J・Sバッハ カンタータ BWV106番

 バッハ、クラシック音楽、カンタータ、なんて聞くと、もう嫌だという人もおられるかもしれませんね。

 しかし、このカンタータは私はお勧めだと思います。哀悼式典用に作曲されたカンタータで、題名は訳した人によって多少違いますが、「神の時こそいと良き時」という意味だそうです。

 私は、クラシック音楽に関する知識はほとんどありませんから、個人的に好きかどうかくらいのお話しかできません。曲自体に関する解説は、評論家など専門の方の書かれた文章を参考にして下さい。

 さて、この曲ですが、哀悼式典用の音楽ですから、誰か親しい方が亡くなった場合に演奏されたものなのだと思います。

 しかし、決して重苦しい悲しみだけを表現した音楽ではないように思います。私がこの曲から受ける印象は、「親しい人が永遠の眠りに就き、良く晴れた冬空の下、葬儀の帰り道にもう会えない人との時間を思い出しながら大きな糸杉が植わった誰もいない並木道を1人歩き続け、ふと見上げた時に、どこまでも晴れ渡った青空に気づいたときの感覚」に近いというものです。この曲には不思議なそして静かな明るさがあるような気がします。

 「車輪の下」等の小説で有名な作家のヘルマン・ヘッセもこの曲が好きだったようで、彼の小説「デミアン」の中に、この曲のすばらしさを記した部分があります。

 私の持っているCDは、カール・リヒター指揮のものですが、他の指揮者の方の演奏も発売されているので是非お試しを。

林正子さんのソプラノコンサート

 あるところよりご招待券を頂いたので、ソプラノ歌手、林正子さんのコンサートに行ってきました。

 私にとって、ソプラノ歌手のコンサートは、10年以上前にザ・シンフォニーホールでエディタ・グルベローヴァのコンサートを聴いて以来のものでした。

 さて、コンサートの感想の方ですが、一言でいうと、コンサートは想像以上に素晴らしいものでした。アリアもよかったのですが、アンコールも含めて2度歌われた「見上げてごらん夜の星を」~坂本九ちゃんの歌です~は感動的で、2度目にアンコールで聞いた際には、不覚にも涙をこらえることができませんでした。

 上手く表現できないのが残念ですが、音楽的な技術・技巧で感動したのではなく、そこで作り出された音楽が、市井の名もなき人々がささやかな幸せを祈るその切ない思い、そして、その切ない思いが必ずしも叶えられるとは限らない人々への慈しみ、それ自体に昇華して、ただそれだけが会場を包み込んでしまったような感じでした。

 もはや音楽が表現をするというものではなく、音楽が、その切ない思い・慈しみそのものとなって会場を満たしたと言うほうが適切かもしれません。

 う~ん、上手く表現できませんね。こういうとき言葉は不便だと痛感します。一度聞いて頂くしかないのかもしれません。

 今後もコンサートを各地で開かれるそうなので、機会があれば是非足を運ばれることをお勧めします。

答案練習会の添削

答案練習会の添削

 
 先だって、知人から刑事訴訟法の答案練習会で「おとり捜査」が出題されたのだけれど、強制捜査と任意捜査の区別を書くよう添削され、かなり減点されたことがあるという話を聞きました。
 
 皆さんご存じのとおり、現在「おとり捜査」は任意捜査としてほぼ争いはありません。有斐閣新書「注釈刑事訴訟法」では任意捜査の限界問題として扱い、有斐閣「刑事訴訟法(田宮裕)」では任意捜査の規制の項目で扱われています。また、司法修習生必携といわれる青林書院「新実例刑訴Ⅰ」においては、堂々と「刑事訴訟法上、おとり捜査は任意捜査と認められるが・・・・」と記載されています。
 ところが、かつての予備校本の中には、 おとり捜査は任意捜査か強制捜査かという論点を記載したものがあったらしく、その本で勉強して合格した方が基本書等で確認することなく、「おとり捜査」の問題→「任意捜査か強制捜査の論点を書く」と覚えてしまっていたのでしょう。おそらくその方は運良く刑事訴訟法で「おとり捜査」の出題がなかったので合格できたのでしょうが、もし出題されていれば、書く必要のない部分を書いてしまった答案ということになり、やばかったはずです。

