ペットに遺産を残すには・・・

 先月20日ころ、アメリカのホテル女王の方が、愛犬のマルチーズのために1200万ドル(約14億円)を使うよう遺言していたことが、ニュースになっていました。

 日本の民法上はペットは「物」として扱われますから、権利の主体ではなく、ペットに直接財産を残すことは出来ません。ペット自身が、財産をもてないことや、ローンの契約者になれないこと、銀行口座をもてないこと等からもわかりますね。

 しかし、長年一緒に暮らしてきたペットに、自分が亡くなった後にも安心して暮らして欲しいと願うのは飼い主としては自然です。このような場合、どう解決するかというと、負担付き贈与、負担付き遺贈という方法が考えられます。ある人に対して、財産を贈与・遺贈するけれども、受領するには~の負担を負いなさいよ、という契約です。つまり、ペットの世話をしてくれる方と、「あなたに〇〇の財産を譲るけれども、その代わり、私の愛犬の面倒をきちんと最後まで見て下さいね。」という契約をしておくということです。そうすれば、財産を譲られた方は、愛犬の面倒をきちんと最後まで見る義務が生じますから、まず安心ということになります。

 さて、先ほど書いたホテル女王の方は、四人いた孫のうち二名には、自分たちの父親の墓参りを年一回はするとの条件で、500万ドルずつ与えたそうです(これも負担付き遺贈ですね)。しかし、この二人分の金額を合わせてもマルチーズ1匹に残す金額に届きません。また、残りの二人の孫には「彼らも知っている理由により」1セントも残さないとしたそうです。なんらかの確執があったのでしょう。

 ちなみに、マルチーズの名前は「トラブル」だそうです。名前の通り、トラブルにならなければいいのですが。

全体の奉仕者

 先日、某区役所に法律相談に行きました。区役所によって相談を担当する係が違うので、私は、大体どこの区役所でも、法律相談に来た弁護士であることを「案内所」で申し出て、区役所のどこに行けばよいかを尋ねます。

 ところが、その区役所では案内所にいた方が、「私はちょっと代わりに案内にいるだけで、分かりません。」と言うのです。連絡して調べようともせず、「私ではわからんので、その辺の人に聞いて下さい。」と突き放されました。「何のための案内なんや」と思いながら、近くに暇そうにしている窓口の人がいたので、仕方なく聞いてみました。

 すると、その方は、聞こえないふりするのです。さすがに、頭にきて、ちょっと強い口調で「案内の方も分からないというので仕方なく聞いているのです。法律相談に来た弁護士なのですが、どこに行けばよいのですか。」と言いました。

 その方は、ほとんどこちらも見ようともせずに「ここは税金の窓口だから。」と言うのです。その方には悪いのですが、「ですから、案内の方が分からないというので、誰かに聞くしかないじゃないですか」とちょっときつい口調で言ってしまいました。

 ようやく今度はその方も私の方を向きましたが、「私は税金の担当だから分からないです。」と平然と仰るのです。一本内線電話で、問い合わせてくれればそれですむのに、それもしないのです。

 正直、「一般企業だったらあんたはクビになっとるで!」と言いたかったのですが、それも少し悪いので、「調べようともしないんですか?案内も分からないって言うし、どうしようもないんですか?」と皮肉を言って、しかたなくロビーで立って待っていました。

 さすがにその方も悪いと思ったのか、しばらくしてから「とりあえず、5階の51号窓口に行ってみて下さい」と教えてくれました。「それなら最初から教えろよ」と思いましたが、一応礼儀ですので礼を言ってその窓口に向かいました。

 公務員は健康保険や年金等でも手厚く保護されていますが、それは、全体の奉仕者であるからではなかったのでしょうか。納税者の負担で手厚く保護されていることを考えれば、もう少し市民に向けたサービスの向上を真剣に考えなければいけないのではないでしょうか。

 久しぶりに全体の奉仕者について、少し考えてしまいました。

現代国語の実力と絵本

 私は、和歌山県立新宮高等学校の卒業ですが、1年生の頃の担任は現代国語担当の舩上先生でした。

 先生は、「現代国語が得意な奴は、親に感謝しろ。」と何度か仰っておられました。その理由は、現代国語(現国)が得意な生徒は殆ど、必ずと言っていいほど親がたくさん絵本を読んで聞かせているからだ、ということでした。

