迷いクジラ

 先ほど、インターネットで、私の田舎の近くにある和歌山県田辺市の湾内にマッコウクジラが迷い込み、かなり衰弱しているというニュースを知りました。

 放水などして湾外に誘導しようとしたが反応しないと書かれており、おそらく相当衰弱が進んで泳ぐことも難しくなっているのでしょう。ロープで曳航しようにも、15メートルもある雄のマッコウクジラでは、元気があるうちは危険が大きすぎます。

 個人的には放水の方法よりも、元気でいるうちに音で脅かして追い返す方法ができなかったのか、と思います。

 私の田舎の太地町でゴンドウクジラの追い込み漁を行う際には、(現在はよく知りませんが、少なくとも私が子供の頃は)鉄パイプを海中に突っ込んで、そのパイプをハンマーでガンガンとぶっ叩いて、ゴンドウクジラを追い込んでいました。

 漁師のおっさんに聞いてみると、海中で響くその音が、人間で言えばすりガラスをひっかくときに出るような音のように、クジラやイルカの嫌いな音なのだそうです。

 田辺市としても、太地町のクジラの博物館などに対処法を問い合わせているでしょうから、おそらく、その方法も既に試みられているかもしれません。しかし、迷い鯨の場合は脳に寄生虫がとりついて正常な判断ができなくなっている場合もあると聞いたこともあり、もしそうであれば、どんな方法をとっても海に返すことは難しいのかもしれません。

 田辺市には、私の友人が勤めていますが、きっと大変なんだろうと思います。

富士山

 昨日深夜、もう寝ようと思いながら横になり、何気なくつけたTVで、厳冬期の富士山についての番組をやっていました。

 厳冬期の富士でしか眺められない、とっておきの光景として、富士山の火口の中に入ってそこから見上げる青空が紹介されていました。

 火口の中は、雪が積もってはいるものの風はなく、実際に見た人によると、火口から見上げる空がまるで鏡ではないかと錯覚してしまうような感覚になるということでした。

 私も、大学時代に、1度だけ富士山に登ったことがあります。友人3人の合計4人で、河口湖の方から5合目まで車で上り、そこから上りました。当時の若さにまかせて、ペース配分など考えずとにかく、急いで上りました。

 今は女優の酒井法子さんが、当時はまだアイドルで、ノリピーと呼ばれ、ブレイクしていた頃でした。しかし、かなりの急ピッチでくたくたになりながら8合目まで登ったときに、ノリピーグッズを売っているノリピーハウスがそこに存在しているのを見たときには、腰が砕けそうになったのを覚えています。

 軽い高山病の症状である頭痛に悩まされながら8合目の山小屋に宿泊したのですが、夜10時頃、雲が全くなくなり、それこそ満天の星空になりました。

 確か8月下旬で気温は5度だったと思います。風が強いせいか、星がものすごく瞬いて見えました。下界の方を見ると、今度は街の灯が同じように輝いています。大げさに思われるかもしれませんが、上を見ても下を見ても星空という不思議な感覚に浸ることができました。

 もうこの年齢ですから、厳冬期の富士山に登れることは多分なく、火口からの絶景を見ることはおそらく無理でしょう。しかし、身体を鍛えてもう一度くらい、「天に星、地にも星」という光景に会えないか、チャレンジしてみたいと思っています。

インスブルック

 ヨーロッパ旅行に行くときに、何度か使ったのがルフトハンザ航空です。ルフトハンザを使うと、関空からドイツのフランクフルト空港に到着し、トランジットして別の国に向かうことになります。

 イタリア北部のボーツェンという街に2度ほど行く機会がありましたが、その際には、フランクフルトからインスブルック(オーストリア、チロル州の州都)まで飛び、そこから国際列車に乗り換えて、ボーツェンに向かうルートをとりました。

 その、フランクフルトからインスブルックまでの飛行が、結構楽しいのです。大きなエアバスなどが沢山駐機しているフランクフルト空港から、小さなプロペラ機で飛び立ち、山間を縫って、インスブルック空港に到着します。その途中、大きな風力発電の風車群が見えたり、グライダーを飛ばしている光景が見えたりします。

 インスブルック空港近くでは山の尾根のすぐ近くを飛ぶことになり、なんだか華奢な小さなプロペラ機であること等から、風が強かったりすると、定期航路でありながら結構スリルを味わえたりもします。

