かなり恐ろしいアメリカの司法~その1

 鈴木仁志弁護士の「外から見た日本司法の先進性~市民の視点から見たアメリカ司法の実像」という論考を読んだ。

 マクドナルドコーヒー火傷事件(ある女性が自動車を運転中にマクドナルドで買ったコーヒーを股間にこぼしてしまい女性器に火傷を負ったので生殖能力を失ったと主張して損害賠償を請求した事件。陪審はマクドナルドのコーヒーが他店のものより若干熱く、その苦情があったにもかかわらず改善を怠っていたとして、原告の女性に対し、マクドナルドは約4億円の損害賠償を支払うように命じた事件)が、現実にあり得るアメリカの司法は相当病んでいるのではないかと感じてはいたが、この論考を読むと、アメリカの司法が如何に恐ろしい司法であるのかがよく分かる。

 有名ロースクール教授の大御所弁護士が講義で、堂々と「アメリカにおける裁判の目的は、ただ一つ、紛争の終了にある。裁判は真実を解明する場ではなく、紛争を終わらせるための手続に過ぎないから、外観だけを問題にすれば足りる。それが真実に反していても、それはもはや裁判制度のあずかり知るところではない。」と説明したのだそうだ。

 つまり、上記教授の教えが正しいのであれば、アメリカの裁判では、真実であるかどうか別にして、外観が整っていれば、どれだけ不公正であってもその外観にしたがって判断して紛争を終わらせてしまって良い、ということになる。

 疑問に思った鈴木弁護士が、「裁判制度の目的から、真実主義を除去してしまった場合に、公正さや人権保障の観点から問題はないのか、外観が全てということになると、事後的な外観作出すなわち、偽造・証拠捏造を誘発しないのか」と質問したところ、上記教授は、

 「アメリカの弁護士にとっては、依頼者の利益が全てだ。それが社会にとって有害かどうかは問題ではない。」と答えたのだそうだ。

 日本の弁護士の使命は、いうまでもなく「社会正義の実現」であり、「依頼者の正当な利益」の保護とされている。

 しかし上記教授の講義を敷衍するならば、アメリカの弁護士にとっては、「真実であろうが虚偽であろうが、また正当であろうが不当であろうが、依頼者の利益だけ実現すればいいことになり、そのことが社会にとってどれだけマイナスになろうと関知しない」というのが基本的スタンスだということになる。
 そのように、アメリカの司法が真実発見・社会正義の実現という使命を放棄しているのであれば、その結果、依頼者の不当な利益を守ることも弁護士の職務として是認しているのであるならば、アメリカの弁護士が裁判で巧妙に嘘をついて有利な判決を得ようとすることが常態化していても無理はない。

 ちなみに、鈴木弁護士がアメリカで読んだ世論調査の文献によれば、アメリカの市民は

「裁判になっても正しい方が勝つとは限らない」

「巧妙に嘘をつくのがうまい、フィーの高い弁護士を雇える金持ちが裁判に勝つことになるのであって、裁判制度は庶民に不利に働いている」

との印象を持っているそうだ。

 そもそも、近代立憲主義が司法に求めた役割は、「どのような当事者であっても【理】を巡って対等に争える場であること、そしてそのことによって政治の持つ【非情】さや、【歪み】を正すことの期待」(佐藤幸治「憲法第3版」p292参照)であった。

 つまり、どんなにお金持ちであろうが、貧乏であろうが、裁判所では対等に理をつくして戦い、理に適っている方を公平公正に裁判所に判断して勝たせてもらうことを保障することだったのだ。

 しかし、少なくとも鈴木弁護士の論考を読む限り、アメリカの司法・裁判制度の下では、上記の意味での司法は、もはや機能していない。
 巧妙に嘘をついて有利な判決を得る可能性の高い弁護士に、高いお金を出して依頼できる金持ちが、裁判という最後の救済の場面でも相当有利な立場に立っている可能性が否定できないのだ。

 アメリカのように実体的真実を放棄する制度を国民が望んでいるかといえば決してそうではない。しかし、法制度と法曹は、実体的真実を追及することを実現できなくなっている。

 それは何故か。

 鈴木弁護士は更に分析を進めている。

(続く)

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