 私は、比較的現国は得意でしたが、確かに母に良く絵本を読んでもらった記憶があります。「きかんしゃやえもん」、「消防自動車じぷた」、「とらっく、とらっく、とらっく」、「ぐりとぐら」、「どろんこハリー」、「ひとまねこざる」、「ぐるんぱのようちえん」、「ちいさなおうち」など、何度も読んでもらった、好きな絵本だけでもかなりの数になります。

 後で母に聞いたのですが、小さいときは絵本を読んで聞かせても子供は絵だけを熱心に見ているそうです。その後だんだん字が読めるようになると、字を視線で追うように読むようになるそうです。

 絵本を読み聞かせることにより、活字に対する抵抗がなくなり、活字から想像力を働かせてイメージをふくらませることが出来るようになるのかも知れません。絵本の前のページの絵と、今見ているページの絵との間にどんなことがあったのか、言葉を聞きながら子供なりに想像しているのではないでしょうか。

 現代は、テレビ映像やテレビゲームが全盛です。大人が面白い物を作ろうとして工夫するのですから、子供にとっても面白くないはずがありません。また、忙しい大人にとっても、TVを見ていてくれればおとなしいことが多いので、つい頼ってしまいがちです。

 しかし、それらは全て、誰かによってイメージがすでに作られ、目の前におかれています。また、絵本と違い、連続して映像イメージが流れますから、自分なりに想像力を働かせる必要がさほどありません。TVを見ていると、ボーっとしてしまうのは、そのせいかもしれません。

 スピード化した現代社会では難しいのかもしれませんが、忙しさの余りTVなどに頼るより、少しでも子供達には絵本を読んで上げられるような、そして自らも活字に親しめるような心の余裕を持てれば、と思います。

税金のお話

 日本の国家財政が危機的状況にあるということで、消費税率のアップが検討されていることは皆さんご存じだと思います。

 消費税アップになると、所得の低い方に逆進的に負担が重くなるとして、反対する声も出ていますが、どのような課税方法が公平かという点については、いろいろ議論があります。

 例えば次のような例ではどの方式が一番公平だと思われるでしょうか。

①映画館に入場する際に、1人あたり決まった入場料を支払うだけにする方式。ただし、一度支払えば、その映画館で上映されているどの映画を見ようと、何度映画を見ようとも料金は同じである。

②映画館に入場する際にお金を取らず、映画館で上映されている映画を見るごとに料金を支払ってもらう方式。ただし、映画ごとに料金が異なる場合もあるし、一度見た映画をもう一度見る際にも再度料金がかかる。

③映画館に入場する際に、生活費以外のお金を全て支払ってもらう方式。ただし、一度料金を支払えば、その映画館で上映されているどの映画を見ようと、何度映画を見ようとも、それ以上のお金はかからない。なお、生活費すら不足している人はただで映画を見ることができる。

 おそらく、大多数の方は、③は論外だな、①の方式が映画をたくさん見られて良いけれど、多分映画館の入場料が高くなるだろうから、②が一番公平だと思われるのではないでしょうか。

 確かに、③の方式では、生活費が残るという点では公平です。しかし、生活費のない人はただで映画を見られるかも知れませんが、一生懸命に働いてたくさんお金を持っていた人が、生活費を除いてお金を全部持って行かれたら、たまったものではありません。頑張って働いて儲けても、持って行かれてしまうのであれば、働かずに生活費もない状態で映画館に行って映画を見た方が得だということになりかねません。これでは公平と言えないと思うのが人情でしょう。

 これに対し、①の方式では、入場料が全く一緒という点では公平です。しかし、映画館で多数の映画を上映するためには費用がかかり、それを1回の入場料でまかなうわけですから、映画1本だけを見るよりは入場料は間違いなく高くなるでしょう。映画を1本しか見ない人が、何本も見る人の分まで負担するのは、損した気がする(公平ではないと考える)のが人情でしょう。

 それに比べて②は公平に思えます。

 なぜなら、使用に応じて負担するからです。何度も映画を見たい人は何度もお金を払ってみればいいわけですし、見たくない人はお金を使わなくてすみます。

  では、①~③を税金に変えて考えてみたらどうなるでしょうか(上記の例を完全に税制に当てはめることは出来ませんが、あくまでわかりやすさのために対比させています)。

 ①は、例えば、「日本に住んでいる成人は、日本という国を維持していくために必要な金銭を平等に負担する意味で収入に関係なく年間500万円税金を納めなさい。」という人頭税税制に近いでしょう。