 実は、これまで通過するばかりで、インスブルックの街を観光したことはないのですが、見た感じ山あいの美しい小都市のようでここを散策しても楽しそうだなと思っています。何度か冬季オリンピックが開かれたことからも有名です。

 いずれゆっくり訪れる機会が、あればと思っています。

鯨を食す。

 「鯨を食べる」というと、ホエールウォッチングが好きな方には野蛮だ、といわれかねない昨今ですが、私は鯨の刺身が大好物です。アイスランドでも、シーフードレストランには鯨の刺身があり、メニューには「ロー・ホエールミート・ジャパニーズスタイル」と書かれていました。きちんと醤油も付いていましたし、箸も添えられていて、食べ方までジャパニーズスタイルなんだと、ちょっと面白く思ったものです。

 もともと、私は古式捕鯨発祥の地として有名な太地町出身です。小さい頃から沿岸捕鯨で捕獲されるゴンドウクジラは、よく食べていました。1~2度ですが、父親と追い込み漁に参加したこともありますし、沿岸に追い込んだクジラを魚市場に水揚げし、解体している様子を何度も見て育ちました。私の故郷では、鯨は食文化の一つとなっているように思います。

 解体しているところを遠巻きにして見ていると、無口で無骨な漁師のおっさんが、気を利かせてくれたのか、解体したてのクジラの刺身を醤油につけて、「ほれ」と顔の前に突きだして、食べさせてくれようとすることもありました。

 さすがに、解体したての、なま暖かい鯨の肉はちょっと気がひけるものですから、食べずに逃げたような気がします。今思えば、好意で食べさせようとしてくれたのに、申し訳ないことをしたという気になります。

 ずいぶん前から鯨は、貴重品となってしまいました。良質なタンパク源であり、牛肉よりも身体に良いとされる鯨をどうして捕ってはいけないのか、私には理解できません。調査捕鯨では鯨は明らかに増加していることが分かっており、鯨の激増により、他の生態系に影響が出ているのではないかという報告もされていたと思います。

 調査捕鯨を行う船舶に、体当たりしたり薬品の入ったビンを投げつける妨害行為の方がよっぽど野蛮だと思うのですが、国際世論は捕鯨国に味方してくれなさそうです。そもそも、鯨の激減はかつて、欧米諸国がおこなった鯨油目当ての乱獲が最大の理由ではないかと私は思っているのですが、実際は勉強してみないと分かりません。しかし、ペリーが黒船で浦賀に来航したのも、捕鯨のための寄港地を探すのが最大の目的だったという話を聞かされたこともあり、欧米の捕鯨は鯨油だけとって、後は捨ててしまうものだったとも聞いていますから、相当激しい乱獲が欧米諸国で行われていたことは間違いないでしょう。

 そうだとしたら、クジラの激減の責任は欧米諸国にあり、肉だけでなく、皮・骨・筋・歯までも利用する日本には責任はないように思います。クジラが可愛いからという感情的な理由で捕るなというのであれば、牛だって、インドに行けば神様の使いのはずです。

 ちなみに、今回の帰省では親戚から頂いた、イワシクジラ(調査捕鯨で捕獲)の刺身を食べることができました。良く出回っているミンククジラよりも、柔らかく、臭みもないので、非常に美味しく食べられました。

 文化に対する見方や、価値観など、なかなか乗り越えがたい障害はあるでしょうが、なんとか国際世論と折り合いをつけて、鯨が減らない範囲で捕鯨が再開できることを願っています。

司法書士判別法

 最近借金の整理に関する司法書士の広告を非常に多く見かけます。非常に親切そうな広告が多く、弁護士よりも敷居が低そうに感じられるので、利用を検討される方も多いかもしれません。

 ただ気をつけなければならないのは、新聞でも報道されたことがあるように、不良司法書士が報告されつつあることです。

 不良司法書士を(完全ではありませんが)判別する簡単な方法があります。債務整理を依頼する際に、たった二つの質問をするだけで良いので覚えておかれても良いでしょう。

 その質問は、次の2問です。

①  借りている先に、1件で145万円の借金をしている会社があるのですが大丈夫ですか?

② 借りている先に、ヤミ金があるのですがやって頂けますか?

