時には愚痴も・・・

 弁護士という仕事は、人々の紛争の解決に当たる仕事であり、裁判は、当たり前ですが人々の紛争の解決手段です。弁護士により上手く紛争が解決できる場合も良くあるのですが、裁判は紛争が前提になっているだけに、全てがハッピーエンドに終わることはそうたくさんありません。片方の主張が通れば、片方の主張は通らないものですし、主張が通って判決が出ても様々な理由で結果的に満足できない場合もあります。

 仕事である以上は、依頼者の正当な利益の保護を目指して一生懸命に取り組みますが、その依頼者に煮え湯を飲まされたり、面子をつぶされることもないではありません。仕事だからと割り切って、耐えられればよいのでしょうが、時には、「俺は悪くないのに・・・・」と、ため息をつきたくなることもあるのです。

 司法試験合格後、司法研修所で修習を受けていた折りに、弁護教官が「ストレスとの上手な付き合い方を身につけないと弁護士は大変だよ。」と仰っていたことは、やはり真実だったなぁと、身にしみて感じるときもあります。

 弁護士だって人間ですから時には愚痴も言いたくなります。

 でも、つらいことがあっても、「自分を頼って下さる方がいる以上、前を向いて歩いていこう。」と思えるのも、人間だからかもしれませんね。

 宇多田ヒカルさんの「誰かの願いが叶うころ」という曲を聴きたくなりました。

センスを感じたTVCM

 何年か前の、JT(日本たばこ)のテレビCMに素晴らしい出来映えのものがありました。

 確か、田舎の古い家屋の軒下で、喪服を着た、老婆と豊川悦司が立っている。雨が降りしきる中、老婆が豊川悦司のたばこにそっと火をつけてあげる。というCMです。

 音楽はたぶん流れておらず、降りしきる雨の音と豊川悦司が最後に一言、「さよなら」という台詞をいうだけだったと思います。

 しかし、わずかそれだけのCMであるにも関わらず、様々なことを想像させてくれるCMでした。二人の喪服は誰のためのものなのか、二人の関係はどのようなものなのか、「さよなら」というトヨエツの台詞は何に又は誰に対する「さよなら」なのか。なぜトヨエツはたばこを吸わなければならない心境になったのか。またそれを察して火をつけてあげる老婆の思いと彼女の人生はどうだったのか・・・・・。

 「さよなら」という言葉しか出てこないのに、見ていた人それぞれに、きっとこんな状況なんだろうなと自然に物語をつくらせてしまう、そしてその物語はおそらく悲しいけれど決して未来を否定するものではない物語になるだろうと思わせる、そんな美しいCMでした。

 最近のテレビCMは、うるさいBGMと商品の一方的な押しつけが多いのですが、ほとんど印象に残りません。わずかな時間で印象を与えるためには、押しつけるのではなく、相手に自ら想像する余裕や時間を与えるほうが有効なのかもしれません。

京都大学中森ゼミ同窓会?

 先日、私の恩師である中森先生の刑法ゼミ同窓生で集まる会が開かれました。

 中森先生の研究室に集合して、中森先生に卒業後20年近く経過した京大を案内して頂き、その後懇親会を行うというものでした。中森先生は、京大の法科大学院の初代学院長をおつとめになっただけではなく、副学長・理事として京大全体の運営にも関わっておられます。中森先生は当時の出席簿や名簿、ゼミのレポートまで保管しておられ、驚きました。

 京都大学は、ずいぶんお洒落に変わっていました。私が入試を受けた時計台下の法経一番教室がなくなっていたり、司法試験短答式試験を受験していた教養部の建物がすっかり変わっていたりして、なんだか寂しい気がしましたが、これも時代の流れなのでしょう。テレビドラマ「ガリレオ」の影響からか、修学旅行中らしい女子高生が時計台の写真を写しており、私の学生時代ではとても考えられない光景でしたので印象的でした。

 私を含め、5名が中森先生の京大案内ツアーに参加でき、懇親会には後2名が参加して先生を含めて合計8名で旧交を温めることができました。中森先生をはじめ、ゼミ生だった皆さんも殆ど変わっておられず、また当然、皆さんの性格も以前と変わっていないものですから、すぐに以前のゼミのような雰囲気に戻れました。20年近くもの時を一瞬にして、巻き戻したかのような時間でした。とても楽しい時間を過ごせたと思います。

 私はあまり優秀な学生ではなかったのですが、そのような卒業生に対しても、「そんなん、君、〇〇やないか」と言葉ではばっさり切り捨てながらも、暖かく接して下さる中森先生は、本当に優しいよね、と参加者一同で話していた次第です。 

