映画 スープ~生まれ変わりの物語

(ストーリー:映画HPより引用)
うだつのあがらない中年男性の渋谷健一は、何をやるにも生気が感じられない。
妻とは5年前に離婚し、それがきっかけで娘の美加とはギクシャクする日々を送っていた。
美加が15歳の誕生日を迎えた翌日、出張中の渋谷と、上司の綾瀬由美の頭上に突如、落雷が直撃。
目を覚ました二人が立っていたのは死後の世界だった…。
この世界には伝説のスープというものがあり、そのスープを飲めば来世に別人として生まれ変わることが出来るというが、その代わり、前世の記憶はなくなってしまうのだという。
死んだ今でも娘のことが気がかりな渋谷は、前世の記憶が失われるというスープを飲むことをかたくなに拒否するのだが…。
(引用ここまで)

主演は生瀬勝久さん。トリックやサラリーマンNEOでおなじみの個性派俳優だ。

実はこの映画については、よく知らず、生瀬さんが主演なら見ておこうと思って映画館に出かけたというのが正直なところだった。
この映画は、大々的にロードショウが行われている映画ではない。私の住む京都市でも、この映画が公開されている映画館は1館だけ。大阪でも2館だけ。

ネタバレになるので、映画の内容に触れることは避ける。おそらく、好き嫌いは分かれるかもしれないし、若干強引な点もないではないが、私は見て良かったと思った。とても小さいかもしれないが、希望の灯火を心にともしてくれるような映画だったからだ。

インターネットでは、原作者の方のレビューもあり、その原作者の方も、一点だけ残念な点があるものの、映画は原作を越えていた、と表現されている。
せっかくの連休が控えている。ハリウッド映画の大作も悪くはないが、ときには、こんな映画も良いのでは・・・・。

今度こそ見逃せない! 諏訪敦さんのTV番組~「日曜美術館」

 私が何度かブログでもご紹介したことのある、画家の諏訪敦さんを長期にわたって取材し、諏訪さんの作品製作過程に密着取材した番組が、NHK ETVの日曜美術館で、アンコール放送されることが決まったそうです。

(放映日程)

2月19日 午前9:00~10:00

2月26日 午後8:00~9:00

(諏訪敦さん公式ブログの記事)

http://atsushisuwa.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-e6e7.html

 NHKの番組HPによる紹介は以下のとおり。

(引用開始)

 記憶に辿りつく絵画~亡き人を描く画家~

「亡くなった娘を絵画で蘇らせて欲しい」。1人の画家に来た依頼だ。
画家は独自の写実表現で注目される諏訪敦。
 諏訪は以前、舞踏家の大野一雄を1年にわたり取材し、連作を描いた。そして7年後に100歳を迎えた大野を再び取材し描いている。諏訪は写実的に描くだけでなく、徹底した取材を重ねて対象となる人物と向き合い、人間の内面に迫ろうとする気鋭の画家だ。
 依頼したのは、2008年の5月、南米ボリビア・ウユニ塩湖で交通事故に遭(あ)い炎上死した、鹿嶋恵里子さん(当時30)の両親である。鹿嶋恵里子さんは結婚も決まり、結納式から10日後の突然の悲劇だった。
 依頼した内容は、諏訪の絵によって快活な娘を蘇(よみがえ)らせて欲しい、というものだ。
 亡き人を描くために彼はわずかな手掛かりを求め、さまざまな取材・手法から彼女の特徴を探っていく。 自分の表現としての作品性と、依頼した両親の娘に対する思いをどのように1枚の絵画に描いていくのか。諏訪が悩み、葛藤していく様を撮影した。

 番組では6か月にわたり諏訪と依頼した鹿嶋さん家族を取材。親の思い・亡き人と向き合った彼の苦悩と完成までの軌跡を追った。

http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0626/index.html

(引用ここまで~NHKのHPより引用)

 じつは、私もこの番組を見て、諏訪さんの世界に触れる機会を得、一気に引き込まれてしまいました。その勢いで長野県で行われた展覧会まで、わざわざ車を飛ばして見に行ってしまったという経験は、既に昨年8月頃のブログに書いたと思います。

 絵を見ることが好きな方、そうでない方であっても、この番組は見ないと損です。

 人生になにがしかのインパクトを与えられるきっかけになるかもしれません。

 特に前回見逃された方、必見です!!

