団藤メモによる大阪国際空港騒音訴訟判決への介入に関して~2

 特にモンテスキューは、「恐るべき裁判権」と表現していて、裁判権を行政権から分離させた方が良いと考えていました

 モンテスキューが目にしていた当時の裁判は、官房司法(君主が行う裁判)と呼ばれ、政府が行う行政の一環として裁判がなされていました。もちろん政府が裁判を行うわけですから、当然政府の味方をする裁判であり、決して公平・公正な裁判ではなかったのです。ですから国民が、政府相手に裁判を起こしても結果は政府の勝訴とほぼ決まっており、決して公正な裁判は行われず、国民は裁判では救われないし、他に救われる道も見出しにくい状況でした。

 このような裁判が行われる国では、政府がどれだけ国民の人権を踏みにじっても、裁判で政府の行為を正すことができないので、国民の人権は守ることはできません。

人権保障に反するのです。

 また、モンテスキューの時代ではなく、近代の立憲民主国家であっても、選挙で多数を占めた人たちの意向で法律は決まりますし、行政は法律に従って実行されますから、力の強い人たち(多数派)が政治部門(立法・行政部門)では優位に立っていることになります。

 多数派の人たちは、自分達にプラスになるように法律を作ったり、行政を行いますから、その過程で少数派の人たちにマイナス面を与える場合もあります。

 このような場合、多数派ではなく、少数派の人たちの人権をどうまもればいいのでしょうか。
 多数派が決めたことがどんなに少数派にとって理不尽でも、少数派の人たちは従わなくてはならないのでしょうか。
 仮にそうなら、少数派の人たちの人権は保障されているとはいえません。

 近代国家では、少数派の国民の人権を無視して良いわけではありません。国民は個人として尊重されますから、多数派だけでなく国は全ての国民の人権を保障する必要があります。
 とはいえ、先程述べたように政治部門(国会・内閣)では、どうしても多数派の意向に添わざるを得ない状況は変えられません。

 このように、政治部門が多数派の意見に添わざるを得ないことは動かせませんから、その状況下でどうやれば、少数者を含めたすべての国民の人権保障ができるのでしょうか?

 これは難題といえそうです。

 でも、裁判所(司法権)が、多数派(政治権力)に全く影響をうけないのであればどうでしょう。

 裁判所においてだけは、政治的な力の強弱ではなくて、どちらの主張が理に適っていて正しいのかという面だけで判断してくれる、すなわち裁判所が権力に影響されない公平な立場で、公正な判断をしてくれるのであればどうでしょう。

 仮に多数派の人たちが政治勢力により、少数派の人たちを理不尽な目に遭わそうとしても、裁判所により少数派の人たちの人権が守られる可能性が出てくるのではないでしょうか。

 だからモンテスキューは、人権保障のために、裁判について、他の権力からの影響をゼロにしたかったのだと考えられます。

 多数派に牛耳られることのない裁判所(権力に影響されない、純粋な法原理機関としての裁判所)が、多数派の意向ではなく、どちらの主張が理に適っていて正しいのかという観点だけから判断をして判決するのであれば、(少数派を含めた)全国民の人権保障に役立つはずです。

 裁判所が人権保障の最後の砦といわれるのは、概ねこのような理由もあるからです。

 日本国憲法も司法権の独立(裁判官の独立)を明言し、他の権力が裁判に影響を及ぼすことを禁じています。

(続く)

団藤メモによる大阪国際空港騒音訴訟判決への介入に関して~1

 先日、大阪国際空港騒音訴訟最高裁判決について、団藤重光元最高裁判事のメモから、司法権に対する行政の介入があったのではないかと問題になっています。

 多くの人から見れば、「へ~、昔はそんなことあったんだ。」で、済ましてしまう報道かもしれませんが、実は司法権への行政(国家権力)の介入は大問題なのです。

 私なりの理解(私は憲法学者ではないし、報道しか情報がないので間違いがあるかもしれませんが、その点は予めご容赦ください。)から、問題点について大雑把に少し説明したいと思います。

 日本は国民主権ですから、国の帰趨を決定する権限は最終的には国民が有しているということになります。ただ、国の権力である、立法権・行政権・司法権、はそれぞれ国会・内閣・裁判所と3つに分けて与えられています。

