旧司法試験 論文式試験受験生の方へ

 暑い日が続きますが、頑張っておられることと思います。

 論文試験が迫ってきましたが、調子はどうですか?

 論文試験はこれまでも言ってきたとおりです。
 自分を必要以上に飾り立てると自滅します。
 自分の実力で問題文を必死で分析し、その実力を試験官に対してわかりやすく示してくればよいのです。

 まず問題文を読み違えないように、落ち着いて良く読むことです。
 簡単そうに見えても問題文を読み違えないで読むことは意外に大変です。しかし、読み間違いのないように意識して読めば大丈夫です。

 次に何を聞いているのか、何をどう答えなくてはならないのかをはっきりとさせて下さい。
 例えば「いかなる主張ができるか」という問であれば、「~という主張ができる」というのが答となるでしょう。「○と△を比較して論ぜよ」と言う問であれば必ず比較して論じている部分がなくてはなりません。

 それから、結論、おそらく皆さんのリーガルマインドからすれば妥当な結論は分かると思いますので、その結論を導くに至った思考過程を表す方法を考えます(答案構成ですね)。

 出発はあくまで条文です。特に憲法で忘れがちなので注意して下さい。

 どの条文のどの文言がどういう形で問題になり、その条文(文言)をどのような理由でどう解釈していくのか、そして、その解釈した結果に事例を当てはめればどのような結果になるのか、順を追ってていねいに説明してやることです。

 論文試験の解答は、論文という以上、論理的な文章である必要があります。つまり、最初のひと文字から最後の句読点に至るまで論理的に繋がっていなくてはなりませんし、書く必然性があるから書いたものでなくてはなりません。書く必然性がないものを書けばそれだけで論理性に疑いをもたれる危険があります。
答案の価値は基礎的な知識を正確に論理的に表現しているか否かで判断されるものであって、決して書いた量で計り得るものではありません。
 隣の受験生がたくさん書いていたとしても、気にしないことです。むしろかわいそうにと思ってあげても良いくらいでしょう。  

 ただ、あくまで書面審査ですので、読みやすく、接続詞まで配慮して書いてやることです。何百枚もの答案を夏の暑い盛りに読む試験委員のことを考えれば、接続詞で上手に繋がっていればそれだけでも印象はよいはずです。この点に注意するだけでも随分違うと思います。

 試験中には必ず、逃げたくなるときがあります。
 前提論点で少数説で逃げればよく知らない論点を書かずに済む場合などです。
 この場合結論的にいえば、逃げずに何とか妥当な結論を導こうと苦慮していることを示した方が、私の経験上では高評価だったように思います。

 また、終わった科目で致命的な失敗に気付くこともあります。しかし結果は発表まで分かりません。特に合格者のレベルが大幅に低下している昨今、致命的なミスの一つ・二つくらいは誰でもやっていることと思われます。

 以前から言ってきたと思いますが、問題に逃げずに正面からぶつかって真剣に考え、その過程を素直に自分を飾らずに表現してくれば良いと思います。

 自分の真の姿を偽っても、結局自分以上にはなれません。他人がどうであれ、素直に自分の精一杯の力を見てもらってきて下さい。そのためには、最後の最後まで問題に食らいついて諦めずに戦うことです。

 それができれば上出来だと思います。

 論文試験前の私の励ましは、これが最後になります。読んで下さった皆さんの健闘をお祈りしております。

突然の面会要請

 2年半ほど前の、ある冬の日の夕方、風邪気味でノドが痛く、声までかすれてきていた私は、「今日くらい早く帰ろうかな」と考えていたところ、突然大阪府警留置管理係から電話がかかってきました。