 このように、合格者といえども必ずしも全ての科目について全ての論点を正確に理解しているとは限りません。
 また、論文試験直前の答案練習会においては、採点者の確保が大変らしく、採点者1人1人の負担が大きいという噂も聞いております。したがって、必然的に添削にかける時間もそう多くはとれないことになるでしょう。私の経験ですが、ひどい添削者にあたると、ろくに添削をせず答案に大きな○を数個うっておいて、「大体良いでしょう、25点」とだけ書かれていたということもあります。

 このような採点者の状況下で、添削を受けているのだということを受験生の方々は理解され、添削を鵜呑みにされず、おかしいと思えば必ず確認することをお勧めします。また、点数は相当いい加減に付けられますので、ほとんど参考にする必要はないでしょう。
 ただ、形式面に関する添削や、論理がつながっていない、記載されている意味が不明確であるという指摘があった場合は十分注意して下さい。あなたの頭の中では論理がつながっていても、文章として表現できていない可能性が高いからです。添削者に論理的な道筋が理解できない論文式答案を、一流の法律家・学識者である司法試験委員に対して、一読で理解してもらおうとしても、無理な話です。十分検討して、あなたの思考を論理的に文章で表現する手法を考える必要があると思います。

 前回も言いましたが、合格してみれば、こんなレベルで良かったのか、と感じるはずです。
司法試験の合格レベルはエベレストレベルではありません。富士山レベルです。遊んでいては登れませんし、確かにしんどいですが、登山道をはずれずに歩けば、普通の体力の方でも十分登れます。但し、登山道を登らずに自己流で突っ走ると樹海をさまよいかねません。常に自分が登山道をはずれていないか、チェックしながら登って下さい。自分でチェックしにくい場合は他人に見てもらうのが一番です。最近のガイド(添削者・合格者)は大量合格のため、さほど実力がない方が混じっている場合もありうるので、間違って樹海に連れて行かれる危険がないとも言えませんが、地図(基本書)で確認すれば、大怪我は避けられます。

 直前答案練習会の復習をされる場合には、具体的でない添削者のコメントや点数は基本的に気にせずに、しかし、論理の飛躍の指摘や、表現に関する指摘があった場合は十分注意してなされることをお勧めします。

論文式試験の心構え

 前回のブログで、論文式試験で司法試験考査委員が何を見ているかについて、簡単に説明いたしました。

 しかし、私の経験から言うと、実力者であっても 論文式試験で必ず合格できるとは限りません。身につけた実力が素直に発揮できるとは限らないからです。

 そこで、今回は、論文式試験に臨む心構えについて、私の体験から得たものを説明したいと思います。

 私の、結構な回数の受験歴から考えれば、論文式試験に臨む心構えとしては、①自分を飾らない、②絶対に逃げない、③試験委員を思いやる、この3点に尽きるのではないかと思います。

 ①自分を飾らないということですが、論文式試験では何とかして、試験委員に自分の実力を評価してもらいたいあまり、背伸びして自分の実力はもっと上なのだと表現したくなることが多いと思います。しかし、どんなに知識を披瀝して自分を飾ってみても、本当の自分の実力が上がるわけではありません。それどころか多数の答案を見る試験委員からすれば、これは分かったふりをしているなと簡単に見透かされることがほとんどでしょう。そうであれば、無理に自分を飾らず、本当の自分の実力を素直に見てもらおうと考えて試験に臨んだ方が、より素直に実力を発揮でき、また、不要な論点まで書いて墓穴を掘る最悪な事態を避けうる場合が多いと思われます。仮に自分の実力を偽装して合格しても、研修所の2回試験に合格できなくなるかもしれませんし、そこをすり抜けても将来弁護過誤で大きな問題を起こしてしまうかもしれません。そうであれば、なおさら、素直に実力を見てもらった方が良いと思うのです。