 ①の質問にYESと答える司法書士は、不良司法書士と考えて間違いありません。司法書士は法律により140万円以上の債務整理事件を代理人として扱うことはできません。それ以上の金額を扱えると平気でいう司法書士は、違法行為を平気でやろうとする司法書士と言えます。そのような司法書士に依頼することは当然辞めるべきでしょう。

 ②の質問でNOと答える司法書士は、本当に多重債務者のことを考えてはくれない司法書士と考えて間違いないでしょう。多重債務は全ての債務に何らかの解決をして初めて、全体として解決したと言える仕事です。弁護士会の法律相談で、「司法書士さんに頼んだけど、頼むときは愛想良かったのに、過払いの事件だけやって報酬をとって、あとは弁護士にやってもらえと放り出された」、という方が、何人も相談に来られているようです。私も経験しましたし、他の複数の弁護士からもそのような経験を聞くことがあります。

 あと、蛇足ですが、司法書士の方が弁護士よりも安いというお考えは間違いのことが多いと思います。大阪弁護士会で相談されれば、大阪弁護士会の基準でしか弁護士は報酬を取れません。その基準は大阪弁護士会のホームページで見ることができます。

 是非、比較してみて下さい。

0.03点の向こう側

私の手元に、平成8年度の私の司法試験の成績表がある。

平成7年度司法試験、753人が合格した論文試験で、総合成績A(1000番以内)で惜敗した私は、今度こそという思いで、平成8年度の司法試験に臨んだ記憶がある。

平成8年度の成績表には次のように書かれている。

論文試験の合否   不合格
論文試験の総合得点 145.47
論文試験の総合順位 544

 平成8年度の司法試験出願者は25395名、司法試験論文式試験の合格者は768名、単純合格率は3.02%である。私は、この768名が合格した同じ論文式試験で成績は544位(上位2.14%)でありながら不合格とされた。
 これは以前もブログに書いたことがあるが、検察官志望者の減少と司法試験合格者の高齢化から導入された、丙案(論文式試験合格者を、概ね5/7を成績順に決定し、残りの概ね2/7を受験回数3回以内のものから選抜する方式)という、不公平きわまりない合格者決定方式が施行された最初の年であったからだ。

 当時の司法試験は5月に行われる短答式試験(競争率約5倍)に合格して初めて、7月の論文式試験(競争率約7倍)を受験できた。そして、論文式試験合格者は10月の口述試験を受験できるが、口述試験の合格率は95%以上だったはずなので、7月の論文式試験が司法試験のまさに天王山だった。
 受験生は、その天王山に向けて真剣に努力を重ね、実力を身につけていく。そして、3日間の論文式試験で合格に必要な実力を発揮できたものが合格できたのだ。ところが、丙案では違った。私の積み上げた実力は、受験回数が多いということで否定され、私より成績の低い受験回数の少ない受験者が少なくとも220名くらいは合格したのだ。

 ちなみに、司法試験委員会が発表した、合格最低点は、平成8年度論文式試験で次の通りだった。

 無制限 145.50点以上
 制限枠 141.50点以上

 私の得点と、無制限受験者の合格点の差はわずか0.03点であった。私より約4点も点数の低い者が受験回数が少ないという理由で合格し、私は不合格だった。

 また、論文式試験の合格者768名の5/7の順位は、548.57位であり、私の順位は544位であるから、厳格に5/7を適用してもらえば、合格していなければおかしい。しかし、あくまで、比率は概ね5/7となっているので、ぎりぎりで切り捨てられたのであろう。

 おそらく、平成8年度論文式試験の不合格者の中では最高点を私は取っていたのではないかと思う。

 0.03点の向こう側とこちら側。決定的な違いであった。

 向こう側は司法修習生として、弁護士・裁判官・検察官への道が開かれ、こちら側は何もない。むしろ周囲の冷たい目と、どれだけ努力すれば合格するのか分からない精神的な徒労感、来年受験するために必要な経済的負担の問題、合格できなかった場合の将来の不安感など、精神的・経済的荒野が広がっているだけである。