映画 「聯合艦隊司令長官山本五十六」

 二〇三高地、八甲田山など、父親に連れられてみたせいか、私は、このような映画も好きな部類にいれている。

 「太平洋戦争70年目の真実」

 というのが、この映画の副題である。

 とはいっても、特にびっくりするような真実があるわけではなかったように思う。普通に戦艦・戦闘機好きだった私でもよく知っているようなお話が続くのだ。マニアの方には、かなり物足りない内容かもしれない。

 予告編・特報で見た戦艦長門の格好良さから、おそらくCGで再現される連合艦隊の艦船・飛行機群は素晴らしいだろうと思っていたし、その期待に添う内容だったように思う。

 しかし、私が思うに、山本五十六という人物を描くにはあまりにも時間が短すぎたのではないか。開戦前からブーゲンビル上空での戦死までを一本の映画に詰め込もうとしたため、山本五十六の人物像がどうしても希薄になってしまった感が否めない。

 開戦慎重論から、鬼気迫る黒島参謀による真珠湾作戦の立案、作戦決行か否かで相当揉めたはずの真珠湾攻撃、そして最も劇的な勝利となるはずが、外務省の宣戦布告通告の遅れで卑怯な奇襲とされてしまった過程に絞って、映画化すれば、もっと深みのある描写等が出来たのではないだろうか。

 役者揃いの上に、CGによる連合艦隊の素晴らしい復活がなされていただけに、個人的には、惜しい映画だと思う。

画家 諏訪敦~NHK衛星放送のエルムンドに出演

 8月くらいのブログで、諏訪敦さんの展覧会に長野まで出かけた経験を書いたのですが、その後、諏訪さんが発表された絵画集「どうせなにもみえない」が、美術書では異例の1万部を突破し、なおセールスを伸ばし続けているそうです。

http://www.kyuryudo.co.jp/shopdetail/006000000016

 諏訪さんの作品が何故多くの人を引き付けるのかについては、より専門的な方が本格的に書かれているでしょうから、素人の私は敢えて触れません。ただ、是非一度本物の諏訪さんの作品をご覧になって頂きたい、そうでなくても絵画集を手にとって頂きたい、と強く思っております。
 諏訪さんの作品に触れることによって、作品に触れた方々それぞれの生き方、生きる時間に、何らかの衝撃を与えてもらえることは確実だと思うからです。

 その諏訪敦さんが、先日NHK衛星放送の地球TVエル・ムンドに出演されていました。私は未だに衛星放送を契約していないので、NHKオンデマンドという有料ネット配信で見ることになりました。

 諏訪さんのトークの中で、リアリズム絵画は暴力的だ、という興味深い発言がありました。 例えば、ある人を写実的に描いたときに、表面的に似ていれば、評価はされてしまう場合もある。それは表面的な描写に過ぎず、決してその人の全てを描いたことにはならない場合であっても、表面的にさえ似ていれば、評価されてしまう暴力的部分がある。
 だから、せめて最低限取材を重ねようと(坂野注:本当のその人、個人の存在そのものに近づけようと、ということと思われます。)考えている。ということでした。

 おそらく、諏訪さんは、本当に対象の全てを写し取ってキャンパスに定着させてこそ初めて写実絵画(として完成する?)なのだというお考えなのではないでしょうか。また、この世の全ての存在が不変でいられない以上、対象の全てを写し取るためには、対象が死の状態にある場合はもとより、まだ健在である場合であっても対象にいずれ訪れる最期・死の状態まで含めて描かねばならないことも当然あり得るということ、なのではないでしょうか。

 死は、明治以降、隠蔽されたものとなってきたけれども、決して特別なことではない、(あらゆる存在にとって死は普通のことだという、当たり前のことを当たり前に表現しているだけなのだ、)というお話には強く同意できるように思いました。

 また、諏訪さんの、「絵を描くときには、見る時間の感覚が通常と異なる。描くために見ているときには昨日見えなかったことが見えてくることがある。」というお話も、描く対象に向かってどこまでも誠実に向き合うからこそ、新たな対象の一面を発見できることがあるのでしょうし、そのために非常な努力をされているからこそ出てきた実感ではないかと思います。

