ロースクールと法曹の未来を創る会の要請文について~3

(続き)

(2)法科大学院の役割と現状
法曹関係者には、上記のような有力大学を経て、旧司法試験を合格した者が多く、こうした状況について、「それでどこに問題があるのか」と言う者も多い。しかし、思い出されるべきは、何故、16年前に司法制度改革が行われ、法科大学院制度が導入されたのかということである。それは、一発試験で少数の者を選抜し、司法修習制度により教育するという法曹養成制度(基本的には、明治以来受け継がれてきたものである。)では、複雑化し、国際化した市民社会と経済社会の要請に応えられないということから始まった。法律以外のさまざま知識や経験をもち、専門的技能や外国語など、それまでの法律家に足りなかった能力を備えた多様な法律家を多数輩出することが求められたのである。その要請に応えるために導入されたのが法科大学院制度である。
2004年に発足した法科大学院は、さまざまな困難の中でも、これまでに2万人を超える実務家法曹を生み出してきた。大都市圏以外の法科大学院出身の法曹も500名程度に達している。当初想定された3000名という数には及ばないとしても、2000名を超える合格者が出たこともあって、訴訟実務以外の分野に進出する法曹も増加し、2004年には僅か100名程度だった組織内弁護士の数は、現在では、1900名を超えている。大企業や中央省庁だけでなく、中小企業や地方自治体で働く弁護士も増えている。日本の社会に「法の支配」を確立する基盤が作られ始めたのである。
旧司法試験時代にはほとんど合格者がいなかった地方の大学や中小の私立大学が設置した法科大学院や夜間開講で社会人を受け入れる法科大学院は、「多様な人材」という法科大学院制度の象徴である。こうした法科大学院の多くが廃校になりつつあるということは、法科大学院制度を導入した趣旨が没却されつつあることを意味している。

→(以下、坂野の雑駁な突っ込みである。)

 まず一発試験で何が悪い。一発試験が悪いのであれば、中学入試、高校入試、大学入試の大半が問題ありとなるだろう。久保利弁護士は確か、開成高校→東大法学部だったと思うが、どちらも入試は一発試験だったはずだ。何か大きな問題でもあったのだろうか。また、アメリカは、オリンピック陸上選手の代表選考にオリンピック選考協議会での一発勝負を採用しているという話を聞いたことがあるが、それもおかしなことになるのか(極論ですが・・・)。

 かといって、私はきちんと勉強しました!という自己申告だけで資格を与えるわけにはいくまい。知識や能力を確認するために、どこかで試験は必要であり、一発試験を悪のようにラベリングして主張するのはそれだけでまず問題だ。

 また、法曹養成には税金が投入されている。その税金の有効な使い方をどう考えるのか。
 旧司法試験制度は、自力で基礎知識と応用能力の基礎を有することを証明して他よりも成長してきた優秀なまたは良く育ってきた稲を司法試験で選抜し、しっかりと税金と手間暇かけて司法修習を2年行い、一人前の法曹に育て上げる方式だった。

 これに対し、法科大学院制度は、広い田んぼに種籾をまき散らし、その種籾が芽を出すのか、一人前の稲になるのかかどうかも分からない段階から農家(法科大学院)に税金をジャブジャブ投入して育てさせようとする方式だ。しかも司法試験合格率からすれば、実際には約8割の種籾は、稲にすらなれない(法曹としては使いものにならない)うえに、肝心の農家の半数は、「いいお米を作りますよ~」と大風呂敷を広げただけで、実際には稲作を行う能力がなかったため、今は既に離農(廃校)している状況だ。

 この実態について、法科大学院制度導入者はどう言い訳するのだろうか。法曹志願者だけではなく、納税者に対しても詐欺的な制度であったとしかいいようがないのではないだろうか。

 また、旧来の法曹養成制度では国際化・複雑化した市民社会経済社会の要請に応えられないから司法制度改革が始まったというのもミスリーディングだ。

 司法制度改革審議会意見書には次のような記載がある。

 「今後の社会・経済の進展に伴い、法曹に対する需要は、量的に増大するとともに、質的にも一層多様化・高度化していくことが予想される。現在の我が国の法曹を見ると、いずれの面においても、社会の法的需要に十分対応できているとは言い難い状況にあり、前記の種々の制度改革を実りある形で実現する上でも、その直接の担い手となる法曹の質・量を大幅に拡充することは不可欠である。」

 「今後、国民生活の様々な場面における法曹需要は、量的に増大するとともに、質的にますます多様化、高度化することが予想される。」
 

 このように、確かに久保利弁護士の指摘する点も含まれてはいるが、その前に、法的需要が量的に増大することが大前提となっており、そちらへの対応の必要性が先とも読める。
 ただし司法制度改革審議会は、「法的需要が量的に増大することは明らか」と指摘しつつも、適当に言っていただけのようで、その根拠は示していない。

