告訴と被害届

 大学の法学部生でも、知らないことが多いのが、告訴と被害届の違いです。確かにどちらも捜査機関に自分が犯罪の被害にあったことを申告する点で同じなので、混同しやすいという面はあります。

 刑事訴訟法の基本書を見てみると、次のように説明されています(田宮裕著 「刑事訴訟法」有斐閣)。

 告訴:犯罪の被害者その他一定の者が、捜査機関に対して、犯罪事実を申告しその訴追を求める意思表示である。

 被害届:犯罪(による被害)事実を申告するだけで、告訴とは訴追を求める意思表示を欠くという違いがある。

 要するに、犯人の訴追を求める意思表示が含まれているかどうかの違いなのです。ただし、告訴には告訴がなければ起訴できない親告罪を起訴できるようにする効果や、刑訴法260条以下の効果が認められており、被害届とは異なります。しかし、どちらも捜査の端緒つまり捜査のきっかけになることは変わりません。

 ところが、警察に出かけてみても、被害届は割合簡単に受理してもらえますが、告訴となるとなかなかそうも行きません。それは何故でしょうか。

 告訴(告発も含む)を受理した場合、警察は特に速やかに捜査する義務があります(犯罪捜査規範67条)。さらに、司法警察員は告訴告発を受けたときは、速やかにこれに関する書類及び証拠物を検察官に送付しなければなりません(刑事訴訟法242条)。

 簡単に言えば、告訴を受理すると捜査しなければならなくなるし、書類などを検察官に送付しなければならなくなるので、警察にかかる負担が非常に大きくなるということです。この点、被害届は被害があったということを申告するだけなので、犯人がどこかで別の犯罪を犯して逮捕された際の余罪追及や、盗まれたバイクが見つかった場合の通知などには効果があるかも知れませんが、警察としては捜査する義務が特に生じないのです。ただでさえ、忙しい警察が負担が大きくなる告訴の受理を嫌がるのも無理はないところでしょう。

 ただ、注意しなければならないのは、告訴も被害届も虚偽告訴罪(刑法172条)の適用があるということです。「人に刑事又は懲戒の処分を受けさせる目的で、虚偽の告訴、告発その他の申告をした者は、3月以上10年以下の懲役の処する。」とされていますので、警察に捜査の義務が生じないからいいだろうと思って他人に処分を受けさせたいと考え、安易に嘘の被害届を出すと、自分が有罪にされてしまうかも知れませんので、お気をつけ下さい。

検察官に必要なもの

 朝日新聞の京都版には、法曹関係者が寄稿する「法廷メモランダム」というコーナーがあります。

 一昨日の「法廷メモランダム」に、私が司法研修所で教わった検察教官である、新倉英樹京都地検総務部長が寄稿されていましたので、ご紹介します。

 今でもお会いすると、研修所の時の癖で「新倉教官」とお呼びしてしまうのですが、豪快かつ非常に楽しい方です。昨日のブログで書いたとおり、2回試験直前の心構えを語って下さった教官でもあります。無論、うちのクラスの全員合格は、新倉教官のほか、刑事弁護教官の佐藤教官、民事弁護教官の今出川・小林教官、民事裁判の平林教官、刑事裁判の出田教官らの厳しく、温かいご指導の賜物でもあったのですが、新倉教官の2回試験前の励まし(?)は、強烈に覚えております。

 さて、法廷メモランダムで、新倉教官は、検事にとって必要なものは、気力、体力、胆力、そして素朴な正義感、と書いておられます。特に素朴な正義感については、その重要性を強調しておられます。私が研修所を出てからもう7年近く経ちますが、この点について、教官は全く変わっておられません。おそらく、検事にとってほんとうに必要なものだからでしょう。

 最近は総務部長という重職で、裁判員制度に関して忙しく仕事をされておられるようですが、個人的には、捜査の現場でこそ実力・個性とも発揮できる方のような気がします。先日教官が京都に赴任された際に、クラスの大阪・京都在住の弁護士がほとんど集まってお話することができました。また、そのような機会がもてれば嬉しいと思っております。

光事件差戻し控訴審 弁護団報告集会

 光市母子殺害事件の差し戻し控訴審弁護団が、大阪弁護士会において緊急報告集会を行うことになりましたので、昨日、報告を聞きに行ってきました。私は弁護団とは何の関係もなく、もちろん支持しているわけでもありませんが、弁護団の視点から事件をどう見ているのか知っておく必要があると思ったからです。

 この事件では、1審無期懲役、2審無期懲役の後、最高裁判所で破棄差し戻しとなり、広島高裁で差戻し審が行われています。

 また、21人もの弁護士が弁護団を結成したこと、これまで主張していなかった事実の主張が差戻し審で行われたことなどから、非常に大きな社会的反響を呼び、弁護団弁護士への懲戒請求が相次いだことでも有名です。

 弁護団の主張の主な根拠は次の通りです(弁護団作成資料Q&Aから引用)。

 ※弁護団作成のQ&Aのごく一部を抜粋しております。

Q 弁護団の主張はどのような証拠に基づいているのですか?

