新海誠監督 「雲のむこう、約束の場所」 放送決定

 10月13日午後7時から、BS-TBSで、新海誠監督の映画、「雲の向こう、約束の場所」が放送されるという報道を目にした。

 

 映画自体は、2004年公開だったと思うから、もう20年になる。当時思春期だった人たちも30代後半~40代に近づいているだろう。

 私は公開当時この映画を見ておらず、後で、DVDを購入して見た。

 まだご覧になっていない方には、強くお勧めする作品である。

 もう13年も前になるが、私は2011年10月27日に、映画を見た私は、ブログに少し長めの感想記事を投稿している。思い違い等もあるかもしれないが、映画鑑賞直後の新鮮な私の受けた印象を記載しているので、「へぇ~、この映画について、こんな見方をする奴もいるんだなぁ~」程度で読み流してもらえれば幸いである。

 但し、私のブログ記事は、ネタバレを含むので、まだ映画を御覧になっていない方で、気になる方は、映画を見てからお読みになることをお勧めする。

(私のブログ記事~映画の感想・ネタバレあり~ここから)

以下、ネタバレを含む私の感想である。私はDVDを見ただけであり、パンフレットなどの関連書籍等も一切読んでいないので、思い違いや不正確な部分があるかもしれないし、後で考えが変わるかもしれないが、映画を見た者としての現時点での感想として、お許し頂きたい。

最初に、この映画を見終わったときに、まず、ノスタルジックで美しいという印象を受けた。しかしその中で、いくつかの違和感を感じた部分があった。

違和感に関連するのは、

まず、主人公ヒロキの「あの遠い日に、僕たちはかなえられない約束をした。」というモノローグである。

つぎに、冒頭に大人になったヒロキがタクヤと一緒に飛行機(ヴェラシーラ)を作っていた思い出の地を訪れるのだが、そのときヒロキが一人であり、決して楽しそうな表情を浮かべているわけではない、ということ。

サユリが廃駅跡から落下しそうになったときにヒロキが手をさしのべるが、そのときサユリが「以前にも私たち・・・・」と語ること、

ユニオンの塔まで飛行する前日の眠りで、夢の中の教室で再会したサユリに対して、ヒロキが帰ろうとする際に、「おやすみ」と声をかけること、

そして、ユニオンの塔まで飛行し、長い眠りから覚めたサユリが、夢の中でヒロキ君と呼んでいたにも関わらず、目覚めたときにヒロキに対して藤沢君と呼びかけること。

彼女はいつも何かをなくす予感があるといっていた、というモノローグ、

等である。

「雲のむこう、約束の場所」という映画の題名から考える限り、ヒロキのモノローグで言うところの「約束」とは、タクヤと一緒に作った飛行機ヴェラシーラで、サユリをユニオンの塔まで連れて行くことと解釈するのは素直かもしれない。しかし、ヒロキは実際にはタクヤの協力を得てヴェラシーラを飛ばし、ユニオンの塔までサユリを連れて行きサユリの長い眠りを覚まさせているのである。

つまり、上記の意味での約束であるならば、約束はかなえられているのだ。

だが、ヒロキの「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というモノローグは、その経験の後において語られている。

どこか引っかかる。

確かに、ヒロキとタクヤとサユリは3人で、一緒にユニオンの塔まで飛ぼうと中学生の時に約束をしている。そして、その約束はかなえられた(3人一緒という意味では約束は叶っていないが、元もとヴェラシーラは2人乗りなのでこの点は考えない。)。しかも「かなえられない約束」というモノローグは、あくまでヒロキ一人の発言でしかない。もし3人で交わした約束がかなえられていないのなら、タクヤもサユリも同じ言葉を述べていてもおかしくはない。だがそのような場面は見あたらない。

おそらく別の約束があったのではないか、そういう視点で、この映画を見てみると、ヒロキがサユリともう一カ所約束をかわしていると思われる場面がある。

サユリのいた病室で、夢を通じて惹かれあい、求め合っていたヒロキとサユリが、夢の中で再会するシーン(お互いが「ずっと・ずっと探していた・・・」と話すシーン)の続きに、ヒロキが「(正確ではないかもしれないが)これからは、ずっと一緒にいてサユリを守るよ、約束する。」という言葉を交わす場面があるのだ。その場面のあと、ユニオンの塔の活動が活発化して沈静化するシーンが描かれるが、その直後にもう一度「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というヒロキのモノローグが入る。