ハンガリーの子供鉄道

 ハンガリーの首都であるブダペストを訪れた際、子供鉄道があると聞きました。

 鉄道ファンでもある私としては見逃せないということで、乗車してみたのですが、これがなかなか、しっかりしてるんですね。小振りなディーゼル機関車に引かれてトロッコのような客車が走っていて、速度は遅いですが、なかなか良い雰囲気です。ただ、狭い線路巾ですので、乗り心地自体は、悪い方です。

 さすがに、機関車を運転するのは大人ですが、それ以外の切符売り、検札、進行管理(出発の合図)は、全て子供達が働いているようです。しかも、その働きぶりが実に良い感じなのです。

 鉄道の仕事を一生懸命にこなしているという自信、自分たちの1人1人がしっかりしなければ運営できないという責任感、そして何より自分がその仕事をやれることに対する誇りなど、仕事に対する素直で真摯な姿勢がストレートに伝わってきました。また、非常に楽しそうに働いているため、見ているこちらも良い気分にさせてもらいました。 きっと辛いときもあるでしょう。暑さ寒さや、うまくいかない人間関係にさらされるときもあるはずです。

 しかし、子供達はそのようなことを乗客には一切見せません。

 ともすれば、口を糊するために仕事をしてしまいがちな大人が多い中、仕事の意味を理解し、プライドを持って自分の仕事に対して一生懸命に向き合うことの尊さ、そしてその一生懸命さが周囲に与える良い影響を、子供達の働きぶりから見せてもらったような気がします。

「よい子」の苦悩

 少年事件を扱っている際に、事件を起こした少年の両親の反応として意外に多いのは、「あんなに良い子だったのに」というものです。

 そのような少年に接見していると、どうも両親の期待が大きかったり、両親にとって「よい子」を演じすぎてストレスが溜まっていたりすることが多いのです。

 どんな子供でも、自分の親に嫌われたくないと考えています。そこで、親が期待するいわゆる「よい子」を演じることが非常に多いと思われます。ところが、親は子供の必死の演技を見破ることができません。この子は、もともと「よい子」なのだと錯覚してしまいます。そして、親はその子が演じている「よい子」が、本当の子供の姿だと思って、「よい子」であることを前提にさらに、先の課題を与えます。

 ところが、子供にとっては必死で「よい子」を演じて頑張っているのに、その頑張りは当たり前のこととして評価されず、なんらその点については誉められることなく更に次の課題を与えられてしまうのです。

 それでも、親に辛い思いをさせたくない子供は頑張ります。そして親の希望しているであろう内容を実現します。すると、更に次の課題を親は与え、子供は必死に努力してその希望を叶えようとします。そのうち、親は次第になれてきて、「親が希望すればこの子は叶えてくれるのだ」と無意識に思いこみ、親の希望を次々と与えるばかりではなく、その子が努力していても誉めることを忘れ、そればかりか親の希望を叶えられないときは、失望をあらわにします。

 子供としては、親の希望をどれだけ頑張って叶えようとしても、それは当たり前とされ、失敗したときだけ責められるという実にストレスの多い場面に陥っていることがあり得るのです。もともと、心の底から良い子である子供なんて殆どいません。どの子供も親に迷惑をかけたくない、親に好かれたいと思って、一生懸命に良い子であろうとしている子供が殆どです。

 もっと、親がはやく気づいて誉めてあげていれば、ここまで問題が大きくならなかったのではないかと思う場合も少なくありません。

 とはいえ、大人の社会でも、きちんと人を評価することは難しいことです。いつも、ゴミを捨てている人間がたまにゴミを拾っていたりすると、「あいつはええとこもある奴や」と評価されますが、いつもゴミを拾っている人がたまたま急いでいて、落ちているゴミを拾わなかったりすると「あんな奴やとはおもわんかった」と非難されることもあります。

 難しいことですが、生まれながらの良い子などまずいないこと、良い子でいる子は殆どが何らかの形で我慢していることが多いこと、を忘れずに、できるだけその子の努力を分かってあげられるようになりたいものです。

空の青さ

 しばらくブログの更新が出来ませんでした。

 ちょっと重い少年事件がありまして、忙殺されていました。

 私1人の手に負えなくて、同期の森本志磨子先生にも協力して頂いて、チームで担当しました。結果は、良き裁判官・調査官・家裁の医師の先生にも恵まれ、森本志磨子先生のご活躍や、私との連携もかなりうまくいったこともあり、本当に崖っぷちぎりぎりでしたが、試験観察という形で少年にチャンスを与えて頂くことが出来ました。