A 弁護団の主張は主なものだけ挙げると、

① 被害者の死体の痕跡についての法医鑑定です。原審が認定したような態様で両手で絞殺されたのではなく、現在被告人が述べるような態様で、右逆手で首を押さえつけられた状態で死に至ったという内容です。

② 被害児の死体の痕跡についての法医鑑定です。被告人が被害児を後頭部から床に叩きつけたという行為はなく、紐で首を力一杯絞めたという事実もなかったという内容です。

③ 被告人について実施した犯罪心理鑑定と精神鑑定です。これらは、私たち弁護人が就任する前、すでに実施されていた少年鑑別所の鑑別結果や家裁調査官の調査報告とも合致するものです。犯罪心理鑑定によれば、本件は、被告人の生育過程による未成熟な人格が引き起こした母胎回帰ストーリーとして理解するのが自然であり、原審が認定した性暴力ストーリーでは理解できません。また、精神鑑定によれば、被告人の本件当時の精神状態は、母親が自殺した12歳の時のまま発達していないということです。

④ 差戻し前の被告人の公判供述です。被告人は差戻し前には公訴事実を争っていないとされていますが、実際にはこれら公判供述においては、強姦相手の物色や殺意を否認するような供述もあります。

Q 被告人の新供述は弁護団のストーリーを言わされているという見方がありますが。

A そうではありません。

  被告人が記憶に基づいて供述しています。公判段階の供述や、家裁の社会記録の中にも、今回の供述の片鱗が見受けられます。

 また、意見や質問の時間には、大阪弁護士会所属の橋下弁護士も質問されていました。橋下弁護士の質問は、弁護団の実験結果報告書についての質問でした。しかし、彼がテレビ番組で本件弁護団弁護士に対し、懲戒請求をあおるかのような発言をしたことについて、ほかの弁護士から、弁護人としての役割から見て、否定的意見も出されておりました。

 橋下弁護士は、もっと一般の方々に分かるように事実を伝えなければならない、世間のことが分かっていない、と強調されており、どうして1審・2審の弁護人について弁護団が言及しないのかと指摘されていました。しかし、弁護団の弁護士からは、記者会見で何度も主張の根拠や証拠との矛盾について説明しているが、編集などでカットされたり、無視されてしまい、一般の方々までマスコミが伝えてくれない事実が多くあるとの意見がありました。

 私個人的には、橋下弁護士の「もっと一般の方々に分かるように事実を伝えなければならない」というご意見には賛成です。ただ、1審・2審の弁護人について言及すべきだ(おそらく非難すべきだという意味だと私には受け取れました)というご意見には賛成できません。結果論で批判するのは簡単ですが、1審・2審の弁護人もその時点で最も良いと思われる弁護をされたと思いますし、その時点の最良の弁護方針はその時点で弁護人であった方にしか判断できないと思うからです。

 ただ、メディアへの訴求力で言うと、橋下弁護士のご指摘通り、1審・2審の弁護人を非難する方がわかりやすいし、メディア受けする内容になるとは思います。メディアでの経験が豊富な橋下弁護士は、メディアが取り上げやすい方法を指摘されたのでしょうが、逆に言えば、そのような言い方をしなければ報道してもらえないメディアの体質こそが問題だとも思われます。

  私も今回報告を聞くまで、検察が描いた犯行態様と遺体の実況見分調書や鑑定書に多くの食い違いがあることを知りませんでした。また、メディアの報道を鵜呑みにして、少年が友人らに不謹慎きわまりない内容の手紙を送っていることを知ってはいましたが、2審判決でその手紙が「相手から来た手紙のふざけた内容に触発されて、殊更に不謹慎な表現がとられている面も見られるとともに、本件各犯行に対する被告人なりの悔悟の気持ちをつづる文面もあり(以上、2審判決より引用)」と評価されていることも知りませんでした。

 いくら伝えようとしても、メディアが伝えてくれなければ世間一般の方にはなかなか伝わりません。そして、メディアは世論を操作できるだけの力を実際に有しています。確かに、本件少年は自ら招いた悲惨な結果の責任をとらなければなりません。しかし取るべき責任は、真に自らが招いた事実に基づくべきものであって、メディアによって扇動された社会の応報感情に基づくものであってはならないと思います。