 その日は当番弁護の日ではないし、私が担当する刑事事件で被疑者が大阪府警に拘留されている事件もありませんでしたので、不審に思いつつ電話に出ました。

「坂野先生ですか。少年○○が先生に是非来て欲しいと言うとるんです。先生とは何の面識もないそうなんですが、来てやって頂けませんか?」

「少年○○君?確かに知りませんが、どうして私の名前を知ってるんでしょう。」

「さあ、それは分かりませんが、とにかく先生に来て欲しいと言うとるんです。ご迷惑だと思いますが来てやって頂けませんか。」

「分かりました。誰か分かりませんが、『弁護人となろうとする者』の資格で面会しましょう。20時くらいにはそちらに行けると思います。」

「すみません。よろしくお願いします。」

 こういうやりとりの後、仕事を済ませ、私は大阪府警本部に向かいました。とても寒い日で、風も強く、コートが風にあおられていたのを覚えております。

 いざ接見室に入って、自己紹介の後、どうして私の名前を知っているのか尋ねました。少年が言うには、鑑別所か留置場の壁の落書きに「坂野弁護士はよくやってくれるから、頼んだ方が良い。」と書かれていて、それを覚えていたから連絡してもらったのだと言うことでした。そして、親もお金を出してくれるだろうから、何とか自分の罪を軽くしてもらえるように弁護をやってくれないかと、少年に頼まれました。しかし1時間ほどかけて事件のことをあれこれ聞いてみると、少年の話によっても被害者に落ち度はないと思われるのに、自分は悪くないという話や、逮捕されたのは運が悪かったと言わんばかりの話が続々と少年の口から出てきたのです。

 私は、「罪を軽くして欲しいというだけであれば僕は受けられない。君が本当に今回の失敗を最後にしたいと思っていて、どうしても立ち直りたくて、その立ち直りの手助けをして欲しいというのであれば、頑張ってみようと思う。だから、壁の落書きから君はとにかく罪を軽くするために活動する弁護士だと僕のことを思ったかもしれないが、君が想像した弁護士とは違うかもしれないよ。それでも良いのであれば、ご両親と相談して連絡をくれれば頑張ってみよう。」と答えました。そして少年の親にも面会の様子を伝え、本人とよく相談するようにお願いしました。

 私の採った態度が正しかったかどうかは未だに分かりません。

 しかし、私の経験から言うと、少年事件を起こす少年は、彼が生み出したのか周囲が植え付けたのかは別として、一様にガン細胞のような問題点(心のキズ・ゆがみ)を抱えているような気がします。そしてその問題点には、少年自身が、事件についての反省の過程でいかに被害者に迷惑をかけたか、いかに自分がくだらないことをしてしまったのか、何故悪いと分かっていながら止められなかったのか等、様々な事について深く考え、苦しんでガン細胞のありかを突き止めようとする姿勢がなければ、近づけないように思えます。周囲の者が勝手に見立てて、「君の問題点は、此処にあるからこのように直しなさい」と指摘しても、ある程度の治療は可能でもガン細胞の根は残ってしまい、再発する危険がどうしても残る気がするのです。

 別の言い方をすれば、少年自身が自らの問題点に気づこうとしない限り、少年の事件の問題点は根本的な解決が極めて困難だと思います。そしてその問題点を見つけた後、どのように改善するかについても少年が必死に考える必要があると私は思っています。そうだとすれば弁護士が事件を起こした少年に対してできるのは、あくまで少年が立ち直りたいと思っている場合に、その立ち直りのため付き添って一緒に考え、手助け・ヒントを与えてあげるくらいではないのでしょうか。むろん弁護士は、審判に向けて、調査官や裁判官と面談するなど、様々な活動を行いますから、事件自体についてやることはたくさんあります。しかし、当の少年がこれまでの自分と決別して立ち直ろうと考えない限り、真の解決は難しいのだと思います。

  弁護士に出来ることは限られているかもしれませんが、その中で一生懸命頑張って、今後も少年の立ち直りにつきあっていこうと考えております。

「ひまわりの祝祭」 藤原伊織 著

 真夜中、突然、かつての上司であり大学の先輩でもある人物が尋ねて来て、500万円を賭博で一晩で使い切って欲しいという奇妙な依頼を主人公にする。主人公には賭博に関して一種独特の才能があった。非合法カジノに向かった二人はそこで、主人公の亡き妻とうりふたつの女性と出会う。主人公の妻英子は何年か前に自殺していた。妻は妊娠を隠していた。妻の死にまつわる真実を探り始めた主人公は、7作品しか現存しないと言われる、ファン・ゴッホの残した8作品目の「ひまわり」が鍵であることにたどり着く。果たして本当にファン・ゴッホは8枚目の「ひまわり」を残していたのか、主人公の妻の自殺の理由は何だったのか?

