予備試験ルート制限論は、利害関係者のポジショントーク?

 法科大学院とその支持者達が、予備試験ルートの司法試験受験生を可能な限り排除しようと動いているようだ。大体において法科大学院支持者は、大学関係者や学者、法科大学院で教鞭をとっている弁護士等のように法科大学院制度がなくなると何らかの不利益を受けかねない人々が多いように私には見受けられる。

 法科大学院支持者側の主張は、法科大学院を経由しない予備試験合格者が多数司法試験を受験するようになれば、当初のプロセスによる教育という法曹養成の理念に反する、というこの一点に尽きているように思われる。
 私に言わせれば、おそらく本音は、せっかくお金をかけて作った法科大学院制度の維持と自らの利権の維持だと思われる。しかし、そんな自己中心的な理由では誰も賛同してくれないだろうから、理念を持ち出さざるを得ないのだろう。

 理念とは、ある出来事についてこうあるべきだとする根本の考えを意味するが、プロセスによる教育が優れているという保証も、法曹養成の理念として法科大学院を中心とすることが正しいという保証も、実はどこにもないのである。少なくとも私は、プロセスによる教育がなぜ法曹養成に不可欠なのか、いろいろな方に尋ねたが、納得のいく回答は一度も得られていない。

 つまり法科大学院支持者は、何の根拠も、何の保証もないまま、プロセスによる教育が正しい、法科大学院での教育が正しいと言い張って、それを維持するために、予備試験ルートを狭めるべきだと主張しているのと同じなのだ。

 法曹養成制度は利用者である国民の利便に資するためのものだ。国民が利用する上で問題がないのであれば、プロセスによる教育・法科大学院教育を経由しなくても、何ら問題は無いことになる。むしろ、法科大学院に税金を投入する必要がないだけ国家財政の危機回避に役立つというものである。

 では現実として、予備試験ルートの法曹は何か問題を抱えているのだろうか。
 直接調査することはできないが、大手法律事務所が予備試験ルートの法曹を優先的に採用していることや、裁判所・検察庁でも予備試験ルートの法曹の採用が徐々に増加していることに鑑みれば、予備試験ルートの法曹に問題があるどころか、むしろ逆に実務界では高く評価されているとも評価できよう。
 プロセスによる教育が重要だ・法科大学院制度は絶対維持すべきと叫び続ける弁護士が所属する事務所でも、予備試験ルートの法曹を排除していないどころか、現実に採用しているところもある、という笑い話まであるくらいだ。

 予備試験ルートを狭めるかどうかについては、理念がどうとかといった抽象的な議論ではなく、現実に新たに法曹になった者達の調査を行って、予備試験ルートで法曹になった者が、法科大学院ルートで法曹になった者と比較して現実に問題を生じさせているのかを、厳格に検証した上で判断するべき問題だ。これが一番、簡単且つ確実に判断する方法だろう。
 その上で、法科大学院ルートで法曹になった者の方が優れており、予備試験ルートの法曹には国民が利用する上で看過しがたい弊害がある、というのであれば、胸を張って法科大学院は法曹養成に不可欠だと主張すればいいではないか。
 このような検証を敢えてやらず、理念だけを振り回して法科大学院制度の維持を主張する事は、見てるだけで恥ずかしいから、もうやめて欲しい。

 正しいかどうか分からない理念に殉じるなんて、思考停止も甚だしい。
 利害関係人としてはともかく、学者としても実務家としても失格なんじゃないだろうか。

ロースクールと法曹の未来を創る会の要請文について~5

(つづき)

(4)日本社会の危機と法務省・司法試験委員会の責任
法科大学院制度の危機は、法曹養成制度の危機であり、法曹養成制度の危機は、司法全体、ひいては日本社会の危機を意味する。司法制度改革が政治改革、行政改革などの総仕上げとして「最後の要」として位置づけを与えられたことを考えれば、このことは火を見るより明らかである。この危機を招来した主たる原因は、法務省の「司法試験政策」である。法科大学院制度の導入によって、司法試験の役割は大きく変わるはずであった。誰でも受けることができる一発試験で、訴訟実務家になる少数の合格者を選抜するのと、法科大学院教育を修了した者の中から、地理的にも、職域的にも多様な分野で働く多数の合格者を選ぶ試験が同じはずはない。しかし、法務省は、このことを理解しようとせず、旧来型の試験問題と合格基準に拘泥し続けた。その結果が、今日の「惨状」である。
この危機を打開することは難しくない。法科大学院制度の趣旨に沿って、修了者の7割ないし8割を司法試験に合格させればいいのである。そして、貴職らの職権の適切な行使によって、それは、可能である。以下に、司法試験制度がいかに歪められてきたか、その結果、法曹養成制度と日本社会にいかなる危機をもたらしたかを述べる。貴職らにおかれては、この趣旨を踏まえて、要請の趣旨のとおり、今年度の司法試験の合否判定にあたっては、少なくも2100名程度を合格させるよう強く要請する次第である。

→(以下は坂野の雑駁な突っ込みである)

 法曹養成制度の危機は、司法の危機かもしれないが、法科大学院の危機は法曹養成制度の危機ではない。理由は簡単、法科大学院を経由しなくても立派に法曹になっている方々がたくさんいるからだ。旧司法試験制度の合格者、予備試験経由の合格者、いずれも法科大学院を出ていないというだけの理由で、法曹として不適格・不適任ということにはなっていない。

 むしろ、大手法律事務所などは予備試験経由の司法試験合格者を優遇する採用制度を採っているところもあり、実務界の実情から見れば、むしろ法科大学院教育は法曹として必須のものとは考えられていないのだ。
 

 したがって、むしろ法科大学院の危機が法曹養成制度の危機とは全くもって無関係であることが、火を見るより明らかだというべきだろう。

 そして、法科大学院の危機が巡り巡って日本社会の危機になっているというのも大げさという他ない。もし法科大学院の危機が日本社会の危機ならば、撤退した法科大学院は日本社会の危機を見捨てて自分達だけ敵前逃亡したということになるのだろうか。久保利弁護士の仰ることがよく分からない。

 久保利弁護士の主張によれば、法科大学院の危機は法務省の司法試験政策が原因だという。法科大学院制度の導入により司法試験が大きく変わるはずだったとも主張する。

 確かに司法制度改革審議会意見書には、「新司法試験は、法科大学院の教育内容を踏まえたものとし、かつ、十分にその教育内容を修得した法科大学院の修了者に新司法試験実施後の司法修習を施せば、法曹としての活動を始めることが許される程度の知識、思考力、分析力、表現力等を備えているかどうかを判定することを目的とする。」との記載があり、この記載だけを見れば、久保利弁護士の主張も一理あるといえよう。しかし、実はこの記載の直前に、司法試験制度を変更するために必要な大前提が書かれている。その記載はこうだ。
「法科大学院において充実した教育が行われ、かつ厳格な成績評価や修了認定が行われることを前提として、」ということである。

 この前提が充たされて初めて、新司法試験を久保利説のように変更することが可能となるのだ。前提をすっ飛ばして、自分に有利な部分だけを主張するのは誤導も甚だしい。

 例えば、予備試験は法科大学院卒業者と同等の学識及び応用能力並びに法律に関する実務の基礎的素養を有するかどうかを判定する試験である(司法試験法5条1項)。そして、予備試験の合格者は司法試験委員会により決定されるものであり、司法試験委員会としては、あるべき法科大学院卒業生のレベル=予備試験合格者のレベルと想定して予備試験合格者を決定しているはずである(司法試験法8条~そうでないと法律違反だ)。

 そうだとすれば、理想どおりに法科大学院において充実した教育が行われ、かつ厳格な成績評価、修了認定が行われているのであれば、法科大学院卒業生と予備試験合格者とは、本来、同レベルでないとおかしいことになる。

 では、その後の司法試験での合格率はどうだろうか。
 平成28年度司法試験合格率では、
1位「予備試験合格者」61.5%、
2位「一橋大法科大学院」49.6%、
3位「東京大法科大学院」48.1%、
4位「京都大法科大学院」47.3%、
5位「慶應義塾大法科大学院」44.3%
となっている。

 つまり明らかに予備試験合格者のほうがレベルが高い。これは司法試験委員が考えている法科大学院卒業生レベル(予備試験合格レベル)が、現実の法科大学院の卒業生レベルよりも、かなり高いということを意味する。

