NHKドラマ「気骨の判決」

 太平洋戦争中の昭和17年、第21回衆議院議員選挙が行われた。いわゆる翼賛選挙と後に言われるようになるこの選挙で、鹿児島2区で落選した候補者から、衆議院議員選挙の無効を求める訴訟が提起された。

 大審院第3民事部の裁判長であった吉田久は、鹿児島へ出向いて、大人数の出張尋問を行い、その結果、徐々に組織的な選挙妨害があったことが明らかになっていく。

 それと同時に、様々な圧力や妨害が吉田に向けられはじめる。ついに、この事件を主に担当し、無効とすべきではないかと主張していた判事までが転勤させられてしまう。

 時局におもねるのは司法の役目ではないが、時局を混乱させることも司法の役目ではないはずだ。裁判官達の合議は紛糾する。果たして吉田の部は、いかなる判決を下すことになるのだろうか・・・・・・・。

 戦時中の選挙を対象とする、大審院の審理という重いテーマであるため、敬遠される方も多いかもしれませんが、決してわかりにくいドラマではありません。

 加古隆さんの重厚な音楽もあって、非常に見応えのあるドラマとなっていました。ちなみに、加古隆さんは、(私の勝手な思い込みかもしれませんが)人間の越えられない業を直視しながらも、その業を越えられない人間に対する愛情を内に秘めたような音楽を作られるので、お気に入りの作曲家・演奏家のひとりです。

 私としては、もう少し裁判官同士の合議を見たかったようにも思うのですが、それは自分の専門分野として興味があるというだけですから、わがままと言うべきなのでしょう。

 見逃された方は、再放送があれば是非ごらん頂ければと思います。

 ただ、私の聞き違いかもしれませんが、判決主文で、「訴訟費用は被告人の負担とする。」と述べていたように思います。

 被告人は、刑事裁判で起訴された者に対して使う言葉であり、本件のような訴訟では、「被告」とすべきでしょう。私の聞き間違いでなければ「被告人」は間違っているので訂正された方が良いと思います。

 マスコミは、刑事裁判の被告人を「被告」とよぶ事がほとんどです。「被告」は民事裁判で訴えを提起された方のことを言いますので、全くの誤用です。早く訂正して頂きたいのですが、マスコミの方々は被告人のことを「被告」と呼び続けています。慣例かもしれませんが、明らかな誤用が分かっていながら訂正しない理由が分かりません。

 なぜなんでしょうね。

余計なお世話??~その6

⑤最後に、ACCJは東京以外における法曹の不足と諸外国との比較から、法曹の数を継続的に増加させなければならない。と主張するようです。

 ACCJは、「実際の事例を見ると、東京・大阪以外の都市及び道府県では弁護士の数は依然として不足している」と主張します。

 まず最初に、ACCJとしては「実際の事例」を把握して主張しているはずなのですから、「弁護士不足が根本原因で、東京・大阪以外の都市及び道府県において、○○に~~の不都合が生じており、その解消にどうしても必要であるから、弁護士は不足している。」と、具体的、論理的に論じて頂きたいと思います。どんな「実際の事例」を見たのかも明らかにせず、いきなり弁護士の数は不足していると断定するのは、単なる結論の押しつけではないでしょうか。

 ACCJは「実際の事例」を見たといいますが、本当に見たのでしょうか。見たのであれば、東京以外の都市及び道府県における実際の事例を示していただきたく思います。仮にACCJが東京・大阪以外で弁護士に依頼しようとしたときに困ったという事実があったとしても、根拠がそれだけの場合は、特殊な一部の事実だけで、どうして、一般的に弁護士が不足していると断言できるのか不思議です。仮にACCJが自らの体験だけで、東京・大阪以外は弁護士不足であると主張しているのであれば、沢山のアリが歩いているのを見つけ、一匹~二匹を捕まえてみたら偶然足が一本取れて5本だったので、ここを歩いているアリは新種で足が5本しかないアリである、と断定するようなものでしょう。

 また、何を根拠に弁護士数が不足だと断定したのでしょうか。

 弁護士が不足しているかどうかは、基本的には弁護士を利用する側から(場合により採用する側も考慮して)判断されるべき事柄でしょう。具体的には日本人・日本企業・日本在住の方の判断すべきことです。しかし、日本企業は(あれだけマスコミを通じて弁護士を増やせと言っていたのに)弁護士の採用を大幅に増やすことはしていません。司法統計を見ればわかりますが、一過性の過払い訴訟を除く民事事件の訴訟事件は明らかに減少傾向にあります。

 より分かりやすく言えば、2007年から2008年までの1年で弁護士数は約2000人増加しました。これは県単位で最も人数が少ない部類に属する島根・鳥取などの弁護士会の会員数が約50名ですから、その40倍です。1年で2000人増加するということは、今の大きさの島根県弁護士会が、毎年毎年、新しく40個ずつできていくのと同じです。

 新司法試験合格者が現状のままだとしても、毎年2000名近い弁護士が世に出てくることになります。当然この2000名の新人弁護士も弁護士として食っていかなければなりませんから、単純に計算すれば、島根県の弁護士全員が、1年間で処理している事件の40倍(つまり島根県全体の事件の40年分に相当するだけ)の事件の増加が毎年毎年必要になってきます。

 これから人口減少に向かう日本において、どう考えても、弁護士が必要になる事件が、それだけのペースで増加するとは思えません。

 そうなると、今までは事件にしていなかった案件について弁護士が、訴訟にした方が良いと勧めることがおきても不思議ではありません。これは、訴訟社会への第一歩です。

 また、仮に、東京・大阪以外の都市及び道府県において、数多くの地方の法律事務所が、あふれかえる事件を処理するために新人弁護士を競って採用しようとしているが、新人弁護士の数が圧倒的に不足して採用できずに困っている、などという事情があるのであれば、ACCJの言い分も理解できます。