 このことを三権分立と呼ばれることは知っているでしょうし、多くの人は中学校などでも習った記憶があると思います。

 そもそも三権分立はフランスの哲学者モンテスキューが「法の精神」という本の中で提唱したものです。モンテスキューは、国家の権力を立法・行政・司法の三権に分けて権力の集中を避け、更にそれぞれの権力がお互いを監視し合うことによって、国家権力の暴走を防ぎ、国家権力による人権侵害を防ごうとした目的だと考えられます。

 極論を言えば絶対王政の国では、絶対君主が自分の都合で法律を作り、自分の都合で法律を執行し、自分の都合で裁判ができたわけです。

 たとえば、そのような絶対王政の国家で、王様が、行列の際に見かけた坂野の顔がどうも気に食わず、王様に「あいつ(坂野)は気に食わん」と思われたらどうなるでしょうか。

 王様は、私の行動の自由や財産を奪う法律を作ったりして(立法)、私の身柄を拘束したり財産を奪ったりすることもできますし(法律の執行≒行政)、私が「王様の行動はおかしいので止めさせてください」と裁判所に訴えても、その裁判も王様の都合で判決が出せますから、判決は王様の勝ちになる(司法)、ということになります。

 つまり、坂野でなくても、その国の誰もが、どんな理由であれ王様に睨まれたらもう助からないことになってしまうのです。

 これでは、その国の人々は王様を恐れてビクビク暮らさざるを得ず、国民の人権は到底守れません。

(続く)

荒井秘書官更迭に思う

 【荒井勝喜・前総理大臣秘書官は、3日夜、オフレコを前提にした記者団の取材に同性婚をめぐって「見るのも嫌だ」などと発言し、その後、不適切だったとして撤回し、謝罪しました。
 しかし、岸田総理大臣は、多様性を認め合う包摂的な社会を目指す政権の方針とは相いれず、言語道断の発言だとして4日、荒井氏を更迭し、後任を決定しました。】
(NHK NEWS WEB より引用2023年2月5日 5時57分)

 これはあくまで、上記記事を見ただけでの、(弁護士としてではなく)私個人としてのボンヤリとした感想だが、やりすぎなのではないかと考えている。

 今回の荒井秘書官の発言は、オフレコを前提にしたものだと報道されている。オフレコという言葉の意味にも幅があるようだが、一般的には、非公式の発言であり記録や公表しないことを条件に発言することを意味することが多い。
 つまり、オフレコ前提での今回の荒井秘書官の発言は、公式の発言でもないし、記録・公表されないことが前提で、敢えて本音を問われた際の、素直な内心の吐露であったと見るべきだと、私は思う。

 近時LGBTについて、様々言われているが、確かに、性的マイノリティであることを理由に差別をすることは、もちろんすべきではないことは分かる。

 しかし、今回の荒井秘書官の発言は、性的マイノリティの方の存在に個人的に違和感を感じていることを、オフレコで表明したもの、つまり「オフレコの条件で申し上げますが、私の内心はこういう思いなのです」、という発言だと私は受け取った。

 私の上記の推測が正しかったと仮定して感想を続けるが、この荒井秘書官の発言を根拠に(岸田首相によると「言語道断の発言」とのこと)、彼を更迭することが正当化されるなら、荒井秘書官が性的マイノリティの方に対して違和感を持つ自由すら許さない、いわば内心(思想?)の強制に繋がる危険があるのではないかと思われる。

 この点、性的マイノリティの方に違和感を持つことすら、許すべきでないと主張する方もいるかもしれない。
 しかし、憲法24条に婚姻は「両性の合意」のみに基づいて成立すると規定されているように、憲法自体が、婚姻は男性と女性の合意を前提としている。
 同性婚に関する大阪地方裁判所令和4年6月20日判決も、「憲法24条の文理や制定経緯等に照らすと、同条1項における「婚姻」は、異性間の婚姻のみを指し、同性間の婚姻を含むものではないと認めるのが相当である。」と判断している。

 このように、婚姻は男性と女性という異性間でなされるということが常識であった社会が、有史以来長らく続いてきたのだ。

 そうだとすれば、現時点で、性的マイノリティについて、違和感を持つ人がいても何ら不自然ではない。

 もちろん、その違和感を、現実の差別につなげてはならない。

 しかし、社会の構成員に要求できるのはそこまでであって、人の内心は自由であるべきである。
 ある事柄について、違和感を持つことすら許されない社会は、どこかおかしいのではないか。

 おそらく、野党は首相の秘書官任命責任を追及するだろうが、私は荒井秘書官の今回の発言は、オフレコ前提での発言である上、彼が現実的に上記発言に沿って性的マイノリティの方に何らかの差別的扱いをしたわけではないことから、なんら責任を問うべきではないと考える。