 これに対して、法科大学院関係者は、司法試験が難しすぎて合格率が低いのが問題だ、などと責任転嫁的な発言を良くするが、なんのことはない、きちんと司法試験委員が「法科大学院卒業レベルはこれくらい」、と想定するところまでの知識が身についていると判定された予備試験組の合格率は6割を超えているのだ。法科大学院において司法試験委員が想定する法科大学院卒業レベルまで教育ができていれば、法科大学院ルートの受験生も予備試験と同レベルの合格率を出せないとおかしい。

 つまり法科大学院がきちんと教育を行い、厳格な成績評価と厳格な修了認定を行っていれば、法科大学院卒業者は、本来は予備試験合格者レベルの実力を持った受験集団になるはずであり、司法試験合格率に差が出ること自体がおかしいのだ。

 しかし、実際には、予備試験合格者の合格率に遠く及ばない法科大学院も相当ある。この事実から浮かび上がるのは、法科大学院が司法試験委員が想定する法科大学院卒業者レベルまで教育しきれないまま卒業認定をして卒業させているという事実だ。大学経営の点から見れば、学生がどんどん入学してどんどん卒業する方が都合がよい。だから、甘い成績評価と、甘い卒業認定で本来卒業させてはならないレベルの学生も卒業させているのではないかと思われる。

 この点について、法科大学院側の言い訳として、優秀な学生が予備試験ルートに流れてしまうということが指摘される場合もあるが、そんなの言い訳にはならない。何故なら、法科大学院は自ら入学試験を行ってきちんと教育すれば法曹になりうる人材だけを入学させているはずだからである。

 仮に入学試験の成績から見て、法曹になりうる資質もない学生を、法曹資格をエサに法科大学院に入学させているのであれば、それは自分達の大学経営(儲け)のみを優先した、理念なき法曹教育機関という烙印を免れまい。そんなさもしい経営優先の法科大学院で、司法制度改革審議会の目指した法曹教育の理念が実現出来るとも思えない。経営優先の単位認定、卒業認定をする施設で、かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上など、身に付けさせることができるはずがないではないか。

 結局のところ、司法試験合格率で見る限り、法科大学院では理想に描いたとおりの教育、成績評価、修了認定がなされていないというべきなのだ。

 むしろ法務省が、法曹の質をこれ以上下げられないと判断して、司法試験合格者を減少させたことは、法科大学院の利益には適わないが、国民の利益には適う英断であったと評価すべきだろう。司法試験委員の採点雑感に関する意見にも、レベルダウンを示唆する指摘が山積みである。

ためしに公法系第2問のものを見てみよう。
★誤字,脱字,平仮名を多用しすぎる答案も散見された。
★問題文及び会議録には,どのような視点で書くべきかが具体的に掲げられているにもかかわらず,問題文等の指示に従わない答案が相当数あった。
★例年指摘しているが,条文の引用が不正確な答案が多く見られた。
★冗長で文意が分かりにくいものなど,法律論の組立てという以前に,一般的な文章構成能力自体に疑問を抱かざるを得ない答案が少なからず見られた。
★結論を提示するだけで,理由付けがほとんどない答案,問題文中の事実関係や関係法令の規定を引き写したにとどまり,法的な考察がされていない答案が少なからず見られた。論理の展開とその根拠を丁寧に示さなければ説得力のある答案にはならない。
★法律解釈による規範の定立と問題文等からの丁寧な事実の拾い出しによる当てはめを行うという基本ができていない答案が少なからず見られた。
★問題文等から離れて一般論(裁量に関する一般論等)について相当の分量の論述をしている答案が少なからず見られた。問題文等と有機的に関連した記載でなければ無益な記載であり,問題文等に即した応用能力がないことを露呈することになるので,注意しておきたい。
★本年も,論点単位で覚えてきた論証をはき出すだけで具体的な事案に即した論述が十分でない答案,条文等を羅列するのみで論理的思考過程を示すことなく結論を導く答案などが散見されたところであり,上記のような論理的な思考過程の訓練の積み重ねを,法律実務家となるための能力養成として法科大学院に期待したい。
★設問1及び設問3は,最高裁判所の重要判例を理解していれば,容易に解答できる問題であった。しかし,設問1については,一般論として判断基準を挙げることはできても,判断基準の意味を正確に理解した上で当てはめができているものは少数であり,設問3については,会議録中で検討すべきことを明示していたにもかかわらず,最高裁平成21年判決の正しい理解に基づいて論述した答案は思いのほか少なかった。
★昨年と同様,法律的な文章という以前に,日本語の論述能力が劣っている答案が相当数見られた。

 司法試験を批判する前に、まずは自らの教育や単位認定について、法科大学院側は猛省するべきだ。法科大学院を卒業した学生が、法律的文章という以前に、日本語の論述能力が劣っているとは、恥ずかしい限りではないか。法科大学院は日本語の論述能力すら身に付けさせることができないのか。

 そして、久保利弁護士の主張は、「法科大学院において充実した教育が行われ、かつ厳格な成績評価や修了認定が行われること」、という大前提が実現されているとはいえない以上、前提を欠いたまま勝手に都合の良い主張を行っているというだけになる。

 久保利弁護士の主張によれば、法曹志願者の激減は司法試験合格率が低いことにある、ということになろうか。しかし、それでは2~3%の合格率しかなかったにも関わらず旧司法試験の受験者が増加の一途をたどっていた事実と明らかに矛盾する。

 私が思うに、法曹といえども職業であり、その資格を得るために長期の時間と多額の費用を要するのであれば、その資格にそれだけの価値がないと誰も目指さない。例えば法科大学院を卒業すれば宅建士の資格を100%もらえるとしても、その目的だけで法科大学院に通学する人間はおそらくいない。資格に関する費用対効果が全く割にあわないからだ。

 法曹志願者を増やしたいのであれば、話は簡単だ。法曹の資格の価値を上げればよいのだ。苦労したけれども資格を取って良かったと思えるだけの経済的・地位的リターンがあればよいのだ。私立の医学部が多額の授業料を取っても入学志願者が減少しないのは、資格を得るために時間と費用が相当かかるとしても、かけただけの投資を後に回収し、それ以上のリターンが見込めるからだ。ヘッドハンティングでも、現状よりも有利なリターンを用意することが通常だ。優秀な人材を集めようと思ったらそれに見合ったリターンを用意する必要がどうしてもある。

 単にやりがいがあるというだけの仕事には人は集まらない。しかし、単に収入が高いという仕事であれば、志願者は集まる。あたりまえだ。仕事は自分と家族の生活を支える手段でもあるからだ。

 法律関係の仕事が激増しているとは到底いえない(むしろ減少気味の)現状において、いくらやりがいがあると叫んでも、志願者は増えるとは思えない。むしろ、法科大学院を卒業すれば8割もらえる資格だよ~と法曹資格を濫発すれば、資格の価値がさらに下がるから、当然その資格を得てもリターンの見込みも下がっているから志願者が減少するだけだ。
 だから久保利弁護士の司法試験合格者増員論は、法曹志願者の減少をより加速させるだけであり、意味がないどころかむしろ人材の法曹離れを招くだけであると考えられる。だから、法曹志願者の減少対策としては、全く意味がない提言である。
 唯一意味があるとすれば、もしそうなれば、法科大学院志願者は一時的に増える「かも」しれないということだけだ。

 結局、久保利弁護士の主張は、一見法曹の危機を主張しているように見えて、その実は法科大学院のごく一時的な延命だけを目的とした主張としか考えられないのである。

(この項終了します。)

ロースクールと法曹の未来を創る会の要請文について~4

(続き)

(3)「法曹人口増加」の約束は果たされていない
法科大学院制度による新司法試験が開始される直前の2005年度の旧司法試験合格者数は、約1500名であった。昨年の司法試験合格者数は、1580名である。つまり、「法曹の数」ということだけを考えると、法科大学院制度は、「まったく役に立っていない」ということになる。法曹の数を増やすために導入したにもかかわらず、法曹の数を増やせないなら法科大学院制度に意味はない。まさに、法科大学院制度は、「存亡の危機」にあると言っても過言ではない。法科大学院制度がなくなれば、一発試験により「受験秀才」を選抜する昔の仕組みに戻るだけである。それは、ますます複雑化し、国際化する市民社会、経済社会の要請を無視することである。最近も、車部品メーカーのタカタ株式会社が破綻したり、株式会社東芝に対する国際仲裁や仮処分の申立てが報じられているが、そうした日本企業のために国際的に活躍している弁護士はほとんどいないのが現状である。

→(以下坂野による雑駁な突っ込みである。)

