかり見て、法曹志願者を増やすために法曹の魅力を発信するなどという馬鹿らしいことに、我々の会費を突っ込むことは、もう止めてもらいたい。
 どうしてもやってみたければ、法曹の魅力を発信すれば法曹志願者が増加すると信じ込んでいる脳天気な人たちで基金を募ってやってもらいたい。

夜の駅(おそらくボーツェンだと思うけど記憶がはっきりしません・・・)

準備書面に認否はいらない?!

 数年前、登録4~5年目くらいの、ある若手弁護士が原告側、私が被告側で訴訟で戦うことになった際の話である。

 その、若手弁護士さんがこちらの準備書面の主張に対して、何ら認否せずに、自分の主張したいことだけ、反論したい部分だけを反論するという書面ばかり出してくることがあった。

 ちょっと話がそれるが、その若手弁護士さんの準備書面は、法的な主張や、証拠に基づいた主張をほとんどしないくせに、原告・被告間の個人的な問題などを執拗に攻撃し、こちらの準備書面のごく一部分だけを取り上げて、「被告の主張は失当である」と連呼する書面でもあり、読むのがストレスになる書面だった。
 ちなみに、訴状でも、法定果実であるにも関わらず日割り計算をせずに請求してきていた箇所があったので、第1回期日で、私から、「これは法定果実だから日割り計算に訂正して下さい」とお願いしたところ、黙り込んでしまい、「後で確認してから書面で出します」といって、3ヶ月後くらいの次々回期日でようやく訂正してくる始末だった。

 まさか大学2年生でも知っている、天然果実と法定果実の取得規定を知らなかったとまでは思いたくないが、それはさておき、こちらの準備書面に対して、認否もせずに、自分の主張したいことだけ、反論したい部分だけ記載し、裏付け証拠もほぼ皆無の準備書面ばかり出されても、双方の対立点、真の争点も明確にならず、訴訟が前に進まない。

 ただでさえ、原告側は請求側だから、訴訟を早く進行させたい側であることが多いだろうに、原告代理人がそのような行動を取る意味が、私には全く理解できなかった。

 期日において、口頭で認否するよう促しても一向にその若手弁護士は改めないので、止むをえず、私は準備書面で、「原告は、被告の主張・立証に対して、きちんと認否した上で反論されたい。」と明記して出した。

 すると、その弁護士は、次の準備書面で、このように記載してきたのである。

「認否は答弁書に対してだけすればよいのであって、準備書面に対しては、認否する必要はない。」
 

 裁判所に提出する準備書面で、ここまで自信たっぷりに「準備書面に対して認否をする必要がない。」と記載されたので、逆に、私の方が、「私が間違っているのか?!」、「いまの司法研修所教育はそうなっているのか?!」と、わずかな不安を感じてしまうくらいだった。

 念のため書いておくが、司法研修所編7訂版「民事弁護の手引」には、準備書面の要素の欄には、民訴規則を引用するなどして
 準備書面の要素として
 ① 攻撃又は防御の方法の記載
 ② 相手方の請求及び攻撃又は防御の方法(161条2項1号)に対する陳述
 ③ 証拠の引用、証拠抗弁、証拠弁論、引用文書
 があげられており、

「攻撃または防御の方法に対する陳述とは、相手方の主張する個々の攻撃又は防御の方法、すなわち、請求を理由づける事実、抗弁、再抗弁、等として主張された事実に対する認否の陳述をいう」

 と明記されている。
 
 

 別に私は(勝訴的和解もできたし)、この弁護士を非難したいわけではない。

 先だって、内田貴東大名誉教授が、「弁護士資格を持つことは(中略)競争する資格を得たにすぎないんだという発想の転換もしなければいけないでしょう。」と弁護士ドットコムのインタビューで述べていたことに反論したいのだ。

 おそらく、内田氏の述べる「競争する」ということは、競争することにより、良い弁護士が生き残るという理想的な競争状態を念頭に置いているものと思われる。
「悪貨は良貨を駆逐する」競争状態では、司法は衰退するばかりだろうから、さすがに民法で名をなした東大名誉教授であれば、そのような競争状態が良いとは主張しないだろうと推測するからである。

 仮に内田氏が念頭に置いているような理想的な競争状態が、弁護士業界において可能ならば、私の戦った若手弁護士さんは、民法の基礎的条文、民事訴訟の基礎すら把握できていないのだから、当然淘汰の対象にされていなければならないはずであろう。
 しかし現実にはそうはなっていない。

 以前から、「弁護士も競争しろ」とマスコミも学者も主張するが、弁護士業界において、良い仕事をする弁護士が必ず生き残るという理想的な競争状態は、私に言わせればあり得ない。

 理由は簡単だ。

 依頼者(顧客)に、弁護士の仕事の質が判断できる能力がほとんど無いからである。香水のコンクールで、審査員が嗅覚が効かない人ばかりだとしたら、本当に優れた香水が優勝するとは限らないのと同じである。


 依頼者(原告)からすれば、何ら法的主張を具体的にしておらず、訴訟では実質的に意味のない書面であっても、被告をなじる内容が記載されていれば、被告に対する不満が裁判所に伝えられたと感じて、良い仕事をしてくれる弁護士だと判断してしまう場合も往々にしてあるのだ。
 
 確かに内田氏や大企業であれば、弁護士の良し悪しも判断可能であろう。
 しかし、大多数の国民は、内田氏のような弁護士の能力を判断する術を持たないのである。

 その状況下で、どんどん資格を与えて競争しろとは、あまりにも現実無視の無責任な発言としか思えない。

 

 それなら、医師についても同様に言ってみたらどうだ。

 医師も資格に甘えるな。
 医師資格は競争する資格を得たに過ぎない。
 医師になりたい人には、医学部卒でなくても、どんどん医師資格を与えて競争させれば、良い医師が残るはずだ。競争過程で医療過誤などで犠牲になった人がいても、それは仕方がない。その医師を選んだ人の自己責任だ。

 例えていうならこういう内容になるだろう。

 

 このような社会が正しいとは、私には到底思えないが。

(多分)夜のボーツェン駅、20年ほど前。