ユニオンの塔まで飛んだ後でも、なお、残った「かなえられない約束」という点から考えると、ヒロキのいう「かなえられない約束」とは、「これからずっと(一緒にいて)サユリを守る」という約束と考えるほうがよさそうだ。

ヒロキとサユリの約束であれば、なぜ、サユリがその約束を語らないのか。それは、夢から覚め、現実に戻ることと引き替えに、サユリは夢の中での記憶を全て失ってしまったからだ。サユリが夢の中で、その存在を感じ、求め続けていた、ヒロキへの思慕の感情、サユリはそれを目覚めるとなくしてしまうことに気づき、目覚めの直前、必死で祈る。「この気持ちをヒロキ君に伝えられたら他には、もう、何もいりません。」とまで祈るのだ。

しかし、現実に目覚めたときに、夢の中で育み続けてきたヒロキへの想いは、無残にも消え去ってしまう。だからこそ、目覚めたときに真っ先にヒロキ君と呼びかけておかしくないサユリが、藤沢君、と若干遠慮がちな呼びかけになってしまっているのではないだろうか。

確かに、サユリは目覚めた後、ヒロキに取りすがって泣く。しかしそれは、決して夢から覚めたうれしさや、夢の中で求めていたヒロキに再会できたうれしさの涙ではないだろう。夢の中で育み続けてきたヒロキとサユリの想いについて、サユリにはその想いがかつてあったことすら全く記憶から失われてしまったのだ。サユリは、もうヒロキとの夢の中であるが故に純粋に結晶化した想い自体の存在すら、忘れてしまったのだ。このときのサユリの涙は、なにか分からないが、極めて大事な何かをなくしてしまった、というサユリの漠然とした巨大な喪失感を感じているからこその涙だったのではなかろうか。

一方ヒロキにとっての現実は極めて残酷だ。サユリとの夢の中での邂逅、惹かれあい、求め合った時間、その感覚は、夢の中でのものであるというその純粋さ故に、全てヒロキの記憶に鮮明に残っている。しかし、現実に戻ったサユリの中では既にその記憶は跡形もないのだ。ヒロキはサユリが目覚めた直後、「何か大事なことを伝えなきゃいけないのに、忘れちゃった・・・・」と泣くサユリに対して、「大丈夫だよ、もう目が覚めたんだから」となぐさめる。

しかし、現実はそうではなかった。もしサユリが、夢の中でヒロキと2人で育んだ純粋な思いを覚えていてその想いが実現したのなら、ヒロキが約束通りサユリをずっと守っていられたのなら、冒頭のシーンでヒロキとサユリは二人で思い出の場所にやって来ていてしかるべきだ。

だからこそ、冒頭にヒロキは「現実は何度でも僕の期待を裏切る」と語っているのではないか。

「かなえられない約束」をした日が「あの遠い日」であるというのも、こう考えれば頷ける。一緒に約束を交わしたサユリが、そのときの記憶を失った以上、もはや、サユリと約束を交わした日は、ヒロキだけに残された遠い遠い記憶の中にしかないのだから。

このままの時間がずっと続いていくように、なんの疑いもなく感じられた思春期。この痛いほど純粋で壊れやすい思春期の記憶を新海誠監督は、ついにかなえられることのなかった、ヒロキとサユリとの第2の約束になぞらえたように思えてならない。サユリは、夢の中のあまりにも純粋であったヒロキとの心の交流(思春期の記憶)を失い、巨大な喪失感と引き替えに現実に目覚め、大人へと成長していく。

現実に目覚めることによって、大人として現実に適合していかなければならないときに、無残に失われ、封じ込められていく、あまりにも儚い思春期の記憶。

どこか切なく、ノスタルジックな、(過剰ともいえる)映像の美しさも、この人生の宝物のような思春期の記憶を表現するためだと考えれば納得がいく。

ここまで考えたとき、私は、サユリが、目覚めてからヒロキが思い出の場所を訪れるまでの間に、死んでいてくれればいいのにとさえ、思ってしまった。

仮に、サユリが死んでしまったのであれば、ヒロキも納得がいくかもしれない。あの美しい思春期の(夢の)記憶を一人でヒロキが胸に抱えたまま、しかしサユリが別の人と生き続けていたとしたら、あまりにもヒロキにとって、つらいかもしれないと思ったからだ。