 その2年後、私は、合格できたからまだ良かった。しかし、丙案の実施により、本当に多くの人間が人生を狂わされたことも事実である。

 法科大学院制度と新司法試験、合格者の激増により、今の受験生は私達のときより10倍以上合格しやすくなった。

 しかし、試験制度の変更に対して、受験生は何時の時代でも弱い立場である。

最高裁「痴漢逆転無罪」判決

 平成21年4月14日に最高裁で出された、痴漢事件に関する、3対2の僅差の無罪判決である。

 最高裁判所のHPに判決全文が掲載されているので、是非ご一読頂きたいのであるが、特に2名の裁判官が補足意見、2名の裁判官が反対意見を書いており、非常に面白い。おそらく相当の激論が合議体内部でなされたのではないかと思われる。

 最高裁の事後審制についてはできるだけ端折って、誤解を恐れず、5名の裁判官の立場で主張を分かりやすく、述べれば次のように整理できるかもしれない。

裁判長
 さてこの事件ですが皆さんどうお考えですか?被告人は捜査段階から一貫して犯行を否認していますね。被告人は当時60歳、前科前歴や、この種の痴漢事件を行うような性向を窺わせるような事情もありません。
 また、被告人の犯行を基礎づける客観的証拠はありません。被告人の手に付着していた繊維を鑑定しても、被害者(以下「V」という。)の下着に由来するものかどうか分かりませんでした。
 一方、被害に関するVの供述は内容は、第1審(地裁)では、犯行当時のVの心情も交えた、具体的・迫真的なものでその内容自体に不自然、不合理な点はなく、Vは意識的に当時の状況を観察し把握していたというのであり、犯行内容や犯行確認状況について勘違いや記憶の混乱などが起きることも考えにくいということで、被害状況及び犯人確認状況に関するVの供述は信用できるとされ、原審(高裁)でも同じ判断がなされています。

裁判官A(多数意見) 
 私は、特に満員電車内での痴漢事件という特殊性を考慮すべきだと思います。このような場合、被害事実や犯人の特定について物的証拠等の客観的証拠が得られにくく、被害者の供述が唯一の証拠である場合も多いうえ、被害者の思いこみその他により被害申告がなされて犯人と特定されてしまった場合、その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められます。ですから、本件でも被告人に当該犯行を行う可能性がある客観的事情が認められるなら格別、そうではないのですから、Vの被害供述は特に慎重に行うべきでしょう。
 その観点から、Vの被害供述を見るといくつか不自然な点があるように思うのです。
 第1にVの述べる痴漢被害は相当執拗且つ強度なものですが、Vは車内で積極的に逃げるなどの行動を取っていないのです。
 第2にそのように痴漢被害にあっても積極的に逃げられないほど気弱なVであれば、被告人のネクタイをつかんで「電車を降りましょう」「あなた痴漢したでしょう」と声をかけ、更に下北沢駅で駅長に対し被告人を指さして「この人痴漢です」と訴えることが出来たということとは、必ずしもそぐわない行動のようにも思われます。
 第3に、Vの供述によれば、Aが被告人を痴漢と指摘し、被告人が駅長室まで同行した下北沢駅に着く前に、列車は成城学園前駅で停車し、被告人もVも降りる乗客に押されるように一旦車外に押し出されています。しかし、痴漢被害を受けていれば当然別の車両に移ってもおかしくありませんが、Vは車両を代えることもなく再び被告人のそばに乗車しています。この点は原判決も「いささか不自然」と指摘しているところです。そうだとすると、Vが成城学園前駅までも、ずっと被告人から痴漢の被害を受けていたという供述の信用性については疑いが残るというべきです。そうすると、成城学園前駅から下北沢駅までにVが受けたという痴漢被害に関する供述の信用性についても、疑いを入れる余地があることは否定できないでしょう。
 ですから、Vの供述の信用性を全面的に肯定した第1審判決・原判決の判断は、満員電車内での痴漢事件に必要とされる慎重さを欠いているのではないでしょうか。
 以上から、私は、被告人が本件犯行を行ったと断定するについては、なお合理的な疑いが残るというべきだと思うのです。
 よって、疑わしき派被告人の利益にの原則から、破棄自判して無罪判決をすべきです。