 ②は、消費に応じて税金を支払うものですから、例えば「消費税率5%」という現在の消費税制に近い制度と言えるでしょう。

 ③は、現在の所得税の累進課税方式に近い税制でしょう。所得の多い人から多めに徴収して、所得の低い人に分配していく制度です。

 不思議なことに、今度は何となく③が公平に思えますね。 税金に関する公平とはこのように非常に難しいもので、各国の考え方によっても異なります。一概に消費税=悪とは言い切れない面もあるのです。

 ただ、政府が税金無駄遣いの対策もせずに、消費税率アップを言いだしても、納税者側からは納得できないものがあることは言うまでもありません。まず、とことん経費削減を行った上で、なお国家を維持するために税収が不足することについて政府にきちんと説明して納得させてもらうことが先決でしょう。

弁護士バッジの色について

 私は時々、中学校に弁護士の仕事の実態や弁護士になるにはどのような試験があるのかなどについて、講演に行きます。

 そこで、よく生徒さんから「弁護士バッジを見せて!さわらせて!(ちょうだい!)」等とよく言われます。そこで、なくさないように注意するよう言って、触らせてあげるのですが、感想としては「思ったより重い。」「テレビで見た奴より厚いんだ。」というものが多いようです。

 ちなみに、皆さんご存じでしょうが、弁護士バッジはヒマワリをかたどっており、中心部分に公平を示す天秤がデザインされています。裏には「日本弁護士連合会会員証」という文字と、弁護士登録番号が刻印されています。登録番号の刻印の下にものすごい小さな字で「純銀」「造幣局製」という文字も刻印されています。確か、このバッジは日弁連から各弁護士が貸与を受けているもので、紛失などをすると始末書を書かされてしまうと聞いています(悪用されると危険ですからね)。

 上で述べたように、普通の弁護士のバッジは純銀製ですが、金メッキがされているため金色に見えます。ところがこの金メッキはだんだんはげてくるので、年季の入った弁護士バッジは鈍い銀色になっていることが多いのです。それに対して若手のバッジは金メッキがはげておらずまぶしい金色ということが多いのです。

 バッジが金色か銀色かは、ベテラン弁護士かどうかを見分ける一つの基準になります。

 ところが、この基準には例外もあります。弁護士に成り立てのホヤホヤでも、クライアントになめられないようにわざと金メッキを落とす人がいるのです。ある人によると、小銭入れに入れて持ち歩けばメッキが早く落ちるとか、洗濯機で洗濯物と一緒に洗濯しちまうとメッキが良くはげるなど諸説あるそうです。ですから、鈍い銀色のバッジをしているからといって必ずしもベテラン弁護士とは限らないのです。

 それとは逆に、お金持ちの弁護士さんは18金の弁護士バッジを申請して貸与を受けている場合もあります。18金ですから、メッキがはげるということはなくいつまでたっても金ぴかです。だから、金ぴかの弁護士バッジでもベテラン弁護士ということはあり得るのです。

 そうはいっても、大体の弁護士はわざとメッキをはがしたり、わざわざ18金のバッジを申請したりする人は少ないと思います。ですから、テレビドラマなどでベテラン弁護士役の役者さんが、金ぴかの弁護士バッジを付けていたりすると、なんだか違和感を感じたりします。

 注意してみてみると面白いかも知れませんね。

谷川浩司(棋士)

 先日、加藤一二三九段の1000敗の件について、ブログで書きましたが、プロ棋士の中で、私が最も好きで応援している方が、谷川浩司九段です。

 谷川九段は、永世名人資格保持者で、美学や様式を重んじる最後の棋士と言われることもあります。また、控えめな物腰ながら尊敬されるべき人格者であると伝えられており、その華麗な終盤術は「光速の寄せ」と評されます。そのように卓越した力を持ちながら、華麗であるが故の危うさも同居しており、そのギャップが谷川さんの魅力を更に引き立てているような気がします。

 羽生善治現三冠が、将棋界のタイトル(名人・竜王・王将・棋聖・棋王・王位・王座)を全て手中にする七冠王を目前としていたときに、谷川さんが神戸の大震災に遭いながらも、四勝三敗で王将位を死守し、羽生さんの七冠奪取を阻止したことは有名です。翌年羽生さんは、保持していた六冠を全て防衛し、再度谷川さんに挑んで王将位を奪い見事七冠王となるのですが、その頃の無敵を誇った羽生さんに、最後まで抵抗して戦った谷川さんの姿が、非常に印象に残っています。