 同作者の「テロリストのパラソル」が乱歩賞と直木賞を史上初めてダブル受賞した事で有名ですが、この作品も非常に素晴らしいものであると思います。主人公は、一見さえない中年男で、幼児性を残していると周囲から指摘される人物です。読み進めていくと分かるのですが、銃の達人でもあり、真相に迫る際の頭の切れ具合も鋭すぎるくらいで、中年の主人公が(しかもハードボイルド小説の中で)、自分を指す一人称として「僕」を用いていることに違和感を覚えるかもしれません。
 しかし、この本のラスト近く、英子の自殺の理由を主人公が悟る場面で、何故読者に違和感を感じさせかねない「僕」を用いて作者が話を進めてきたのかが理解できます。感情を排し、短い文章を淡々と積み重ねたその部分は、この本の白眉であると私は思います。すでに語られた、まばゆく美しい「僕」と英子の高校時代の描写が効いています。
 様々な読み方があるでしょうが、私はこの小説を、主人公と英子の愛の話として読みました。もちろんミステリーとしても非常に面白い作品になっていると思います。

 一言で言えば、格好良くて悲しい物語。そう読めました。

講談社文庫 752円(税別)

「幻の女」 ウイリアム・アイリッシュ著

 やってもいない妻殺しの罪により、死刑を宣告された主人公。証拠は全て彼の犯行を裏付け、控訴も却下された。しかし、違和感を覚えた捜査担当の刑事は、直感で主人公の潔白を信じ、主人公に親友に依頼して、無実を証明するための唯一のアリバイ証人を探してもらうようアドバイスする。

 そのアリバイ証人とは、主人公が行きずりで食事と観劇をした、名前も分からず、顔も覚えていない、へんてこな帽子をかぶった女であった。主人公の死刑執行を18日後に控え、親友は必死にその女を捜す。しかし、親友が手がかりに近づくたびに、まるでその女が幻であるかのように、その女への手がかりは次々と失われていく。容赦なく近づいてくる死刑執行の日。女は主人公の記憶の中だけに存在する幻の女なのか・・・・・。

 この小説はサスペンス小説の古典的名作といわれ、ミステリー小説の読者投票などでも常に上位にランクされる作品ですから、すでにご存じの方も多いと思います。それでも、まだ読まれていない方には、是非ご紹介せざるを得ない傑作です。どんどん主人公の死刑執行の日が近づいて来る構成ですので、できれば、途中で休まずに一気に読まれた方が、盛り上がるし、緊張感もとぎれなくて面白いと思います。素直に作者の導くまま読み進めていくと、結末の意外性に仰天させられること請け合いです。

ハヤカワ・ミステリ文庫 840円(税込)

頑張れ論文受験生

 司法試験の論文式試験まであと、10日ほどになりました。

 最後の論文式試験の模試も今週末くらいに実施されると思います。

 みなさんは、これまで一生懸命に頑張ってこられたものと思います。これからは、体調管理に十分気を配ることです。睡眠を十分とって試験時間に頭が働くように生活のリズムを作って下さい。夜寝る直前に頭をあまり使いすぎると、私の経験上、頭が冴えて眠れなくなることがありますので、ご注意下さい。試験直前に眠れなくても、ベッドに横になって目をつむり休息するだけで、疲れはとれていきます。

 ひとりひとり、背負っているものは違いますが、試験の条件は皆同じです。実力以上を出す必要もありませんし、出せることはまずありません。みなさんの持っている力を発揮できれば、それでいいのです。そう考えれば、試験を心配する気持ちも少しは楽になると思います。

 そして万一、眠れなくても気にしないことです。眠れるにこしたことはありませんが、眠れなくても試験にはそんなに影響しないものです。

 但し何度も言いますが、体調だけには十分気を配って下さい。寝苦しい夜が続く時期ですので寝冷えなどなさらぬよう。

J・Sバッハ カンタータ BWV106番

 バッハ、クラシック音楽、カンタータ、なんて聞くと、もう嫌だという人もおられるかもしれませんね。

 しかし、このカンタータは私はお勧めだと思います。哀悼式典用に作曲されたカンタータで、題名は訳した人によって多少違いますが、「神の時こそいと良き時」という意味だそうです。

 私は、クラシック音楽に関する知識はほとんどありませんから、個人的に好きかどうかくらいのお話しかできません。曲自体に関する解説は、評論家など専門の方の書かれた文章を参考にして下さい。

 さて、この曲ですが、哀悼式典用の音楽ですから、誰か親しい方が亡くなった場合に演奏されたものなのだと思います。

 しかし、決して重苦しい悲しみだけを表現した音楽ではないように思います。私がこの曲から受ける印象は、「親しい人が永遠の眠りに就き、良く晴れた冬空の下、葬儀の帰り道にもう会えない人との時間を思い出しながら大きな糸杉が植わった誰もいない並木道を1人歩き続け、ふと見上げた時に、どこまでも晴れ渡った青空に気づいたときの感覚」に近いというものです。この曲には不思議なそして静かな明るさがあるような気がします。