裁判官B
 私は裁判官Aさんに反対です。本件の争点は、被告人と被害者Vのいずれの供述が信用できるかということだと思います。
 Vの供述は、長時間に渡って尋問を受けたものですし、弁護人の厳しい反対尋問にも耐えたものです。被害状況についてもVは,詳細且つ具体的、迫真的に述べており、その内容自体にも不自然、不合理な点はありません。Vは覚えている点については明確に述べ、覚えていない点については、きちんと「分からない」と答えています。十分信用できると思います。
 また、裁判官Aさんのご意見は、被害事実の存在自体が疑問であるから、Vが虚偽の供述をしている疑いがあるということになると思いますが、Vが殊更に、虚偽の供述をする動機を窺わせる事情は記録には出ていないと思います。
 そうなると、被害者Vの供述にその信用性を疑わせるおかしな点があるかということが問題となります。
 この点、裁判官Aさんは、第1に被害者Vが車内で積極的な回避行動を取っていないことが不自然であると仰います。しかし、朝の通勤通学時の小田急線の車内は超過密状態であり、立っている乗客はその場で身をよじるくらいの身動きしかできません。ですからこのような状況下で痴漢被害にあった場合、被害者が避けることは困難であるし、犯人と争いになったり、周囲の乗客の関心の的にされることに対する気後れ、恥ずかしさから我慢していることは十分あり得ることであって、これを不自然と言うべきではないでしょう。
 次に、Vが、車内で積極的に回避行動をしなかったことと、被告人のネクタイをつかんで糾弾した行動がそぐわないというご意見ですが、先ほど述べた理由で我慢を重ねていた被害者Vが、執拗な被害を受けて我慢の限界に達し、犯人を捕らえるために次の停車駅近くで反撃的行為に出ることは十分あり得ますし、非力な17歳の少女ですから、犯人を捕らえるためにネクタイをつかむことは有効な方法といえます。よって、この点からVの供述の信用性を否定することは無理でしょう。
 さらに、Vが成城学園前駅で一旦下車しておきながら、車両を替えることもなく再び、被告人のそばに乗車したことは不自然であると言われますが、Vは降りる乗客にプラットホームに押し出され、他のドアから乗車することも考えたが、犯人の姿を見失ったので迷っているうちにドアが閉まりそうになったため、再び同じドアから電車に乗ったところ、たまたま同じ位置のところに押し戻されたと述べているのです。Vとしては、一度電車を降り、犯人の姿を見失ったのですから、乗車し直せば犯人との位置が離れるであろうと考えても不自然ではありません。また、同じ位置に戻ってしまったのは、Vの意思によるものではなく、他の乗客らに押し込まれた結果に過ぎないのです。裁判官Aさんは、Vが「再び被告人のそばに乗車している」とVが自分の意思でその場所に乗ったようにいうようですが、それはこの時間帯における通勤通学電車が極めて混雑し、多数の乗客が車内に押し入るように乗車してくる現状に対する認識が欠けていると思います。
 以上から、Vの供述は、自然であって、不自然、不合理ではないと思います。
 そればかりではなく、被告人の供述には不自然な点があることを見落としています。
 被告人は、検察官取り調べに対して、下北沢駅では電車に戻ろうとしたことはないと供述していましたが、同じ日の取調中に、急に思い出したなどと言って、電車に戻ろうとしたことを認めています。これは下北沢駅ではプラットホーム状況をビデオ録画していることを察知して、供述を変遷させたのだと考えられます。さらに、被告人は電車内の自分の近くにいた人については良く記憶し具体的に供述していますが、被害者Vのことについては殆ど記憶がないと供述しており、被告人の供述には不自然さが残ると思います。
 私は以上から、原判決の認定に事実誤認はないと考え、上告棄却を主張します。