 お子さんが誕生されてから、時間の価値観や生きる目的が少し変わった点があるとのお話もありました。
 これまでは到達すべき自分があったが、子供を見ていると、そのとき、そのときが素晴らしいと感じることがある。今この時点がゴールなのかもしれないと思うこともある、とのことでした。

 しかし、諏訪さんはまだまだ到達すべき自分に向かって、自らを高めて行かれるはずです。11月30日の諏訪さんのブログには、描き直しという題名で、作品に手を入れられたことが報告されています。

http://atsushisuwa.cocolog-nifty.com/blog/2011/11/post-f366.html

 番組の最後に、諏訪さんにとっての、エル・ムンド(世界)とは?と問われて、諏訪さんがどう答えたかは、番組をご覧になるか、ご覧になった方にお聞き下さい。

 ps 諏訪さんが尊敬する、アントニオ・ロペス・ガルシアの話になった際に、諏訪さんがぽつりと、「手が肉厚の人なんですよ」といったのが妙に印象に残りました。

映画「雲のむこう、約束の場所」 新海 誠 監督作品

(ストーリー)

日本が南北に分断された、もう一つの戦後の世界。米軍統治下の青森の少年・藤沢ヒロキと白川タクヤは、同級生の沢渡サユリに憧れていた。彼らの瞳が見つめる先は彼女と、そしてもうひとつ。津軽海峡を走る国境線の向こう側、ユニオン占領下の北海道に建設された、謎の巨大な「塔」。いつか自分たちの力であの「塔」まで飛ぼうと、小型飛行機を組み立てる二人。

だが中学三年の夏、サユリは突然、東京に転校してしまう…。言いようのない虚脱感の中で、うやむやのうちに飛行機作りも投げ出され、ヒロキは東京の高校へ、タクヤは青森の高校へとそれぞれ別の道を歩き始める。

三年後、ヒロキは偶然、サユリがあの夏からずっと原因不明の病により、眠り続けたままなのだということを知る。サユリを永遠の眠りから救おうと決意し、タクヤに協力を求めるヒロキ。そして眠り姫の目を覚まそうとする二人の騎士は、思いもかけず「塔」とこの世界の秘密に近づいていくことになる。

「サユリを救うのか、それとも世界を救うのか」
はたして彼らは、いつかの放課後に交わした約束の場所に立つことができるのか…。
(公式HPより)

以下、ネタバレを含む私の感想である。私はDVDを見ただけであり、パンフレットなどの関連書籍等も一切読んでいないので、思い違いや不正確な部分があるかもしれないし、後で考えが変わるかもしれないが、映画を見た者としての現時点での感想として、お許し頂きたい。

最初に、この映画を見終わったときに、まず、ノスタルジックで美しいという印象を受けた。しかしその中で、いくつかの違和感を感じた部分があった。

違和感に関連するのは、

まず、主人公ヒロキの「あの遠い日に、僕たちはかなえられない約束をした。」というモノローグである。

つぎに、冒頭に大人になったヒロキがタクヤと一緒に飛行機(ヴェラシーラ)を作っていた思い出の地を訪れるのだが、そのときヒロキが一人であり、決して楽しそうな表情を浮かべているわけではない、ということ。

サユリが廃駅跡から落下しそうになったときにヒロキが手をさしのべるが、そのときサユリが「以前にも私たち・・・・」と語ること、

ユニオンの塔まで飛行する前日の眠りで、夢の中の教室で再会したサユリに対して、ヒロキが帰ろうとする際に、「おやすみ」と声をかけること、

そして、ユニオンの塔まで飛行し、長い眠りから覚めたサユリが、夢の中でヒロキ君と呼んでいたにも関わらず、目覚めたときにヒロキに対して藤沢君と呼びかけること。

彼女はいつも何かをなくす予感があるといっていた、というモノローグ、

等である。

「雲のむこう、約束の場所」という映画の題名から考える限り、ヒロキのモノローグで言うところの「約束」とは、タクヤと一緒に作った飛行機ヴェラシーラで、サユリをユニオンの塔まで連れて行くことと解釈するのは素直かもしれない。しかし、ヒロキは実際にはタクヤの協力を得てヴェラシーラを飛ばし、ユニオンの塔までサユリを連れて行きサユリの長い眠りを覚まさせているのである。

