法曹養成制度再検討~その4

(続きです。)

(4)設立手続きおよび第三者評価(適格認定)

ア 法科大学院の設置状況および入学定員の状況

理念~法科大学院の設置は、関係者の自発的創意を基本としつつ、設置基準を満たしたものを認可することとし、広く参入を認める仕組みとすべきである。

現状~74の法科大学院が設置されている。法科大学院の定員は、5825人であったが、H20・21年は5765人、H22年度定員は4909人入学者4122人である。

※坂野の分析

 当初は、極論で東大・京大のみ設置、多くとも10~20校程度の設置が想定されていた、という話を聞いたことがあるが、若者の人口が減少する中、法科大学院を持たない法学部では意味がないと思われるのではないか(自分の大学を志望する学生が減少する)、と危惧した各大学から異論が出て、広く認可を認める方向で決着を見たようである。

 その結果、74校もの法科大学院が乱立した。一説によると公明党が創価学会の関連する創価大学に法科大学院を認可させるために認可基準を大幅に緩和するよう横車を押したとの説もあるそうだが、少なくとも、これだけ大量に法科大学院を認可した時点で、合格率7割は夢のまた夢となり、当初の法科大学院構想の破綻は決定的になった。この時点で近い将来破綻することが明らかであった法科大学院制度を強行した法科大学院側・文科省(そして盲目的に後押ししたマスコミ)には、大きな責任があるというべきである。

 また、定員が4909名でありながら入学者数が4122名であるということは、(問題だらけの)法科大学院から見ても、法曹を志願している者ではあるが、その基礎能力から見てとても法曹としてふさわしい能力を身につけさせることができないと判断した結果とも考えられ、法曹志願者の質の低下を裏付ける一資料と考えることもできるだろう。

さらに、どんなに野球の指導者が素晴らしく、指導設備が整っていたとしても、毎年100名以上の大リーガーにふさわしい選手を育成することは日本国内では不可能だろう。それと同じで、仮に法科大学院教育が素晴らしくても、よほど素質のある人間が争って応募しない限り毎年2000人以上の人間に法曹にふさわしい実力を身につけさせることは極めて困難であろうと思われる。先日書いたように、多くの法科大学院で、教員に適切な実力がないとの事実が明らかな現状ではなおさらである。

(4)認証評価の実施状況

理念~審議会意見書によれば、入学者選抜の公平性、開放性、多様性や法曹養成機関としての教育水準、成績評価・修了認定の厳格性を確保するため、適切な機構を設けて、第三者評価を継続的に実施すべき。

現実~第三者評価期間は3つ存在。平成22年までに全74校が審査を受け、適格認定は50校(不適格は24校)。文科省は平成22年3月に認証評価の細目について定める省令を改正。

※坂野の分析

 不適格校であれば、そもそも法科大学院として失格ということになるのなら、その卒業生が新司法試験を受験できるということは、プロセスによる教育という理念から考えれば明らかにおかしい。そもそも事後的審査で不適格になる法科大学院が認可されていること自体、文科省に大きな責任がある。

 H22年改正の細目は見ていないが、少なくとも日弁連法務研究財団の適格認定は極めて形式的なものであり、法科大学院に適切な教育能力があるかという点からの配慮は乏しいように思われる。実務家を養成する法科大学院の教員のうち、実務家教員以外の教員のうち、90%以上は司法試験に合格したこともなければ、司法修習を受けたこともないと聞いており、どのレベルまでの教育(知識・応用能力)が法曹に必要なのかという最も肝心な点ですら、何も知らずに教育を行っていると思われる。

(続く)

※記載内容については、全て執筆者の個人的な見解に基づくものであって、当事務所の統一した見解・意見ではありません

法曹養成制度再検討~その3

(前回の続きです。)

(3)教員組織

 ア 理念

   法科大学院での教員資格に関する基準は、教育実績や教育能力、実務家としての能力・経験を大幅に加味したものにすべき。教育能力、教育意欲および教育実績を重視した採用が必要。設置基準は専攻分野について、教育上又は研究上の業績、高度の技術・技能又は特に優れた知識および経験を有するものであり、かつ高度の教育上の指導能力があると認められる専任教員を置かなければならない、とされている。

 イ 現状

   多くの法科大学院で法律基本科目や展開・先端科目の専任教員の確保が困難。小規模法科大学院(特に地方)では、単独で質の高い教員が十分確保できず教育水準の継続的・安定的な保証について懸念が生じている。