裁判官C
 私は裁判官Aさんに賛成です。
 そもそも痴漢事件について冤罪が争われている場合に、被害者とされる女性の後半での供述内容について「詳細且つ具体的」、「迫真的」、「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な理由により信用性を肯定して有罪の根拠とする例は、相当数あったのではないかと思います。
 しかし私は、痴漢事件には次のような特殊性があり、被害女性の公判での供述が前述のようなものであっても、他に被害女性の供述を補強する証拠がない場合には、「合理的な疑いを超えた証明」に関する基準の理論との関係で、慎重な検討が必要だと思います。
 第1に、混雑する車内での痴漢事件は、時間的にも空間的にも、当事者の人的関係という点から見ても、単純且つ類型的なものが多く、犯行の痕跡も(加害者の指先に付着する繊維や体液を除けば)残らないため、単純に「触ったか否か」が争われる点に特徴があります。このため、普通の能力を有する者(例えば十代後半の女性)がその気になれば、その内容が真実であると、虚偽、錯覚ないし誇張等を含む場合であるとにかかわらず、法廷で「具体的で詳細」な体裁を整えた供述をすることはさほど困難ではありません。(複雑な手順を踏んだ犯行であれば本当に体験した者でなければ具体的で詳細な供述は困難ですが、痴漢という犯行形態では、必ずしもそうではないのです。)その反面、弁護人が反対尋問で供述の矛盾を突き虚偽を暴き出すことも、裁判官が「詳細且つ具体的」「迫真的」、あるいは「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な指標を用いて供述の中から、虚偽、錯覚ないし誇張の存否を見つけ出すことも決して容易ではないのです。このように、本件のような痴漢犯罪被害者の公判における供述には、もともと、事実誤認を生じさせる要素が少なからず潜んでいます。
 第2に、被害者が公判で供述する場合は、被害事実立証のために検察官側の証人として出廷することが殆どです。その場合検察官の要請により事前に面接して、尋問の内容及び方法等について詳細な打ち合わせをすることが広く行われています。痴漢犯罪について虚偽の被害申出をした場合刑事上・民事上の責任を負うこともありますから、一度被害申告した被害女性が公判で被害事実を自ら覆す供述をすることはありません。また検察官としても被告人の有罪立証の頼りの綱ですから、捜査段階の供述調書などの資料に沿って矛盾のない供述が公判で得られるよう入念に打ち合わせがなされます。この行為は刑事訴訟規則191条の3で法令の規程に沿ったものですが、この打ち合わせが念入りに行われれば行われるだけ公判での被害者の供述は、外見上「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で「不自然・不合理がない」ものとなるのは自然の成り行きです。裏を返せば、公判での被害者の供述が「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で「不自然・不合理がない」ものであっても、それだけで被害者の主張が正しいと即断することは危険が伴い、そこに事実誤認の余地が生じます。
 このように、満員電車内での痴漢事件については特別な事情があるのですから、冤罪が真摯に争われている場合には、例え被害女性の供述が「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で弁護人の反対尋問を経ても「不自然・不合理がない」可のように見えるときであっても、その供述を補強する客観的証拠がない場合には裁判官が有罪の判断に踏み切るについては「合理的疑いを超えた」証明の観点から、問題がないかどうか格別に厳しく点検をする必要があると思います。
 本件の場合、被害者の供述を補強する証拠もなく、被害者の供述に特別に信用性を強める方向での内容までは含んでいないでしょう。
 一方、裁判官Aさんが指摘された第1~第3のように、被害者Vの供述の信用性に積極的に疑いを入れるべき事実が複数存在するのですから、Vの供述はその信用性において一定の疑いを生じさせる余地を残したものであり、被告人が有罪であることに対する「合理的な疑い」を生じさせるものと言わざるを得ないでしょう。
 したがって、本件では被告人が犯罪を犯していないとまでは断定できませんが、逆に被告人を有罪とすることについても「合理的な疑い」が残るという、いわばグレーゾーンの証拠状況にあると判断せざるを得ないのです。
 よって「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して、無罪の判決をすべきです。