つまり、上記の意味での約束であるならば、約束はかなえられているのだ。

だが、ヒロキの「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というモノローグは、その経験の後において語られている。

どこか引っかかる。

確かに、ヒロキとタクヤとサユリは3人で、一緒にユニオンの塔まで飛ぼうと中学生の時に約束をしている。そして、その約束はかなえられた(3人一緒という意味では約束は叶っていないが、元もとヴェラシーラは2人乗りなのでこの点は考えない。)。しかも「かなえられない約束」というモノローグは、あくまでヒロキ一人の発言でしかない。もし3人で交わした約束がかなえられていないのなら、タクヤもサユリも同じ言葉を述べていてもおかしくはない。だがそのような場面は見あたらない。

おそらく別の約束があったのではないか、そういう視点で、この映画を見てみると、ヒロキがサユリともう一カ所約束をかわしていると思われる場面がある。

サユリのいた病室で、夢を通じて惹かれあい、求め合っていたヒロキとサユリが、夢の中で再会するシーン(お互いが「ずっと・ずっと探していた・・・」と話すシーン)の続きに、ヒロキが「(正確ではないかもしれないが)これからは、ずっと一緒にいてサユリを守るよ、約束する。」という言葉を交わす場面があるのだ。その場面のあと、ユニオンの塔の活動が活発化して沈静化するシーンが描かれるが、その直後にもう一度「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というヒロキのモノローグが入る。

ユニオンの塔まで飛んだ後でも、なお、残った「かなえられない約束」という点から考えると、ヒロキのいう「かなえられない約束」とは、「これからずっと(一緒にいて)サユリを守る」という約束と考えるほうがよさそうだ。

ヒロキとサユリの約束であれば、なぜ、サユリがその約束を語らないのか。それは、夢から覚め、現実に戻ることと引き替えに、サユリは夢の中での記憶を全て失ってしまったからだ。サユリが夢の中で、その存在を感じ、求め続けていた、ヒロキへの思慕の感情、サユリはそれを目覚めるとなくしてしまうことに気づき、目覚めの直前、必死で祈る。「この気持ちをヒロキ君に伝えられたら他には、もう、何もいりません。」とまで祈るのだ。

しかし、現実に目覚めたときに、夢の中で育み続けてきたヒロキへの想いは、無残にも消え去ってしまう。だからこそ、目覚めたときに真っ先にヒロキ君と呼びかけておかしくないサユリが、藤沢君、と若干遠慮がちな呼びかけになってしまっているのではないだろうか。

確かに、サユリは目覚めた後、ヒロキに取りすがって泣く。しかしそれは、決して夢から覚めたうれしさや、夢の中で求めていたヒロキに再会できたうれしさの涙ではないだろう。夢の中で育み続けてきたヒロキとサユリの想いについて、サユリにはその想いがかつてあったことすら全く記憶から失われてしまったのだ。サユリは、もうヒロキとの夢の中であるが故に純粋に結晶化した想い自体の存在すら、忘れてしまったのだ。このときのサユリの涙は、なにか分からないが、極めて大事な何かをなくしてしまった、というサユリの漠然とした巨大な喪失感を感じているからこその涙だったのではなかろうか。

一方ヒロキにとっての現実は極めて残酷だ。サユリとの夢の中での邂逅、惹かれあい、求め合った時間、その感覚は、夢の中でのものであるというその純粋さ故に、全てヒロキの記憶に鮮明に残っている。しかし、現実に戻ったサユリの中では既にその記憶は跡形もないのだ。ヒロキはサユリが目覚めた直後、「何か大事なことを伝えなきゃいけないのに、忘れちゃった・・・・」と泣くサユリに対して、「大丈夫だよ、もう目が覚めたんだから」となぐさめる。

しかし、現実はそうではなかった。もしサユリが、夢の中でヒロキと2人で育んだ純粋な思いを覚えていてその想いが実現したのなら、ヒロキが約束通りサユリをずっと守っていられたのなら、冒頭のシーンでヒロキとサユリは二人で思い出の場所にやって来ていてしかるべきだ。

