思い出すことなど~駅伝

 昨日、高校駅伝・高校女子駅伝をやっていた。高校生が一生懸命、都大路を駆け抜ける姿は、京都の師走の風物詩になっている。

 今でこそ中年太りの私だが、実は中学時代は、太地中学校の駅伝の選手として東牟婁郡・新宮市の大会で走ったことがある。

 しかし私は、抜群に長距離が速いというわけではなかったと思う。種明かしをすると、私の通学していた太地中学校は、1学年2クラスしかない小規模中学校であったため、私も選手になるチャンスがあったと言うことだった。

 現在では安全の見地から太地町内の周回コースを使う駅伝大会になっているそうだが、当時は中学生の大会にしては本格的で、国道42号線を使って駅伝大会が行われていた。

 私は2区の担当だった。1区を6位で走ってきたO君が、たすきを渡すと同時に背中をぽんと叩いてくれた。

 走り出す前の緊張と心の高ぶりは、覚えているが、走っている途中に何を考えていたのか、今では思い出すことはできない。

 ただ、国道沿いの空き地に両親と父方の祖母、母方の祖父母が応援に来ていて、私の父親がカメラを片手に何かを叫んでおり、母親と祖父母がこちらを見ていたことは覚えている。後で両親に聞いたところでは、祖父母は何故か泣いていたそうだ。

 今でも国道42号線で自分の走った区間を自動車に乗って通ると、当時の記憶がよみがえる。

 幸い私は、6位を維持し5位の中学校に、あと一歩というところまで迫って、3区の選手にたすきを渡すことができた。

 後の選手の頑張りもあり、最終的には、太地中学校は3位に入賞した。選手と控えの選手には、賞状の白黒コピーが一枚ずつ配られた。そんなにきれいにコピーされていたわけではなかったが、嬉しかった。

 駅伝は、ある意味残酷である。どんなに早く走れる選手がいても一人では決して勝てない。体調が全員整っている保証もない。みんなが頑張っても、一人の不調で順位が大きく下がることもある。むしろ一人で走る方が、全ての責任は自分でとればいいのだから気は楽だ。

 しかし、だからこそ、みんなで勝ち取った勝利は素晴らしいものになるのだろう。そして勝利を得られなかったとしても、みんなで一緒に戦ったその記憶は、必ずや思い出という何物にも代え難い宝物になるはずだ。

 また、駅伝を目指しつつ正選手になれなかった選手(その数の方が多いだろう)も、残念な思いだけではなく、一つの目標に向かって必死に努力したことで、何かをつかんだはずだ。周囲は結果しか評価してくれないかもしれないし、自分でも気づかないかもしれないが、その努力の価値は、決して正選手に劣らない宝物と言っていいはずだ。

 私は、TVで応援しながら、宝物を手に入れたであろう選手たち全てを、柄にもなく、祝福したい気持ちになっていた。

今年の職業講話

 私は、弁護士になった年から、中学校での職業講話を行っている。

 幸い、「もう来なくていい」といわれることもなく、大体毎年数校から、お声をかけて頂いている。感想文を頂いた場合は、大抵、子供達に一言書き添えて送ることにしており、それが生徒にとっては好評のようだ。

 中学校の他にも、高校生に対する出張授業も何度も行ったことがある。ただし、中1~高3まで、一通り授業をしたことがあるが、経験上、一番真面目に話を聞いてくれるのは、中学1年生である。

 中3以上になると、「意味もなく大人に反抗するのがなんだか格好良い」と変な意識を持つ生徒が増えてくるように思う。ひどい高校などでは、教室の一番真ん前で、最初っから寝るふりをしたりする生徒もいる。寝たふりをしているかは、質問を当てたりするとすぐ分かるのだ。

 学校の先生も注意すればいいとは思うのだが、大抵生徒の柄の悪い学校では、注意すらできていない。授業が終了した後に、「すみません、生徒の態度が悪くて」、と先生から謝られたこともあったくらいだ。そんなときでも、一応弁護士会から出向いているので、クイズ形式に切り替えたり、雑談を挟んでみたり工夫をして、なんとか授業は続ける。しかし、一部の生徒はどうしても態度を改めない場合もある。