 しかも、この「法的需要が量的に増大する」という見通しは大ハズレも良いところだった。ちょっと古いデータになるが、平成25年度の全裁判所の新受全事件数は1,524,029件である。過払いブーム最盛期の頃には確かに新受全事件数が350万件に達したことはあるが、過払いブームが沈静化した昨今、裁判所に持ち込まれる法的紛争事件は相当減少しているのだ。ちなみに、この平成25年度の全裁判所の新受全事件数は昭和60年度の2,548,585件よりも100万件も少ないのである。もちろん裁判所での事件の扱い方が変更になったこともあるので一概に比較はできないが、法的需要が量的に増大しているなら裁判所に持ち込まれる案件がどんどん増大するのが通常だろう。確かに裁判所以外でも紛争解決はなされているだろうが、司法制度改革審議会が無責任にも根拠なく「明らかである」と言いきった法的需要の量的増大は完全に的外れだったと言われても仕方がないだろう。そうなると、間違った予測に対応するために実施された司法制度改革も当然誤ったものにならざるを得ない。

 それを措くとして、旧来の法曹養成制度では国際化・複雑化した市民社会・経済社会の要請に応えられないというのであれば、それを克服するために法科大学院が設置されたはずだから、法科大学院教育を受けてきた法曹はそれに対応できているということにならないと意味がない。現在の弁護士数は38,916名である。久保利弁護士が指摘するように法科大学院経由の弁護士数が2万人を超えているのであれば、国際化・複雑化した市民社会に51%以上の弁護士がもう対応できていることになる。果たしてそうなのか?

 次回突っ込む予定のパラグラフで、久保利弁護士は、いみじくも「日本企業のために国際的に活躍している弁護士はほとんどいない。」と言っちゃってるけど、それって、2万人も輩出された法科大学院経由の法曹が、国際化・複雑化した市民社会・経済社会にお役に立てていないことを自認していることになるんじゃないのか。

 組織内弁護士等が増えたことについては、法科大学院教育のおかげなのか、弁護士数増加のおかげなのかはっきりしない。私は弁護士数増加のおかげだと思うけれども、法科大学院教育のおかげだと主張するならその根拠を示してもらいたいところだ。

 最後の段落もよく分からない。旧司法試験にほとんど合格者を出せなかった大学や中小地方大学が法科大学院を設置することが、それだけでどうして多様な人材を法曹界に導くことになるのだろう。むしろ合格者が増えて合格基準が下がったからそのような大学でも少しは合格者を出せるようになったというべきなんじゃないのか。しかも、司法試験合格率が極めて低い法科大学院などは、教育能力がないのだから、設置するだけで税金の無駄だし、高度な教育を期待して入学してきた法曹志願者に対する詐欺にも等しいことではないか。

 また、多様な人材が必要だと言っても、最低限プロとして必要な知識と能力は必要だ。医師は人の痛みが分かるべきだから、多様な人材を医師にすべきという主張が仮に正しかったとしても、医師国家試験に合格できない人間を医師にできるはずがない。多様な人材が必要と言っても、その前に、プロとして最低限必要な質は維持しなくてはならないのである。

 多様な人材がいても当たり外れが大きく、とんでもない弁護士が多く含まれる弁護士制度を国民の皆様が望んでいるのか、そこまで人材が多様ではなくても、依頼すればそう大きな間違いのない対応をしてくれる弁護士制度を国民の皆様が望んでいるのか、良く検討してみる必要があるだろう。

 私に言わせれば、法曹養成を目的としながら、その目的を達成できない法科大学院は意味がない。それどころか税金の無駄使いである。おそらく久保利弁護士は自ら私財を投じたとも言われる大宮法科大学院大学の廃校や、その受け皿になった桐蔭法科大学院の廃校が相当無念なのかもしれない。法曹養成の理想に対して、私財を投じた点では、私は久保利弁護士を尊敬するが、理想を実現出来なかった事実は謙虚に受け止めるべきではないかと思う。

 私が思うに、一流の監督がいても草野球の選手をプロ野球選手に育てることはほぼ無理なのだ(もちろん例外はある)。優秀な人材が法曹界をこぞって目指して競い合ってこそ、初めて優秀な人材が法曹界に導ける。その点を、法科大学院推進派の先生方は、エライ私が精魂込めて教えてやれば、草野球選手でも簡単に大リーガーに育てられると、ご自身の教育能力を過信していたのではないだろうか。

 その過信から、未修者の法科大学院終了年限が3年に設定されていたのかもしれない。要するに未修者は法学部生が4年で習うところを1年で追いつけという設定である。それくらい教育できるという指導者側の過信がないと到底このような鬼設定は考えつかないだろうからだ。

 法科大学院制度が、質はともかく多様な人材を法曹界に導くという制度であるならば、久保利弁護士の主張も一理ある。しかし、司法制度改革審議会の意見書からは、新規法曹の質を落とさないことは当然の前提とされている。新規法曹の質を落とさないために、合格者を出せない法科大学院が撤退していくことは、法科大学院制度の趣旨を没却するどころか、むしろ、司法制度改革の方向性に合致するものなのだ。そこを敢えて法科大学院制度の趣旨を没却すると主張する久保利弁護士の主張は、やはり、法科大学院制度維持のバイアスが相当かかっていると評価せざるをえないように思われる。

(つづく)

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