だからこそ、冒頭にヒロキは「現実は何度でも僕の期待を裏切る」と語っているのではないか。

「かなえられない約束」をした日が「あの遠い日」であるというのも、こう考えれば頷ける。一緒に約束を交わしたサユリが、そのときの記憶を失った以上、もはや、サユリと約束を交わした日は、ヒロキだけに残された遠い遠い記憶の中にしかないのだから。

このままの時間がずっと続いていくように、なんの疑いもなく感じられた思春期。この痛いほど純粋で壊れやすい思春期の記憶を新海誠監督は、ついにかなえられることのなかった、ヒロキとサユリとの第2の約束になぞらえたように思えてならない。サユリは、夢の中のあまりにも純粋であったヒロキとの心の交流(思春期の記憶)を失い、巨大な喪失感と引き替えに現実に目覚め、大人へと成長していく。

現実に目覚めることによって、大人として現実に適合していかなければならないときに、無残に失われ、封じ込められていく、あまりにも儚い思春期の記憶。

どこか切なく、ノスタルジックな、(過剰ともいえる)映像の美しさも、この人生の宝物のような思春期の記憶を表現するためだと考えれば納得がいく。

ここまで考えたとき、私は、サユリが、目覚めてからヒロキが思い出の場所を訪れるまでの間に、死んでいてくれればいいのにとさえ、思ってしまった。

仮に、サユリが死んでしまったのであれば、ヒロキも納得がいくかもしれない。あの美しい思春期の(夢の)記憶を一人でヒロキが胸に抱えたまま、しかしサユリが別の人と生き続けていたとしたら、あまりにもヒロキにとって、つらいかもしれないと思ったからだ。

だがおそらく、サユリは他の人と別の道を歩み、ヒロキは、この痛みを抱えつつ生き続けているはずだ。

映画の最後に流れる、エンディングソング「きみのこえ」の歌詞はこのようになっているのだから。

「きみのこえ」    作詞新海誠     作・編曲 天門

色あせた青ににじむ 白い雲 遠いあの日のいろ
心の奥の誰にも 隠してる痛み
僕のすべてかけた 言葉もう遠く
なくす日々の中で今も きみは 僕をあたためてる
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 僕のこえ どこかのきみ とどくように
僕は生きてく
日差しに灼けたレールから 響くおと遠く あの日のこえ
あの雲のむこう今でも 約束の場所ある
いつからか孤独 僕を囲み きしむ心
過ぎる時の中できっと 僕はきみをなくしていく
きみの髪 空と雲 とかした世界 秘密に満ちて
きみのこえ やさしい指 風うける肌
こころ強くする
いつまでも こころ震わす きみの背中
願いいただ 僕の歌 どこかのきみ とどきますよう
僕は生きてく
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 生きる場所 違うけれど 優しく強く
僕は生きたい

映像だけではなく、音楽も実に素晴らしい映画である。いろいろ考えていると美しい夕陽がどうしても見たくなる、そんな映画だ。

一度ごらんになることを、強くお勧めする。

DVDサービスプライス版、2400円(税込)

映画 「とある飛空士への追憶」

 ストーリーは下記の写真をご参照ください。

 小さい頃にはパイロットにあこがれ、京都大学在学中に体育会グライダー部に所属して、グライダーという空を飛ぶスポーツにはまっていた私にとって、いわゆる「空飛びもの」の映画は、はずせない。

 超絶な飛行技術を持ちながら身分の低いパイロットが、次期皇妃をお乗せして、敵中突破の単独飛行となれば、だいたいのストーリーは想像がつくし、その想像に従って物語は進む。

 断言することはできないが、敵中突破の長距離飛行については、佐々木譲氏の開戦直前時期に零戦を空輸する「ベルリン飛行指令」が相当おもしろい小説であり、本作品の原作者である犬村小六氏は、そこから着想を得ているのかもしれない。

 最高レベルの機密扱いの任務なのに、酒場で成功を祈って仲間と乾杯するなど言語道断の情報管理、敵中突破の長距離飛行で最も苦労するはずの燃料と飛行場の確保については、設定上不要となっている。最後の敵戦闘機との一騎打ちなど、およそ戦争中の作戦遂行とは思えない。