 私は個人的には、外部の講師に対しあまりに失礼な態度をとるのであれば、講師の側にもそれ以上講義をしない自由があっても良い、と心の底では思っている。生徒として最低限の礼儀を守らない者に対して、講師が迎合する必要はないと考えるからだ。

 幸い、今日は、礼儀正しい中学生が職業講話を聞いてくれた。弁護士の仕事の内容や、そのやり甲斐、困ることなど、嬉しかったことなど、できるだけ本当のことを話してきたつもりだ。

 しかし、その子供達が、将来弁護士になろうと考えたとき、果たして弁護士が魅力的な仕事として彼らの目に映っているだろうか。いくらやり甲斐があっても、就職すらままならない職業、生計を立てられる見込みすら危うくなっている職業であれば、弁護士という職業を子供達が目指してくれる可能性は決して高くはないだろう。また、仮に弁護士を目指してくれても、就職もできず、生計すら立てられない状態に陥ったとき、この子供達は、私の職業講話をどういう思いで、思い返すのだろうか。

 弁護士という仕事の素晴らしさ、やり甲斐等(これは確かに本当である。)を説きながらも、私は、「頑張って弁護士を目指して欲しい」と、純真な中学生諸君に心の底から言い切れないことが、なによりも、悔しかった。

法律相談担当者としての実感

 今日は、大阪弁護士会のなんば法律相談センターでの、サラ金相談(午前の部)に行ってきた。

 相談件数は4件、守秘義務があって内容は話せないが、サラ金相談でありながらサラ金案件の相談は0件だった。サラ金案件については、大手事務所や司法書士事務所の広告攻勢で、弁護士会への相談が相当減っていることが窺われた。

 先日は、大阪弁護士会の千里法律相談センターの相談に割り当てられていたが、予約が一件もないということで、当日キャンセルの連絡が入った。そのために仕事の予定を空けていたのだが、ぽかんと時間が空いてしまい、大学での講義のための予習などに時間を割くことができた。千里の法律相談センターからキャンセルされたことは複数ある。

 私の実感としていうならば、法律相談の件数は減少傾向にあるのではないだろうか。確かに地方自治体の無料法律相談は、そこそこ盛況だ。しかし、法律相談とは言えない身の上相談や、(悪い意味での)リピーターの相談も多く混じっており、本当に弁護士のニーズが拡大しつつあるという実感は、私の担当する数少ない法律相談の体験からすれば、どうしても持てない。

 しかし、弁護士会執行部は言う。「ニーズはある。法の支配実現のために、弁護士数はもっと必要だ。」

 だが、本当なのだろうか。

 本当に国民の皆様が、弁護士に依頼したくても依頼できない状況がそんなにあるのだろうか。別に弁護士に依頼しない話し合いの解決であっても、自分たちで解決できる案件は、弁護士にとってはニーズだが、国民の方にとっては、弁護士に依頼すべき案件ではないのではないか。

 そのような案件ですら、弁護士により解決されるべき案件だと勝手に決めつけて、弁護士会執行部の「法の支配の実現」という旗振りの下、解決のためと称してしゃしゃり出ようとするのは、それこそ、おせっかい、大きなお世話の類に他ならないように思われる。

 本当の国民のニーズとは何か、弁護士の視点ではなく、真剣に国民の皆様に聞いてみる必要があるのではないだろうか。

温暖化の兆し

 早いもので、11月も今日で終わりである。

 私が大学時代のときは、京大の11月祭が行われる、勤労感謝の日前後には、農学部・理学部のある北部キャンパスの銀杏は、ほぼ散っていたように思う。夜にバイクに乗ろうものなら、相当の寒さを覚悟しなければならなかった。