久保利弁護士は2005年度と、2016年度の司法試験合格者数だけを比較して法曹の数を増やすことになっていないと主張するようである。

では次の、単純な問題について久保利弁護士は、どうお考えになるのだろうか。「大きな船に2005年は1500人乗って、500人降りました。仮にその後、乗客の数が変わらなかったとして、2016年には1500人乗って500人降りました。船に残っている人の数はどう変わりましたか?」小学生が見てもわかるとおり、乗客の数が1000人増えていることになる。

法曹の数が増えているかどうかは、単純に法曹人口の統計を見れば分かる話で、敢えて、司法試験合格者から法曹人口の増減を論じようとするその手法自体が意図する結論を導こうとする誤ったものなのである。

実は、司法試験合格者数は、長期に亘りほぼ500人前後(H3まで)であった。平成3年に弁護士になった者の数は359名。司法修習終了者がようやく1000人を超えたのは平成15年である。
仮に弁護士になってから司法修習期間も含めて35年働くと考えた場合(本当は定年がないのでもっと長期間働くことは可能)、平成3年に司法試験に合格して弁護士になった人は、平成38年まで仕事をすることになる。したがって、平成38年に減少(引退)する弁護士の数は約360という単純計算になる。

 つまり、平成3年までの合格者数がずっと500人弱なのだから、H38年になるまで、毎年減少する弁護士数は約360名程度であってもおかしくはないのだ。
そこに毎年司法試験合格者を1500人に固定したとして、そのうち裁判官・検察官に100名ずつ任官・任検するとしても、1300人の弁護士が誕生する計算だから、弁護士は毎年約1000名ずつ増加していく計算になる。ちなみに最も司法修習終了者が多かった平成19年には2043名の弁護士が誕生している。

したがって、昨年度程度の司法試験合格者数であっても、毎年1000人ほどの弁護士増加になる計算だから、明らかに久保利弁護士の主張は詭弁くさい主張といわざるを得ない。

ちなみにちょっと古いが2014年裁判所データブックによると、法曹(裁判官・検察官・弁護士)の数は、
昭和25年で8322名、
昭和45年で11858名(20年間で3536名増加)、
平成2年で17363名(20年間で5505名増加)、
平成22年で33401名(20年間で16308名増加)、
平成26年で39892名(わずか4年間で6491名増加)、
と近時加速度的に法曹人口は増加してきていることになる。

このように分かりやすい資料に基づいた簡単な比較もせずに、2005年度と、2016年度の司法試験合格者数だけを比較して法曹の数を増やすことになっていないと主張するのであれば、久保利弁護士の主張は誤導を目的とする主張であるといわざるをえないように思う。

また、「法曹の数を増やすために導入したにもかかわらず、法曹の数を増やせないなら法科大学院制度に意味はない。」とも久保利弁護士は主張するが、前述のごとく、法曹人口は激増しており、主張自体が誤っているのでいくら啖呵を切っても迫力はない。


司法制度改革審議会が法曹人口の増加を提言したのも、もともとは法的紛争が飛躍的に増大する見込みに対応するためであったわけだ。だとすれば、法的紛争が飛躍的に増大しないのであれば、法曹人口の増加という措置も不要だったことになる。

そして現実的には、司法制度改革審議会は、お偉いさんが雁首揃えて散々(相当税金も使われたことだろう)検討したあげくに、前回指摘したように、全く現実に添わない法的紛争の飛躍的増大などという完全に誤った予測を立て、それに対応するために、質を維持したうえで量的にも豊富な法曹が必要であると考え、旧司法試験制度+修習制度では質は維持できても量的に増加させることに限界があるとして、法科大学院制度の採用に踏み切ったわけだ。

おおもとの方針を立てる前の予測が、完全に誤っていたのだから、その予測に対応するためにとられた法科大学院制度の導入を含めた司法制度改革も少なくとも法曹人口の増大に関しては、誤りにならざるを得ない。私にいわせれば、法的紛争の飛躍的増大という予測が完全な誤りだったのだから、それに対応するために導入された法科大学院制度はそれだけで意味がない(もちろん法科大学院でしっかり勉強された方の努力を否定しているわけではない。制度の問題として論じているつもりである。)。法科大学院制度は存亡の危機にあるというよりも、元もと必要なかった制度なのだと言ってもいいくらいだと思う。

確かに、質を維持した法曹の増大だけではなく、司法制度改革審議会は、「法曹に共通して必要とされる専門的資質・能力の習得と、かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上を図る。」との理念を法科大学院に期待しているが、そもそも、専門的知識・能力の習得はさておき、豊かな人間性なんてものは教わって身につくものとは思われない。もしそのような教育が可能なら、大学を出た人が犯罪を犯すことなんて考えられない、といういことになりかねない。

仮に100万歩譲って、教育が可能であったとしても、どこかの法科大学院で司法試験委員を兼ねる教員から試験問題漏洩の疑いがあったりする事件もあったことに鑑みれば、そのような不祥事を起こす可能性もある教員から教わって身につく人間性ってどんなものなんだ、と疑問に思わざるを得ない。 


久保利弁護士は、法科大学院制度を否定すれば、一発試験で受験秀才を選抜する仕組みに戻るだけで、社会の要請に応えられないとして、タカタ・東芝の例を引用する。

しかし、前回の私の突っ込みで指摘したように既に弁護士の半数以上が法科大学院制度を経た上で資格を得ている。そうだとすれば、法科大学院を卒業した弁護士が2万人いたところで、結局タカタ・東芝のために国際的に活躍する弁護士は生まれなかったということだ。だから、法科大学院を維持したところで、結局国際的に活躍する弁護士が急増するなんてあり得ないことは久保利弁護士ご自身の主張が示している。何よりも、久保利弁護士自身がご自身の経営する日比谷パーク法律事務所の求人において、予備試験経由の人材を排除していないではないか。


真に法科大学院教育が法曹に必須であり、法科大学院が独学で身につかない教養・人間性なども含めた素晴らしい教育を施して、独学では代え難い素晴らしい人材を輩出することができているのであれば、久保利弁護士だって法科大学院卒業生しか採用しないだろうし、日本の大手法律事務所が予備試験合格者を優先的に採用するような行動をとるはずがない。

裁判所・検察庁も予備試験合格者を平気で採用していることからみても、法科大学院教育に対して、実務界がなんの価値も置いていないことは明らかだろう。


かつて、法科大学院卒業者の司法試験受験回数が5年3回に制限されていた際に、受験回数制限を妥当とする論者からは、法科大学院教育の効果は5年でなくなると考えられるからこれで良いのだとの主張があったはずだ。

実務界で評価されず、また5年で失われる教育効果のために、どうして法曹志願者が多額の学費と時間を費やす必要があり、また、国民の皆様の血税がジャブジャブ使われなければならないのか。その裏で得をしているのは誰なのだろうか。

司法試験で能力のある者を選抜し、その上で、知識と能力を確認した人材に対して税金を投入して育てる方法と、司法試験に合格するかどうかも分からない段階から教育担当機関の法科大学院に税金を投入してそのうちの2割がようやく使いものになる方法と、どちらが税金の使い道として有効であるかは明らかだ。

法曹人口増大の約束は果たされていないとの久保利弁護士の主張が誤りであることは既に数字で示したが、そもそも司法制度改革審議会でも、「国民が必要とする質と量の法曹の確保・向上こそが本質的な課題である。」との指摘があるように、国民が必要としていないのであれば、極論すれば法曹人口など増やす必要はないのである。

前回指摘したが、裁判所の全新受件数が35年以上前である昭和55年の1,469,848件に近い程度まで落ち込んでいる。昭和55年当時の法曹人口は14,888名である。平成26年法曹人口は39,892名。約2.7倍だ。この数字から見ても、国民が必要とする法曹人口は量的には十分足りていると見るべきだろう。

(続く)

ロースクールと法曹の未来を創る会の要請文について~3

(続き)

(2)法科大学院の役割と現状
法曹関係者には、上記のような有力大学を経て、旧司法試験を合格した者が多く、こうした状況について、「それでどこに問題があるのか」と言う者も多い。しかし、思い出されるべきは、何故、16年前に司法制度改革が行われ、法科大学院制度が導入されたのかということである。それは、一発試験で少数の者を選抜し、司法修習制度により教育するという法曹養成制度(基本的には、明治以来受け継がれてきたものである。)では、複雑化し、国際化した市民社会と経済社会の要請に応えられないということから始まった。法律以外のさまざま知識や経験をもち、専門的技能や外国語など、それまでの法律家に足りなかった能力を備えた多様な法律家を多数輩出することが求められたのである。その要請に応えるために導入されたのが法科大学院制度である。
2004年に発足した法科大学院は、さまざまな困難の中でも、これまでに2万人を超える実務家法曹を生み出してきた。大都市圏以外の法科大学院出身の法曹も500名程度に達している。当初想定された3000名という数には及ばないとしても、2000名を超える合格者が出たこともあって、訴訟実務以外の分野に進出する法曹も増加し、2004年には僅か100名程度だった組織内弁護士の数は、現在では、1900名を超えている。大企業や中央省庁だけでなく、中小企業や地方自治体で働く弁護士も増えている。日本の社会に「法の支配」を確立する基盤が作られ始めたのである。
旧司法試験時代にはほとんど合格者がいなかった地方の大学や中小の私立大学が設置した法科大学院や夜間開講で社会人を受け入れる法科大学院は、「多様な人材」という法科大学院制度の象徴である。こうした法科大学院の多くが廃校になりつつあるということは、法科大学院制度を導入した趣旨が没却されつつあることを意味している。