 むしろ、オフレコだからといって荒井秘書官の本音を引きだしておきながら、その発言をリークして問題化させた記者団にこそ、発言者と取材者との間の信頼関係を引き裂いた、大きな問題と責任があるように私は思う(発覚の経緯の詳細は不明ですが、記者団の参加者がリークしたと考えるのが合理的なので、記者団の問題と考えています)。

 岸田首相も、荒井秘書官を更迭する前に、当該発言は、あくまで職務上の見解ではなくオフレコでの個人の見解に過ぎず、性的マイノリティの方に何ら差別的取扱をしたわけでも、現実の不都合を与えたわけでもないということを示して、秘書官を守るべきだったのではないか。

 部下を守らず、切り捨てておいて、なにがボスだ。

 野党も、首相の任命責任追及とかで大いに盛り上がっているようだが、他に、もっとやるべきことがあるんじゃないのか。

真冬のダッハウ強制収容所(写真と本文は関係ありません)

吉田神社 節分祭 (「鈴鹿さん」のご祈祷)

 京都の吉田神社は、私の母校である京都大学のすぐ近く、吉田山にある。

 私は、あまり真面目な学生ではなかったので、天気が良すぎるという理由で授業をサボって吉田神社境内を散策したり、クラスメイト(法学部でも第2外国語等の選択によりクラス分けがあった。)から答えの出そうもない悩みを聞かされながら、吉田山に登ったりもしたものだ。

 基本的に無神論者である私だが、知人から数え年42歳の厄年の際に祈祷は受けておいたほうが良いと言われて出かけてから、吉田神社での節分祭には、都合のつく限りほぼ毎年出かけるようにしている。今年も昨日(2月2日)に参拝してきたところである。

 もちろん、参道に並ぶ多くの夜店をぶらぶら見ることも楽しいのだが、一番のお目当ては、普段は立ち入ることができない大元宮内院本殿(おそらく)での厄除けのご祈祷を受けることである。

 吉田神社の大元宮の御神徳は、以下のとおり。
「吉田神道の教義により宇宙軸を現す大元宮は、始まりの神(虚無大元尊神)を中心に祀り、そこから生まれ来る八百万の神々を祀る事で、全国の神々を祀る社として、様々な御神徳をお授け下さいます。」(吉田神社HPより引用)

 全国の神々を祀る社で、ご祈祷を受けるのであれば、全国どこに行っても守られるはずである。

 さらに、最近は、おそらくご祈祷の担当を何人かで分担されており、おそらくシフトを組んでおられると考えられるため、ご迷惑をおかけしてしまうのだが、可能であれば、祈祷をして下さる方を、「鈴鹿さん」にお願いすることにしている

 他のご祈祷担当の方には申し訳ないが、鈴鹿さんのご祈祷は、私個人としては一等優れているように感じるからだ。

 大元宮の内院本殿で行われるご祈祷だが、周囲には多くの参拝者がいるため、本殿の中にも外の参拝者の話し声がざわざわと聞こえてきて、途絶えることがない。特に大元宮には、各地方の神様が祀られているため、自分の出身地の神様を探してお参りする人が多く、結構騒々しいといっても良いくらいである。

 しかし、鈴鹿さんが祝詞をあげはじめると、実際には途絶えることがない周囲のざわめきが、さーっと引いていき、私には聞こえなくなるように感じるのだ。
 うまくたとえることができないのが残念だが、鈴鹿さんの祝詞がはじまると、まるで、現世の雑音や世俗の様々な出来事を遮断する、神様の清浄な領域が鈴鹿さんを中心にして現れ、本殿を満たし清めていくようにも感じられる。
 そして、その清浄な領域で響く鈴鹿さんのお声は、どこまでも、よどみなく清んでいるのである。
 鈴鹿さんの優雅で品のある所作を拝見しながら、ご祈祷して頂いている間、本殿に満たされた清浄な空間を全身で感じ、世俗の垢を本当に落として頂いた気分に、私はなれるのであ

 一緒に鈴鹿さんの祝詞を聞いた人によれば、「【朗々】って言葉は知っていたけど、鈴鹿さんのお声で、その言葉の意味を人生で初めて実際に体験することができた。」という感想だった。

 この特別な感覚を、感じたいがために、私は毎年吉田神社の節分祭に通ってしまうのかもしれない。

 吉田神社の節分祭は、本日(2月3日)が当日祭であり、明日が後日祭である。私は基本的には無神論者であるが、もし可能であれば、特別な神域を感じることが出来るかもしれないので、大元宮でご祈祷を受けてみることをお薦めしたい。