 特に私が入学した年の11月末か12月初頭に、大雪が降ったことは鮮明に覚えている。あまりの降雪に当時京大教養部のE号館で授業を受けていた私は、降りしきる雪が気になって授業に集中できないほどだった。外に出てみると、道だけではなく自転車にもバイクにも一面に雪が降り積もり、一体誰の自転車かバイクか分からない状況になっていた。

 京都の底冷え恐るべし、と思い、親に援助を求めて慌てて電気ごたつを生協に買いに行ったような記憶がある。学生にとっての京都の冬は、「こたつ」と「どてら」が必需品だった。こたつに入り、どてらを着込んで丸くなるのが、冬の定番だった。それでも、勉強していると手が悴んだものだった。

 ところが、今、御堂筋の銀杏並木を見ても、確かに散り始めている銀杏はあるが、まだ緑色を残した銀杏も散見される。

 11月は霜月と呼ばれてきたが、現実には霜が降りない霜月になりかかっている。

 そういえば、子供の頃あれだけあった霜柱も、社会人になってから見ていないような気がする。霜柱の立った地面を力一杯踏みつけ、自分の足形を作る遊びや、どれだけ厚い霜柱を見つけられるか競争する遊びなど、私の田舎でも、もうないのかもしれない。

 季節は緩やかだが確実に、暖かい方にシフトしているようだ。

大手の法律事務所陣容拡大?

 昨日の、日経新聞夕刊に、「法律事務所陣容広げる」との表題で、いわゆる5大法律事務所が2005年以降、弁護士数が1.6倍になった、高品質な法務サービスの需要は今後も拡大しそうで、事務所の間で人材の争奪戦が激しくなりそうだ、と記事は書いている。

 私は5大事務所の中身は知らないので、弁護士数については記事の内容が正しいと考えるしかないのだが、大手事務所だけが弁護士を増やしているわけではない。

 実は、弁護士人口は、2005年以降全体で7000名、全体としてみても1.34倍に増加している。今年弁護士になる人数がおそらく2000名以上あるだろうから、その数を含めると、1.44倍の増加になる。大手事務所に就職する人数も増えているのだろうが、就職できない司法修習生も増加中であることは間違いないだろう。

 あと、日経新聞の記事の書きっぷりで、誤解を与えるように思われるのは、「大手事務所=高品質なリーガルサービス」と、単純に結びつけていることだ。

 弁護士の仕事は職人技的な部分もあり、大手事務所向きの仕事も当然あるが、必ずしも大手事務所の仕事が全てにおいて最高品質とは限らない。例えば、茶碗を焼くような独特の職人技が必要とされる部分も弁護士の仕事にはあり、大手事務所以外の法律事務所が分野によっては群を抜く処理を行える場合もあるのだ。

 また日経新聞は、その性格上、企業を重視した記事を書かざるを得ないので仕方がないのかもしれないが、それだけ陣容を強化した大事務所が、プロボノ活動(公共に役立つ法律家活動)でどれだけ活躍したかに関しての記事は、残念ながら書かれていない。

 私は、某上場企業の方とお話しさせて頂いた際に、こういう話を聞かされたことがある。

 「確かに、東京の大事務所よりも大阪の事務所の方が、いいな、と思う場合もあります。しかし、万一のことがあった場合、どうして東京の大事務所に頼んでおかなかったのだと責任を問われる危険があるので、その危険を避けるためには、やむを得ず東京の事務所に頼まざるを得ないのです。」

 さらに、こういう苦情を、某元上場企業で法務担当の友人から聞かされたこともある。

 「最近、東京の大事務所に相談に行ったところ、顧問弁護士と、なんにも分かっていない新人弁護士二人と一緒に対応された。別に、経験を積ませるとか理由はあるだろうから、それはそれで良いんだが、何も分かっていなくて話を聞いているだけの新人弁護士二人のタイムチャージ(要するに3人分のタイムチャージ)まで請求されたんだ。おかしいんじゃないですかと指摘したら、新人弁護士のタイムチャージだけは半額になった。それでも法律相談に全く役立たなかった新人にもお金を払うよういわれるのは、納得できないんだよね。」