→(以下、坂野の雑駁な突っ込みである。)

 まず一発試験で何が悪い。一発試験が悪いのであれば、中学入試、高校入試、大学入試の大半が問題ありとなるだろう。久保利弁護士は確か、開成高校→東大法学部だったと思うが、どちらも入試は一発試験だったはずだ。何か大きな問題でもあったのだろうか。また、アメリカは、オリンピック陸上選手の代表選考にオリンピック選考協議会での一発勝負を採用しているという話を聞いたことがあるが、それもおかしなことになるのか(極論ですが・・・)。

 かといって、私はきちんと勉強しました!という自己申告だけで資格を与えるわけにはいくまい。知識や能力を確認するために、どこかで試験は必要であり、一発試験を悪のようにラベリングして主張するのはそれだけでまず問題だ。

 また、法曹養成には税金が投入されている。その税金の有効な使い方をどう考えるのか。
 旧司法試験制度は、自力で基礎知識と応用能力の基礎を有することを証明して他よりも成長してきた優秀なまたは良く育ってきた稲を司法試験で選抜し、しっかりと税金と手間暇かけて司法修習を2年行い、一人前の法曹に育て上げる方式だった。

 これに対し、法科大学院制度は、広い田んぼに種籾をまき散らし、その種籾が芽を出すのか、一人前の稲になるのかかどうかも分からない段階から農家(法科大学院)に税金をジャブジャブ投入して育てさせようとする方式だ。しかも司法試験合格率からすれば、実際には約8割の種籾は、稲にすらなれない(法曹としては使いものにならない)うえに、肝心の農家の半数は、「いいお米を作りますよ~」と大風呂敷を広げただけで、実際には稲作を行う能力がなかったため、今は既に離農(廃校)している状況だ。

 この実態について、法科大学院制度導入者はどう言い訳するのだろうか。法曹志願者だけではなく、納税者に対しても詐欺的な制度であったとしかいいようがないのではないだろうか。

 また、旧来の法曹養成制度では国際化・複雑化した市民社会経済社会の要請に応えられないから司法制度改革が始まったというのもミスリーディングだ。

 司法制度改革審議会意見書には次のような記載がある。

 「今後の社会・経済の進展に伴い、法曹に対する需要は、量的に増大するとともに、質的にも一層多様化・高度化していくことが予想される。現在の我が国の法曹を見ると、いずれの面においても、社会の法的需要に十分対応できているとは言い難い状況にあり、前記の種々の制度改革を実りある形で実現する上でも、その直接の担い手となる法曹の質・量を大幅に拡充することは不可欠である。」

 「今後、国民生活の様々な場面における法曹需要は、量的に増大するとともに、質的にますます多様化、高度化することが予想される。」
 

 このように、確かに久保利弁護士の指摘する点も含まれてはいるが、その前に、法的需要が量的に増大することが大前提となっており、そちらへの対応の必要性が先とも読める。
 ただし司法制度改革審議会は、「法的需要が量的に増大することは明らか」と指摘しつつも、適当に言っていただけのようで、その根拠は示していない。

 しかも、この「法的需要が量的に増大する」という見通しは大ハズレも良いところだった。ちょっと古いデータになるが、平成25年度の全裁判所の新受全事件数は1,524,029件である。過払いブーム最盛期の頃には確かに新受全事件数が350万件に達したことはあるが、過払いブームが沈静化した昨今、裁判所に持ち込まれる法的紛争事件は相当減少しているのだ。ちなみに、この平成25年度の全裁判所の新受全事件数は昭和60年度の2,548,585件よりも100万件も少ないのである。もちろん裁判所での事件の扱い方が変更になったこともあるので一概に比較はできないが、法的需要が量的に増大しているなら裁判所に持ち込まれる案件がどんどん増大するのが通常だろう。確かに裁判所以外でも紛争解決はなされているだろうが、司法制度改革審議会が無責任にも根拠なく「明らかである」と言いきった法的需要の量的増大は完全に的外れだったと言われても仕方がないだろう。そうなると、間違った予測に対応するために実施された司法制度改革も当然誤ったものにならざるを得ない。

 それを措くとして、旧来の法曹養成制度では国際化・複雑化した市民社会・経済社会の要請に応えられないというのであれば、それを克服するために法科大学院が設置されたはずだから、法科大学院教育を受けてきた法曹はそれに対応できているということにならないと意味がない。現在の弁護士数は38,916名である。久保利弁護士が指摘するように法科大学院経由の弁護士数が2万人を超えているのであれば、国際化・複雑化した市民社会に51%以上の弁護士がもう対応できていることになる。果たしてそうなのか?

 次回突っ込む予定のパラグラフで、久保利弁護士は、いみじくも「日本企業のために国際的に活躍している弁護士はほとんどいない。」と言っちゃってるけど、それって、2万人も輩出された法科大学院経由の法曹が、国際化・複雑化した市民社会・経済社会にお役に立てていないことを自認していることになるんじゃないのか。

 組織内弁護士等が増えたことについては、法科大学院教育のおかげなのか、弁護士数増加のおかげなのかはっきりしない。私は弁護士数増加のおかげだと思うけれども、法科大学院教育のおかげだと主張するならその根拠を示してもらいたいところだ。

 最後の段落もよく分からない。旧司法試験にほとんど合格者を出せなかった大学や中小地方大学が法科大学院を設置することが、それだけでどうして多様な人材を法曹界に導くことになるのだろう。むしろ合格者が増えて合格基準が下がったからそのような大学でも少しは合格者を出せるようになったというべきなんじゃないのか。しかも、司法試験合格率が極めて低い法科大学院などは、教育能力がないのだから、設置するだけで税金の無駄だし、高度な教育を期待して入学してきた法曹志願者に対する詐欺にも等しいことではないか。

 また、多様な人材が必要だと言っても、最低限プロとして必要な知識と能力は必要だ。医師は人の痛みが分かるべきだから、多様な人材を医師にすべきという主張が仮に正しかったとしても、医師国家試験に合格できない人間を医師にできるはずがない。多様な人材が必要と言っても、その前に、プロとして最低限必要な質は維持しなくてはならないのである。

 多様な人材がいても当たり外れが大きく、とんでもない弁護士が多く含まれる弁護士制度を国民の皆様が望んでいるのか、そこまで人材が多様ではなくても、依頼すればそう大きな間違いのない対応をしてくれる弁護士制度を国民の皆様が望んでいるのか、良く検討してみる必要があるだろう。

 私に言わせれば、法曹養成を目的としながら、その目的を達成できない法科大学院は意味がない。それどころか税金の無駄使いである。おそらく久保利弁護士は自ら私財を投じたとも言われる大宮法科大学院大学の廃校や、その受け皿になった桐蔭法科大学院の廃校が相当無念なのかもしれない。法曹養成の理想に対して、私財を投じた点では、私は久保利弁護士を尊敬するが、理想を実現出来なかった事実は謙虚に受け止めるべきではないかと思う。

 私が思うに、一流の監督がいても草野球の選手をプロ野球選手に育てることはほぼ無理なのだ(もちろん例外はある)。優秀な人材が法曹界をこぞって目指して競い合ってこそ、初めて優秀な人材が法曹界に導ける。その点を、法科大学院推進派の先生方は、エライ私が精魂込めて教えてやれば、草野球選手でも簡単に大リーガーに育てられると、ご自身の教育能力を過信していたのではないだろうか。

 その過信から、未修者の法科大学院終了年限が3年に設定されていたのかもしれない。要するに未修者は法学部生が4年で習うところを1年で追いつけという設定である。それくらい教育できるという指導者側の過信がないと到底このような鬼設定は考えつかないだろうからだ。