※ 坂野の分析

 法科大学院導入の際に、マスコミは熱に浮かされたように、何の根拠もなく、こぞって質の高い法曹を生み出す制度として法科大学院を紹介し、法科大学院側も法曹の質を維持することができると豪語していました。

 しかし、法科大学院を積極的に推進・擁護してきた立場にある文科省下の中央教育審議会(私の記憶では、日本の知的水準を大幅に低下させた「ゆとり教育」導入にも加担していた審議会)にある、法科大学院特別委員会の報告によってすらも、実際には多くの法科大学院で、法律基本科目でも、展開・先端科目でも専任教員の確保が困難だそうです。プロセスによる教育を重視したはずの法科大学院で、教育できる実力のある教員が確保できない状況では、法曹の質が維持できるはずがありません。ごく一部の特別に優秀な方を除けば、教える方に実力がないにもかかわらず、教え子だけ実力がつくはずがないからです。

 また、法律基本科目と展開・先端科目と書かれれば、その部分だけ教員が不足しているように思われますが、何のことはありません、全ての教育分野で(能力のある)専任教員が不足していることを言い換えているだけに過ぎません。はっきり言えば、多くの法科大学院では、全ての教育分野において、きちんとした実力と教育能力を持つ教員を確保できていないということです。

 特に小規模・地方の法科大学院では教育水準すら維持できない状況にあるということですから、法科大学院を地方に作れば地域偏在が解消するという考え(法科大学院制度のメリットとしてあげる方もおられたはずです~私はもともと夢物語だと思っていましたが)は、現実的にも実現困難だということです。

 能力のある専任教員が限られている以上、法科大学院制度の失敗を認めて法科大学院を廃止するか、法科大学院を自体を3分の1から5分の1程度まで大幅に削減するしか、法科大学院による法曹養成制度を維持することは困難であるはずです。

 法科大学院側は、制度の手直しや定員削減で対応できると主張しているようですが、そもそも、制度設計の時点で過ちを犯した方が、どんなに次は大丈夫だと言い張っても信用できるはずがありません。また、法科大学院側はどんなに教育が駄目で、(全体として)質の高い法曹を生み出すことができなくても、(投下した資金を回収できずに)被害を被るのは法科大学院制度が廃止・縮小された場合に限られます。法曹養成の結果に問題があっても法科大学院側が被害を受けるわけではありません。弊害を被るのは、国民全体なのです。そのような利害関係にある法科大学院側の方に、法科大学院の評価について適切な判断をするよう求めることは、それ自体無理でしょう。 

 仮に、質の高い法曹を生み出すための方法として、プロセスによる教育という理想が正しいとしても、現実にその制度が機能していない以上、弊害の方が大きく、その弊害による傷口が大きくならないうちに改めるべきです。

(続く)

法曹養成制度再検討~その2

(前回の続き)

第3 法科大学院教育の問題点と改善方策の選択肢

 1 審議会意見等に示された理念及び現状

 (3)教育内容及び教育方法(厳格な成績評価及び修了認定)

 理念~法科大学院では法理論教育を中心としつつ実務教育の導入部分をも併せて実施。実務との架橋を強く意識した教育を行うべき。少人数教育を基本とし、双方向的・多方向的で密度の濃いものとすべき。法曹となるべき資質・意欲を持つ者が入学し、厳格な成績評価及び修了認定が行われることを不可欠の前提とした上で相当程度のものが合格できるよう充実した教育を行うべき。関連法規には・・・将来の法曹としての実務に必要な学識及びその応用能力・・・・並びに法律に関する実務の基礎的素養を涵養する為の理論的且つ実践的な教育を体系的に実施し、厳格な成績評価及び修了認定を行うこととされている。

 現状~

 ア 法科大学院標準終了年限での修了認定率は80.6~78.6%。

 イ 平成17年度修了者の7割以上、平成18年度修了者の5割以上は最終的に新司法試験に合格。

 ウ 法科大学院間の合格率は相当な開きがあり、平均合格率以下の法科大学院が57校、平均合格率の半分にも満たない法科大学院が27校存在。累積の最終合格率も全体の累積最終合格率の半分にも満たない法科大学院が少なくない(H18年度17校、H19年度26校)。

 エ 新司法試験に出願し法科大学院を修了していながら実際に受験しないものの数が年々増加(H18年に1.6%→平成22年に25.2%に)。

 オ 法科大学院特別委員会が法科大学院26校について一部科目の定期試験問題と答案を確認したところ、「可」とされた、答案の中に「不可」相当のものが少なからず見られ、試験問題も学習到達度を測るのに適切か疑問を感じさせるものが見られた。