 もちろん、大事務所はそれだけの人員を擁し、コストをかけて運営されているのだから、大事務所を利用する場合のリーガルコストは高くなる可能性が高い。そのようなリーガルコストは、一旦はクライアントである企業が負担するが、企業が自腹を切ってくれるわけではない。最終的にはその企業の製品などに転嫁されて国民の負担になっていく。

 弁護士が増えればリーガルコスト(弁護士の費用)が下がるという幻想は間違っている。以前も書いたが、マイクロソフトの年間経費のうち半額以上がリーガルコストであった年度もある、という話を聞いたことがある。私から見れば、異常な社会である。

 弁護士の激増は、目に見えるかどうかは別にして、リーガルコストの高騰を結果的に招くだろう。大手の法律事務所の陣容が拡大したからといって単純に喜んで良いのか、私には分からない。

待ってくれる料理?

 私は、いわゆるグルメではない。仕事が忙しくてお昼を食べられない場合などは、カップラーメンや吉野屋の牛丼でごまかしたりすることもある。

 つまり、おいしいかどうかはわかるが、特にこだわりがあるわけではない。

しかし、そんな私でも、ここの料理は、よそのどこでも味わえない、そういう気がするのだ。

 食べた瞬間、「どうだ、おいしいだろう」と自己主張してくる料理もあるが、そのような短気で自己主張の強い料理ではない。

 主導権をお客に渡しながら決して、道に迷わせない、そのようにも感じる。

 美しいという感情は、人の心の奥底から湧いてくる特殊な感情の一つだけれど、本当に美しいと心から感じるときは、その表現者や表現方法はすでに感じていないことが多いように思う。荒川静香がトリノ五輪で金メダルをとった演技も、荒川静香が演じてはいたけれど、見ている私には、もはや、誰が演じているか、何を演じているかを超越して、そこに一つの完全な美がある、美そのものがそこにある、という心持ちに誘ってくれたように思う。

 また、すばらしいコンサートを聴いた際も、最後の音が鳴り終わり、その音が静かに消えていった後、人の心の奥底で共鳴している部分が意識の上まで湧き上がってきて、初めて音楽の美しさを本当に感じるようにも思う。

芸術というものは、単に美をそこに提示するだけの存在ではなく、人の心の中に美を感じる部分があって、その部分を共鳴させ、美を人の心の底から湧き出るようにわからせるものなのかもしれない。

 それに似た思いを食の世界で感じさせてくれるのが、このお店だと思う。

 饒舌に美味しさを、語るのではなく、また、自分のおいしいと思う料理を、さあ共感してくれと押しつけるのでもない。お客が、料理を味わい、感じる、お客が美を感じる瞬間まで待ってくれる、そういう料理を出してもらえる希有な店だ。

 しかも、ディナーコースがストーリーになっている。招待状が来て、お迎えの者が来て、道中があって、最高の景色を見せてくれる、その全ての段階で押しつけがましさがない。最高の景色を見せるはずのメインディッシュですら、最高の景色が見える場所に連れて行って、その中でもっとも気に入った場所をお客が自分で選んでよいとする懐の深さが感じられる。

通常、最も素晴らしい景色をガイドする者であれば、この地点からの眺めが最高だ、ここから見た方がいいのではないか、と最後まで自分の見方や経験を伝えたがったりすることが多いように思うけれど、そういう状況にあっても、お客の主導権を奪わない、そういう余裕が感じられる。こちらの心の奥底にある、美を感じる気持ちが、自然と湧き出すまで決して急がない。

そもそも、美を感じる心は、臆病で、少しでも違和感があれば、すぐ心の奥まで引っ込んでしまう。しかし、招待状から始まるここの料理は、こちらの心を巧みに奥底から引き出し、それと同時に、料理の方からも微妙に距離を詰めてきてくれる。両者がやりとりをしながら、お互いが歩み寄る。うまくいえないがそんな感じを受ける。