吉田神社で頂いたお札

高級車に乗る人は、バスに近寄らないことをお勧めします。

 いつもお世話になっている市バス等ですが、バスから事故(例えば追突)を受けた際の賠償については、あまりご存じないと思います。

 そんなのバス会社の保険から全額賠償してもらうのが当たり前じゃないの、とお考えのあなた、必ずしもそうではないのです。

 もちろん、市バスも公道を走る自動車ですから、自賠責保険に加入していなければなりません。
 ただし、自賠責は、対人に限定されており、補償額も3000万円(死亡時)、120万円(傷害時)、75~4000万円(後遺障害時)が限度であって、それ以上の損害があっても、これ以上のお金は自賠責保険からは支払ってもらえません。
 また、物損については、自賠責は全く関係がないので、追突されて車が壊れても、車の修理代については自賠責保険からは1円も支払ってくれません。

 自動車事故の損害は、自賠責が支払ってくれる範囲でおさまらない場合も多いので、そこをカバーするものとして任意保険があることは皆様もご存じのとおりです。
ところが、任意保険は、保険でカバーする範囲が広ければ広いほど、保険料も高くなります。例えば、対人補償5000万円の保険よりも、対人補償無制限の保険の方が保険料は高くなります。

 では、バス会社も、任意保険に加入しているのでしょうか。

 実は、平成17年4月28日に出された、国土交通省告示第503号により、地方公共団体が経営する場合を除き、旅客自動車運送事業者は、対人8000万円以上(一般貸切旅客自動車運送事業者は無制限)、対物200万円以上の補償がある任意保険に加入することとされています。

 ただ、任意保険の補償金額を、対物も無制限とすると任意保険の掛金が馬鹿高くなってしまうので、バス会社も経営上の観点から、補償金額を高額に設定しない場合が多いと思われます。

 以上から、例えば1000万円の高級車に乗っていてバスに追突され、車が壊れた場合、バス会社の任意保険でカバーされるのは、おそらく、200~300万円までの場合が多く、その金額を超える分については、バス会社に対し直接支払うよう交渉しなくてはならない可能性が高いということです。
 
 追突されたのはこっちなのに、いざ請求をしてみたところ、バス会社から、経営が苦しくて払えないと言われる可能性もゼロではありません。
 その場合には、訴訟を起こして判決を得て、強制執行をしないと自動車の修理代も得られません。訴訟の費用や時間も馬鹿になりませんし、強制執行をしてもバス会社に本当に財産がなければお金は取れません。実質、泣き寝入りに近い形になるおそれ
もあるのです。

 以上から、高級車に乗っておられる方には、バスを見たら、物損200万円くらいの任意保険しかかかっていない大型車だ、とお考えになって、あまり近寄らないことをお勧めします。

おそらくバイキングの船をモチーフとした作品(レイキャビク~アイスランド)

※写真は記事とは関係がありません。

今朝の出来事

 

 私の事務所が入っているビルには、私の知る限り、トイレ清掃等の関係の仕事をされている方が男女で2人いらっしゃる。

 お二人とも、見たところ高齢であり、大変だなぁ・・・と私は感じているので、会えばだいたい「お疲れ様です」と挨拶することが多い。

 今朝は、たまたま、女性の清掃の方とエレベーターで一緒になった。

 私が、何階に行かれますか?と聞いて、6階です、とのことだったので、ボタンを押してあげて、扉が閉まった。

すると、その方から、ボタンの御礼の後に、

「昨日のサッカー、良かったですねぇ」と話しかけてこられた。

 私も、大逆転勝利となった昨日のW杯ドイツ戦を見ていたので、

「ドイツ戦の逆転勝利でしょ、いや~私も、ガッツポーズしながら見てましたよ~」

と返したところ、

「いつも、普段、あんまり良いことがないから、久しぶりに、いい気分になりました・・・」

と、ぽつり、とお答えがあった。

 その方の仰る「普段あまり良いことがない」というのが、日本全体のことなのか、彼女の人生のことなのかは、私には、はっきりしなかった。

 でも、サッカー日本代表の活躍が、様々なところで人々に感動や勇気を与えている事実だけは、痛いほど実感できた、今朝の出来事なのであった。

 