 その後、無冠に転落するも、羽生さんから、将棋界の2大タイトルと言われる名人・竜王を奪取し、見事な復活を遂げます。

 現在は、また無冠に戻ってしまいましたが、その鮮やかな復活ぶりは素晴らしいものがありました。最近は、ここ一番という場面で勝てない不運もあり、タイトルから遠ざかっているのが残念です。

 今年はこれまで10勝5敗とまずまずの成績であり、今後のご活躍が期待されます。

弁護士の就職難

 本日の朝日新聞に、「弁護士の就職難が深刻」という記事が出ていました。就職できた人でもこれまでの勤務弁護士の初任給に比べて低い給料しか頂けないという人も多いと思います。

 法曹関係者には、ある程度予想されていたとはいえ、やはり司法改革が何のビジョンも持たずに行われてきていることがこの事実だけで明らかになっています。

 これまでマスコミは経済界の言い分を鵜呑みにして、「弁護士が足りない、もっと増員させなければならない」と言い続けてきました。日経新聞を10年ほど前から読んでおられる方であれば、日経新聞がさんざん司法の問題として、人員不足を取り上げていたことを覚えておられるでしょうし、他の一般紙を読まれていた方も、弁護士は足りないものだという先入観を植え付けられていると思います。

 しかし、ほんとうに弁護士が足りないのであれば、どうして、これから弁護士になろうとする人たちが就職難に直面するのでしょう。経済界は、自ら弁護士が必要であると主張しながら、リストラによる人員削減方向へと舵を切り、自らをスリム化していきました。その流れの中で、弁護士を雇用していく企業はさほど増加しませんでした。経営ををスリム化していくのですから、常時弁護士を雇用することを避けるのは企業としても自然な流れです。しかし、経済界は弁護士不足の主張を続け、司法改革を迫りました。おそらく、その根底には、弁護士を増加させ競争させれば自然に弁護士費用が安くなるのではないかという、思惑があったように感じられます。さらに、その状況に便乗したのが大学です。

 経済界が、弁護士の大幅増員のためには、法科大学院を導入するくらい思い切った改革が必要だと提言したところ、大学側は、法科大学院でなければ優秀な法律家を育成できないと言わんばかりに、法科大学院構想を推進し、計画もなく法科大学院を多数認可しまくったあげく、基礎的な知識すら不足している、新司法試験合格者を多数輩出する結果となっています(司法試験管理委員会のヒアリング参照)。

 更に信じがたいことに、法科大学院側は、法科大学院への志願者が減少していることを、合格者を増加させないから志願者が増加しないためだと主張しているようです(司法試験管理委員会のヒアリング参照)。

 果たして、そうでしょうか。従来、認可された少数精鋭の法科大学院できちんと法律を学ばせ、卒業資格を厳格に認定した上で、新司法試験を行い、相当程度の合格率で合格させようとしていたのが、法科大学院構想だったはずです。

 ところが、法科大学院を無計画に多数認可したあげく、卒業認定もきちんと行わず卒業させ、新司法試験を行ったせいで、基礎的な知識すら不十分な司法試験合格者を多数産み出しているのです(卒業認定が厳格に行われていれば、司法研修所教官が「基礎的知識不足の修習生が多い」と嘆くはずがありません)。卒業認定をきちんと行えば、新司法試験の合格率もさほど低くはならないはずです。法科大学院の無計画な多数認可と、厳格な卒業認定を行わなかったという2点が主な理由で、法科大学院構想当初予定の合格率より新司法試験の合格率は大幅に下がることになりました。 その結果、貴重な時間とお金を投じても法律家になれるかどうか分からなくなったため、志願者が激減したのだと思います。

そもそも、法科大学院にはこれまでの司法修習の前期修習終了程度までの力をつけさせることが目的でしたが、司法試験を受けたこともなく、司法修習に行ったことのない教師が法科大学院に多数存在するため、どのレベルまで教育すればいいかも分からずにいるのではないでしょうか。

 また、翻って考えるに、法律家になる魅力というのは、法律を用いて当事者の問題を解決してあげられるという側面の他、これまでは、法律家になれれば、生活の心配をあまりしなくてすむという点も大きかったのではないかと思われます。

