「よい子」の苦悩

 少年事件を扱っている際に、事件を起こした少年の両親の反応として意外に多いのは、「あんなに良い子だったのに」というものです。

 そのような少年に接見していると、どうも両親の期待が大きかったり、両親にとって「よい子」を演じすぎてストレスが溜まっていたりすることが多いのです。

 どんな子供でも、自分の親に嫌われたくないと考えています。そこで、親が期待するいわゆる「よい子」を演じることが非常に多いと思われます。ところが、親は子供の必死の演技を見破ることができません。この子は、もともと「よい子」なのだと錯覚してしまいます。そして、親はその子が演じている「よい子」が、本当の子供の姿だと思って、「よい子」であることを前提にさらに、先の課題を与えます。

 ところが、子供にとっては必死で「よい子」を演じて頑張っているのに、その頑張りは当たり前のこととして評価されず、なんらその点については誉められることなく更に次の課題を与えられてしまうのです。

 それでも、親に辛い思いをさせたくない子供は頑張ります。そして親の希望しているであろう内容を実現します。すると、更に次の課題を親は与え、子供は必死に努力してその希望を叶えようとします。そのうち、親は次第になれてきて、「親が希望すればこの子は叶えてくれるのだ」と無意識に思いこみ、親の希望を次々と与えるばかりではなく、その子が努力していても誉めることを忘れ、そればかりか親の希望を叶えられないときは、失望をあらわにします。

 子供としては、親の希望をどれだけ頑張って叶えようとしても、それは当たり前とされ、失敗したときだけ責められるという実にストレスの多い場面に陥っていることがあり得るのです。もともと、心の底から良い子である子供なんて殆どいません。どの子供も親に迷惑をかけたくない、親に好かれたいと思って、一生懸命に良い子であろうとしている子供が殆どです。

 もっと、親がはやく気づいて誉めてあげていれば、ここまで問題が大きくならなかったのではないかと思う場合も少なくありません。

 とはいえ、大人の社会でも、きちんと人を評価することは難しいことです。いつも、ゴミを捨てている人間がたまにゴミを拾っていたりすると、「あいつはええとこもある奴や」と評価されますが、いつもゴミを拾っている人がたまたま急いでいて、落ちているゴミを拾わなかったりすると「あんな奴やとはおもわんかった」と非難されることもあります。

 難しいことですが、生まれながらの良い子などまずいないこと、良い子でいる子は殆どが何らかの形で我慢していることが多いこと、を忘れずに、できるだけその子の努力を分かってあげられるようになりたいものです。

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