だがおそらく、サユリは他の人と別の道を歩み、ヒロキは、この痛みを抱えつつ生き続けているはずだ。

映画の最後に流れる、エンディングソング「きみのこえ」の歌詞はこのようになっているのだから。

「きみのこえ」    作詞新海誠     作・編曲 天門

色あせた青ににじむ 白い雲 遠いあの日のいろ
心の奥の誰にも 隠してる痛み
僕のすべてかけた 言葉もう遠く
なくす日々の中で今も きみは 僕をあたためてる
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 僕のこえ どこかのきみ とどくように
僕は生きてく
日差しに灼けたレールから 響くおと遠く あの日のこえ
あの雲のむこう今でも 約束の場所ある
いつからか孤独 僕を囲み きしむ心
過ぎる時の中できっと 僕はきみをなくしていく
きみの髪 空と雲 とかした世界 秘密に満ちて
きみのこえ やさしい指 風うける肌
こころ強くする
いつまでも こころ震わす きみの背中
願いいただ 僕の歌 どこかのきみ とどきますよう
僕は生きてく
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 生きる場所 違うけれど 優しく強く
僕は生きたい

映像だけではなく、音楽も実に素晴らしい映画である。いろいろ考えていると美しい夕陽がどうしても見たくなる、そんな映画だ。

一度ごらんになることを、強くお勧めする。

(ブログ記事ここまで)

諏訪敦個展「眼窩裏の火事」(府中市美術館)~その6


 第3章「わたしたちはふたたびであう」

 第3章の展示は再び明るい展示室でのものだ。

 大野一男立像は、確か諏訪市美術館の個展でも観たような記憶がある(間違っていたらスミマセン)。ずいぶん前の記憶なのではっきりしないが、11年前に観たときの印象よりも、とにかく凄味が増していた。

 うまく表現できないのがもどかしいが、より死に近づきつつある肉体を保持しながら、彼の存在自体が不死へと肉薄しているような感覚があり、私には、凄味としか言いようがないのである。

 既に故人であるはずの、大野一男が11年の時を経て、更に凄味を増してくるのである。一体、この絵に何が起きているのか、探ることすら怖い気がする。

 三菱地所アルティアムでの個展でも展示されていた、「山本美香」も私の好きな作品の一つだ。亡くなられた後に作成された作品であり、「わたしたちはふたたびであう」というモチーフにも合致する作品なのだろう。

 同様に亡くなられた後に作成され諏訪市美術館で展示されていた「恵里子」もこのモチーフに合う作品のはずだが今回は展示されていない。おそらくご家族が作品と恵里子さんへの思いを大事にされておられるからではないだろうか。
 今回の個展で初めて諏訪先生を知った方々のためにも、「恵里子」の作成にまつわるNHK番組「日曜美術館 記憶に辿り着く絵画 亡き人を描く画家」(2011)について、再放送を期待したいところだ。

 Mimesisは、画集「眼窩裏の火事」(図録を兼ねてだと思われるが、府中市美術館売店で先行販売されていた。一般販売は1月23日から。)の表紙に配置されている作品であり、大きな意味を持つ作品なのだろう。大野一男の舞踏をコピーして作品として表現している川口隆夫に取材をして描かれた作品であること等が、画集「眼窩裏の火事」には記載されているので、参考になると思われる。

 気付くと、会場は相当混雑してきていた。おそらく、15時から開催される諏訪先生と山田五郎さんとのトークショーに参加する人たちも到着してきたからだろう。
 

 私は、個展会場を出て、画集「眼窩裏の火事」と絵葉書(「HARBIN 1945 AUTUMN」と「日本人は樹を植えた」)を購入した後、美術館内のカフェで一休みした。いつものことだが、諏訪先生の作品をたくさん観ると、充実感を覚える反面、なぜかどっと疲れてしまうのである。


 一息ついて、カフェを出たところ、ちょうど、トーク会場に向かおうとしていた諏訪先生とすれ違った。私は、感謝の気持ちを込めて頭を下げて挨拶させて頂き、諏訪先生もこちらを認識して下さったようだった。これもタイミングがぴったりで、もう一口水を飲んでからカフェを出たらすれ違うことは叶わなかったはずである。僥倖に僥倖が重なった感じであり、今年はきっと、良いことがありそうな気がしてきた。
 諏訪先生と一緒にトークショウをすることになっていた、山田五郎さんともすれ違った。TVで見た印象よりも、小柄な方だな・・・と感じた。