 以上が、昨日の報告を聞いた私の感想です。

少年鑑別所と少年院

 少年事件を起こした方はよく知っているのですが、一般の方々があまり知らないのが、「少年鑑別所」と「少年院」の区別です。どちらも悪いことをした少年が入れられるという点では同じであるため、区別がついていない方も多いと思われます。

「少年鑑別所」とは、 

 本人或いは環境に問題の多い少年の身柄を収容して、調査・審判の円滑な遂行を確保し、その間の非行性の進化等を防止するとともに、社会調査・行動観察・心身鑑別を行って適正な審判の実施を図るための施設です。大阪では、堺市にあります。大阪刑務所に隣接する土地にあって、最近新築されて非常にきれいになっています。

「少年院」とは、

  初等・中等・特別・医療の4種類があり、少年を収容して矯正教育を行う施設です。(大阪府には阪南市の和泉学園、茨木市の浪速少年院、交野市の交野女子学院がある。)
  法律上収容は20歳までとされているが、現実には(簡単に言うと)長期処遇と短期処遇に分かれており、長期処遇は約1年程度、短期処遇は約半年程度の収容期間であることが多いとされています。

 非常に簡単に言えば、「少年鑑別所」は、少年審判を行う際に、事前に少年を入所させて調査を行う施設であり、「少年院」とは、少年審判により「少年院送致」の処分を受けた少年が、矯正教育を受ける場です。

 このように、審判を受ける前に入るのか、審判の結果により入れられるのかが違いますし、審判のための調査のための施設なのか、直接少年を矯正するための施設なのかでも違いがあります。

 私は、少年事件で担当した少年が、少年院送致になった場合に、機会があれば、面会に行って励ますこともあり、金沢、伊勢、加古川、和泉、宇治などの少年院に行ったことがあります。どこも相当厳しい教育がなされているようでしたが、少年たちはみんな面会を喜んでくれたようです。ただし、どの少年院も結構不便な場所にあるので大変でした。

被告と被告人

 民事裁判で訴えを起こされ、相談に来られた方がたまに仰るのが、「悪いことをしていないのに、罪人扱いまでされて!」という怒りのお言葉です。

 お怒りの理由の多くは、裁判所からの書面に「被告」として自分の名前が記載されている点にあります。確かに、テレビや新聞等のマスコミでは、逮捕された容疑者が起訴され、裁判になった際に「○○被告」と呼ぶことが多いため、「被告=罪人扱い」と思われるのもやむを得ない面もあります。

 しかし、これは、マスコミが法律用語を誤用しているためなのです。逮捕された容疑者が、起訴され刑事裁判になった際に、起訴された者は法律上「被告人」となります。民事裁判の場合は、訴えた人が原告、訴えられた人が「被告」となります。

 簡単に言えば

刑事裁判で裁かれる人→被告人、

民事裁判で相手方とされた人→被告、

となります。

 ですから、裁判所からの書類に「被告」と記載されていても、「あなたは民事裁判で相手方にされましたよ」という意味しかなく、何ら罪人扱いでも何でもないのです。 テレビ報道でも良く聞いてみると、アナウンサーが刑事裁判で起訴された人を「○○被告」と呼んでも、コメンテーターの弁護士は大体きちんと「○○被告人」と区別してしゃべっていると思います(時折、間違うことはあるかもしれませんが)。

 個人的には、マスコミが早く誤りを正してくれることが大切だと思っています。

突然の面会要請

 2年半ほど前の、ある冬の日の夕方、風邪気味でノドが痛く、声までかすれてきていた私は、「今日くらい早く帰ろうかな」と考えていたところ、突然大阪府警留置管理係から電話がかかってきました。