※坂野の分析

 ア→標準終了年限によるものですから、留年なども含めると、終了率はもっと高くなるでしょう。厳格な成績評価及び修了認定がなされているのか、終了率からは大いに疑問です。

 イ→H17年度修了者は終了後4年経過、H18年度修了者は終了後3年経過しているので、このような数字を出すことに意味があるのかということ自体疑問があります。法科大学院卒業後3~4年も新司法試験向けに勉強した場合、おそらく予備校に通っているでしょうから、果たして受験技術に偏重しないという法科大学院の理念に沿った修了者といえるのか、大いに疑わしいことになるでしょうね。

 ウ→つまり、法科大学院74校中、77%の法科大学院が平均合格率を下回る修了生しか出せないし、36%の法科大学院は平均合格率の半分にも届かないということです。平均合格「率」ですから、新司法試験の合格者の数が思ったより増えないことは全く関係ありません。うちに来たら法曹になる教育をきちんとするよという看板を掲げていながら、その実力がない法科大学院が極めて多いことが分かります。こんな商売やってたら、詐欺的商法と言われて、提訴されても仕方がないように思います。

 エ→法科大学院を修了しながら新司法試験を受験しない人が、なんと4分の1以上です。おそらく三振制度があるので実力がつくまで受け控えをしているのでしょう。しかし、そもそも法科大学院は厳格な成績評価及び修了認定をしているはずなので、法曹になる(新司法試験に合格できる)実力がないのであれば、卒業(修了)させない制度ではなかったのでしょうか。だからこそ、法科大学院制度を導入しても法曹の質を落とさないと豪語していたのではなかったのでしょうか。法科大学院が法曹になる実力があると認定しながら、その本人が実力不足を感じて受け控えるというのでは、どちらが正確な評価をしているのかわかりゃしません。再度言いますが、厳格な成績評価及び修了認定を行うという以上、法科大学院が法曹となるのに十分な資質と応用能力を身につけさせたと、自信を持っていえる者しか卒業させないのが本来の理念ではなかったのでしょうか。法科大学院の厳格な成績評価及び修了認定が、殆ど内容のない評価と認定に堕していることは、この事実からも推測できます。

 オ→私がエで述べたことを裏付ける、とんでもない実態が指摘されています。「不可」相当の答案を「可」としていること自体、法科大学院は法曹の質を落とさずに新しい法曹を生み出すという、国民との約束に対する裏切りですし、「可」をもらった法科大学院生にも誤解を与えます。まさかとは思いますが、「不可」答案を敢えて「可」と評価して進級させる理由は、翌年の学費を支払わせるために、落第させるべき学生を敢えて落第させていないのではないか、とすら思えてきます。また、試験問題自体不適切という例もあるようです。教員が出す試験問題自体が不適切な問題だとすれば、きちんとした出題能力すらない教員が、堂々と法科大学院で教鞭を執っている事実があるということです。法科大学院の教員がその体たらくでは、学生は一体誰を頼って勉強すればいいのでしょうか。法科大学院を信頼して、学費を納め、自らの一生を掛けて懸命に努力している学生に対し失礼であることはもちろん、そのような教育を施しながら法曹の質を維持できると国民に言い放つ法科大学院は、あまりにも無責任な存在になりつつあるのではないでしょうか。

(続く)

★あまりの内容に、私が片寄った引用をしているとお思いになる方もおられるかもしれません。

 しかし、昨日のリンク先PDFファイルをご覧になれば分かりますが、「現状」までは、法科大学院関係者を含む法曹養成制度ワーキングチームが、現実に存在する法科大学院の実情を、調査の上まとめたものであり、私が殊更に法科大学院に不利な内容を引用したわけではありません。是非、昨日の私のブログに記載したリンク先PDFファイルをご覧になって頂ければと思います。

法曹養成制度再検討~その1

 法務省の法曹養成制度に関する検討ワーキングチームが、検討結果のとりまとめをしています。

 ワーキングチームは、加藤公一法務副大臣、鈴木寛文科副大臣、林眞琴法務省官房人事課長、深山拓也法務省官房司法法制部長、德永保文科省高等教育局長、菅野雅之最高裁事務総局審議官、片岡寛東京地検総務部長、丸島俊介日弁連嘱託、井上正仁東大大学院法学政治学研究科教授、鎌田薫早稲田大学大学院法務研究科長、中村哲司法務大臣政務官、高井美穂文科大臣政務官らで、構成されていたようです。