 
 帰りは、なぜか駅まで歩きたかった。


 今回の個展を思い出しながら、近くの東府中駅まで歩き、そこから東京方面に向かい、私は京都への帰路についた。

(この項終わり)

(諏訪敦作品集「眼窩裏の火事」美術出版社 4800円(税別)~一般販売は1月23日から)

諏訪敦個展「眼窩裏の火事」(府中市美術館)~その5

 第2章「静物画について」は、第1章「棄民」の明るい展示室と異なり、一転して暗い部屋の中に、各作品が光で浮かび上がる形式での展示であった。一瞬どこから光を当てているのか分からない作品もあったこともさることながら、展示順が複雑で、作品紹介の展示番号順に作品を観ようと思うと、かなり迷うことになる。

 私は、諏訪先生の静物画もかなり好みである。卓越した描写力が存分に生きる分野ではないかとも感じられるからだ。ガラスコップへの外界の写り込み、触れば粘液で糸を引きそうなイカのぬめり具合など、どうやれば絵画でこんな表現が可能なのかと思わされる作品も多い。

 おそらく展示にこだわりのある諏訪先生のことだから、きっと展示番号順にも何らかの意図があるはずだと考え、その静物画の迷宮をさまよいながら、なんとか、一度は展示順に作品を見終えるが、さて、もう一度落ち着いて展示番号順にゆっくり見ようとすると、私は既に迷宮に落ちており、展示番号順での鑑賞を再現できない。
 
 会場は次第に混み合ってきつつあった。そのため、展示室では、だんだんと人の頭越しに作品を観ざるを得なくなりつつあった。

 作品の描写力に心を奪われ、ついつい作品の至近まで顔を近づいて確認しようとして、係員の方に制止される人も相当数いた。


 光で浮かび上がる作品群の迷宮に迷いながらも、私はこの番号順の鑑賞が困難な展示方法それ自体が、諏訪先生の意図なのだろうと思うことにしていた。

 ところで、いくつかの静物画の中に見られる光点などについて、諏訪先生の閃輝暗点の症状をうつしたものだと作品紹介にはあった。今回の個展が「眼窩裏の火事」とされているのも、どうやらこの閃輝暗点の体験を踏まえてのものでもあるようだ。

 実は私も以前、仕事で目を酷使していた頃、何度か閃輝性暗点の症状が出るときがあり、眼科で見てもらったことがある。私が体験したのは、視野の一部が光っているか、視野の一部が飛んでしまい、どうしてもその部分に焦点を合わせられなくなる、文章を読んでいてもその部分だけ光って読めないような状態になる、というような症状である。閃輝性暗点が出たあとには、たいていの場合、結構きつい頭痛が来るので、これがまた辛いのである。

(続く)
 
 

【府中市美術館でもらった個展パンフレットより。左上が閃輝暗点を描き込んだ作品「目の中の火事」】

諏訪敦個展「眼窩裏の火事」(府中市美術館)~その4

 私は、三菱地所アルティアムでの個展では展示されていなかった(と思う)HARBIN 1945 AUTUMNをメインにじっくり見たいとおもっていた。


 
 多くの人々の歴史を見てきたと思われる使い込まれた、しかしよく手入れされている階段には、女性の影とも思われる翳りが投影されており、その翳りからすれば確かに逆光の中に女性は実在しているはずである。それなのに、踊り場には翳りを落とすとは思われない女性の光る幻影しか見出せない。とは言いながらも、幻影の中から美しい右素足だけが現れている(若しくは、今まさに消え去ろうとしている女性のイメージの最後に残った素足の幻影を、私たちは見せられているのかも知れない)。

 かつてこの階段を利用し、通り過ぎていった人々の歴史や多くの想いを、諏訪先生がこのような幻影に代表させる形ですくい取り、表現したのではないか・・・。人々の想いは、昇華され、光る結晶と化しているのだろうか・・・。

 最初に印刷媒体でこの絵を見た際には、小学校の誰もいない校舎に忘れ物をとりに戻り、ふと自分がたった1人で校舎にいることに気付いた感覚、遠くの校庭から他の子どもたちの歓声が遠くに聞こえ、他の子どもたちは確かに実在しているはずなのに、その声や存在に現実感はなく、かえって自分が1人であることを強く感じさせられる感覚、をイメージしていた。