 その日は当番弁護の日ではないし、私が担当する刑事事件で被疑者が大阪府警に拘留されている事件もありませんでしたので、不審に思いつつ電話に出ました。

「坂野先生ですか。少年○○が先生に是非来て欲しいと言うとるんです。先生とは何の面識もないそうなんですが、来てやって頂けませんか?」

「少年○○君?確かに知りませんが、どうして私の名前を知ってるんでしょう。」

「さあ、それは分かりませんが、とにかく先生に来て欲しいと言うとるんです。ご迷惑だと思いますが来てやって頂けませんか。」

「分かりました。誰か分かりませんが、『弁護人となろうとする者』の資格で面会しましょう。20時くらいにはそちらに行けると思います。」

「すみません。よろしくお願いします。」

 こういうやりとりの後、仕事を済ませ、私は大阪府警本部に向かいました。とても寒い日で、風も強く、コートが風にあおられていたのを覚えております。

 いざ接見室に入って、自己紹介の後、どうして私の名前を知っているのか尋ねました。少年が言うには、鑑別所か留置場の壁の落書きに「坂野弁護士はよくやってくれるから、頼んだ方が良い。」と書かれていて、それを覚えていたから連絡してもらったのだと言うことでした。そして、親もお金を出してくれるだろうから、何とか自分の罪を軽くしてもらえるように弁護をやってくれないかと、少年に頼まれました。しかし1時間ほどかけて事件のことをあれこれ聞いてみると、少年の話によっても被害者に落ち度はないと思われるのに、自分は悪くないという話や、逮捕されたのは運が悪かったと言わんばかりの話が続々と少年の口から出てきたのです。

 私は、「罪を軽くして欲しいというだけであれば僕は受けられない。君が本当に今回の失敗を最後にしたいと思っていて、どうしても立ち直りたくて、その立ち直りの手助けをして欲しいというのであれば、頑張ってみようと思う。だから、壁の落書きから君はとにかく罪を軽くするために活動する弁護士だと僕のことを思ったかもしれないが、君が想像した弁護士とは違うかもしれないよ。それでも良いのであれば、ご両親と相談して連絡をくれれば頑張ってみよう。」と答えました。そして少年の親にも面会の様子を伝え、本人とよく相談するようにお願いしました。

 私の採った態度が正しかったかどうかは未だに分かりません。

 しかし、私の経験から言うと、少年事件を起こす少年は、彼が生み出したのか周囲が植え付けたのかは別として、一様にガン細胞のような問題点(心のキズ・ゆがみ)を抱えているような気がします。そしてその問題点には、少年自身が、事件についての反省の過程でいかに被害者に迷惑をかけたか、いかに自分がくだらないことをしてしまったのか、何故悪いと分かっていながら止められなかったのか等、様々な事について深く考え、苦しんでガン細胞のありかを突き止めようとする姿勢がなければ、近づけないように思えます。周囲の者が勝手に見立てて、「君の問題点は、此処にあるからこのように直しなさい」と指摘しても、ある程度の治療は可能でもガン細胞の根は残ってしまい、再発する危険がどうしても残る気がするのです。

 別の言い方をすれば、少年自身が自らの問題点に気づこうとしない限り、少年の事件の問題点は根本的な解決が極めて困難だと思います。そしてその問題点を見つけた後、どのように改善するかについても少年が必死に考える必要があると私は思っています。そうだとすれば弁護士が事件を起こした少年に対してできるのは、あくまで少年が立ち直りたいと思っている場合に、その立ち直りのため付き添って一緒に考え、手助け・ヒントを与えてあげるくらいではないのでしょうか。むろん弁護士は、審判に向けて、調査官や裁判官と面談するなど、様々な活動を行いますから、事件自体についてやることはたくさんあります。しかし、当の少年がこれまでの自分と決別して立ち直ろうと考えない限り、真の解決は難しいのだと思います。

  弁護士に出来ることは限られているかもしれませんが、その中で一生懸命頑張って、今後も少年の立ち直りにつきあっていこうと考えております。

不公平だった司法試験

不公平だった司法試験

あなた方は現役受験生だから5人に1人合格させます。あなた方は浪人だから10人に1人しか合格させません。

 こんなことが同じ大学の同じ学部の入学試験でおこったら、ものすごい非難が巻き起こるでしょう。明らかに不公平だからです。

 しかし、これと似たようなことが、こともあろうに司法試験でかつてありました。ご存じの方も多いでしょうが、いわゆる丙案問題です。当時の司法試験は5月の第2日曜日に行われるマークシート方式の短答式試験で約5~6に1人に絞られ、残った受験生が7月下旬の論文式試験でさらに6~7人に1人に絞られ、残った受験生が最後に10月中旬に行われる口述試験を受験できました。口述試験はほぼ95%は合格するので、論文式試験が司法試験の天王山といわれていたのです。