 「車輪の下」等の小説で有名な作家のヘルマン・ヘッセもこの曲が好きだったようで、彼の小説「デミアン」の中に、この曲のすばらしさを記した部分があります。

 私の持っているCDは、カール・リヒター指揮のものですが、他の指揮者の方の演奏も発売されているので是非お試しを。

林正子さんのソプラノコンサート

 あるところよりご招待券を頂いたので、ソプラノ歌手、林正子さんのコンサートに行ってきました。

 私にとって、ソプラノ歌手のコンサートは、10年以上前にザ・シンフォニーホールでエディタ・グルベローヴァのコンサートを聴いて以来のものでした。

 さて、コンサートの感想の方ですが、一言でいうと、コンサートは想像以上に素晴らしいものでした。アリアもよかったのですが、アンコールも含めて2度歌われた「見上げてごらん夜の星を」~坂本九ちゃんの歌です~は感動的で、2度目にアンコールで聞いた際には、不覚にも涙をこらえることができませんでした。

 上手く表現できないのが残念ですが、音楽的な技術・技巧で感動したのではなく、そこで作り出された音楽が、市井の名もなき人々がささやかな幸せを祈るその切ない思い、そして、その切ない思いが必ずしも叶えられるとは限らない人々への慈しみ、それ自体に昇華して、ただそれだけが会場を包み込んでしまったような感じでした。

 もはや音楽が表現をするというものではなく、音楽が、その切ない思い・慈しみそのものとなって会場を満たしたと言うほうが適切かもしれません。

 う~ん、上手く表現できませんね。こういうとき言葉は不便だと痛感します。一度聞いて頂くしかないのかもしれません。

 今後もコンサートを各地で開かれるそうなので、機会があれば是非足を運ばれることをお勧めします。

答案練習会の添削

答案練習会の添削

 
 先だって、知人から刑事訴訟法の答案練習会で「おとり捜査」が出題されたのだけれど、強制捜査と任意捜査の区別を書くよう添削され、かなり減点されたことがあるという話を聞きました。
 
 皆さんご存じのとおり、現在「おとり捜査」は任意捜査としてほぼ争いはありません。有斐閣新書「注釈刑事訴訟法」では任意捜査の限界問題として扱い、有斐閣「刑事訴訟法(田宮裕)」では任意捜査の規制の項目で扱われています。また、司法修習生必携といわれる青林書院「新実例刑訴Ⅰ」においては、堂々と「刑事訴訟法上、おとり捜査は任意捜査と認められるが・・・・」と記載されています。
 ところが、かつての予備校本の中には、 おとり捜査は任意捜査か強制捜査かという論点を記載したものがあったらしく、その本で勉強して合格した方が基本書等で確認することなく、「おとり捜査」の問題→「任意捜査か強制捜査の論点を書く」と覚えてしまっていたのでしょう。おそらくその方は運良く刑事訴訟法で「おとり捜査」の出題がなかったので合格できたのでしょうが、もし出題されていれば、書く必要のない部分を書いてしまった答案ということになり、やばかったはずです。

 このように、合格者といえども必ずしも全ての科目について全ての論点を正確に理解しているとは限りません。
 また、論文試験直前の答案練習会においては、採点者の確保が大変らしく、採点者1人1人の負担が大きいという噂も聞いております。したがって、必然的に添削にかける時間もそう多くはとれないことになるでしょう。私の経験ですが、ひどい添削者にあたると、ろくに添削をせず答案に大きな○を数個うっておいて、「大体良いでしょう、25点」とだけ書かれていたということもあります。

 このような採点者の状況下で、添削を受けているのだということを受験生の方々は理解され、添削を鵜呑みにされず、おかしいと思えば必ず確認することをお勧めします。また、点数は相当いい加減に付けられますので、ほとんど参考にする必要はないでしょう。
 ただ、形式面に関する添削や、論理がつながっていない、記載されている意味が不明確であるという指摘があった場合は十分注意して下さい。あなたの頭の中では論理がつながっていても、文章として表現できていない可能性が高いからです。添削者に論理的な道筋が理解できない論文式答案を、一流の法律家・学識者である司法試験委員に対して、一読で理解してもらおうとしても、無理な話です。十分検討して、あなたの思考を論理的に文章で表現する手法を考える必要があると思います。