美味と簡単に言うけれど、味覚に美しさを見いだした古人は偉大だった。単においしいと感じさせるだけではなく、人の内面に共鳴させて感じさせる美を味覚に感じ取っていたからだ。味に美しさを見つけた、その古人と同じ思いをひょっとしたら感じさせてくれるのが、このお店かもしれない。

 もちろん、料理は、見た目も非常に美しい。スタッフの方々も、料理の特性を理解されているためか、控えめながら十分な対応をされる。

 その全てが整っていないと、せっかくの料理も単に「おいしい料理」で終わってしまうだろう。

 小幡洋二シェフのこのお店は、宿泊しなくてもランチやディナーをいただくことは可能だ。けれども、お勧めは、やはり、宿泊して小幡シェフの導いてくれる、食の美の世界を堪能することではないだろうか。何度宿泊しても、小幡シェフが新たな美しい世界に連れて行ってくれることは請け合いだ。

 小幡シェフは以前宿泊した人に出した料理、部屋のアンケート用紙の感想欄に書かれた文章を全て分析した上、再度訪れた人のメニューを考えるのだという。だから旬の料理は外せないとしても、同じ日に宿泊したお客でも、そのお客によってメニューが異なることがあるのだそうだ。

 問題は、少し遠いことだが、遠くても行った甲斐はあった、と納得できるオーベルジュであることは間違いないと私は思っている。

 そのお店、ア・マ・ファソンは、九州阿蘇の近く、久住高原(瀬の本高原)にある。

 http://www.amafacon.com/index.html

あさくま

 「あさくま」という、ちょっと変わった名のファミレスがあります。

 名古屋が本店らしいのですが、私が大学生の頃は京都にも3~4店舗展開していたと記憶しています。名古屋出身のちょっと裕福な司法試験受験友達が連れて行ってくれたのが最初でした。

 当時は、学生ですからお金もありません。出来るだけ安くて出来るだけ美味しそうなメニューを探すと、「学生ステーキ」というメニューがありました。確か700円くらいだったと思うのですが、当時の私にしてみれば700円でステーキが食べられるのなら奇跡のようなものです。妙に歯ごたえのあるお肉を、照り焼きソースで美味しく食べたことを覚えています。それから、京都で「あさくま」に行く機会があったときは、判で押したように学生ステーキを頼むのが常になってしまいました。

 それから、15年以上経った今年の春のことです。名古屋で仕事があった際に、たまたま「あさくま」を見つけました。仕事を終えた後、学生時代の味を思い出したくて学生ステーキから名を変えた学生ハンバーグを注文してみたのです。

 独特の歯ごたえも、味も、全く私の記憶通りで、何一つ変わっていません。

 「あさくま」の味が変わっていなくて嬉しいと思うと同時に、いつ合格できるかも分からず、合格率2~3%の試験に立ち向かっていた当時の私の心情、目標はあってもそれが叶うのか、叶うとしてもいつ叶うのか、もしかしたら、ずっとこのまま叶わずに終わるのではないかという何とも言えない不安を常に下敷きにした、いつも揺らいでいた希望に満ちていた、当時の私の心情が、ゆっくりと蘇ってきました。

 例えば(今でも滅多に食べる機会がない)カニを食べても、以前カニを食べたときの記憶が鮮明に思い出されることはないようなのですが、(今食べようと思えば普通に食べられる)「あさくま」の、特に学生ステーキの味覚は、どういうわけか私の記憶と深く結びついてしまっているようです。

 間違いなく、ある種の味覚は、記憶を呼び覚ます能力を持っているようです。

 単に当時の味を思い出したくて学生ハンバーグを注文した私でしたが、思いがけず、当時の切ない思いまで蘇ってきて、ちょっと辛いけど少し得したような、複雑な気持ちで食事を終えることになったのでした。