 審判が終わり、別室で試験観察の説明を受ける前に、少年が小さく「空ってこんなに青かったんや・・・・」とつぶやいた一言と、ご両親と帰宅される際の少年の笑顔が印象に残っています。おそらく少年なりにいろんなことがあったのでしょう。「空の青さ」さえ忘れてしまうようなことがあったのかもしれません。

 でも試験観察は終わりの処分ではなく、最終処分を下す前の試験期間です。少年にとっては、これからもきっと楽な日ばかりではないのでしょうが、試験観察というチャンスをくれたという事実を十分受け止め、「空の青さ」に感動した自分を忘れずに、これからを過ごしてもらえればと思っています。

 急がなくてもいいのです。人間なんだから。

 出来るところから、自分をごまかさず、自分なりに納得するよう歩いていって欲しいなと思っています。

関口知宏の中国鉄道大紀行

 放送時間がかなり遅いのですが、最近気に入って見ているTV番組です(NHK総合)。

 俳優の関口知宏さんが、中国の鉄道網を一筆書き出来る最長ルートで、旅をするという番組です。日めくり版として毎日放送される番組と、中継される番組があります。

 関口さんは、途中下車をしては、現地の方と交流したり、名物を食べたり、名所を巡ったりします。列車の時間が迫ってきて途中で名所をあきらめたりもするのですが、それもご愛敬で、毎日見ていても飽きない番組です。

 結構鉄道が好きな私は、出張帰りに寝台特急を使ったりします。一昨年は北海道大学での日本刑法学会の帰りにトワイライトエキスプレスに乗りましたし、東京出張の帰りに時々寝台特急のB個室を利用して帰ってくることもあります。

 寝台特急のB個室は、B寝台と同じ料金でしたから、「のぞみ」に乗るのとそんなに変わらない値段で、誰にもじゃまされない6~7時間が過ごせるというわけです。発車後は、夕暮れの街の景色を長め、日が落ちるとのんびりポテトチップでもつまみながら、ミステリーを読むこともあります。仕事の電話もかかってこないし、寝台車ですから、ごろ寝をするのも自由です。車窓の風景を眺めながら、いろいろなことを考えるのも結構楽しいものです。

 最近は何でもスピード化・合理化されてしまい、とにかく目的地に着くことだけが優先されているような気がします。目的地に着くまでの道中や、その旅の過程でなにかを想うことは、意外に大事なのではないでしょうか。

 私は、今でも遠方に出張した際、うまく寝台特急で帰れる場合などは、ちょっと得した気分になります。

 さて、番組の昨日の放送では、関口さんは、ハルピンを散策されていました。今日はどんな街を訪れることになるのか、ちょっと楽しみです。

朝日新聞の社説

 富山県でのえん罪事件に関して、朝日新聞の社説で書かれていました。その副題として、「弁護士の責任も重い」と大書されています。社説を書かれた方が弁護士の責任として指摘されていると思われる部分を以下に引用します。

(前略) 

 当時の弁護活動にも重大な問題がある。接見で否認していた男性が再び自白に転じたことに、国選弁護人はなぜ疑問を持たなかったのか。そもそも被告の言い分に十分耳を傾けたのだろうか。

 弁護士は被告の権利を守るのが仕事だ。その責任を果たしたか疑わしい。

(後略)

(2007.10.12付朝日新聞朝刊、社説欄より部分的に引用)

 私はこの事件の詳細は把握できていなのですが、いきなり「当時の弁護活動に重大な問題がある。」と断言する社説執筆者には驚きました。重大な問題があると断言する根拠はなんだろうと思ってその後を読んでみると、「疑問を持たなかったのか」「十分耳を傾けたのだろうか」と弁護活動に重大な問題があった根拠を示す事実ではなく、執筆者の疑問だけを記載しているのです。

 確かに、社説執筆者が当時の弁護人に確認を取るなどして、「明らかにおかしい状況にありながらなんの疑問も持たず漫然と弁護活動をしていた事実があった」とか、「被告人が弁護人に対して無罪主張をしているにもかかわらず弁護人が無視した事実があった」という裏付け事実があれば確かに弁護活動にも重大な問題があった可能性が出てきます。

 しかし、社説にはそのような裏付け事実は一切記載されていないので、事実に基づかず一方的に「弁護士の責任も重い」と社説執筆者は結論づけているように読めます。極論すれば、「事実はどうか分からんが、何となく変な気がするから責任があるに決まっている」と決めつけているように受け取れるのです。

 社説はあくまで会社の意見でしょうから、会社がそう考えたと言われればそれまでです。しかし、マスコミは世論形成に多大な影響力を持っています。その影響力あるマスコミが、会社の意見としてある職業を非難されるのであれば、確たる根拠に基づいて非難するのが筋ではないでしょうか。