 おそらく、全ては飛空士の活躍と次期皇妃とのストーリーを中心に据えるためだろう。そのためには、些細な設定のおかしさなどは放置して、描きたい対象に集中した、ある意味潔い割り切りとも考えられる。

 そういう意味では、この作品は、完全に現実離れした世界でのおとぎ話である。

 しかし、このおとぎ話の世界に入り込めるのであれば、男性も女性も、自らを主人公に投影して心地よい夢物語に浸ることができるのではないだろうか。

 空や飛行機の描写は美しい。大学時代にグライダーで100発以上飛行した経験から考えても、飛行機が太陽の光を翼ではじき返す際の光の美しさ、雲の美しさなど、現実の空で見るよりも、むしろ美しく描写されているように思う。空戦の迫力も相当ある。

 アニメーションのキャラクターも特に嫌みはない。

 私は、70%位しか入り込めなかったが、これは私自身が年とともに純粋な心を失いつつあるせいなのかもしれない。

 まだまだ純粋な心を失っていないとお考えの方は、この現代のおとぎ話を一度ご覧になってみるのも良いだろう。この世界に入り込めれば、さわやかな感動を得られるはずだ。

 ps キャラクター設定の人が同じせいか、後半、飛空士と次期皇妃とのやりとりは、エヴァンゲリオンの綾波レイと碇シンジとのやりとりのようにも見えなくもなかった。

映画「モールス」

 雪に閉ざされる田舎町。学校ではいじめられているが、父親と別居し、精神的に不安定な母親に相談できない12歳の少年オーウェン。ある日、隣に年が同じくらいの美少女とその父親らしき男が引っ越してくる。
雪の降り積もる中庭で、裸足で現れたその少女アビー。オーウェンは次第にミステリアスなアビーに惹かれていく。
 一方、町ではこれまでにない残酷な猟奇的殺人が頻発するようになる。この事件を追っていた刑事は、捜査を重ね次第にアビーの家に迫るが・・・。

(以下の感想はネタバレを含みます。まず映画をご覧になってからお読み下さい。)

 パンフレットも買っておらず、一度見ただけでの私の勝手な感想なのだが、私は、切なく悲しい気持ちが満ちている映画ではないかと感じた。

 謎の美少女アビーはヴァンパイア(吸血鬼)である。

 生きるためには、人間の血がどうしても必要だ。また、家の住人から招かれなければその家には入れない。

 アビーの父親と思われた初老の男は、あとで分かるのだが、アビーのために人間を狩り、アビーのために人間の血を集めてくる役目を負っていた。しかし年齢を重ね、失敗を犯す場合も増えてきていたのだろう。初老の男は、人間を襲って生き血をとることに失敗した際に、アビーに捜査の手が届かないように、自ら酸で顔を焼く。激痛に耐えながらでも身元を分からないようにして、アビーを守ろうとするのだ。そして、最後はアビーに自らの血を提供し、死んでいく。

 一方、お互いモールス信号を用いて意思を伝え合ううちに、次第に惹かれ合う、アビーとオーウェン。

 アビーの本性に気付いたオーウェンが、それでもアビーを守っていこうと決意し、二人が列車でいずこともなく逃げていくシーンで映画は終わる。

 この映画の解釈は、分かれるだろう。

 アビーが、もう役に立たなくなった初老の男を見捨てて、新たな下僕として、オーウェンを籠絡したのであり、不死のヴァンパイアとその下僕の男という、吸血鬼と人間の男性とのこの輪廻のような関係が永遠に続いていくという解釈。この解釈は、映画の最後に暗示されるオーウェンとアビーの関係について、アビーの意思が実現されたと捉えるものだ。アビーは12歳の姿をしていながらもヴァンパイアであり極めて長い時間を生きてきたことから、同じ年代の少年を籠絡することは、いとも容易いはずであり、中庭のシーンや、二人のデートもあることから、この解釈は自然なものとも考えられる。

 もう一つは、これまではアビーが幾度となく人間の男性を籠絡して下僕としてきたが、今回に限っては、オーウェンが吸血鬼アビーを敢えて自らの決意で支えていくのだという解釈。この解釈は、映画の最後のシーンについては、アビーではなく、オーウェン自身の意志が強く働いていると捉えるものだ。結局、アビーのためにオーウェンが献身するという点で変わらないようにも思うが、アビーにオーウェンを下僕にするという下心がない点で、大きく異なる。