チャボのこと

 私の実家では、子供の頃から、結構いろいろな生き物を飼っていた。

 今では、私達が飼ったことのあるチャボ(小型の鶏)を飼育した経験のある方は、なかなかいらっしゃらないのではないだろうか。

 私の記憶では、父が肝臓を痛めていた際に、母がチャボの卵が滋養に良いと聞き、近所の農家からもらってきたのが3匹のチャボのヒヨコだったように思う。リンゴを送るための木箱を元に、父親が器用に鳥かごを作ってくれた。

 エサは、大根菜などをきざみ、ぬかにまぶして与えた。寒い時期だったので、夜には白金カイロをタオルでくるんで入れてやると、カイロの周囲に寄り添って眠っていた(主にこの役目は一番年長だった姉の役目だったように思う)。その様子を、そっとフタを開けて何度も見たことを覚えている。

 少し育つと、雄1羽、雌2羽であることが分かり、名前を付けることになった。私の兄弟は、姉・妹・弟の4人兄弟だったが、弟はまだ小さかったので、3人で名前を考えることになった。

 白い雌については、妹が「ハトコ」にする、と言い張った。当時NHKの朝の連続ドラマが「鳩子の海」という作品だったこともあってか、「鳩に似てるからハトコ」だと、妹は強硬に主張したように思う。私は、鳩は白色よりもねずみ色が多いから駄目だと反対したように思うが、結局、妹の意見が通った。

 雄についても、妹が「天兵」にすると、強く主張したように思う。それも朝ドラ「鳩子の海」に出てくる登場人物の名前だった。しかしさすがに、私と姉が反対し、結局姉が提案した「雄だから『オンちゃん』」に決まった。

 茶色の雌は、茶色い雌なので、なんのひねりもなく「チャコ」と決まった。

 3羽は、それぞれ性格も異なっていた。

 オンちゃんは、大黒柱としての自覚を持っており、子や孫の世代の若手の雄が出てきても、覇権争いでは決して負けず、相手をねじ伏せて、死ぬまでリーダーの地位を明け渡さなかった。 チャコは、勝ち気な性格、ハトコはどちらかというとおとなしい性格だった。エサをさっと奪うのは大抵チャコだったし、ハトコが暖めている卵をチャコが奪って暖めようとしたこともあった。ただ、ハトコが自分で孵したヒヨコたちをつれているときだけは、ハトコはチャコが近寄ることを許さなかった。

 母親は、どこの世界でも、やはり強いのだろう。

 当時は野良猫も殆どおらず、3羽は暢気に庭を散歩し、砂浴びをし、庭続きの近所の畑にまで出張し、夕方には鶏小屋に戻ってきた。自分たちを人間だと思っていたフシもあり、庭から平気で家の中に上がり込み、座布団や押入の布団の上などで卵を産んでは、得意気に騒いだりもした。

 時には、農家のばあさんに怒鳴り込まれたり、アオダイショウに狙われたりしたこともあったが、まずまず平和に暮らせていたように思う。

 その後、子や孫の世代が同居するようになり、チャボも増えた。全てを思い出せるわけではないが、次のようなチャボもいた。

 シロコ(色が白い雌だから)・ しろチャン(色が白い雄だから)・ ブッチャン(ブチのある雄だから)・くろちゃん(色が黒い雄だから)・ズリチャン(走るときに羽根を地面にずりながら走るから)・マッシロコ(全身真っ白の雌だから)、等である。

 だが、問題もあった。チャボを飼っていた経験から、鶏肉がどうしても食べられなくなってしまったことである。相当長い期間、楽しげに庭を散歩しているチャボが目に浮かび、鶏肉は、なかなか食べられなかった。もちろん最近では、鶏肉も食べられるが、チャボたちのことを忘れたわけではない。

 チャボを飼育した記憶のせいで、外国の田舎でニワトリの放し飼いを見ると妙に嬉しくなるし、ここ数年冬になると話題になる、鳥インフルエンザ感染の疑いによるニワトリ処分が、おそらく他の人よりも痛みを持って感じられるような気もする。