裁判長
 私は、上告審である最高裁判所の事実認定の在り方として、事実認定に関する原判決の判断の当否に介入することには自ずから限界があると思っています。あくまで事後審としての立場から原判決の事実認定に重大な疑義が存するか否か、及びそれらの疑義が、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるに足りるものであるか否かを審査すべきです。
 本件では、被害者Vの被害事実に関する供述の信用性の有無のみが問題になります。そこでVの供述を検討します。
 第1にVの供述内容は捜査段階からほぼ首尾一貫しており、弁護人の反対尋問にも揺らいでいません。
 第2に確かに、裁判官Aさんの指摘された第1~第3の点は問題として残りそうですが、裁判官Bさんも述べて下さいましたが、被害者Vの方で、合理的な説明がなされているように思います。ですから、裁判官Aさんご指摘の点だけで、Vの供述について「いささか不自然な点があるといえるものの・・・・不合理とまではいえない」とした原判決の認定に、著しい論理法則違背や、経験則違背を見出すことは出来ないように思います。
 このように成城学園前駅までの痴漢被害についてのVの供述の信用性を肯定した原判決の認定が不合理とまでは言えませんし、その他にVの供述の信用性を肯定した原判決に論理法則違背・経験則違背は見あたりません。さらにVの供述内容と矛盾する重大な事実の存在もありません。
 以上のことから、事後審である最高裁判所としては、Vの供述の信用性について原判決と異なる認定をすることは許されないと言うべきです。
 更に言えば、仮にVが虚偽の被害申告をしたのであれば、その虚偽申告の動機がはっきりしませんし、Vの過去の痴漢被害歴の有無、その際の対応等も不明です。被告人としても犯行のあった4月に助教授から教授に昇進したばかりであり、犯行のあった日の2日後に就任後初の教授会が予定され、被告人は所信表明を行う予定があった、などの事実もありますが、仮にそれらの事実が存在したとしても、この最高裁判所が上告審である以上、原判決を破棄することが許されないことはいうまでもないと思うのです。
 以上から私の結論は、上告棄却です。

裁判官D
 私の意見が最後になりますが、結論的には裁判官A・Cさんと同意見です。
 本件に置いては、被害者Vと被告人の供述がいわゆる水掛け論になっているのであって、それぞれの供述内容をその他の証拠関係に照らして十分に検討してみてもそれぞれに疑いが残り、結局真偽不明であると考えるほかないのであれば、公訴事実は証明されていないことになるはずです。言い換えれば、本件公訴事実が証明されているかどうかは、被害者Vの供述が信用できるか否かに全てが係っています。
 満員電車内での痴漢犯罪という特殊性からすれば、裁判官Cさんが指摘されるように、被害者の供述内容が「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で「不自然・不合理がない」といった表面的な理由だけで、その信用性をたやすく肯定することは危険です。
 本件に置いては、少なくとも裁判官Aさんが指摘されるように、被害者Vの供述にはいくつかの疑問点があります。その反面、被告人にはこの種の犯行(しかも相当悪質な部類)を行う性向・性癖があると窺わせるような事情は記録上見あたらないのですから、これらの諸点を綜合して勘案すれば、被害者Vの供述の信用性には合理的な疑いを入れる余地があるというべきです。
 誤解して欲しくないのは、これらの諸点によっても、被害者Vの供述が真実に反するもので被告人が本件犯行を行っていないと断定できるわけではなく、ことの真偽は不明だということです。
 なお、裁判長は、最高裁判所が事後審であることから、原判決の当否に介入することは限界があるとお考えのようですが、最高裁判所が事後審であることが、公訴事実の真偽が不明の場合に、原判決を維持するべきであることを意味するものではないと思います。
 殊に原判決が有罪判決であって、その有罪とした根拠である事実認定に合理的な疑いが残るのであれば、原判決を破棄することは最終審たる最高裁判所の職責とするところであって、最高裁判所が事後審制であることを理由に、まるで有罪の立証責任を転換したかのごとき結論を採るべきではないと、私は信じています。
 以上から私は、原判決破棄、無罪判決をすべきだと考えます。

裁判長
 以上で、この第三小法廷の結論が出ましたね。
 原判決破棄、無罪判決で判決ということで、後は各自のご意見をお書き頂くということにしましょうか。
 

今年のお花見

  先週末は、非常に暖かく、まるで初夏を思わせるような日差しでした。

 紅葉はもちろんですが、桜も、お日様の光が透けて見えているのが美しいと思うときがあります。

 鴨川の河川敷などものすごい人出で、ちょっとお花見というには騒々しすぎる感じがしました。そこで、ギックリ腰の回復を試す意味もあって、自動車で大原の方まで、少し足を伸ばして見ました。

 大原には、後に下流で鴨川に合流する高野川が流れています。国道を離れて脇道に入れば、その河川敷に桜が何本も植わっている場所に出ます。

 ただ、もう老木であるせいか、今を盛りと満開に花開く桜の木ではありません。枝の所々にまばらに花をつけているくらいです。花見という華やかなイメージとは相当かけ離れたものです。