 法科大学院制度が、質はともかく多様な人材を法曹界に導くという制度であるならば、久保利弁護士の主張も一理ある。しかし、司法制度改革審議会の意見書からは、新規法曹の質を落とさないことは当然の前提とされている。新規法曹の質を落とさないために、合格者を出せない法科大学院が撤退していくことは、法科大学院制度の趣旨を没却するどころか、むしろ、司法制度改革の方向性に合致するものなのだ。そこを敢えて法科大学院制度の趣旨を没却すると主張する久保利弁護士の主張は、やはり、法科大学院制度維持のバイアスが相当かかっていると評価せざるをえないように思われる。

(つづく)

ロースクールと法曹の未来を創る会の要請文について~2

(つづき)

第2 要請の理由
1 崩壊の危機にある法曹養成制度と日本社会の危機
(1)半数が「廃校」に
貴職らもご承知のとおり、本年5月に、立教大学と青山学院大学、そして桐蔭横浜大学が法科大学院の募集を停止した。2004年に法科大学院制度が発足した直後に74校あった法科大学院は、この3校の募集停止により、合計35校が実質的に「廃校」になったことになる。東京、大阪、名古屋、福岡などの大都市圏以外の地域にあった法科大学院は、琉球大学や金沢大学など一部の法科大学院を除いてそのほとんどが廃校となった。また、大宮法科大学院や成蹊大学など、社会人経験者を多く受け入れてきた法科大学院の多くも廃校になっている。残っているのは、東京大学、京都大学、一橋大学などの旧帝大(専門大学)系の国立大学や早稲田大学、慶應義塾大学などの有力私大など、もともと旧司法試験でも合格者を出してきた大学である。しかも、旧司法試験のように、法科大学院を経ないで司法試験に合格する「予備試験組」も増加している。法科大学院制度の発足以来10余年を経た今、法曹養成制度という観点からすると、「先祖がえり」の状況が現出している。

→(ここから坂野の雑駁な突っ込みです)

 法科大学院の廃校を問題視しているようだが、そもそも、大量に法科大学院を認可した時点で、このことは予測されていたはずだ。しかも、これまで司法試験合格者をほとんど輩出したことがない大学までが、法曹養成能力があると主張して大挙して法科大学院認可申請をしたわけだから、優秀な学生を集めるあてがあるわけでもなく、法曹養成のノウハウがあったわけでもないのに、単に学者先生達が、エライ自分達が教えてやれば、司法試験くらい合格させられると安易に考えた結果だったのではないのだろうか。仮にそうでなくても、少子化の観点から大学経営上の必要性に鑑み、認可申請したのであれば、それは法曹を志願する学生を食い物にする発想と、そう代わりがないようにも思う。

 司法試験合格者を多く輩出している法科大学院が廃校していないことから考えると、廃校した法科大学院は、司法試験合格者を多く輩出できなかったため志願者が減少し、採算が取れなくなったものと考えられる。

 法科大学院協会の中心的地位にあり、法律家に対して「世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない」「人々のお役に立つ仕事をしていれば、法律家も飢え死にすることはないであろう」と説きながら、自らは東大退官後に、おそらく高額の報酬が見込める四大法律事務所に就職した、髙橋宏志氏の言葉が仮に正しいとするのなら、飢え死にしそうだからといって廃校した法科大学院は世の中の人々のお役に立つ仕事をしていなかった、ということになりそうだ。

 さらにいわせてもらえば、法科大学院が本当に法律家として必要な素養をきちんと教育して学生に身に付けさせ、厳格な修了認定をして、学生に法的素養が身についたことを本当にしっかりと確認して卒業させているのであれば、法科大学院卒業生は、仮に司法試験に合格しなくても、しっかりとした知識とリーガルマインドが身についているはずだから、社会では相当貴重な戦力になるはずだ。したがって、法科大学院が理念どおりに機能していれば、そして、社会が本当に法的素養のある人物を求めているのであれば、法科大学院卒業生は、法科大学院を卒業していること自体が価値になるはずで、一般の学生よりも遥かに就職に有利であり、企業の法務部などから高給で引く手あまたであってもおかしくはないのだ。

 そうなっていれば、法科大学院を出ることは就職に極めて有利に働くはずなので、法科大学院志願者が減少する事態など起きるはずがないのである。しかし、現実には、法科大学院卒業生にそこまでの評価がなされているようには見受けられない。ということは、法科大学院教育が社会にとって有為の人材を生み出すことについて、さして意味がないのか、あるいは社会には法的素養のある人物に対する需要がさほどないということだ。いずれにしても、法科大学院は必要とはいえないことになる。

 次に久保利弁護士は、「法曹養成制度という観点からすると、「先祖がえり」の状況が現出している。」と主張するが、予備試験合格者が極めて絞られていることから見ても分かるように、未だ法科大学院制度は、法曹志願者にとって大きな関門となって残っており、到底先祖帰りなどという状況にはない。

 例えば私は和歌山県の南部の田舎の出身であるが、旧司法試験であればバイトしながらでも独学で勉強して受験することができた。しかし法科大学院制度が作られた後は、原則は法科大学院に通って卒業しなければ司法試験を受験できない。受験資格すらないのである。この原則は予備試験がある現在も変わっていない。

 そうなると、法曹を志願した場合、まず私は、一番近い法科大学院に通学し卒業しなくてはならない。一番近い法科大学院はおそらく大阪になるだろうが、それでも特急で片道4時間近くかかる以上、通学は不可能である。2~3年の学費と下宿代を含む生活費を捻出しなければ(それとも借金できなければ)、司法試験を受験する資格すらもらえないのだ。仮に就職していたのであれば、会社を辞めなくては挑戦できない。夜間の法科大学院があるとか、適正配置だとか適当なことをいってはいたが、田舎の受験希望者のためにサテライト教室を全国各地に設置するという法科大学院はなかったはずだ(もちろん設置しても双方向授業は難しいだろうが)。法曹志願者のために等と、崇高な理念を謳いながらも、法科大学院も経営が成り立つ範囲でしかその理念を実行しようとはしないのだ。法科大学院は飢え死にしたくないのだ。結局法科大学院制度は、都会の通学できる範囲の受験生、数年間働かなくてもなんとかなる受験生をメインターゲットにするものであり、田舎の法曹志願者の職業選択の自由を実質的には大きく侵害しかねない制度でもあったのだ。

 先祖帰りなどとは、ちゃんちゃらおかしい。先祖帰りというのなら、誰もが自由に何回でも受験できる試験に戻してからいうべきだな。

(続く)

ロースクールと法曹の未来を創る会の要請文について~1

 ロースクールと法曹の未来を創る会代表理事の久保利英明弁護士が、本年7月20日に法務大臣と司法試験委員会委員長宛に、「司法試験合格者決定についての要請」という文書を発したようだ。

 久保利英明弁護士は、大宮法科大学院大学の創設に関わり、大宮法科大学院大学と大宮法科大学院大学が吸収された後の桐蔭法科大学院で、ずっと教授の座にあった人物であり、力いっぱい法科大学院側の立場の人間である。

 その久保利弁護士が代表理事を務める「ロースクールと法曹の未来を創る会」の上記要請は、平たくいえば、ただでさえ合格者の質の低下が叫ばれている司法試験において、平成29年度の司法試験合格者を昨年の1583名から、2100人程度にまで増加しろというものである。

その提言について、思いつくまま、私なりに突っ込みを入れてみたい。
思いつくまま書くため、雑駁な突っ込みになることはご容赦頂きたい。

(以下要請文より引用)

法務大臣 金 田 勝 年 殿
司法試験委員会委員長 神 田 秀 樹 殿
ロースクールと法曹の未来を創る会
代 表 理 事 久 保 利 英 明
「司法試験の合格者決定についての要請」

第1 要請の趣旨
 平成29年度の司法試験合格者の決定にあたっては、少なくとも、2100名程度を合格させるよう要請する。

→平成29年度の司法試験短答式試験受験者数は途中退席者を除いて5929名。そのうち、合格点である108点以上の者は3937人である。ちなみに平均点は125.4点。下位27.35%に入らなければ合格できる、つまり4人に1人しか落ちない試験である。

 そのうち、平均点を超える126点以上を取った者は合計1840名であり、2100名の合格者を出すとなれば短答式試験の平均点以下の者まで合格させなくてはならない。もちろん受験生のレベルが極めて高いのであればそれでも構わないのだが、果たしてそうなのか。