 ところが、今後、弁護士を目指す人の生活面はどうなるのか。

 まず、高いお金を支払って法科大学院に進学する必要があります。

 次に法科大学院に進学しても、きちんとした実力をつけてもらえるかは、未知数です。卒業できるかどうかのリスクもあります。

 なんとか卒業しても新司法試験に合格しなければなりません。

 新司法試験に合格しても苦難の道はそれでは終わりません。

 司法修習生の給与が2010年からは支給されなくなり、貸与制になります。また司法修習生はアルバイトが出来ませんので結果的に借金して修習生活を送らねばなりません。

 そして、借金で修習生活を送っても、2回試験(司法修習生考試)に合格しなければ法律家の資格はもらえません。

 仮に2回試験に合格しても、弁護士が余っているのですから、就職が出来ない可能性があります。運良く就職できても、弁護士余りなのですから新人弁護士の給与は、たいして期待できません。更に次から次へと新たな弁護士が激増してくるので、育ててもらう前に使い捨てられるかもしれません。

 弁護士会によって異なりますが、弁護士登録するだけで50~100万程度かかりますし、登録後も弁護士会費が毎月4~5万円かかります。

 こうなってくると、もはやお金持ちしか弁護士になれないし、弁護士としてやっていけないのではないかという疑問すら出てきます。また、法科大学院・司法修習・弁護士登録などの費用を借り入れなければならないとすると、相当額の借金を背負って弁護士生活をスタートしなければならなくなる可能性が大です。そのように借金まみれでスタートする弁護士が、現実問題として社会正義の実現のために奔走できるでしょうか。私は(将来的に経済面で安定すればともかく、そうでない限り)無理だと思います。

 以上の点から、法律家には次第に魅力がなくなっているのだと思います。法科大学院の先生方は合格率さえ高めれば志願者は増加するかのように考えているようですが、全く現実を見ていないと思います。法科大学院を無計画に認可しまくったあげく、卒業認定も満足に出来なかったため新司法試験の合格率が下がった点、 法律家の本来の需要を見誤って経済界の言うままに司法改革を推進した点は、少なくとも完全な失敗だと私は思います。

 このままでは、有望な人材が法律家を目指さなくなり、力量不足の法律家が増加する結果、司法への国民の信頼は、更に失われる危険があります。失われてからでは遅いのです。早急に改革を行う必要があると思います。

1000敗の重み

 私は将棋はヘボですが、棋戦の観戦記事は好きで結構、読んでいます。プロの将棋の内容は理解できないのですが、天才中の天才といわれる棋士達の、対戦している際の息づかい、駆け引き、人物像などが非常に興味深く思われるからです。

 プロ野球観戦が趣味として認められるのであれば、プロ棋戦(将棋のプロである棋士の勝負)観戦記事を読むのが私の趣味の一つとも言えるかもしれません。

 ところで、先日、加藤一二三(かとうひふみ)九段が史上初めて公式戦通算1000敗を記録したという記事を見ました。

 1000回も負けたのだから、弱い棋士ではないかと一般の方は思われるかもしれませんが、全く違います。まず将棋の対局公式戦は、トーナメント形式で上位者を絞り、最終的に優勝者を決定することが多く、必然的に強い棋士ほど、たくさん公式戦を戦うことになります。

 甲子園に出ても1回戦で負けたチームは、1回しか試合が出来ません。しかし、勝ち残れば2回戦、3回戦と試合の数が増えていきます。これと同じ理屈で、1000回負ける程たくさんの公式戦をこなしたということは、超一流の実力者でなければ不可能なことなのです。

 また、将棋の世界では、棋士は対局に負けたと悟ったとき、自ら負けたと認め、相手に対して頭を下げなければなりません(「投了」と言います)。これほどの大天才棋士が、天才同士の戦いにおいて、1000回自らの負けを悟り、相手に頭を下げ、またそこから立ち上がって勝負の世界で戦い続けてきたという重みは、計り知れないものがあると思います。

 ただ、加藤九段の名誉のために申し添えますが、加藤九段は1261回、他の将棋の天才達に頭を下げさせてきております(1261勝をあげています)。 現在も順位戦B2組で勝ち越しており、今後も、将棋界の重鎮として、更にご活躍されることでしょう。

くじら座のミラ

 先日の新聞報道によると、寿命を迎えつつあるくじら座の変光星ミラが、彗星のように大きな尾を引いていることがNASAの銀河進化探査衛星の写真から分かったそうです。

 NASAによれば、ミラの放出する炭素や酸素などの物質が尾のように見えているもので、これらの物質によって新たな恒星や惑星が形成される可能性があるとのことです。NASAは「寿命を迎えようとしているミラは新たな恒星や惑星を生むために種をまいているようだ」と説明しているようです。