 そして何より、えん罪の最大の原因(自白強要や人質司法、裁判所の書面偏重など)を問題視し、世論に訴えて改善につなげていくことが最も肝要なのではないでしょうか。

ps 蛇足ですが、前もブログに書いたとおり、「被告人」と「被告」は、全く異なる概念です。刑事事件で訴追されている人は「被告人」です。

おめでとう、キミ・ライコネン選手

 自動車レースの最高峰といわれるF1世界選手権で、昨日最終戦であるブラジルGP(グランプリ)が開催されました。

 F1GPでは、優勝者に10ポイント、2位に8ポイント、3位に6ポイント、以下4位から8位まで5~1ポイントが与えられ、年間の合計ポイントでワールドチャンピオンが決定します。

 前回の中国GP終了時点でのドライバーズポイントは、驚異の新人ルイス・ハミルトン(イギリス・マクラーレン)が107ポイント、昨年の王者フェルナンド・アロンソ(スペイン・マクラーレン)が103ポイント、そしてキミ・ライコネン選手(フィンランド・フェラーリ)は100ポイントちょうどでした。

 つまり、キミ・ライコネン選手は、逆転優勝するには優勝か2位に入り、しかも、マクラーレン所属の2名のドライバーが高ポイントを得られない場合に限定されるという非常に厳しい状況にありました。

 しかし、キミ・ライコネン選手はピット作戦を上手く利用して同僚のフェリペ・マッサ(ブラジル・フェラーリ)を抜き去り、見事優勝しました。そして、アロンソはフェラーリ程の速さを出すことが出来ず3位で合計109ポイント、ハミルトンはまさかのギアトラブルで7位に終わり109ポイント、ライコネン選手は優勝により10ポイントを加え、合計110ポイントで、わずか1ポイント上回り、念願のワールドチャンピオンを手にしました。

 私は、一昨年のライコネン選手の鈴鹿での走り(ものすごい追い上げの末、最終ラップでフィジケラ選手を豪快に、私の目の前でパスしました)に魅せられ、ファンになっていました。一昨年に続き昨年も鈴鹿サーキットに出向き、kimiとロゴの入った帽子とフィンランド国旗を買い求めて応援しましたが、その年は結果が出ませんでした(今年は富士SWに開催地が変わったので、観戦には行けませんでした)。

 現役最速といわれながら、ツキに見放されワールドチャンピオンに手が届かなかったライコネン選手が、ようやく手にした栄冠を、私は素直に素晴らしいと思います。

 特に今年は、シリーズ中盤にはハミルトン選手に大差をつけられ、通常では逆転不可能と思われた時期もありました。しかし、途中大事故に見舞われながらも、不屈の精神で戦い続けたライコネン選手の姿勢には拍手を送りたいと思います。

 なお、現時点でマクラーレンチームが、4位~6位を占めたBMWチーム・ウイリアムズチームの燃料の温度が規定より低かったと抗議しているようで、万一抗議が認められ4~6位の入賞者がレースから除外されると、ハミルトン選手の順位が繰り上がり4位になる(この場合はハミルトン選手がワールドチャンピオンになります)可能性もゼロではないため、手放しでは喜べません。しかし、いずれにせよ最後まであきらめない努力が奇跡的な逆転をもたらすのだということを、改めて教えて頂いた気がしています。

追悼 阿部典史選手

 天才ライダーと称された「ノリック」こと阿部典史選手が、10月7日交通事故で亡くなられました。

 若い頃から天才の名をほしいままにし、最年少で全日本500CCを制覇。この頃は私もバイク乗りでしたので、バイク雑誌を読んでは、凄いライダーが現れたものだと、注目していました。その後、阿部選手は世界へと活躍の場を広げ、1996年にWGPで優勝した際に大きく報道されたことは記憶に残っている方も多いと思われます。現在でも全日本に参戦し、国内を転戦している最中でした。

 天才のあまりに早すぎる死に、残念としか言いようがありません。

 報道によると交通事故原因は、Uターン禁止の場所で4トントラックがUターンをしたため、後ろからバイクで走行してきた阿部選手がかわしきれず接触してしまったようです。

 このように、プロのライダーですら避けられない事故が公道では起こりえます。サーキットと異なり、ある程度の技術を持った人だけが走行しているわけではないですし、路面が荒れていることもあります。さらに全ての車両・歩行者が交通ルールを厳守する保証もなく、さらに体調不十分・注意力不十分なドライバーでも公道で走行していることは十分あり得るからです。

 阿部選手のご冥福をお祈りすると同時に、公道での運転の恐ろしさを改めて教えて頂いたような気がしています。