 ところが、当時合格者を長年絞ってきたため、実力のある者でもなかなか合格できない状況が続き、合格者の高年齢化が指摘されていました。また検察官任官希望者も少ないという問題も生じていました。そこで、受験回数の制限などの提案もあったのですが、結局、論文式試験において、合格者は、上位7分の5までは成績通りに合格させるが、残り7分の2については、受験回数3回以下の者しか合格させないという制度に変更されたのです。その結果、成績順で501番の者が合格できず、受験回数が3回以下というだけで成績順で千数百番の者が合格する可能性が生じたのです。当時の論文式受験者数は約5000人で、合格者730人程度でしたから、受験回数の多い人は520番程度の成績を取らなければ合格できませんでした。したがって合格率約10倍です。10人に1人しか合格できません。これに対し、優先枠を持つ受験回数3回以下の受験生は、控えめに見積もって1000番で合格できたとして、合格率約5倍です。5人に1人が合格できたことになります。

 最初に導入された平成8年度の論文試験で、法務省は優先枠を持った受験回数3回以下の者とそうでない合格者の点数差はわずか数点であったと発表していように記憶しますが、司法試験の論文式試験は0.01点刻みで点数がつけられると聞いていますので、もしそれがほんとうであれば、仮に3点の差であっても実際には300段階の差が生じていたということになりそうです。

 その後、合格優先枠は9分の2に減少し、さらに11分の2に減少した上、ついに廃止されたはずです。それでも、その間に論文試験の点数では合格者より上でありながら、ただ、受験回数が多かったというだけで合格させてもらえなかった受験生が数多くいるのです。

 1年にたった一回しかない司法試験に向けて必死に努力をし、精神的にもボロボロになりながら受験生活を続け、ようやく論文式試験で獲得した成績が、受験回数が多いというだけで、より点数の低い者に負けてしまう。こんな不公平があって良いものでしょうか。すでに廃止されたとはいえ、司法試験において、かつてこのような不公平がまかり通っていたこと自体、大きな汚点であると思えてなりません。

 新司法試験は終わったようですが、旧司法試験の方はもうすぐ論文試験ですね。受験生の皆さんは、暑さに負けず、もうひとがんばりしてみて下さい。

ビジネス法務に論考が掲載されました。

 ビジネス法務8月号(中央経済社刊 6月21日発売)に、当事務所の加藤弁護士と、ネクスト法律事務所の細見弁護士と私の共著で、論考が掲載されました。

 私たちが弁護団に参加した「ダスキン大肉まん事件代表訴訟」から、「企業不祥事に関する取締役の責任」を考察したものです。3人とも書きたい内容は山ほどあったのですが、紙数の制限から、8ページ弱に収めなければならず、割愛せざるを得ない内容も多く出てしまったのが残念です。

 さて、上記の「ダスキン大肉まん事件代表訴訟」は、不祥事に直接関与しなかった役員らにも2億1122万円から5億5805万円もの損害賠償責任を認めた高裁判例として、非常に注目を集めています。コンプライアンスに関する最近の書物に、大和銀行株主代表訴訟事件・雪印食品株主代表訴訟事件と並んで、必ずと言ってよいほど取り上げられているようで、多くの文献で紹介されているところです。

 しかし、実際の裁判の場において、裁判長が役員のとった対応のどの部分に着目していたのか、どの部分に注意を払って役員を尋問していたかというナマの部分については、裁判に直接関与した弁護団にしか分かりません。役員としての善管注意義務を尽くし、代表訴訟を起こされた場合に損害賠償責任を免れるためには、裁判官の注目していた点が、やはり最大のポイントとなるのではないかと思います。

 加藤弁護士と、機会があれば上記の点についてまで踏み込んで論考がかければいいなと話し合っております。

 なお、上記事件については現在最高裁に係属中です。

 興味を持たれた方はビジネス法務8月号を是非ご一読下さい。(私の紹介の欄で、「学会」と記載すべきところが「学界」と誤植になっておりますが、それはご愛敬ということで。)

英雄たちの栄光と挫折

NHK映像の世紀プレミアム第4集「英雄たちの栄光と挫折」

再放送があるなら必見。

私には、チェ・ゲバラが特に強く印象に残った。

もし私たちが空想家のようだと言われるならば、救い難い理想主義者だと言われるならば、できもしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう”その通りだ”と。

全ての人間が自分の卑しさを乗り越えながら、前進することが可能なのだと答えよう。

                                       エルネスト・チェ・ゲバラ

 このような想いを持ち続けたゲバラという人間に興味を持ち、何十年か振りに伝記というジャンルの本を手に取ることになった。

そこで描かれる、

南米での北米資本による搾取の横行と、「人が人を搾取すること」を許せなかったゲバラ。

「世界のどこかで、誰かが蒙っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい」、と子供への手紙に書いたゲバラ。

 キューバ革命、カストロ、ゲバラのことを「共産主義」という、勝手な思い込みでひとまとめにして、これまで触れようともしてこなかった自分を少し後悔している。