 ②の絶対に逃げないということですが、これは、論文式試験の問いに答える上で、決して逃げないということです。どんな受験生でも完璧に勉強を完了している受験生などいません。誰もが弱点を持ち、知らない論点を持っているものです。ですから、論文式試験の12問のうち、誰しも必ず、何問かについては、「しまった、やっておかなかった」「もう少し復習しておけば」等という問題に直面します。その際に、よく知らない少数説なら簡単に書けたような気がするので少数説に乗り換えようとか、この論点を知らんふりして通り過ぎれば良いのではないか、という誘惑にかられることもあります。しかし、そこで逃げるべきではないと思います。少数説で簡単に書けるとしても、今まで自分がとってきた説で堂々と不都合を手当てしながら主張すれば足ると思いますし、答案に迫力が出ると思います。また、知らんふりして逃げるのは、そもそも問題点すら把握できないのかと思われる危険があります。幸い、受験生には条文という最強の味方がいます。法律問題の出発点は条文ですから、その条文を使って、必死に戦うべきだと思います。

 ①・②の結果、「この問題について、私なりに妥当な結論を導こうと全力で考えた結果、このような答案になりました。今の私はこれ以上でも、これ以下でもありません。この私の答案で不合格であるというのであれば、私の実力不足なので仕方がありません。しかし、私は法曹になりたいという強い意志を持っており、合格させて頂いた後は更に精進して立派な法曹になります。決してご期待を裏切ることはありません。」というような心境で受験できれば、かなり実力を素直に出せるのではないかと思います。

 ③の試験委員を思いやるということですが、言い換えれば、できるだけ読みやすくわかりやすい答案を書くことです。真夏の暑い盛りにたくさんの答案を読まされる(読みたくて読むわけではなく、読まされるという心境だそうです)試験委員の苦労を考えると、受験生としては一読即解の答案を当然目指すことになります。文字の上手下手は仕方がありませんが、下手でも読みやすい字を書くように心がけることです。また、細字のペンを使うか太字のペンを使うかで読みやすさが異なりますから、他の人に読んでもらって、読みやすいペンの字を使うべきです。

 上記のことはあくまで私の経験から出たもので、全ての方に妥当するとは限りませんが、何らかの参考になればと考えております。 

司法試験考査委員が求める論文答案

司法試験考査委員が論文試験で求めているものは何なのでしょうか?

 よく司法試験合格者に、「論文式試験の合格レベルは高くはないよ」と言われた受験生の方は多いと思います。

 私も、合格者にそのように言われ、「あんたは合格したからそう言えるねん」と、ひねた考えを持ったりしましたが、やはり自分が論文式試験に合格したときには、本当に論文式試験の合格レベルは高くなかったのだと感じたものでした。

 では、論文式試験の合格レベルは高くないのに何故、なかなか合格できなかったのでしょうか。

 この点に関しては、司法研修所に入り司法修習を受けている間に、司法試験委員を兼ねている研修所教官(複数)にお酒の席などで聞いてなんとなく理解ができました。

 教官が仰るには、司法試験は「正確な基礎知識と論理力」だけしか見ていないとのことでした。「あんな短い答案だと、それくらいしか見れないじゃないか」とのご意見もありました。

 なんだそんなことかと思われる方も多いと思います。しかし注意して欲しいのは「正確な基礎知識」であって、たんなる「基礎知識」では駄目だということです。ある程度勉強をされてこられた方は、定義など簡単に書いてしまいますが、果たしてその定義は本当に基本書等に書かれている正確なものでしょうか。論点を書く際に、論点が何故生じているのかについて本当に正確に把握されているのでしょうか。例えば、その論点が生じるのは、条文が不明確なためだとしても、どの文言がどう不明確だから問題になるのか、を明確に理解して書いているでしょうか。

 正確ではないけれど何となく近いことが書けているという状態に陥っているのであれば、それはとても危険な状態です。もう一度きちんと「正確な基礎知識」が身に付いているか、確認されるべきです。