 実際にHARBIN 1945 AUTUMNを見て感じたのは、概ね上記の感覚に近いものであったが、それだけではなかった。

 上手くは言えないが、さらに加えるならば、「現時点において階段で、遠くの子どもたちの声を聞きながら、自分はたった1人なのではないかと感じている」のではなく、「その階段にかつていた自分が、遠くの子どもたちの声を聞きながら感じてしまった、どうしようもない孤独感を、より純化して、今、想起している状態」を表現しているような印象を受けた。
(※あくまで、私個人の印象です。)

(続く)

(個展パンフレットより。右側下段が「HARBIN 1945 AUTUMN」)

諏訪敦個展「眼窩裏の火事」(府中市美術館)~その3

 2階の個展入口で、入場券の半券を切り取る方式だ。再入場の際には、切り取られた後に残った入場券を示せば良いらしい。
 再入場不可の展覧会もあるが、実際に再入場するかどうかはともかく、再入場可の配慮は有り難い。

 個展入口で、展示作品紹介のパンフレット(8頁)をもらう。

 作品紹介によれば、展示は3章に別れている。
 第1章「棄民」、第2章「静物画について」、第3章「わたしたちはふたたびであう」とのタイトルが付されていることが記載されている他、各展示作品の題名、スペック、一部の作品には簡単な説明が作品紹介には記されている。

 会場内は、少し混んでいる。

 あれだけ各メディア等に取り上げられているのだから、これくらいの混み具合だと、まだラッキーなのかもしれない。
 ただ、開館直後の人がいない状況で観覧できた、諏訪市美術館・三菱地所アルティアムでの個展とは異なり、どうしても他の人の姿が視野に入り込むため、一つの作品を自分1人だけで独占してじっくり見るのは、ほぼ無理に近い状況ではある。

 第1部は、病床の父、小さな子供の絵の次に、大作「棄民」に向かおうとすると、展示室の真ん中に吊り下げられたスクリーンに目が止まる。
 2017年の作品集「Blue」で、「HARBIN 1945 WINTER」に至るまでの作品の流れを順を追って掲載していたと思うが、それの動画版であるようだ。次第に変貌していく様相が大きなスクリーンに映し出され、それが繰り返される。肉体が変貌していく経緯に関しては、動画の方が、よりインパクトがある。

 諏訪市美術館・三菱地所アルティアムでの個展でも展示されていた絵画もあったが、改めて、展示順を尊重しつつ一連の流れで観ると、第1章のタイトルに付された「棄民」という文字に含まれる意味を考えさせられる。
 2016年放送の、NHK・ETV特集「忘れられた人々の肖像-画家諏訪敦ד満州難民”を描く」の再放送を期待したいところでもある。

 それにしても、いつもながら作品の描写力には驚かされる。
 例えば、こども(赤ちゃん)の寝姿の作品などは、皮膚の極めて柔らかな感覚、髪の毛が僅かな空気の流れでそよぐ様子、赤ん坊特有の匂いや、その小さな息使い、そして彼が心から安心している心情までもが、視ているこちら側の感覚器官に直接放り込まれてくるような思いがする。絵を見るという、本来であれば、視覚しか刺激されていない状況なのに、そこから視る者の五感を揺さぶってくるのである。

 もともと諏訪先生の描写力については、知っているつもりだし、そこから受けるインパクトについて、自分なりに予測している面もある。しかし、いざ絵の前に立ったとき、受ける印象が、予測以上なのである。

 この点、人というものは勝手な生き物で、自分の中で勝手に期待値を引き上げてしまう存在でもある。
 例えば、初めて入ったうなぎ屋でその美味に感動し、期待に胸を膨らませて再訪したら、思ったほど美味ではなかったという経験をしたことは、多くの方もあるだろう。
 この場合、おそらく店は同じ味のうなぎを提供している。
 しかし、客側が内心で期待値を引き上げてしまうので、その引き上げられた期待値と実際の味を比較して、客は、思ったほど美味ではなかったと判断してしまうのだ。
 だから、期待通りに素晴らしいという場合は、提供者側が客が勝手に引き上げる期待値に見合うだけの進化を遂げている必要があり、その進化した内容を提供している場合に、やっと期待通りとの評価が得られるのである。

 だとしたら、期待以上のインパクトを与えるためには、芸術家は何所まで進化し続けなくてはならないのか。

(続く)