  私は、共通一次試験(年齢がばれますね)で、物理と地学を選択していたので、高校地学の知識として、変光星として有名なミラの名前は知っていましたが、実際に望遠鏡などで見たことはありません。しかし、もしNASAの説明通り、死にゆく星が新たな星の一部を産み出しているのであれば、とてつもなく広大な宇宙の命のつながりを垣間見ることができたという意味で、非常に貴重な報道ではないかと思うのです。

 といっても、ミラは350光年ほど彼方にあるので、今地球で捉えることができるのは、350年程前のミラの姿に過ぎません。現在のミラがどうなっているのかは、まさに神のみぞ知るといったところでしょう。

 ときには、のんびりと星でも眺めてみたいものですね。

「白い恋人」事件と内部告発

 北海道銘菓「白い恋人」が、賞味期限の改ざんをしていた事件が大きく報道されています。私も好きなお菓子だっただけに残念です。

 新聞報道によりますと、製造販売会社の石屋製菓の社長了承の元、賞味期限の改ざんが行われ、会社ホームページ宛に今年6月下旬には賞味期限改ざんについての通報メールが、7月には大腸菌群顕出についての通報メールが届いていたが、担当の統括部長が握りつぶしてしまったようです。その後、保健所宛に匿名の内部告発があり、保健所の立入り調査が行われ、事態が発覚したようです。

 会社法や金融商品取引法が、会社に対して内部統制システムの整備を要求しているにもかかわらず、今回の事件は起きてしまいました。それは何故でしょうか。

 まず、本件の賞味期限の改ざんについては、経営トップの社長も了承していたと新聞で報道されておりますので、もしその報道が事実であれば、経営のトップが故意に不正行為に関与したことになります。内部統制システムといっても、経営者の命令を正確に実行するシステムの一環ですし、経営者によって設置されるものですから、経営者自身が内部統制システムを無視しようとすれば、無視することは可能なのです。

 これと同じく、経営者が故意に不正に関与して問題になった事件としては、三菱自動車リコール隠し事件、西武鉄道株事件、カネボウ粉飾決算事件、東横イン不正改造事件などが記憶に新しいところでしょう。

 しかし、本来内部統制システムは、会社業務適正のために必要なシステムですから、経営者であっても簡単に乗り越えられるような内容では不十分というべきです。企業内に経営者にストップをかけられる力を持ち、しかもそのための情報収まで可能とする組織が必要でしょう。また、会社全体として様々な監視システムが作成されていれば、簡単にシステムをかいくぐることは難しくなると思います。

 この点、非常に惜しまれるのが、おそらく内部者と思われる方が会社のホームページ宛に不祥事を伝えていたにもかかわらず、担当の統括部長が握りつぶしてしまった点です。もし、握りつぶさずに自ら不祥事を公表して消費者に謝罪し、製品の回収を行っていれば、今回ほど会社の信用を害することはなかったはずです。

 おそらく、会社のホームページ宛に通報した方も、まず会社で適切な対応を取ることを求めていたのでしょう。ところが会社が何の手だてもうたないので、しびれを切らして保健所に匿名で告発することになったものと思われます。このように内部通報が功を奏さず、内部告発になった場合、一度は会社に情報がもたらされているのですからそれを無視したということで、更に会社には大きなダメージが与えられてしまいます。

 この点から、分かることは、内部統制システムの一環として会社内部に通報窓口を設置する必要があるのは当然ですが、それとは別系統で内部の情報を通報する窓口を設置する必要性です。仮に、内部通報窓口を独立して設置していれば、その窓口から社長乃至取締役・監査役・顧問弁護士などに直接情報が伝達されることは可能でした。

 このような内部通報窓口を独立して設置する会社は次第に増加しているようです。ただし、通報窓口を専門に行う会社は、守秘義務の点や、対応すべき法的意見を出せない点で、不十分かも知れません。また顧問弁護士では、通報者がどうせ会社の味方の弁護士だろうと思って通報を躊躇する場合も考えられます。当事務所では、従来から内部統制について研究・セミナー開催等を行い、そのような要望に応えたスキームを用意しております。ご興味をお持ちの方はお気軽にお問い合わせ下さい。