上高地

 上高地は、黒部峡谷と並んで、日本で僅か2箇所しかない、特別名勝・特別天然記念物の双方に指定されている、景勝地である。

 30年以上前の学生時代にバイクで出かけた際には、河童橋のたもとまでバイクで乗り入れることが可能だった。釜トンネルは狭いだけでなく上りが、かなりきつくて驚いたが、それを抜けた後は素晴らしい景色を堪能しながら走った記憶がある。ただ、自家用車でかなり渋滞していたのは事実であった。

 河童橋のたもとで景色を見ていたら、1人のおばちゃんにシャッターを押してくれと頼まれ、いいですよ~と答えたところ、「そしたら私も」「○○さんがするなら私も」・・・・と20人近いおばさん集団全員にシャッターを押すよう依頼されたというなんとも困った体験もしたものだ。

 現在では、通年自家用車規制がなされているため、一般車両は釜トンネルに入れない。長野県側なら、沢渡駐車場、岐阜県側なら、あかんだな駐車場に車を止めて、バスかタクシーを利用することになる。立派なトンネルもできており、かつてはつづら折りのヘアピンカーブを幾つもこなす必要があったが、その状況は、今は大きく改善されている。

 昼間の上高地も、もちろん美しいが、もし可能なら上高地に宿泊することをお勧めする。

 多くの観光客が帰った後の静かな河童橋や、天気が良ければ、焼岳の残照、月光に浮かぶ夜の穂高連峰、早朝の大正池の雰囲気など、宿泊した者でなければ体験しにくい景色が、上高地には多いのだ。

 立地条件から、設備やサービス以上の料金が求められる上高地価格になってしまうのは残念だが、お天気に恵まれれば、泣きたくなるような景色に出会える可能性が高いと、私は思う。

焼岳の残照(2022.11.06)

雀のお宿

 

 確か、日本昔話の舌切り雀に、おじいさんが雀(スズメ)のお宿を探す話があったと記憶している。まあ雀のお宿なんて、お話だけだろうと私も思っていた。

 ところが、実は近所に、雀がねぐらにしている木があり、日暮れ近くになるとスズメが群がって騒いでいるのをよく目にする。雀がねぐらにしているのだから、これが本当の雀のお宿と言って良いような気がする。

 近所のコンビニのすぐ近くにある道路沿いの銀杏の並木のうちの一本が、私の知っているスズメのお宿である。銀杏並木なので、すぐ近くにも別の銀杏の木があるのだが、どういうわけか雀たちは、その1本だけに執着しているようなのだ。

 夕方近くになると、それぞれの雀が、銀杏の木の中で、より良い寝場所を奪い合っていると思われ、チュンチュンと鳴きあう声と羽ばたきで、かなり騒々しい。寝るのには明るすぎるコンビニの近くではあるが、近所の糺の森(下鴨神社)にはフクロウなどがいるので、夜間に襲われたりしないように、敢えて人間の居住領域の近くに集まるのだろう。
 夜になると流石に静かになるが、それでも雨が降っている際などには、時折雨に直撃されて驚いたのか、チュ、チュンと小さく鳴く雀もときどきいる。

 子供の頃であれば、雀たちの寝静まった頃を見計らって銀杏の木に蹴りを入れて、雀を脅かしてやろうと、ちょっと悪い悪戯も考えたかもしれないが、さすがに今はそのようなことはない。
 小さな白い雀の糞が、銀杏の木周辺にかなりの頻度で散らばっているのが少し不衛生な気がしてしまうのだが、逆に言えば、頻繁に宿替えをしてあちこちの銀杏の木の下を糞だらけにするよりは、良いのかもしれない。

 ただ京都市では、銀杏の並木が落葉を散らす前に、枝を切ることが多かったように記憶しており、銀杏の伐採により丸裸になった銀杏の木では、夜間に外敵から身を守るという雀のお宿の役目は果たせなくなる。

 今年はどうだろうか。

サン・ミケーレ島(ブログ記事とは関係ありません。)

あるゴルフコンペでの疑問

 ゴルフのスコアは、打数で示されるが、そのスコアは低い方が優秀である。つまり、普通なら5打でボールをグリーン上のカップに入れるように設定されているホール(PAR5のホール)において、4打でカップに入れることが出来れば、5打でカップに入れた人よりも優秀だといえるからである。

 それはさておき、先日、あるゴルフコンペに参加させて頂いた。

 競技方法は、申請ハンディ戦とされているが、実質的には何度か参加したスコアを元にハンディキャップが定められ、グロス(実際のスコア)から、ハンディを差し引いた数値(ネット)で、順位を決めるコンペだった。