(個展入口でもらえる作品紹介 A4版8頁)

諏訪敦個展「眼窩裏の火事」(府中市美術館)~その2

 新幹線で東京駅、昼食後、中央線に乗り換えて新宿駅、京王線に乗り換えて府中駅まで向かう。
 いつも思うが東京は人が多すぎる。
 幸い、中央線、京王線とも始発であったことから座ることができた。年末に少し腰を痛めてしまった私からすると、座れることはとても有り難い。

 府中駅からはタクシーで、美術館へ向かう。

 府中美術館は、緑が多い公園の中にある。人の密度が下がったことで少しホッとしながら、入口の扉を開ける。

 1階ロビーの案内で、個展のパンフレットをもらい、ロッカーに荷物を預けて出てきたところ、なんと、そのロビーで諏訪先生ご本人が、おそらく本日のトークショーのスタッフと思われる方々と会話されているところをお見かけした。

 初めて本物の諏訪先生を間近で拝見し、お声をかけさせて頂いていいものかどうか迷った。

 この後、トークショウが控えているから諏訪先生もお忙しいだろうし、単なる「ファンです」という理由だけではご迷惑をおかけするに違いない。かといって、憧れの芸術家の先生にご挨拶させて頂きたい気持ちもあるし、何より以前に先生のご好意で版画作品をお譲り頂いた御礼、非売品の入場券のデザインが素晴らしいことをツイッターで呟いていたら気付いて下さり、「坂野さんはコレクターだから」と仰って、分けて下さったことへの御礼等も申し上げたい。

 何よりこんなチャンス、今後の人生で、もう来てくれないだろう。

 チャンスの女神は前髪だけだ(後ろ頭はハゲている)との例え話もある。チャンスが通り過ぎそうになってから捕まえようと思っても、後ろ髪がないので捕まえられない、チャンスは目の前にあるときに捕まえろ、という意味だ。

 既に同級生を何人か癌で亡くしていることから、いつか○○しようと思っていてもその機会に恵まれないこともあるというのが人生だと、薄々分かってもいる。
 要するに、予定は未定、「いつかは、こない(場合が多い)」のである。

 正直、法廷で弁論するときよりも何倍も緊張した。今思えば、腰の痛みもそのときは感じていなかった。

 結局、会話が一段落された瞬間を狙って、ご挨拶をさせて頂くことが出来た。

 私が名乗ると、「あ、坂野さんですか。はじめまして、ですよね。」と言って頂けた。
 私は緊張しすぎており、その後、何をお話ししたのか良く覚えていないが、芸術作品も作品そのものがひときわ輝いているように、映像ではない諏訪先生ご本人からも、やはり、強い輝きのような何かを私は感じていたように思う。


 先生との2ショット写真も撮らせて頂き、その写真は私の宝物となっている。
 
 自分から、話しかけておいてなんなのだが、諏訪先生及び関係者の方々にご迷惑をおかけしていることへの自覚は十二分にあったので、内心、できるだけ早めに切り上げるように努めていたつもりではあった。


 別れ際に、諏訪先生は片手を挙げて挨拶して下さったが、その姿がまた、実に絵になる格好良さだった。

 おそらく、タクシーを1台前後して乗車していたり、信号1個分のずれが生じるなど、ほんの僅かな時間のズレがあっても、この機会は生じなかった。

 トークショウの抽選に外れてしまい、残念ながら諏訪先生ご本人を拝見する機会はないと思って美術館に来ていたのだが、人生には、こんな僥倖も起こりうるのである。
 
 ああ、なんて良い日なんだ。

 精神的には、ほとんど舞い上がった状態で、私は、2階の個展会場へと階段【エスカレーター】を上がる。

(続く)

今回の個展のパンフレット(右側のパンフレットは美術館受付でもらったもの。)

諏訪敦先生と私

諏訪敦個展「眼窩裏の火事」(府中市美術館)~その1

 私は、2011年にNHK・Eテレで放送された、「日曜美術館 記憶に辿りつく絵画 亡き人を描く画家」で特集されていた諏訪敦先生の個人特集を観て衝撃を受け、同年長野県諏訪市美術館で開催された諏訪先生の個展「どうせ何も見えない」を、どうしてもこの目で見なくては!!と感じて見に行って以来、ずっと、諏訪敦先生のファンである。


