太地中学校のこと

 私が中学時代を過ごしたのは、太地中学校だった。
 太地中学校は、平見地区という高台にあり、灯明崎まですぐという、環境抜群、通学大変という地域にあった。

 私は、太地町の中でも平見地区とは、町の反対側の端の地区である森浦地区に自宅があったため、そこから自転車通学をしていた。森浦地区のみ自転車通学が許されていたため、結構うらやましがられたのか、通学路で軟式テニス部の先輩から雑草を投げつけられたこともあった。実際には、先輩達からのお下がりの少々くさいヘルメットの着用が義務づけられていた上に、雨などが降るとかなり辛く、友人と仲良くお話ししながら帰宅することもできなかったため、それほど羨ましいものではなかったように思う。

 小さな町であるとはいえ、町の端から端まで自転車をこぐ必要があったため、そこそこ運動量必要だった。また、1クラス35人程度の学級が学年に2クラスしかなく、生徒数は多くはなかった。

 そのおかげかどうか分からないが、東牟婁郡の陸上大会や駅伝大会に、選手として出場させて頂いたこともある。幸いにも、駅伝大会では3位に入賞し、賞状のコピーを頂いた記憶もある。

 学校自体は、木造平家建で、相当古かった。強い雨が降ると雨漏りがして、掃除用のバケツを雨だれ受けに使って凌いでいたような状況だった。

 また、風が通りにくい構造だったので、夏場は暑くて、窓枠から窓を外して、窓の外に置いて対応していたりもした(窓を開けても半分しか開かないため)。

 晩秋になり、日が落ちるのが早くなる頃、居残りで体育祭などの準備などで遅くなると、遠くに梶取崎灯台が、暗い太平洋に向けて灯火を投じる姿も見えた。なぜだか、私には、灯台が黙り込んだまま、そこにいるように感じられた。

 みんなが思春期だったこともあり、猿が集団で順位付けをするために争うように、意味もなく尖ってみたり、いわゆる不良に絡まれかけたり等、良い思い出ばかりというわけではない。しかし、思い返してみれば、校長先生がしょっちゅう芝を刈ったり、廊下にニスを塗っていたり、住み込みの用務員のおばさんが猫を何匹も飼っていたり、汲み取り式のトイレだったり、おそらく現代では考えられないような中学生活だった。もう、霞のかかったような記憶で、対象が誰だったのかもよく思い出せないが、同級生の女生徒に意味もなく一方的にドキドキしたことや、下級生からラブレターをもらってすぐ近くの灯明崎の神社に呼び出されたりしたことも、なんだか懐かしい思い出だ。

 私達が卒業した後、鉄筋の校舎が立てられ、居住性は格段に増したようであるが、現在では、過疎化が進んで、私達の頃からすれば、生徒数も3分の1程度になってしまったと聞いた。

 帰省したときは、ときおり、わざと近くまで行って校舎を眺めると、自分は変わっていないつもりでも、何もかも変わっていくのだ。そして、もうあの頃には戻れないのだ、と少しだけ、センチになったりする私がいる。

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