 この検討結果のとりまとめは、今年7月6日に公表されたものでありますが、まだ読まれていない方のために、以下にPDFファイルへのリンクを貼っておきます。

http://www.moj.go.jp/content/000050026.pdf

 このとりまとめを読むと、意見の分かれた部分については、両論併記になっておりますので、結構面白い事実が沢山書かれています。

 司法制度改革審議会意見の提言・理念に現状が沿っているかどうかという観点から検討されているようです。

 そもそも司法制度に旗を振ってきた法務省・文科省のお役人と法曹三者、法科大学院関連者の集合ですから「司法制度改革万歳」のとりまとめになるかと思いきや、司法制度改革の問題点、法科大学院の問題点もそこそこ指摘されています。

 この人選にしてこの検討結果という事実は、裏を返せば相当大きな問題が今回の司法改革に於いて生じていることを意味すると思われます。PDFファイルはかなり大部のものなので、要点を私なりにまとめてみたいと思います。

第1 はじめに

→司法制度改革審議会意見の提言と新しい法曹養成制度の歴史の概観

第2 検討の基本的視点

→基本的には現状が司法制度改革審議会意見の提言に沿うものになっているかの観点で、問題点・論点を検討。意見が分かれた場合は両論併記

第3 法科大学院教育の問題点等と改善方策の選択肢

1 審議会検討に示された理念及び現状

(1) 入学者選抜

ア 入学者の多様性の確保

  理念~多様なバックグラウンドを有する人材を多数法曹界へ。法科大学院の理念も入学者の多様性の確保に配慮した公平な入学者選抜が必要

  現実~法科大学院適性試験志願者数は一貫して減少(H16とH22を比較すれば志願者は三分の一に)。非法学部出身者及び社会人の割合も年々減少傾向(H16とH22を比較すれば社会人の入学は48.4%→24.1%に半減)

 ※坂野の分析→志願者が減れば優秀な人材が集まらないことは明白。優秀な人材の法曹界離れが加速中?また多彩な人材を法曹界へという目的も既に破綻。H18~H20の新司法試験では非法学部率は約11~23%、平成15~19年度の旧司法試験でも非法学部率は約15~23%(ちょっと古い資料しか見当たらず)なので、この資料から見る限り、新司法試験になったから多彩な人材が確保出来るようになっているとは到底言えない。

イ (法科大学院)入学者の適正の適格な評価

  理念~法曹となるべき資質と意欲を持つ者を入学させることを不可欠の前提とする。入学者の適正の適格な評価に配慮して法科大学院は入学者の選抜を行うこと。

  現実~相応の競争原理が働き、適正な入学者選抜が確保できると考えられる最低限の競争倍率2倍に満たない法科大学院が74校中、42校(H21)、40校(H22)、H22年度には競争倍率1.06倍という法科大学院まで存在。

 ※坂野の分析→法科大学院入学時点で競争が働かないのだから、一部超有名校を除き、どこまで優秀な人材を法科大学院が(全体として)確保できているのか極めて疑問。現在では、優秀者には授業料無料等の特典を与えるなどして、優秀な受験生をかき集めようとしている法科大学院もあると聞いており、いかに学生を優秀な卒業生に育てるかという法科大学院の本分よりも、以下に優秀な学生を集めて合格率を上げるかに、重点が移りつつあるように思われる。新司法試験合格者も、上位校に集中する傾向が顕著であり、法科大学院のランク化が進展中。

(続く)

日経新聞~「人間発見」

 昨日(2001.10.4)より、日経新聞夕刊の連載「人間発見」で、久保利英明弁護士の連載が始まった。

 久保利弁護士は、私はお会いしたことはないが、派手なネクタイと恰幅のある体格でおそらく一度見たら忘れられない先生だろうと想像している。大宮法科大学院の創設にも参加され相当の私財を提供されたそうだ。

 副題として「法曹フロンティアを探して」と書かれていたので、司法改革礼賛の記事が連載されるのかと思っていたが、どうやら、久保利先生の一代記が連載されるようだ。

 その久保利先生がいう。

 「多様な人材を法曹界へ送り込むという法科大学院創設の理念は正しかったといまでも確信しています。~中略~新制度全体としてはうまく行っていません。~中略~新制度になったことで法曹に挑戦し、その道が開けた人も少なくありません。」