 つぎに論理力です。答練の点数は気にせず、徹頭徹尾論理的に書く訓練をして下さい。論文試験の答案は最初の一字から最後の一字まで、「問いに答えるためにそれを記述しなければならないという必然性」に導かれて書かれたものでなくてはなりませんし、その内容は、原則として条文から出発した正確な基礎知識に裏打ちされ、法的論理で貫かれている必要があると思います。論理力の有無という点から考えると問いに答えるために不要な論点を書いているということだけで、答案に論理性が欠けますから、相当な減点になると思います。

 自分では論理的に書けているつもりでもそうでない場合があるので、受験生の方は、できれば第3者に答案を見てもらって、本当に論理の飛躍がないのか確認されることをおすすめします。合格して答案練習会の採点バイトをすれば分かりますが、論理的な答案はとても少ないものです。

 旧司法試験の論文式試験に関する経験しか私にはありませんから、上記のことが新司法試験に妥当するかどうかは分かりません。しかし、法律家にとって正確な知識と論理力は間違いなく必要な要素ですから、新司法試験の論文式試験でもおそらく妥当する事だと思います。

 旧司法試験の方は、論文式試験まで、あと20日弱しかありませんが、参考にしてみて下さい。もし、勉強しすぎてもうやることがない人や、未だに何をやって良いのか分からない人は、過去問しかありません。過去問は、司法試験委員がこれまで基礎的知識と論理力を試すために出題し続けてきた問題ですから、過去問をきちんと解ける力を持った受験生を、司法試験委員が落とすはずはないからです。

 合格者の数も300人程度にされた旧司法試験に挑戦されている方々に少しでも参考になればと思い、記載しました。

司法特別演習A

 関西学院大学法学部で、2007年度前期に当事務所パートナー弁護士が講師となって行う講義が、「司法特別演習A」です。今年のテーマはM&Aで行っております。

 講義回数は第1回のガイダンスを含めて13回の予定でしたが、途中麻疹による休講がありましたので、結果的には11回の講義になり、あとは7月5日の加藤弁護士担当講義と、7月12日の吉村弁護士担当講義を残すのみになりました。

 私の担当は6月7日、6月21日、6月28日の3回でしたが、6月7日分が大学休講で飛びましたので、結局6月21日・28日の2回になりました。

 6月21日の講義は、TOB(株式公開買付)開始広告のチェックポイントを簡単に説明した上で、海外における敵対的TOBの実例としてヨーロッパ最大のTOBといわれたボーダフォン・エアタッチ(イギリス)vsマンネスマン(ドイツ)の事例とTOB先進国アメリカにおける実例としてファイザーvsワーナー・ランバートの事例を解説しました。日本におけるTOB事例としては、日本初の敵対的TOBといわれたC&WvsIDCの事例、村上世彰氏のデビュー戦とも言うべきMACvs昭栄事件、外資系投資ファンドによる日本初の敵対的TOBと言われる、スティール・パートナーズvsソトー・ユシロの事例を解説しました。

 6月28日の講義は、架空の事例を設定し、その事例の中で、演習参加者が 敵対的TOBをかけられた会社の代表者であったらどう行動するかという点について、学生に質問をし、学生の回答に対して解説を加えるというスタイルで行いました。筋の良い答えをする方、あっさり白旗を揚げる方、頑張って自分なりの答えを見つけようとする方など、反応は様々でした。

 3回生対象の演習でしたから、会社法をよく知らない学生さんが多くて、ちょっと難しかったかもしれませんね。私の講義でも紹介しましたが、講談社文庫の「ハゲタカ(上)・(下)」、「ハゲタカⅡ(上)(下)」 真山仁 著は、なかなか面白いし、M&Aに興味を持つには良い本だと思いますので、是非ご一読下さい。