 前回も言いましたが、合格してみれば、こんなレベルで良かったのか、と感じるはずです。
司法試験の合格レベルはエベレストレベルではありません。富士山レベルです。遊んでいては登れませんし、確かにしんどいですが、登山道をはずれずに歩けば、普通の体力の方でも十分登れます。但し、登山道を登らずに自己流で突っ走ると樹海をさまよいかねません。常に自分が登山道をはずれていないか、チェックしながら登って下さい。自分でチェックしにくい場合は他人に見てもらうのが一番です。最近のガイド(添削者・合格者)は大量合格のため、さほど実力がない方が混じっている場合もありうるので、間違って樹海に連れて行かれる危険がないとも言えませんが、地図(基本書)で確認すれば、大怪我は避けられます。

 直前答案練習会の復習をされる場合には、具体的でない添削者のコメントや点数は基本的に気にせずに、しかし、論理の飛躍の指摘や、表現に関する指摘があった場合は十分注意してなされることをお勧めします。

論文式試験の心構え

 前回のブログで、論文式試験で司法試験考査委員が何を見ているかについて、簡単に説明いたしました。

 しかし、私の経験から言うと、実力者であっても 論文式試験で必ず合格できるとは限りません。身につけた実力が素直に発揮できるとは限らないからです。

 そこで、今回は、論文式試験に臨む心構えについて、私の体験から得たものを説明したいと思います。

 私の、結構な回数の受験歴から考えれば、論文式試験に臨む心構えとしては、①自分を飾らない、②絶対に逃げない、③試験委員を思いやる、この3点に尽きるのではないかと思います。

 ①自分を飾らないということですが、論文式試験では何とかして、試験委員に自分の実力を評価してもらいたいあまり、背伸びして自分の実力はもっと上なのだと表現したくなることが多いと思います。しかし、どんなに知識を披瀝して自分を飾ってみても、本当の自分の実力が上がるわけではありません。それどころか多数の答案を見る試験委員からすれば、これは分かったふりをしているなと簡単に見透かされることがほとんどでしょう。そうであれば、無理に自分を飾らず、本当の自分の実力を素直に見てもらおうと考えて試験に臨んだ方が、より素直に実力を発揮でき、また、不要な論点まで書いて墓穴を掘る最悪な事態を避けうる場合が多いと思われます。仮に自分の実力を偽装して合格しても、研修所の2回試験に合格できなくなるかもしれませんし、そこをすり抜けても将来弁護過誤で大きな問題を起こしてしまうかもしれません。そうであれば、なおさら、素直に実力を見てもらった方が良いと思うのです。

 ②の絶対に逃げないということですが、これは、論文式試験の問いに答える上で、決して逃げないということです。どんな受験生でも完璧に勉強を完了している受験生などいません。誰もが弱点を持ち、知らない論点を持っているものです。ですから、論文式試験の12問のうち、誰しも必ず、何問かについては、「しまった、やっておかなかった」「もう少し復習しておけば」等という問題に直面します。その際に、よく知らない少数説なら簡単に書けたような気がするので少数説に乗り換えようとか、この論点を知らんふりして通り過ぎれば良いのではないか、という誘惑にかられることもあります。しかし、そこで逃げるべきではないと思います。少数説で簡単に書けるとしても、今まで自分がとってきた説で堂々と不都合を手当てしながら主張すれば足ると思いますし、答案に迫力が出ると思います。また、知らんふりして逃げるのは、そもそも問題点すら把握できないのかと思われる危険があります。幸い、受験生には条文という最強の味方がいます。法律問題の出発点は条文ですから、その条文を使って、必死に戦うべきだと思います。

 ①・②の結果、「この問題について、私なりに妥当な結論を導こうと全力で考えた結果、このような答案になりました。今の私はこれ以上でも、これ以下でもありません。この私の答案で不合格であるというのであれば、私の実力不足なので仕方がありません。しかし、私は法曹になりたいという強い意志を持っており、合格させて頂いた後は更に精進して立派な法曹になります。決してご期待を裏切ることはありません。」というような心境で受験できれば、かなり実力を素直に出せるのではないかと思います。

 ③の試験委員を思いやるということですが、言い換えれば、できるだけ読みやすくわかりやすい答案を書くことです。真夏の暑い盛りにたくさんの答案を読まされる(読みたくて読むわけではなく、読まされるという心境だそうです)試験委員の苦労を考えると、受験生としては一読即解の答案を当然目指すことになります。文字の上手下手は仕方がありませんが、下手でも読みやすい字を書くように心がけることです。また、細字のペンを使うか太字のペンを使うかで読みやすさが異なりますから、他の人に読んでもらって、読みやすいペンの字を使うべきです。

 上記のことはあくまで私の経験から出たもので、全ての方に妥当するとは限りませんが、何らかの参考になればと考えております。