 確かに、新制度になったことで、これまであきらめていた方が法曹に挑戦し法曹になれた方もいただろう。しかし、新制度になったことで、これまで受験できていた人、受験できた可能性があった人が、法曹への途をあきらめざるを得なくなっている面も少なくないのだ。この当たり前の事実を、法科大学院推進論者はいつも無視する。

 これまでの司法試験では、学歴不問、大学を卒業していなくても一次試験に合格すれば、司法試験を受験することが出来た。合格できる実力を身につけるまで何度でも受験できたし、受験するためには受験料だけで事足りた。後は実力さえあれば、合格できた。実際に会社に通いながら苦学して合格された方も何人もおられる。

 しかし、新司法試験は別だ。新司法試験を受験するために(受験資格を得るために)法科大学院を卒業しなくてはならない。法科大学院に入るためには原則として大学を卒業していることが必要だから(一部例外もあるらしいが)、大卒+法科大学院卒でないと、新司法試験すら受験できない。

→学歴が必要

→どんなに優秀で、実力があっても法科大学院という回り道が必要

 この時点で、働きながらの受験は相当困難になる。昼間は会社勤務しながら通うことが出来る法科大学院がどれだけ身近にあるか、考えてみれば当然だろう。

→住んでいる場所に恵まれていないとダメ

→(会社に勤めながらの受験は、ほぼ無理)

 また、法科大学院もボランティアではなく経営があるから当然授業料は必要になる(優秀者は免除になる制度もあるそうだが、そのしわ寄せは普通の学生の負担になる)。大学の学費に加えて、2~3年の法科大学院の学費が必要になる。もちろん、なんにも食べないわけにいかないから、その間の食費だって馬鹿にならない。

→お金がなければ(若しくは借金しなければ)ダメ

 さらに、ひどいのは、法科大学院卒業後5年以内に三回受験して合格できなければ、新司法試験の受験資格を失う三振制度だ。飛び抜けて実力のある人はともかく、ボーダーライン上の実力の受験生であれば、たまたま3回とも不得意分野がでてしまうことだって考え得る。

→運が良くなきゃダメ

 これまで喧伝されてきた新司法試験合格率60~80%が夢物語である以上、現在の法科大学院+新司法試験制度で、本当に優秀且つ多彩な人材が今後も法曹界を目指してくれるのだろうか。現実に法科大学院を目指す人は激減しているが、それでも理念が正しいという理由だけで、この制度が多様で優秀な人材を法曹界に継続して導くことが可能なのだと久保利先生は言うのだろうか。

 ある制度改革を断行した場合、その制度改革を推進した人達は、制度改革によるメリットを強調しがちだ。しかし、その制度改革で20のメリットがあったとしても100のデメリットがあれば、どんなに理念が素晴らしくても、その改革は失敗と言うべきだ。

 20のメリットだけ振りかざして、失敗した改革を維持し続けることは将来に禍根を残すように思えてならない。

NHK ワンダー×ワンダー 「空飛ぶ人間」

 先週土曜日10月2日のNHK番組「ワンダー×ワンダー」は、素晴らしく面白かった。

 副題を「空飛ぶ人間」と題して、ウイングスーツを着て、高さ1000m以上ものフィヨルドの断崖から飛び降り、空を舞うスカイダイバー達や、ジェットエンジンつきの翼を生身の身体に装着して、ドーバー海峡横断に成功した男性(ジェットマンとの異名を持つ男性)の驚異的映像が写し出された。

 私も、小さいころから空が好きな方で、目を悪くしてパイロットになる夢が絶たれたあとも、京都大学体育会のグライダー部でグライダーの操縦訓練で大学時代を過ごしたものだ。今でも、飛行機に乗るときは、窓際に座り、飽きもせず外を眺めることが多い。

 しかし正直言えば、私は軽い高所恐怖症であり、9階にある自分の執務室の大きな窓にはあまり近寄らないし、開閉するときも多分おっかなびっくりでやっているように思う。東京タワーを見学したときも下をのぞける窓には近寄りたくなかった。

 バンジージャンプも、やむにやまれぬ事情で高さ45mの奴を海外で一度だけやったが、販売されていた自分のジャンプの際の記念ビデオは、力一杯へっぴり腰で映っていたため買わなかったし、やっぱり怖かったので、もう2度とやりたくない。