 なお、後期は私単独で、ペットに関する法律問題についての演習を担当する予定です。ペットに興味のある方の参加を期待しています。

不公平だった司法試験

不公平だった司法試験

あなた方は現役受験生だから5人に1人合格させます。あなた方は浪人だから10人に1人しか合格させません。

 こんなことが同じ大学の同じ学部の入学試験でおこったら、ものすごい非難が巻き起こるでしょう。明らかに不公平だからです。

 しかし、これと似たようなことが、こともあろうに司法試験でかつてありました。ご存じの方も多いでしょうが、いわゆる丙案問題です。当時の司法試験は5月の第2日曜日に行われるマークシート方式の短答式試験で約5~6に1人に絞られ、残った受験生が7月下旬の論文式試験でさらに6~7人に1人に絞られ、残った受験生が最後に10月中旬に行われる口述試験を受験できました。口述試験はほぼ95%は合格するので、論文式試験が司法試験の天王山といわれていたのです。

 ところが、当時合格者を長年絞ってきたため、実力のある者でもなかなか合格できない状況が続き、合格者の高年齢化が指摘されていました。また検察官任官希望者も少ないという問題も生じていました。そこで、受験回数の制限などの提案もあったのですが、結局、論文式試験において、合格者は、上位7分の5までは成績通りに合格させるが、残り7分の2については、受験回数3回以下の者しか合格させないという制度に変更されたのです。その結果、成績順で501番の者が合格できず、受験回数が3回以下というだけで成績順で千数百番の者が合格する可能性が生じたのです。当時の論文式受験者数は約5000人で、合格者730人程度でしたから、受験回数の多い人は520番程度の成績を取らなければ合格できませんでした。したがって合格率約10倍です。10人に1人しか合格できません。これに対し、優先枠を持つ受験回数3回以下の受験生は、控えめに見積もって1000番で合格できたとして、合格率約5倍です。5人に1人が合格できたことになります。

 最初に導入された平成8年度の論文試験で、法務省は優先枠を持った受験回数3回以下の者とそうでない合格者の点数差はわずか数点であったと発表していように記憶しますが、司法試験の論文式試験は0.01点刻みで点数がつけられると聞いていますので、もしそれがほんとうであれば、仮に3点の差であっても実際には300段階の差が生じていたということになりそうです。

 その後、合格優先枠は9分の2に減少し、さらに11分の2に減少した上、ついに廃止されたはずです。それでも、その間に論文試験の点数では合格者より上でありながら、ただ、受験回数が多かったというだけで合格させてもらえなかった受験生が数多くいるのです。

 1年にたった一回しかない司法試験に向けて必死に努力をし、精神的にもボロボロになりながら受験生活を続け、ようやく論文式試験で獲得した成績が、受験回数が多いというだけで、より点数の低い者に負けてしまう。こんな不公平があって良いものでしょうか。すでに廃止されたとはいえ、司法試験において、かつてこのような不公平がまかり通っていたこと自体、大きな汚点であると思えてなりません。

 新司法試験は終わったようですが、旧司法試験の方はもうすぐ論文試験ですね。受験生の皆さんは、暑さに負けず、もうひとがんばりしてみて下さい。

ビジネス法務に論考が掲載されました。

 ビジネス法務8月号(中央経済社刊 6月21日発売)に、当事務所の加藤弁護士と、ネクスト法律事務所の細見弁護士と私の共著で、論考が掲載されました。

 私たちが弁護団に参加した「ダスキン大肉まん事件代表訴訟」から、「企業不祥事に関する取締役の責任」を考察したものです。3人とも書きたい内容は山ほどあったのですが、紙数の制限から、8ページ弱に収めなければならず、割愛せざるを得ない内容も多く出てしまったのが残念です。

 さて、上記の「ダスキン大肉まん事件代表訴訟」は、不祥事に直接関与しなかった役員らにも2億1122万円から5億5805万円もの損害賠償責任を認めた高裁判例として、非常に注目を集めています。コンプライアンスに関する最近の書物に、大和銀行株主代表訴訟事件・雪印食品株主代表訴訟事件と並んで、必ずと言ってよいほど取り上げられているようで、多くの文献で紹介されているところです。

 しかし、実際の裁判の場において、裁判長が役員のとった対応のどの部分に着目していたのか、どの部分に注意を払って役員を尋問していたかというナマの部分については、裁判に直接関与した弁護団にしか分かりません。役員としての善管注意義務を尽くし、代表訴訟を起こされた場合に損害賠償責任を免れるためには、裁判官の注目していた点が、やはり最大のポイントとなるのではないかと思います。