 どちらの解釈も可能だとは思う。自信はないが敢えて私は、後者の解釈をとりたい。その理由は、アビー自身今までの生活に疲れた様子を見せていること(この意味で少女でありながら演技によって永遠の生活の疲れを表現しているクロエ・グレース・モレッツは凄い。)、本来食することが出来ない人間界の食べ物をデートの際にオーウェンの勧めに従って口にしたこと、隠れ家でオーウェンの血を見ながらもオーウェンを襲わなかったこと、アビーの本性に気付いたオーウェンが自分の家に入って良いとの許可を出さないのに、アビーは立入り、自ら崩れ去ろうとしたシーンがあること、等の理由からだ。

 また、相手を大事に思う気持ちは美しく、かつ切なく悲しいが、吸血鬼であれ、人であれ、そういう気持ちのこもった映画であって欲しいという私自身の勝手な願望も入っているだろう。 だからこそ、アビーが自ら崩れ去ろうとした行為を過大に評価してしまっているのかもしれない。

 ただし、初老の男もアビーを心から大事に思うからこそ、自らを犠牲にしてアビーに提供したものであり、そう考えると前者の解釈も十分説得力はある。 アビーの前述の行為も計算し尽くされた演技だったのかもしれない。

 これを言っちゃぁ、お終いかもしれないが、女性は現実的であることを痛感している人にとっては前者の解釈、未だ女性に何らかの幻想を抱いている人は後者の解釈をとるのかもしれないね。

福田繁雄大回顧展~三重県立美術館

  視覚トリックといえば、永遠に流れ落ち続ける水や、上っても上ってものぼり続けることになる階段、不可能に交錯する物見の塔など、MCエッシャーの版画が有名です。

 しかし、視覚トリックはエッシャーの専売特許ではありません。

 日本で、視覚トリックや、視覚に頼ると驚かされるという要素を取り入れ、ユーモア溢れる中にも高度の完成度を持った独自の作品を、たくさん製作されたのは、グラフィックデザイナーの福田繁雄さんではないでしょうか。

 日本のエッシャーとも呼ばれる福田繁雄さんは、2009年1月に他界されましたが、その福田繁雄さんの大回顧展が、現在三重県立美術館で開催されています。過去最大規模の回顧展であり、今後は、川崎市・いわき市・広島市・高崎市・札幌市などを巡回する予定とのことです。

 なんだこれは。

 と思ってよ~く見てみると、あっ!こういうことか!良くこんなこと考えついたよなぁ。

 とか

 う~む、現に存在するから作れたんだろうけど、一体どうやって作ったんだろうこれ?

 と悩まざるを得ないような作品など様々の作品が展示されており、非常に面白い作品展です。視覚に訴えるものが多いため、子供さんでも十分驚きを持って見ることができると思います。

 特に、作品名「ランチはヘルメットをかぶって」は、ナイフ・フォークなどを組み合わせて見事にバイクを作っています。本当に作れるの?とお思いでしょうが、ものの見事にバイクが描き出されています。

 どういう作品かは、ネットなどで調べずに是非現物をご覧頂くことをお勧めします。きっと、驚かれることでしょう。

 子供さんの想像力を刺激するにもぴったりですし、ちょっと足を伸ばせば、伊勢志摩も近いので、夏休みに、家族からどこか連れて行けというプレッシャーを受け続けているお父さんには、是非お勧めしたいスポットです(三重県立美術館での展示は9月4日まで)。

一般800円

高・大生600円

中学生以下無料

三重県立美術館HP

http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/art-museum/index.shtm

諏訪敦 絵画作品展 「どうせなにもみえない」 その2

 京都の自宅を午前4時頃出て、途中、高速道路のSA等で休憩しつつ、長野県諏訪市を目指した。

 午前8時50分頃に、諏訪市美術館に到着。諏訪市美術館は初めてだが、その隣にあるレトロな片倉館(共同浴場~しかも重要文化財)なら、何度か利用したことがある。

 駐車場に車を止め、開館と同時にチケット(大人500円)を購入して、入場。諏訪市美術館自体も、片倉財閥が築いたレトロな雰囲気を持つ建物(歴史的建造物)で、雰囲気は非常によい。諏訪敦の作品展は2階で展示されている。