 私は旧司法試験時代しか知らないが、大体短答式試験の合格点は60点満点で48~45点あたりだったように思う。もちろん平均点をかなり上回る得点を挙げなければ合格できなかった。私の経験からいえば、短答式試験はきちんと勉強して、基礎的知識を固めてさえいれば得点できる試験である。しかも現行司法試験の短答式試験科目も憲民刑になり、旧司法試験と同じになってきている。もちろん、論文式試験と同時に行われるため体力的に大変だという面もあるが、それでもきちんとした基礎的知識があれば7~8割は取れなければならない試験だと思われる。

 短答式試験が旧司法試験から大幅に難化したとの情報は聞いていないから、仮に同程度の難易度と考えた場合、かなり甘く見積もっても7割程度の得点が取れないと、法曹になる基礎的知識は不足しているといってもいいだろう。

 仮に基礎的知識の合格点が短答式で7割の得点であると考えると131.25点だから、131点と考えても平成29年度の受験者では1256名程度しか、基礎的知識の合格者はいないことになる。

 そこに2100名の合格者を出すと、単純に考えれば約900名の基礎的知識に問題のある法曹が生まれる可能性があるということだ。

 もちろん論文試験で選抜機能が働けばよいのだが、3937名で争われる論文式試験となるので、2100名合格させるとなると、下位47%に入らなければ合格ということになってしまう。これでは選抜機能は果たせないだろう。

 確かに、新自由主義者のように知識不足でもなんでも良いから資格を与えて競争させれば良い弁護士が残る、という脳天気な発想もあるかも知れないが、それは机上の空論だ。そもそも一般の人には弁護士の力量は見抜けない。したがって、選ぶ側が良し悪しが分からない以上、判断のしようがないので全く競争原理が働かない。また、藪弁護士が弁護過誤を頻発させて退場するにあたっても、退場するまでに相当の被害が出るだろう。さらに、幾人かの藪弁護士が弁護過誤を起こして退場しても、知識不足でも資格を与える前提だから、それを上回る藪弁護士予備軍が毎年追加されてくることになり、淘汰なんぞいつまで経っても終わるはずがないのである。

 この点、大企業・お金持ちは情報もお金もあるから良い弁護士を選べる。ところが、一般の人達はそうではない。あれだけ弁護士があふれているアメリカでも同じ問題がある、という指摘が司法制度改革審議会でもなされていた。

 お金持ちでない一般の人達も、安心して弁護士に依頼できるためには、やはり弁護士資格を有する者にある程度の実力がないと困るのである。(医師免許とパラレルにお考え頂ければ、理解してもらいやすいかもしれない。知識不足でもなんでも良いから大量に医師免許を与えろとは誰もいわないだろう。)

 もちろん、久保利弁護士もそれくらいは分かっているだろうから、知識不足の人間も含めて2100人も合格させろという要請を敢えてするのは、おそらく法科大学院制度維持のための要請だと見るべきだろう。

 しかし、そもそもは国民のために優秀で頼りがいのある法曹を養成するための制度改革だったはずだ。法科大学院が生き残るために司法試験合格者を増加させても、結果的に国民の不利益になるのであれば、その主張は本末転倒なのである。

 ただでさえ税金食いの法科大学院を維持するために、知識不足の人間にもどんどん法曹資格を与えるのがよいのか、法科大学院が維持できなくても国民が本当に頼れる、実力のある人にしか資格を与えるべきではないのか、どちらが良いのかは最終的には国民が決めることだ。

 いずれにしても法科大学院の利益を優先するべき場面ではないように思う。

(つづく)

よくわからん予備試験制限論~2

(前回の続きです。)

 予備試験制限論者の主張で、さらに理解しにくいのが、大学在学中や法科大学院在学中の学生が予備試験を受験すると、どうして法科大学院教育に重大な影響が生じるのかという点である。

 他にもあるとは思うが、私がいまざっと想像するに、次の4点くらいが予備試験制限論者の根拠ではないかと思う。

①予備試験受験者が法科大学院の授業に集中しなくなる。
②予備試験に合格すると大学生が法科大学院に来ないか、法科大学院生が中退してしまう。
③予備試験に合格する学生は優秀な学生であって、優秀な学生が中退してしまうと、双方向授業がなりたたない。
④法科大学院を中核とする法曹養成制度という理念に反する。

①については、理由にならない。
 法科大学院に行ったからといって、必ず授業に集中しなければならないわけではなく、サボろうが内職しようがそれは学生の自由である。授業に集中しなくて学力が身につかなくてもそれは自己責任だ。司法研修所でも内職している修習生がいたぞ。それに、法科大学院の授業に集中しないからといって予備試験受験者が、学級崩壊よろしく、こぞって授業妨害するとも思えない。
 たとえ予備試験受験者が授業にあまり集中しなくても、熱心に授業に参加する学生にしっかりと教育してあげれば良いだけであって、なんら法科大学院の授業に重大な影響を及ぼすとは思えない。

②についても、理由にならない。
 むしろ予備試験合格者が抜けてくれた方が、熱心に法科大学院教育を受けたい学生だけが残るから、法科大学院教育にとっては、むしろ好都合なのではないか。敢えて言うなら、予備試験に合格して中退されてしまうと、その法科大学院の司法試験合格実績にはならない可能性があるが、それは教育内容とは全く別次元の法科大学院の経営面に関する問題であって、法科大学院教育に重大な影響を及ぼすことにはならないはずだ。

③についても同様である。
 優秀な法曹を育てるには優秀な人材が必要だというのなら、あなたの法科大学院では、優秀な人材がなければきちんとした教育ができないのですか?と逆に聞いてみたい。そもそも、法科大学院は適性試験と入試を科して、その合格者を入学させているはずである。つまり、入試に合格させた以上、法科大学院としては法曹になりうるだけの能力を学生に見出しているはずだ。
 何も学費目当てで合格させているわけではないだろう。万一、学費目当てなら、それこそ法曹養成制度の理念に反している。
 だとすれば、そのうち特に優秀なやつが予備試験に合格して中退したとしても、そもそもきちんと教育すれば、法曹になれる可能性がある人間を入試で合格させている以上、授業が成り立たないなどという泣き言は、とおらない。自らの教育能力の欠如を自白しているようなもんだ。

④についても理由にはならないだろう。
 そもそも、プロセスによる教育が何を意味するかはっきりしないし、法科大学院を中核とするプロセスによる教育が優れているという実証は何一つ無い。学者が勝手にそういっているだけの話であり、理念が正しいとの立証は、何一つなされていないのだ。仮に理念が正しいとしても、理念だけでは優れた結果が付いてくるとも限らない。理念を実現する手段が貧弱であれば、貧弱な結果しか付いてこない。
 むしろ、近時の司法試験の採点雑感を見ると、日本語の能力すら疑わしい答案が続出しているそうだし、前回も述べたが、実務界では(少なくとも大手法律事務所は)予備試験合格者の方を高く評価している。
 法科大学院で幅広い教育をするという話もあったようだが、最近の司法試験の採点雑感を見てみると、試験科目ですら基本ができていないという指摘のオンパレードである。基本科目もできずに先端科目など教えても分かるはずがない。理解できない先端知識があっても実務では全く役に立たない。因数分解ができない者に、きちんとした微積分は理解できない。
 一方、司法試験に合格しなかった法科大学院卒業者が社会で高く評価されているとの噂は、寡聞にして知らない。仮に社会で法科大学院卒業者が高く評価されているのなら、就職に関して引く手あまたのはずだが、そのような景気のいい話はついぞ聞いたことがない。何より社会が法科大学院教育を評価しているのなら、こんなにたくさんの法科大学院がつぶれるはずがないじゃないか。

 結局、法科大学院教育は実務界と社会からは評価されていないのだ。

 予備試験の制限を求める主張は、結局、血税まで投入されていながら、不味くて高いラーメンしか作れない法科大学院(と文科省)が、自分の不手際を棚に上げて、自分達の利権を守るために、安くて美味い屋台のラーメン屋を追放しろと言っているようなものだ。

 それが実現した時に、結局、美味いラーメンを食べ損ねるのは国民の皆様だ。本来どっちを追放すべきかは明らかなはずだ。

 私の知らない大学教授が言ったことがある。世の中の人々のお役に立つ仕事をしている限り、世の中の人々の方が自分達を飢えさせることをしない、と。
 この成仏理論が正しいとすれば、経営難で続々とつぶれている法科大学院は世の中のお役に立っていないということになるはずだ。

どうして、予備試験を制限して世の中のお役に立たない法科大学院を残そうとするのかね。やっぱり予備試験制限論は、私にはよく分からん。

 予備試験制限論者は、ポジショントークと建前はもういいから、現実を見て欲しい。

 現実をきちんと見ないと、誤った対応しかできないよ。

よくわからん予備試験制限論~1

 法曹養成制度改革推進会議は、その決定文の中で次のような指摘をしており、法曹養成制度改革連絡協議会はこの決定文をしきりに引用していることに鑑みれば、法科大学院側は、どうもこの記載をテコに、予備試験の制限を狙いたい考えのようだ。