 加藤弁護士と、機会があれば上記の点についてまで踏み込んで論考がかければいいなと話し合っております。

 なお、上記事件については現在最高裁に係属中です。

 興味を持たれた方はビジネス法務8月号を是非ご一読下さい。(私の紹介の欄で、「学会」と記載すべきところが「学界」と誤植になっておりますが、それはご愛敬ということで。)

京都大学グライダー部 新機体導入

私は大学時代、京大体育会グライダー部に所属していました。

 グライダーと言うと、よく「あの三角のやつですか」と聞かれますが、ハンググライダーではなく実際の飛行機と同じような形をしたもので、ちゃんと計器類もそろっていますし、操縦桿・ラダー等を用いて操縦します。グライダーが空を飛ぶ姿は非常に美しく、まさに空を滑るように飛ぶのです。私は自分でグライダーを操縦しながら、近くを飛んでいる機体をなんて美しいのだろうと良く思ったものです(実際は大半が教官と同乗していたので、教官に怒られながら見ていたのが実情ではあります)。

 当時は千葉県関宿で、訓練を行っていましたが、視程の良い秋の夕暮れ時には富士山や灯の入り始めた新宿の高層ビル群が遠くに見えました。肌寒いけれど張りつめた空気、次第に濃くなっていく夕暮れの中で、私よりも高度の低いところを旋回しているグライダーが、きらっ・きらっと片翼ずつ夕日をはじいて輝く光景は今でも忘れられません。

 私が所属していた時代の京大グライダー部は4機の機体が使用でき、複座機のASK-13「あかつき」、ASK-21「飛翔」、単座機のKa-8b「叡飛」、Ka-6E「神威」とそろっていました。私が入部した年にASK-21「飛翔」が導入され、命名式が京大時計台前で行われたことを覚えております。

 さて、先週末6月23日に、京大グライダー部に新機体が導入されました。ディスカスという単座機で、「蒼月」と命名されました。写真でしか見ていませんが、なかなか格好が良く、美しい機体です。私が所属していた約20年前より、機体の性能もきっと格段に向上しているのでしょう。できれば乗ってみたいところですが、技量が全くなくなっているので、グライダー部が時折開催してくれるOB搭乗会で、複座機ASK-21に体験搭乗させてもらうのが今の精一杯だと思います。

 グライダーの命名式のことから、大学のクラブ時代のことを思い出させてもらいました。京大グライダー部の後輩の方々の今後の健闘をお祈りしております。

第85回 日本刑法学会 その2

 学会に参加する場合の、私の個人的な楽しみの一つに、大学時代の恩師にお会いできることがあげられます。

  私は京都大学時代に、刑法の中森喜彦教授のゼミに所属し、オブザーバーとして刑事学の吉岡一男教授のゼミに参加していましたから、お二人の先生にお会いできるかもしれない刑法学会は、とても楽しみなのです。

 前々回の学会では、お二人の先生にご挨拶できたのですが、今回は、中森先生だけにお目にかかることができました。

 私が厚かましくも先生との写真を撮らせて頂きたいとお願いすると、先生は、「何で僕が君に写真とられなあかんのや」などと仰りながらも、「外で撮ろうか」と快く(?)了解して下さいました。  中森先生のお弟子さんで、島根大学の足立友子先生が一緒におられたので、足立先生にお願いして先生とのツーショット写真を撮って頂きました。もちろん私も、中森先生と足立先生のツーショット写真をお撮りしました。

 吉岡先生にお会いできなかったのはとても残念ですが、中森先生は私が大学時代にお世話になっていた頃と、全くと言っていいほどお変わりなく、若々しい姿でいらしたので、中年まっしぐらの私にはとても羨ましく思えた程です。

 後日、デジカメデータを中森先生にお送りすると「学会ご苦労でした。奇特なことです。」とお返事を頂きました。学会に参加するのは奇特なことなんだと初めて知りました(笑)。