 しかし、生命力を誇示しているようにも見える鴨川の桜と異なり、何となく奥ゆかしい感じがして、これはこれでよいものだ、と私には感じられました。

 その桜を見ていると、壇ノ浦で入水したものの、捕虜とされ、その後、ひっそりと先帝と平家一門の菩提を弔い続けた建礼門院が、この大原で庵を結んだことをなんとなく思い出しました(寂光院)。

 大原の山には、山桜もありましたから、きっと、建礼門院も桜を見たのでしょう。

 安徳天皇の母として一時は栄華を極め、一門と共に滅びようとしても叶わなかった建礼門院は、どのような想いで桜を眺めたのでしょうか。

 そんなことを思いながら、眺めた桜の古木は、私には、何となく花見に似つかわしい対象であるような気がしたのでした。

週刊誌~高校時代のこと

 もうあまり関係がないんだけれど、と思いつつ、ついつい買ってしまうのが、週刊誌の高校別主要大学合格者数特集です。

 私の高校(和歌山県立新宮高等学校)の場合、東大・京大合格者速報に名前が出ることはまずないので、東大・京大速報の週刊誌は避けて、高校別の合格者速報を密かに買うのですが、正直言ってこの時点で、なんだかよその高校に負けたような、少し残念な気がします。

 今年の最終合格者数までは判明していませんが、残念ながら、私の母校はあまりふるわないようです。地方こそ人材育成が大事だと思うのですが、優秀な人間は都会の恵まれた環境を目指すためか、どうも進学に関してうまく行っていないようなのです。

 HPで母校を見ると、普通科のクラスが7つになり、私達の時代より3~4つ減っています。そして、私が高校2~3年生のときに現代国語を教わった、中谷剛先生が校長を務めておられるようです(新年度の異動はどうなるか分かりませんが)。

 当時の中谷先生の現代国語の試験は、時折ユニークな設問があり、問題文に掲げた小説の一部を空欄にして、そこを生徒に自力で埋めさせるという設問がありました。

 初めてその設問を見たときに、作家が必死に考え最も良い表現をしたはずの小説の一部を、人生経験も乏しい高校生がとても埋められるわけがないじゃないかという思いと、作家よりも上手く埋めてやろうじゃないかという思いが交錯し、時間配分を間違いそうになったことを覚えています。

 高1のときに現代国語を教わった、舩上光次先生は高1のときの担任もして頂き、おかげさまで国語は予備校でもトップを取ったり、大学受験でも得点源となりました。

 その他にも、いろいろお世話になった素晴らしい先生方がいらっしゃいました。機会があればご紹介させて頂こうと思っています。

WBC

 今日のお昼に弁護団会議があった。男性陣の話題は、弁護団事件もあるが、もっぱらWBCだ。

 「やっぱりニッポンに勝ってもらいたいよなぁ。」と言っていると、女性弁護士が「どうして男の人はそんなに夢中になるのですか?」と不思議そうに聞いてきた。

 「えっ、だってニッポンに勝ってもらいたいやン」と答えながら、日本代表を応援する私達が、彼女には不思議に思えるのだということが、逆に不思議だった。

 私は熱烈な愛国主義者ではないが、やはり世界で戦う日本の選手には勝ってもらいたい、日の丸をセンターポールに揚げてもらいたいと強く思うたちである。

 オリンピックでも相当力を入れて応援する。勝ってくれ!と念力を送ったり、それでも日本の選手が負けてしまったりすると、スマン!念力を送りすぎたのか・・・。と訳の分からない反省をしたりもする。

 仕事の合間にインターネットで速報を見たところ、日本は残念ながら韓国に4-1で破れてしまった。

 しかし、敗者復活戦がある。頑張ってWBCで二連覇してもらいたい。そのためには次に韓国と当たるときには絶対に負けられない。

 夜、弁護士会で研修があった。法曹人口問題PTでご一緒し、激論?を交わした、次期副会長の藤木先生が偶然となりに座っておられた。研修が終わり、藤木先生に副会長おめでとうございます。と、ご挨拶したところ、「WBCの結果、知ってる?」と聞かれた。「負けました。4-1です。」というと、「うーん、ダルビッシュが打たれちゃったのか・・・・」と非常に残念がっておられた。

 法曹人口問題についての立場は違うが、日本を応援する気持ちは藤木先生も一緒だった。

 なんだか少し嬉しかった。