 『予備試験受験者の半数近くを法科大学院生や大学生が占める上、予備試験合格者の多くが法科大学院在学中の者や大学在学中の者であり、しかも、その人数が予備試験合格者の約8割を占めるまでに年々増加し、法科大学院教育に重大な影響を及ぼしていることが指摘されている。
 このことから、予備試験制度創設の趣旨と現在の利用状況がかい離している点に鑑み、本来の趣旨を踏まえて予備試験制度の在り方を早急に検討し、その結果に基づき所要の方策を講ずるべきとの指摘がされている。』(法曹養成制度改革推進会議決定文より)

 しかし、私は思うのだ。

 法科大学院教育が重大な影響を受けようと、それがなんなのだ。
 法科大学院経由だろうと予備試験経由だろうと、優秀な法曹が生み出されれば国民の皆様にとってはその方が有益なはずだ。

 では予備試験合格ルートで実務家になる者は、実務界ではどのように扱われているのだろうか。
 69期司法修習生において、
 裁判官任官者78名中、予備試験合格者8名
 検察官任官者70名中、予備試験合格者7名
 ほぼ10%以上が予備試験合格ルートの者だ。

 従前から指摘しているように、大手法律事務所の多くは、予備試験合格者を特別な事務所説明会に招くなど、予備試験合格者を競って採用する傾向にある。
 そして、大手法律事務所の予備試験合格者を優先的に採用する傾向は、ずっと変わっていない。

 このような採用状況を素直に見れば、少なくとも、予備試験合格者を採用しても裁判官、検察官として特に問題があるわけではないばかりか、弁護士としてはむしろ予備試験合格者の方が大手法律事務所に求められている状況にあるといってもよいだろう。

 はっきりいってしまえば、法科大学院や文科省がアホの一つ覚えのように繰り返す、法曹教育の理念やら、プロセスによる教育なんぞに、実務界では、これっぽっちも価値を認めていないし、予備試験合格者が法曹になっても全く問題は無いということを実質的に認めているというべきだろう。

 分かりやすく例えてみれば、こう言えるかもしれない。

 ○○法科大学院ラーメン店があったとしよう。
 この○○法科大学院ラーメン店が、衛生的で美味いラーメンを作るという理念を掲げ、国民の血税を投入してもらってお金のかかる清潔な設備を揃えて、高価なラーメンを作っている。しかし肝心のラーメンが不味く、しかも高いので、当然のことながらお客は少ない。

 これに対し、特に理念はなくても、また多少清潔感に欠けていても(実質的にはお客の健康には何の問題もない)美味いラーメンを安く作る屋台の方にお客は流れる。

 いくら屋台のラーメン屋には理念がないとか、清潔感に欠けるから食品を扱うラーメン屋の趣旨に反していると叫ぼうが、高価で不味いラーメンしか作れないのであればその○○法科大学院ラーメン店に価値はない。しかも、○○法科大学院ラーメン店は、開店以降10年以上経っても未だに、元締めの文科省からラーメンの質の向上を図るよう指摘され続けている情けないラーメン屋なのだ。

 ところが、○○法科大学院ラーメン店とその元締めの文科省は、自らのラーメンの味の向上ができないことを棚に上げて、「いくら美味いラーメンを作っていても屋台には多少清潔感に欠けるところがあるではないか、それは食品を扱う店としての趣旨に反している。また屋台には、美味いラーメンを作ろうとする理念がない。」、等と言い出して、実質的にはなんの健康問題もおこさず安くて美味いラーメンを提供して繁盛している屋台に対して、文句をつけ、制限しようしているのだ。

 もし、本当に法科大学院や文科省がいうような、法曹教育の理念やプロセスによる教育が法曹に本当に必要不可欠なら、最高裁や法務省は法科大学院出身者だけを採用するはずだし、大手法律事務所が競って予備試験合格者を採用しようとするはずがないではないか。

 しかも、5年間3回の司法試験受験制限をかけていたときの理由として、文科省などは確か、法科大学院教育の効果は5年で失われるから、受験制限しても不当ではないと主張していたのではなかったか?

 法科大学院や文科省のいう、法曹教育の理念やらプロセスによる教育が法曹にとって本当に正しく、かつ必要なものなのかについて、いったい誰が決めたんだ。根拠はあるのか?自分で都合の良いことを言ってるだけじゃないのか。本当に法曹教育の理念が正しくて、プロセスによる教育が法曹にとって本当に必要だということを誰もが納得するかたちで明らかにし、また、それを法科大学院教育で身に付けさせることが可能であることを証明してから主張すべきなんじゃないのか。

 かつて、司法試験の答案が論点主義に陥っているとの批判が強く、法科大学院制度を導入すれば、それを克服できるかのような説明もあったやに思うが、それも今は昔。実質的にはこの問題は未だに解決されていないのだ。

 例えば、平成28年度司法試験採点者の雑感を見ると、未だに論証を吐き出すだけで論理的思考が見られない答案が多いとの指摘がある。選択科目を除いてもざっと見ただけで、下記のような指摘がある。

★本年も,論点単位で覚えてきた論証をはき出すだけで具体的な事案に即した論述が十分でない答案,条文等を羅列するのみで論理的思考過程を示すことなく結論を導く答案などが散見された(公法系第2問)。
★総じて,条文の引用,判例の引用又は判例への言及が少なく,条文の適用若しくは条文の文言の解釈を行っているという意識又は最高裁判所の判例に対する意識が低く,問題の所在との関係で,条文の適用関係を明らかにしないまま,又は解釈上問題となる条文の文言を明らかにしないままで,論点について,条文等の趣旨を十分に考慮せず,又は判例を意識せずに,自説を論述する例が見られる(民事系第2問)。
★例えば,訴訟共同の必要に関する管理処分権に関する規範定立についてお決まりの論証パターンを持ち出す答案が極めて多く見られた。他方で,思考力が試される設問2や設問3(特に下線部③についての検討など)については,十分な水準に達したと言える答案は少なかったと言わざるを得ない。このような状況は,法科大学院の民事訴訟法教育を受けてきた受験生が,基本的事項の理解をおろそかにし,いわゆる論点主義的な思考パターンに陥ってしまっているのではないかという懸念も生じさせないではない(民事系第3問)。
★総じて,規範定立部分についてはいわゆる論証パターンをそのまま書き写すことに終始しているのではないかと思われるものが多く,論点の正確な理解ができているのかに不安を覚える答案が目に付いた(刑事系第1問)。
★今回の論文式試験では,主要な論点について暗記していたいわゆる論証パターンを単にそのまま書いたにすぎないように思われる答案が見受けられたが,それは法的思考能力を身に付けるために必要な,前記に指摘した諸点の重要性に関する理解・認識が不十分であるためではないかと思われる(刑事系第1問)。
 

プロセスによる教育を受けたはずの法科大学院卒業生の答案に対する採点者の雑感がこれである。

プロセスによる教育、敗れたり!

(続く)

平成28年司法試験採点実感等に関する意見~3

(民事系第2問)

★まず,取締役会の招集に関して,招集権者については,取締役会を招集する取締役を定款又は取締役会で定めていなければ,各取締役が取締役会の招集権を有すること(会社法第366条第1項),招集手続については,取締役会を招集する者は,原則として,取締役会の日の1週間前までに,各取締役及び各監査役に対し,招集通知を発しなければならないこと(会社法第368条第1項)を,それぞれ指摘することが求められる。また,取締役会については,取締役会の目的である事項(議題等)を特定する必要がないことも指摘し,論述することが求められる。しかし,これらを正確に指摘等することができていない答案が少なからず見られた。
→取締役会の招集について、どの基本書にも書かれていること、条文に明記されていることができていない答案が少なからずあるという事実。司法試験用六法が使えるはずなのになんで?

★取締役会の招集手続に関する基本的な理解を欠き,問題の所在を正しく理解していない答案も散見された。
→条文もきちんとわからんようでは、まあそうなるわね。

★判例を意識していることがうかがわれる答案が多いものの,記述の上でも判例の存在を明らかにしてその理論構成に従って当該臨時取締役会の決議の効力について論ずる答案は,ごく少数にとどまった。
→判例はボンヤリとは知っている。でも正確に判例の理論構成を押さえているわけではない。目指したところに到達したものはごく僅かなのね。プロセスによる教育敗れたり!