 同順位の場合は、ハンディ順・年長順とされており、同ネットの場合は、ハンディが少ない人の方が上位、ハンディも同じなら年長者が上位に来るという決まりだそうだ。

 まあ、同じネットなら、ハンディが少ない人の方が頑張ったと言える。

例えばハンディ10の人と、ハンディ20の人が同ネット(例えばネット70)であった場合、
ハンディ10の人の方は(グロス80→ネット=80-10=70)
ハンディ20の人の方は(グロス90→ネット=90-20=70)
となるから、実際にはハンディ10の人の方が10打少なくホールアウトしていることになる。

 だから、同ネットの場合、ハンディが少ない人の方が上位に来るということは、実際のスコアを見ればそれだけ実際に少ない打数でホールアウトするよう頑張っていたことが分かるので、理解できる。

 また、同ネットの場合、年長者の方が年齢から来る体力的ハンディにも負けずに頑張ったのだという点を評価して、年長者上位ということも理解はできた。この点、血糖値のために歩くよう医者から指示されて、50歳を過ぎてからゴルフをはじめたゴルフ歴が短い私からすれば、ゴルフ歴50年の70歳の方に確実に負けるので、年齢よりもゴルフ歴の長短で評価して欲しいとの希望もないではないが、一般的には年齢基準は、まあ納得できる。

 ゴルフは紳士・淑女のスポーツとされており、より頑張った人を上位に評価するという姿勢は理に適っているように思えたからである。

 ただ、そのコンペでは、ベストグロス賞(実際に最も少ない打数でホールアウトした人に贈られる賞)も設けられていた。

 そして、たまたま、同じグロスでホールアウトした方が2名いて、その順位について、主催者側は、同順位はハンディ順なのでという説明で、ハンディが少ない人をベストグロス賞に認定した。

 他のゴルフコンペを殆ど知らないので、それが普通なのかどうか分からなかったが、私としては、非常に違和感を感じた。

 つまり、同ネットの場合は、実際に、より頑張った人を上位に評価する手法を採用している。
 それと同じように考えれば、ハンディが少ない上手な人と、ハンディが多いあまり上手ではない人が、同じ打数で実際にホールアウトした場合、そのコンペでより頑張ったといえるのは、ハンディの多い、あまり上手ではない人の方ではないのだろうか。
 そうだとすれば、ベストグロス賞はむしろ、ハンディの多い人が受賞すべき賞になるのではなかろうか。

 もちろん、そのコンペは相当昔から開催されているコンペであるし、私だって大人だし、私自身ベストグロス賞など程遠い下から3番目のグロス値で全く関係なかったこともあり、その場で意見を申し立てることもせず、受賞された方を拍手で祝福していたが、違和感が解消できずにいた。

 他のコンペのことは良く知らないが、より頑張った人を表彰するのなら、やっぱりベスグロ賞の同点の場合は、ハンディが多い人を優先すべきではないかと思うのだけれど、どうだろうか。

司法実践演習A

 

 今年も関西学院大学法学部で、司法実践演習Aを担当させて頂くことになり、前回はガイダンスだったが、今回から演習に入っている。

 私としては、勉強なんて自分がやらなければならないと思ってやらない限り、全然伸びないし、身につかないので、あれやれ、これやれ、と学生の尻を叩く課題攻めなどしても無意味だと思っている。

それよりも、ペットに関する法律問題を主な題材にして

ひょっとして法律って面白いかもしれね~な?

ちょっと調べてみようかな?

と思えるように、学生に法学一般に興味を抱かせるような内容にしたいと思っている。

だから私の演習では、どんなにトンチンカンな答えをしても、成績には全く影響しないと最初に明確にしている。

今回は、ペットの法律上の地位に関係して、民法ではどう扱われるのかを、その周辺の知識も含めて明らかにしているところだ。

民法は、物とは有体物をいうと定めているが(85条)、

それなら、有体物って何なんだ?

今流行のビットコインは物といってよいのか?

ビットコインを不正アクセスで失った人が購入代理店に対して寄託契約(657条)だから返せと迫っても認められるか?

など、条文から派生的に質問し、発展していくことを中心にしている。

もう15年近く講座を持たせてもらっており、レジュメも少しずつバージョンアップしているのだが、学生さんとのやり取りを中心に据えている演習なので、どこまで上手く行くかは、学生さんのやる気・積極性にも依ったりする。

さて、今年は良い方向で進められるだろうか・・・。