 諏訪先生の版画作品「どうせなにもみえないver.3」を、諏訪先生のご厚意でお譲り頂ける機会にも恵まれ、その版画は長らく当事務所の私の執務室で、私の仕事の守り神となってくれている。

 その後、成山画廊での個展「美しいだけの国」や銀座の画廊・東京アートフェアでの作品展示、福岡市の三菱地所アルティアムで開催された個展「2011年以降/未完」も現地まで観に行っている。「2011年以降/未完」において、展示されていた「Yorishiro」(今の題名は「依代」とされているようだ。)についての私の拙い感想は、当時のブログにも記載している。

諏訪 敦  個展 2011年以降/未完 – 弁護士坂野真一のブログ (win-law.jp)

 今回、美術館では11年ぶりになる諏訪先生の個展ということで、私は、ずいぶん前から期待していた。

 昨年12月17日からの開催で、できれば早めに拝見したかったのだが、諸般の都合で、新年明けてから拝見することになった。

 ちょうど、1月8日に山田五郎さんとのクロストークイベントがあるとのことだったので、抽選に申し込んだうえで、1月8日に見に行けるように予定を組んだ。当たれば当たったでトークイベントを見れば良いし、どっちにせよ見に行くのだから、外れたら外れたで構わないではないか。

 基本的に東京は人が多すぎて好きではないので、他に東京での用事は入れず、この個展のためだけに東京に行くことにしたのである。

 諏訪先生のツイッターによると、トークイベントの抽選倍率は激戦だったようで、残念ながら私は抽選に外れてしまった。
 しかし、それはそれ。
 諏訪先生の作品を一度に多く観られる好機を逃す手はない。

 また、諏訪先生は、展示方法にもこだわっておられるようで、諏訪市美術館でも照明と音響を合わせて展示空間そのものを演出しておられた記憶があるから、その点についても個人的には少し期待している部分もあった。

 開催初日から1ヶ月も経っていないにもかかわらず、この個展は、各種メディアやSNSで取り上げられ、美術界だけでなく各界に大きな話題と衝撃を与えている様子が伺えた。
 
(続く)

(入場券のデザイン。右側は非売品の招待券。)

映画「ブルーサーマル」

「サーマル?なにそれ?」というのが普通の人の反応であろう。
まあ、それだけマイナーな単語だということは否定しない。

 しかし、私のように学生時代グライダーに乗っていた人間にとっては、「サーマル」という言葉を聞くと、何所までも遠く広がる空と、空を滑るように飛行するグライダーを一瞬で思い浮かべるはずだ。

 簡単に言えば、サーマルとは上昇気流のことである。トンビが羽ばたかずにどんどん上昇していくのを見たことがある人も多いと思うが、風は横に吹くだけではなく、縦(上下)にも吹くのである。トンビはその上昇気流の中を旋回するだけで上に向かって吹く風により、どんどん上昇できるのである。

 エンジンのないピュアグライダーが長時間飛べるのも、トンビと同じ理屈である。サーマルを見つけ、その中で旋回することにより高度を稼ぎ、その高度を利用して目的地へと飛行する。私が京大グライダー部在籍中に、関宿滑空場で練習に使用していたASK-13は、1m高度を失う際に28m前進することが出来る(最良滑空比で)。だから、理屈上は100m高度があれば、2800m前進できることになる。

 もちろん飛行する以上は、高度をどんどん失っていくので、目的地に向かう途中で高度が足りなくならないように、サーマルを捉えて高度を稼ぐ必要がある。
 しかし、風が目に見えないのと同じく、サーマルは目に見えない

 周囲の状況(地形・雲の状況・場合によればトンビの状況も含む)やグライダーに伝わる気流の状況(サーマルでは本当に縦に風が吹いているので、例えば飛行中に左翼側が持ち上げられた場合は、左側にサーマルが存在する可能性が高い。)により、目に見えないサーマルをいかに捕まえ、目的地に向かえるかが、グライダーパイロットの腕の見せどころ、というわけである。

 そのようなマイナースポーツを映画化したのが、この映画「ブルーサーマル」である。
 原作漫画を書いた小沢かなさんは、法政大学航空部の出身であるとのことで、この映画の中でも、かなり現実に近い大学での航空部ライフが描かれていると言ってもよい。とはいえ、部活におけるしんどいことや面倒くさいこと等については、相当割愛されているのは、ドキュメントではないので仕方がないところだろう。
 