 しかし、各地方弁護士会からこれ以上弁護士人口を増やしてどうするのだという意見が相次いでいるのです。実際に法律事務所に就職できない新人弁護士も相当数出てきています。この事実と、ACCJが根拠も実例も示さずに述べる「実際の事例」と、いずれがより真実に近いのかは明白だと思います。

 このような現状があるのに、どうしてACCJが「実際の事例を見ると、弁護士は不足している」と言い張るのか私には理解ができません。

(続く)

映画 「ボルト」

 ボルトはスーパードッグである。白く美しい身体には、スーパードッグの証である稲妻の紋章が浮かび上がっている。鋭い眼光は鉄をも溶かし、スーパーボイスで敵の軍隊を吹き飛ばす。ボルトは、大好きな飼い主のペニーと一緒に、ペニーの父親をさらった「緑の目の男」と戦い続けている。
・・・・・・・という自らが出演するハリウッドのTVドラマを、真実だと信じ込んで育った犬の物語が、この映画「ボルト」だ。

 ボルトの知っている世界はドラマのセットの中だけであり、ボルトが自らをスーパードッグだと信じ込んでいるため、主演のボルトによる迫真の演技(ボルトにとっては演技ではなく現実)が視聴者を釘付けにしている、人気番組だった。

 ある日、飼い主のペニーがさらわれたと誤解したボルトは、セットを飛び出してしまい、宅配便で、ニューヨークまで送られてしまう。
 ボルトは、なんとかして愛するペニーの下へ帰ろうとするが、人間に辛い目に遭わされた過去を持つ猫のミトンズは、人間なんて信じるな、ペニーは演技をしているだけなのだとボルトを諭すことになる。途中でハムスターのライノも合流し、ハリウッドを目指しての3匹のアメリカ横断珍道中がはじまる。一方、ボルトが失踪しても高視聴率ドラマを作り続けたい会社側は、ボルトそっくりの犬を連れてきてペニーと競演させようと目論んでいた・・・・・。

 まず、誰もが映画冒頭のボルトの大活躍に目を奪われるだろう。素晴らしいCGアニメーションが息つく暇もなく展開される。ものすごいクオリティであり、これなら、犬が自分がスーパードッグであると信じてもおかしくないや、と映像の力だけで説得されてしまう。

 まだ見てない方のために詳しい内容はこれ以上触れないが、ボルトは道中、自分がスーパードッグではないことに気付いていく。しかし、全てが仕組まれたものだと分かっても、ボルトはペニーと自分の絆だけは嘘ではないと信じて、ハリウッドを目指す。このあたりが私のような犬好きにはたまらない。もちろん、斜に構えていながらボルトに現実を教えていく猫のミトンズ、いつも前向きなハムスターのライノ、いずれも魅力的であり、猫好き・ハムスター好きの方でも十二分に楽しめる映画であることは間違いないと思う。

 だが、私には、ボルトが単なる子供向けの映画に止まらず、大人に対しても何かを伝えようとしているようにも思われた。

 上手く言えそうにもないので恐縮なのだが、私はこんなことを考えた。

 私達は、生まれてから赤ん坊の時代、幼少の時代は、普通、親に守られて育つ。そこでは、歩いただけで誉められ、笑っただけで誉められる、泣けば面倒を見てもらえる、いわば万能の時代である。逆に言えば自分は家庭の中で王様の扱いを受けて育つと言っても良い。それが、幼稚園(保育園)からはじまる集団生活の中で次第に自分は王様などではなく、みなと同じ一人の人間であることに気付いていく。

 人は人であるというだけで価値があるが、それは自分だけに価値があるのではなく、相手も同じであり、全ての人に価値がある。そして、社会の中では、自分の価値だけが大事にされなければならないものではないし、仮に自分が今ここで死んでも、世界は何事もなかったように動いていくのだ、ということに、大人になる頃にようやく気付く。

 人間として個々に不可侵の価値がありながら、社会の中ではあくまで社会の一員にすぎないという、矛盾をはらんだ存在が人間である、ということに気付いていくのが、大人になるということの一つではないかと私は思う。

 ところが、現実はどうだろうか。みんなは俺を評価してくれない、私の実力はこんなものではない、もっとみんな(社会)は僕を大事にしてくれないとおかしい、自分は絶対正しい、世間が間違っている、などと自分の価値だけに着目した視点だけを声高に述べる大人が多すぎるのではないだろうか。そのような大人は、自分をスーパードッグだと勘違いしていたときのボルトと同じである。

 確かに、自分に不可侵の価値がありながら、社会の中では自分だけが大事にされなければならないというわけではない、と自覚することは、なかなか大変であるし、私自身も自覚できていると断言まではできない。自らがスーパードッグではないことを自覚していくボルトのように、自覚に至る過程で自らの価値を見失いかねない危機にも遭遇する人もいるだろう。けれども、苦しくても自らの個としての存在・社会の一員としての存在の、双方を自覚をしていかないと、人間社会が成り立つはずもない。

 ただ、その苦しい大人への道の途中にあって、自分の価値に疑問を抱く場面に遭遇しても、本当に信ずべき絆があるのだ、その信ずべき絆を信じて進めばよいのだ、ということを「ボルト」は表現したかったのではないだろうか。

 私は、吹き替え・3D版を見たが、吹き替え版でも違和感を感じなかった。特にミトンズ役の江角まき子は、ぴったりはまっていたように思う。3D版も少しお値段は高くなるが、現在の3D映画のすごさを味わうことができるので、3D眼鏡に抵抗がなければ、一度体験されても損ではないと思う。

 是非映画館で、ご覧になることをお薦めします。