待ってくれる料理?

 私は、いわゆるグルメではない。仕事が忙しくてお昼を食べられない場合などは、カップラーメンや吉野屋の牛丼でごまかしたりすることもある。

 つまり、おいしいかどうかはわかるが、特にこだわりがあるわけではない。

しかし、そんな私でも、ここの料理は、よそのどこでも味わえない、そういう気がするのだ。

 食べた瞬間、「どうだ、おいしいだろう」と自己主張してくる料理もあるが、そのような短気で自己主張の強い料理ではない。

 主導権をお客に渡しながら決して、道に迷わせない、そのようにも感じる。

 美しいという感情は、人の心の奥底から湧いてくる特殊な感情の一つだけれど、本当に美しいと心から感じるときは、その表現者や表現方法はすでに感じていないことが多いように思う。荒川静香がトリノ五輪で金メダルをとった演技も、荒川静香が演じてはいたけれど、見ている私には、もはや、誰が演じているか、何を演じているかを超越して、そこに一つの完全な美がある、美そのものがそこにある、という心持ちに誘ってくれたように思う。

 また、すばらしいコンサートを聴いた際も、最後の音が鳴り終わり、その音が静かに消えていった後、人の心の奥底で共鳴している部分が意識の上まで湧き上がってきて、初めて音楽の美しさを本当に感じるようにも思う。

芸術というものは、単に美をそこに提示するだけの存在ではなく、人の心の中に美を感じる部分があって、その部分を共鳴させ、美を人の心の底から湧き出るようにわからせるものなのかもしれない。

 それに似た思いを食の世界で感じさせてくれるのが、このお店だと思う。

 饒舌に美味しさを、語るのではなく、また、自分のおいしいと思う料理を、さあ共感してくれと押しつけるのでもない。お客が、料理を味わい、感じる、お客が美を感じる瞬間まで待ってくれる、そういう料理を出してもらえる希有な店だ。

 しかも、ディナーコースがストーリーになっている。招待状が来て、お迎えの者が来て、道中があって、最高の景色を見せてくれる、その全ての段階で押しつけがましさがない。最高の景色を見せるはずのメインディッシュですら、最高の景色が見える場所に連れて行って、その中でもっとも気に入った場所をお客が自分で選んでよいとする懐の深さが感じられる。

通常、最も素晴らしい景色をガイドする者であれば、この地点からの眺めが最高だ、ここから見た方がいいのではないか、と最後まで自分の見方や経験を伝えたがったりすることが多いように思うけれど、そういう状況にあっても、お客の主導権を奪わない、そういう余裕が感じられる。こちらの心の奥底にある、美を感じる気持ちが、自然と湧き出すまで決して急がない。

そもそも、美を感じる心は、臆病で、少しでも違和感があれば、すぐ心の奥まで引っ込んでしまう。しかし、招待状から始まるここの料理は、こちらの心を巧みに奥底から引き出し、それと同時に、料理の方からも微妙に距離を詰めてきてくれる。両者がやりとりをしながら、お互いが歩み寄る。うまくいえないがそんな感じを受ける。

美味と簡単に言うけれど、味覚に美しさを見いだした古人は偉大だった。単においしいと感じさせるだけではなく、人の内面に共鳴させて感じさせる美を味覚に感じ取っていたからだ。味に美しさを見つけた、その古人と同じ思いをひょっとしたら感じさせてくれるのが、このお店かもしれない。

 もちろん、料理は、見た目も非常に美しい。スタッフの方々も、料理の特性を理解されているためか、控えめながら十分な対応をされる。

 その全てが整っていないと、せっかくの料理も単に「おいしい料理」で終わってしまうだろう。

 小幡洋二シェフのこのお店は、宿泊しなくてもランチやディナーをいただくことは可能だ。けれども、お勧めは、やはり、宿泊して小幡シェフの導いてくれる、食の美の世界を堪能することではないだろうか。何度宿泊しても、小幡シェフが新たな美しい世界に連れて行ってくれることは請け合いだ。

 小幡シェフは以前宿泊した人に出した料理、部屋のアンケート用紙の感想欄に書かれた文章を全て分析した上、再度訪れた人のメニューを考えるのだという。だから旬の料理は外せないとしても、同じ日に宿泊したお客でも、そのお客によってメニューが異なることがあるのだそうだ。

 問題は、少し遠いことだが、遠くても行った甲斐はあった、と納得できるオーベルジュであることは間違いないと私は思っている。

 そのお店、ア・マ・ファソンは、九州阿蘇の近く、久住高原(瀬の本高原)にある。

 http://www.amafacon.com/index.html

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