正解のない課題

 私は、関西学院大学の法学部と、大学院法学研究科で非常勤講師を勤めさせていただいている。

 法学部では司法実践演習という科目名で演習を担当している。個人的趣味もあるのだが、動物(ペット)と法律の関係などを題材に使って、演習を行っている。

 この司法実践演習では、出席して議論してもらうのが主眼なので、出席点がメインとなるが、それでは点数が足りない人の救済の意味も込めて、レポート課題を毎年課している。

 課題内容は、最高裁判例解説に掲載されている、ある判例について書かれた最高裁調査官の解説内容に対して、貴方なりに批判的に論評せよ、というものであり、10年以上前から同じ形式で課題にしている。

 ご存じのとおり、最高裁調査官は、裁判官の中でも相当エリートに属する優秀な方が務めるものとされており、裁判官出身の最高裁判事にはその経験者が多いといわれている。

 そのような切れ者の調査官が書いた解説に対して、一介の学生に批判させるなんて、いわゆる無茶ぶりのような課題じゃないか、と思われる方も多いだろう。

 もちろん、「貴方なりに」と記載してあげていることからわかるように、それぞれの学生さんが、自分なりにきちんと筋道立てて論評していればそれでよいのであって、正解は存在しない。

 正解の存在しない課題に意味があるのか?と考える人もいるかもしれないが、私には、正解などなくても、学生さんに敢えて最高裁調査官の解説について立ち向かってもらうことに、狙いがある。

 相手の権威や肩書にとらわれることなく、自分で考え、自分で判断してほしいという狙い(願い)である。

 相手が高名な学者であるとか、政府関係の有識者であるなど、何らかの権威を持つ人(いわゆる偉い人)が発言したような場合には、人間は弱いもので、自分で考えることを放棄して、その人の言うことを鵜呑みにする場合がある(多い)のだ。考えることを放棄して他人の言うことに唯々諾々と従っていたのでは、何が正しいのかも分からなくなり、何の是正もできなくなり、大げさに言えば民主主義は崩壊する。

 特にこれからの未来を担う学生さんには、肩書に惑わされることなく、自分自身で考え、自分の内的基準に照らし、是は是、非は非として判断できるようになってもらいたいのだ。

 そもそも、政府の有識者会議だって、私から見ればの話だが、かなりのものが茶番である。最初の人選の場面から、政府の意向を実現する方向の委員が選ばれる傾向にあるのだから、有識者会議の結論などほとんど、政府の意向通りになることは、目に見えている。

 時折、最初の見込みと違って、政府の意向に真っ向から反対する委員が混じってしまう場合もあるようだが、そのような場合でも、安全弁がちゃんとある。 

 多くの委員会では期限が設けられていたり、委員の任期が決められているから、その期限が来ればその委員会は終了したものとして解散させたり、委員の任期が来るまで我慢すればいいのである。そして、ほとんど同じような名称で違う委員会を立ち上げたり、再任する委員から反抗的な委員を外すなどして、政府の意向に沿わない委員を排除してしまえばいいのである。

 法科大学院に関する法務省・文科省の会議などにおいても、法科大学院擁護派がずらりと顔をそろえていて、反対派といえる委員の方は、私の見る限り一人もいないように思う。

 かつて、和田吉弘弁護士(元裁判官・元青山学院大学法科大学院教授)が、法曹養成制度検討会議で明確に法科大学院制度を批判されたが(批判内容は、「緊急提言 法曹養成制度の問題点と解決策」~花伝社)、和田先生は、その後委員として再任されることはなかったはずだ。

 法科大学院を維持する決意を持った人だけで議論すれば、現実には、どれだけ法科大学院に問題があろうと、法科大学院制度維持の結論になるに決まっているではないか。

 そもそも、有識者会議の本来の目的は、政府の意向にエビデンスを提供するためのものではなく、賛成派・反対派も含めて議論を重ね、より良い解決を目指すものではないのか、と私は思うのだが、どうも現実は違うようなのだ。

 私に言わせれば、発足以来20年近くたっても、未だにその教育内容の改善を議論しなければならない法科大学院制度など、失敗の最たるものだと思うし、同じような顔ぶれの委員が雁首揃えて何年も議論しても、まだ改善ができないという有様なのだから、(学者や実務家としての能力はともかく)当該委員たちが少なくとも法曹養成制度の改善という問題に関して無能であることは、既に明らかだと思うのだ。

 例えば、民間の企業で大規模な改革が必要だと主張して、何名かの幹部が鳴り物入りで改革に着手したものの、20年近くたっても成果は出せず、未だにその改革方法について改善すればうまくいく、と言い張って、制度をいじろうとしていても、その言葉を誰が信じてくれるのだ。

 その幹部を全員、さっさと首にして、現実をきちんと把握でき、現実に対して本当に対処できる人間を代わりの幹部に据えるほうが、よほど健全な企業といえるだろう。

 話が少し脱線してしまったが、なぜこのようなお話をブログに書いたのかというと、瀧本哲史氏の「2020年6月30日にまたここで会おう」(星海社新書)を先日読んだからである。

 私は、瀧本氏ほど優秀明晰な頭脳はないし、明確に若者に伝える術も持たない。もちろん瀧本氏と何の面識も持っていないが、大変僭越な話なのだが、私がゼミの学生さんに伝えたいと考えていたことは、瀧本氏が新書で熱く語っておられる内容と一部重なる部分があるようにも感じられた。

 なお瀧本氏は、昨年8月に病没されたとのことである。

 若い方だけでなく、教育に携わる方、若い人と話す機会が多い方には、是非一読されるようお勧めする新書である。

 私も今年の6月30日には、もう一度、上記の新書を読み直してみようと思っている。

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