 それが良いか悪いかは別として、今となっては、そのような経験をさせてくれた両親に感謝するしかないようにも思う。

中森会総会

先週の土曜日に、京大会館で中森会総会が行われました。

 京大法学部では、ゼミナールに参加することが基本的には必修となっており、それぞれのゼミの出身者で、OB・OG会を作っていることがあります。中森先生のゼミのOB・OG会(もちろん現役学生も参加可能ですが、中森先生は京大を退官されましたので、現在京大の現役学生はおりません)が、中森先生のお名前を頂戴して、中森会となっているのです。

 新しい名簿も配布され、それを見たところ、私は第11期のゼミ生でした。中森先生は第31期までゼミを行っておられたようなので、ゼミ生の人数も相当な数になっています。

 今回の総会は、幹事の方々のご尽力もあって、80名ほどが参加されました。同期の方々と近況を話し合ったり、当時の思い出話をしたり、なかなか楽しい時間が過ごせました。但し、人数が多いのとお互いが相当年月を経ているので、同期の方を探すのが意外に苦労したりしました。

 帰り際に、第12期のゼミ生だった方から、声をかけて頂きました。私は第12期も中森ゼミにオブザーバーとして参加していたので、12期の方も私を覚えて下さっていたようです。宿敵奥田ゼミとの野球で、私が僭越ながらピッチャーとして登板したことも覚えて下さっていましたが、「今、投げようとしたら、おそらく腕が抜けるでしょうね」と、当時のことを思い出しつつも、お互いが笑い話にしていました。

  次回の中森会総会が、いつになるのかは、幹事の方にしか分からない面もありますが、学生時代の友人は本当に宝になると思います。楽しい時間を作って下さった、幹事の方、お忙しい中参加して下さった中森先生、本当に有り難うございました。

福永武彦と大林宣彦監督

 昨日の日経新聞夕刊に、大林宣彦監督が「草の花」について語っている記事が出ていた。

 「草の花」は、福永武彦という作家の作品で、理知的な青年の愛と死について書かれた小説だ。いつかブログで詳しく紹介したいと思いながら、私の中では、思い入れが強すぎてうかつに紹介しにくい本になっている。私は、中学2年生の頃、姉に「草の花」を勧められてから福永武彦にどっぷり、はまってしまい、「廃市・飛ぶ男」、「夢見る少年の昼と夜」「海市」「死の島」「風のかたみ」「風土」「忘却の河」など、文庫になっている小説はほぼ全て読み、大学時代は新潮社から毎月1冊ずつ発行されることになった福永武彦全集を、食費が残るか心配しながら買い求めたものだった。

 福永武彦の「草の花」を大林監督は、暗記までするくらい愛好していたそうだが、その一方で、この作品に出会って、作家の夢をあきらめたという。自分以上に自分のことを表現されてしまったように思えたのだそうだ。しかし、福永武彦への共感は、大林監督の作り出す映像に滲み出ているようにも思われる。

  大林監督は、福永武彦の「廃市」を映画化しているが、監督に影響を与えた作家が福永武彦であると知った上で思い返せば、有名な尾道三部作のひとつ「さびしんぼう」においても、ヒロインの通学している姿の描写、さびしんぼうが雨の中で主人公に肩を抱かれながらため息とともに消えてしまうシーンなど、随所に福永武彦に共感する監督の感性が表れているように感じられる。

 実は、私は一度だけ、大林監督にお会いしたことがある。司法試験受験生時代に勉強に行き詰まり、十一面観音像を見るため湖北(滋賀)の古刹を巡っていた際に、偶然NHKの撮影で、寺にやってきた大林監督夫妻にお会いできた。私が「僕は、監督の映画の『さびしんぼう』が大好きなんですよ。」と少し興奮気味に話すと、監督は穏やかな笑みを返して下さった。勇気を振り絞って、一緒に写真を撮らせて頂いたが、残念ながらその写真は紛失してしまった。

 その当時、監督が福永武彦の作品を愛好していると知っていれば、もっといろいろ話せただろうにと、夕刊を読みながら、今さらながらではあるが、少し悔やまれたりした、私だった。