 そうは言っても、空の美しさ、グライダーから見た、飛行中の他のグライダーの美しさ(太陽の光を翼で弾く様など)は、実によく再現されていた。映画の中で使用されていた練習用複座機ASK-13、ASK-21は、いずれも私が30年以上前に京大グライダー部で乗っていた機体でもあり、とても懐かしい思いが蘇るとともに、両機が未だに現役であることに驚いた。よほど基本設計が素晴らしかったのだろう。

 ウインチ曳航により発進した際に稼いだ高度がちょっと高めだよな~と感じたり、飛行中のバリオメーター(瞬間的な上昇・降下率を操縦士に知らせるための航空機用計器)の動きについ目が行ってしまったり、朝比奈氏の部屋にある模型にブラニックらしき機体があるなあ~等と感じたのは、航空部(京大の場合はグライダー部)経験者としてのサガなのだろう。

 ストーリーについては、ちょっと引っかかる場面もあったが、とにかく真っ直ぐな主人公が気持ち良い

 映画を通して、ああ、私も、この子のように真っ直ぐだった時期があったよなぁ~という思いとともに、機会があれば、また何所までも遠く広がる空に踏み出してみたいな、という気持ちにしてもらえた。

 グライダーを知らなくても、十分楽しく、子供の頃、きっと誰もが感じた空への憧れを呼び覚ましてくれる映画である。


 是非お薦めする。

公式HP https://blue-thermal.jp/
3月4日より公開中

映画 「JUNK HEAD」~堀貴秀監督作品

実は、昨年の春、私はこの映画を2度映画館で見ている。

私にとっては、相当面白い作品だった。

人形を少しずつ動かしてコマ撮りで撮影し、アニメーションとして作られた作品である。

人形の動きは実になめらかで、それだけでも見る価値がある。

アフレコはもう少しなんとかして欲しかったが、字幕なので気にしなければどうということはない。

特に地底空間の壮大な表現は、映画館で見ていて息をのむ美しさであった。

堀監督の本業は確か内装業だったと記憶している。たった1人で作り始め、7年もの歳月を掛けて完成させたそうだ。

公式サイトもあるので是非予告編だけでも御覧頂きたい。

映画『JUNK HEAD』 公式サイト (gaga.ne.jp)

確か、昨年の春の公開時には、ミニシアター中心であったが、熱狂的ファンを獲得したようで、京都ではパンフレットは品切れ、大津の映画館で購入しなければならなかった。その後も、ファンの要望によりパンフレットが増刷・通販されたはずだ。

DVD等も欲しかったが、まだ発売されていないのではないだろうか。

この作品は、3部作の第Ⅰ章という位置づけだそうで、続編が期待されている

私としては、機会があるのなら、やはり映画館で見て頂きたいと思うが、最近アマゾンプライムで公開されており、鑑賞のチャンスといえる。

是非、一度鑑賞されることをお勧めする作品である。

PROGRESS~瀬戸優 ペン画集

私が、彫刻家の瀬戸優さんを支援していることは以前ブログに書いたと思う。

現時点で当事務所入り口には、瀬戸さんの彫刻作品が3点とペン画1点が展示されている。

水源-紀州犬

水源-紀州犬2

polaris-コウテイペンギン

の彫刻作品三点と、

ペン画のホッキョクグマである。

この度、瀬戸優さんがペン画集を発売した。

PROGRESS (瀬戸優 ペン画集 Collection of drawings by Yu Seto) | 瀬戸 優, 小山幸彦 |本 | 通販 | Amazon

3月末頃に予約し、本日届いた。

瀬戸さんの作品の魅力は、やはり彫刻なのだという私の意見は変わらないが、それでも、このペン画に描かれた動物たちの生き生きとした表情は、多くのファンを魅了するだろうと思われる。特にオオカミや、フクロウの描写は何度見ても素晴らしい。

私が以前購入させて頂いた、ホッキョクグマ(2017)のペン画や、クロッキー3点もこの画集に含まれていて、なんだかとても得した気分になっている。(事務所にお出での際はお申し出頂ければお見せします・・・・笑)

なお、このPROGRESSには、瀬戸さんの彫刻制作に関する記述も含まれているし、彫刻の写真も載せられているので、お得感は高いと思う。

是非、手に取って頂いて、見て頂きたい画集である。