 ただ、矛盾するようだが、飛行機やグライダーで自分が飛んでいるときは、殆ど恐怖心を感じないのだ。グライダーで単独飛行中に、法律でのグライダー練習生(航空法により航空身体検査を経て発行される操縦練習許可証が必要)の許容高度は600mだったのだが、素晴らしい上昇気流に恵まれ、いけるところまで上昇してしまったことがある。後で、グライダーに積んでいた自動記録式の高度計できちんとチェックしてみたら1860mくらいまで上昇していた(もちろん違法でしたが、20年以上も前だし、もうさすがに時効だよね)。

 だから、今回の番組でもウイングスーツで飛行するダイバー達や、ジェットマンをみても、気分良さそうだな、やってみたいな、羨ましいな、という気持ちが強い。

 つまり、私の高所恐怖症は、高いところにじっとしていることが苦手であり、飛行している場合はそうでもない、という結構風変わりな恐怖症のようだ。

 高いところはとにかくダメ、という筋金入りの高所恐怖症の方はともかく、素晴らしい飛行映像が見られる番組だった。

 再放送は、NHK総合で、10月12日午前1:10~1:54(10月11日(月)深夜25:10~25:54)の予定だそうだ。

 深夜ではあるが、見逃された方は是非、ご覧になることをオススメしたい。

太地町イルカ漁への妨害

 報道によると、私の出身地である太地町が行っているイルカ漁の生け簀の網が、先日何カ所も切断され、反捕鯨とおぼしき団体が犯行声明を出しているそうだ。

 これは、れっきとした犯罪行為である。

 何度か言及したと思うが、クジラ類を食べることは食文化の一つだ。イルカとクジラはもちろん同類であり、その大きさによって呼称が変わっているにすぎない。そして、太地町は生活のために捕獲を行っているにすぎないし、もちろん人間の生存のために命を頂いた以上は、十分気をつけて無駄なく利用させて頂くし、感謝の気持ちを忘れていない(太地町には立派なクジラ類の慰霊碑も建立されている)。

 ある国(ある地方)の食文化を否定することは、自らの文化こそが正しい文化であり、自らの価値観に反する文化は劣っているという、極めて傲慢な考えが裏に潜んでいる。反捕鯨を標榜する団体(国)はまずその事実に気付く必要がある。確かに絶滅寸前なら保護の必要性も考慮の余地はあるだろう。しかし、調査によれば鯨は決して減少しておらず、むしろ増加する一方だとの報告もあるそうだ。

 そもそも歴史上、鯨類を絶滅近くまで追い込んだのは鯨油目的の欧米の乱獲であったはずだ。サファリと称して、楽しみのために野生動物を殺して回っていたのは、一体どこの誰なんだ。

 環境保護として動物の生命が大切なのであれば、大量にケージで飼育されるニワトリをなぜ解放しないんだ。フォアグラなんて、無理矢理食物を詰め込まれて脂肪肝にさせられ、その後に殺されてつくられるんだぞ、残酷きわまりないじゃないか。大量の搾乳と食肉のために飼育されている牛をなぜ牧場から解放しないんだ。増えすぎたとして殺戮され、その手を使った孫の手をお土産にして販売されちゃっているカンガルーは、かわいそうじゃないのか。環境保護の一環として、きちんとカンガルー駆除(反捕鯨を標榜するオーストラリアが実施)を妨害したんだろうな。

 そもそも生活の手段として行っている太地町の捕鯨行為を妨害するというのであれば、犯行声明を出した環境保護団体は、生活のための捕鯨であっても辞めないのであれば妨害するということだ。

 極論すれば妨害された漁民の命なんか考えていない、つまり人間の命よりも他の生物の命が大事だという価値観を持っているということになる。しかし、そんなの正しくないだろう。

 他の生物の生命を人間より重視するのであれば、環境保護団体の連中は、何を食べて生きているんだ。ベジタリアンだと言い張ったって、野菜だって果物だって生きている。その生命を頂くことは同じだ。井戸水だって微生物がいるかもしれないぞ。

 まさか自分の食べる動植物の命だけは別格なんて言わないだろうな。それこそ傲慢の極みではないか。

 反捕鯨環境保護団体の中に、考える力が残っている人がいるのなら、少しは考えて欲しい。

 人間を含めた全ての動物は生きていくために、他の動植物の生命を頂かざるを得ないという、ごく当たり前のことを。

 この当たり前のことを何度言っても理解できないというのであれば、もはや宗教にはまっているとしか言いようがない。