★まず,取締役の報酬等の額について,定款に定めていないときは,株主総会の決議によって定めるが(会社法第361条第1項),株主総会の決議により,取締役全員に支給する総額の最高限度額を定め,各取締役に対する配分額の決定は,取締役会の決定に委ねてもよいと解されていること(最三判昭和60年3月26日判時1159号150頁)などを,それぞれ指摘し,又は論ずることが求められる。しかし,これらを正確に指摘し,又は論ずることができていない答案も少なからず見られた。
→条文に書いてあること、そしてその意味について、理解できていない答案が少なからずあるということ。

★また,会社法第361条第1項による規制の目的は高額の報酬が株主の利益を害する危険を排除することにあるため,減額することについては制約がないとして,Aの報酬の額を減額する旨の定例取締役会の決議に従い,Aは会社に対して月額20万円の報酬を請求することができるにすぎないと述べるにとどまるなど,取締役の報酬等の減額に関する基本的な理解を欠く答案も散見された。
→基本ができていなくても法科大学院は卒業可能なんだ。厳格な単位認定をしているって言ってなかったっけ?

★まず,取締役は,いつでも,かつ,事由のいかんを問わず,株主総会の決議によって解任することができる(会社法第339条第1項)が,会社は,その解任について正当な理由がある場合を除き,任期満了前に取締役を解任したときは,取締役に対し,解任によって生じた損害を賠償しなければならない(同条第2項)ことを指摘することが求められる。しかし,これらを正確に指摘することができていない答案が散見された。
→この指摘ができて初めて解答のスタート地点に立てるはずなんだが、その前に転けちゃったってことなんだろう。

★まず,取締役は,株式会社に対し,その任務を怠ったこと(任務懈怠)によって生じた損害を賠償する責任を負うこと(会社法第423条第1項)や,任務懈怠責任は,取締役の株式会社に対する債務不履行責任の性質を有するため,任務懈怠,会社の損害,任務懈怠と損害との間の因果関係に加え,取締役の帰責事由が必要であること(会社法第428条第1項参照)を,それぞれ指摘することが求められる。しかし,これらを正確に指摘することができていない答案や,会社法第429条第1項と要件を混同していると思われる答案が少なからず見られた。
→適用すべき条文とその意味が分かっていない受験生が少なからずいるってこと。

★一部の取締役に対する招集通知を欠いた取締役会の決議の効力,取締役の報酬及びその減額,取締役の解任,役員等の会社に対する損害賠償責任並びに代表取締役等の内部統制システムの構築義務及び運用義務といった点について,会社法に関する基本的な理解が不十分な面も見られる。

★また,問題文における事実関係から会社法上の論点を的確に抽出する点,一定の結論を導くに当たり,事実関係から重要な事実ないし事情を適切に拾い上げ,これを評価する点においても,不十分さが見られる。
→問題文の事実関係から何が問題点になるのかも分かりません。どの事実が大事なのかも分かりません。

★総じて,条文の引用,判例の引用又は判例への言及が少なく,条文の適用若しくは条文の文言の解釈を行っているという意識又は最高裁判所の判例に対する意識が低く,問題の所在との関係で,条文の適用関係を明らかにしないまま,又は解釈上問題となる条文の文言を明らかにしないままで,論点について,条文等の趣旨を十分に考慮せず,又は判例を意識せずに,自説を論述する例が見られる。
→条文も判例も良く分かっていません。条文をきちんと解釈することもせず、判例を意識もせず、自説を勝手に論じるだけです。

→まとめたら、まず会社法の基本が分かっていなくて、与えられた事実から何が問題になるのか分からなくて、どの事実が大事かも分からない。条文も判例も良く分かっていないだけでなく、実務を動かしている判例も意識できなくて、知っている自説を勝手に論じている。
 そんな受験生がいっぱいいるってことじゃないの?
 これが、プロセスによる教育を2~3年経て、厳格な卒業認定をクリアしてきた受験生の実態ですか。
 受験生が悪いんじゃなくて、教育機関に問題があるんじゃないの?

平成28年司法試験採点実感等に関する意見~2

(続きです)

→を付したのは坂野の意見であることは同様です。

(民事系第1問)

★共同相続について言及していない答案がかなりあったほか,利益相反行為の有無と代理権濫用の問題の相互関係を十分に理解しておらず,両者の区別が付いていないように見受けられる答案も一定数存在した。

★さらに,民法第824条の存在を知らず,あるいは同条に気付かずにAの行為を無権代理として論旨を展開する答案が見られたが,民法の基礎的な理解に欠けるものとして消極的に評価せざるを得ない。

→民法824条を知らなかったり、気付かないのは司法試験を受けてはいけないレベルです。実務家として最低限の知識もないことが明らかだからです。

★不動産の処分について未成年者の個別の授権を要するという答案があったが,行為能力制度は独立して取引をする能力がない者の保護を目的の1つとする制度であり,不動産の処分について能力がない未成年者の授権を要するという見解に対しては,行為能力制度に関する基本的な理解を欠く

→これも司法試験を受けてはいけないレベル。なんにも分かっていないということが、丸わかり。

★乙土地はC→E→Fと売買されているにもかかわらず,E→Cという復帰的物権変動を観念し,Eを起点とするE→C,E→Fという二重譲渡と同視し,民法第177条の適用を問題とする答案がかなりの数見られた。しかし,判例にあっても,復帰的物権変動が観念されるのは取消しや解除の場合のみであるから,このような答案は民法の基礎的な理解に問題があるものと言わざるを得ない。

→だんだん言葉がなくなってきた。

★民法第708条は給付不当利得の特則なので,その適用は,法律上の原因の不存在,すなわち,本問では消費貸借契約の無効を前提とする。したがって,消費貸借契約の無効を言わずに民法第708条の適用を問題にする答案は,制度の相互関係を体系的に理解していないという評価をせざるを得ない。

→当事者間の権利関係を見ていくという、基本ができていないということみたいだね。

★大半の答案は,MとEを直接の当事者として不当利得や不法行為の成否を論じていた。もっとも,MとEを直接の当事者とする不当利得や不法行為は,以下に述べるように,その成立を肯定するのは困難であり,そのため,これらを請求の根拠とする答案に高い評価を与えることはできない。

★不当利得に関しては,受験者の大半は,表層的な知識を有するものの,直感的な判断に依拠するだけで,不当利得の各要件がどのような役割を担っているかについての理解が十分でないように見受けられた。

→直観的判断で法律論は展開できません。論理を積み重ねて結論まで説得的に持って行く必要があるはずなんだけど。

★残念ながら,民法に関する基本的な知識と理解が不足している答案や,前後で論理的に一貫しない考察を行う答案,本質的でないことを長々と論じ,必要なことを論じていない答案が見られたのは,昨年までと同様である。

→法科大学院で受けたプロセスによる教育の結果ですから、それは残念なんでしょうね。

★本年の問題は全て,請求の根拠及び内容を説明し,その請求の当否を論じなさい,とい
う形式を採っているが,請求の根拠及び内容を説明せずに,請求の当否だけを論じている答案が一定数存在した。問題文を注意深く読み,問いにきちんと答える必要がある。

→問に答えなくて答案になるわけがありません。書きたいものを書けばいいのでは試験になりません。

★法律家になるためには,具体的な事案に対して適用されるべき法規範を見つけ出すことができなければならない。そのためには,多数の者が登場する事例においても2人ずつの関係に分解し,そのそれぞれについて契約関係の有無を調べることが出発点となる。契約関係があれば,広い意味の契約法(契約の無効・取消しの場合の給付不当利得なども含む)の適用が問題となり,そうでなければ,物権的請求権や不法行為,侵害利得や事務管理の適用が問題となる。もっとも,判例は請求権競合説を採っているので契約当事者間でも不法行為が問題となる場合はある。しかし,まずは契約関係の有無を確認するという出発点を知っているだけでも,例えば,設問2小問⑶のLE間では契約法の適用が問題となり,不当利得の適用を問題とすべきではないことが分かるはずである。

→こんなの昔の予備校だったら入門講座レベルのお話しじゃないの?こんなことも法科大学院では教えていないんだ。プロセスによる教育って、一体何なの?中教審に聞いてみたいね。

★想像力を働かせ,契約当事者それぞれの立場に身を置いたと仮定して結論の妥当性を考えることも,事案の解決に際しては必要である。

★法の体系的理解とそれに基づく実践的な論理展開の能力を身に付けることが法律実務家を養成する法科大学院における学習において望まれており,それが司法試験の合格ラインに達するためにも不可欠である。

→いや、これができていないのなら、実務家として全く使えんでしょう。

(続く)