 開館直後に入場したせいか、展示会場では、蛍光灯が明るく灯っていて、まだ掃除機がかけられている。係の人が、「掃除が終わったので、蛍光灯を消しますね。」といって去っていく。と思う間に、蛍光灯が消され、それと同時に平凡に壁に掛けられていた作品が、薄暗い空間の中に浮かび上がる。
3段真空管が奏でる、BGMの演奏も開始された。

 絵を時計回りの順番で見ていく。

 まだ開館直後で、他にはほとんど客はいない。

 じっくり見るには最高の環境だ。

 写実表現で注目されているだけあって、諏訪敦の作品は、髪の一本一本に至るまで極めて精緻に且つリアルに表現されている。
 しかし、そこに描かれている人物、特に女性に関して、本来皮膚から発散されているはずの、ぬくもりがどうしても感じにくい気が、なぜかするのだ。

 髪はリアルだ。女性が髪をかき上げる際にさらさらと指からこぼれ、流れ落ちるような、感触すら感じ取れそうだ。しかし、それ以外の部分について、この女性は生きているといって良いのだろうか。そう感じてしまうくらい、冷たい感覚を感じる場合があった。

 上手く言えないのが残念だが、リアルに表現されながら、なぜか現実感のない不思議な感覚が、ずっとつきまとう。

 よく見てみれば、なぜか、諏訪敦は、絵に一見汚れのような、「何か」を描き込んでいる場合がある。
 展覧会ポスターとなっている、髑髏を掲げた女性の絵においても、交錯する両手のあたり、うなじのあたりなどに顕著であるが、薄い、オーラのような「何か」を書き込んでいる。頭部が骨となっている麒麟の絵においても同じだ。

 故意に違いない。女性の爪に反射する光すら鋭敏に描きとっている諏訪が、過失でこのような汚れを残すはずがない。
 一体これは何を意味するのか。

 そして、この作品達に囲まれて否応なく感じざるを得ない、このリアルでありながら現実感に欠ける不思議な感覚はなんなんだ、と自問しながら、私は先へ進む。

 大野一男を描いた連作を眺め、次に移ろうと視線を外した瞬間のことである。
 視界の隅で、赤い衣装を纏い、真ん中に展示されていた、大野一男が突然動いた。
 私の視界の隅で、大野一男が口を一瞬かっと開けた・・・・・ように見えたのだ。

 慌ててそちらに視線を戻したが、もちろん絵が動くはずがない。でも確かに視界の片隅で、私の感覚は、動く大野一男を捉えてしまった。
 この世のものではない異空間を感じたかのように、ざわっとした感覚。

 私は、すでに尋常ではない空間に取り囲まれていたことにようやく、気付く。

 最後に展示されていたのは、NHKの番組でドキュメントされていた、作品「恵里子」だ。亡くなった娘を絵によって蘇らせて欲しい、という父親の切なる願いを叶えるための作品だ。制作のために参考にされた衣服・時計・義手なども展示されている。

 よく、ご遺族が貸し出しに同意されたものだ、と思いながら私は「恵里子」を見つめる。

 やはり極めてリアルな描写、しかしこちらを真っ直ぐに見つめながらも心の動きが表れていないように思われる表情、特に手の部分において冷たい感覚、そしてオーラのように彼女を包み込んで描かれている不思議な「なにか」。

 私の勝手な想像だが、この作品は、亡くなられた娘さんを蘇らせたものではない。

 文字盤のない時計。「恵里子」さんを覆うオーラのような何か。その表情。

 彼女が外して持っている時計に文字盤が描かれていないことから、絵の中の彼女にとって、時間は、もはや意味がないことが示されている。
 彼女を包み込み、彼女とこちらの世界を隔てるかのように描き込まれたオーラのような「何か」によって、決して交錯することのない世界に彼女が存在していることが暗示されている。
 心の動きが現れていないように思えるその表情は、既に彼女があらゆる現世のしがらみから解き放たれ、もう何者にも心を乱されることがない世界に旅だってしまったからではないのか。

 卓越した写実の力を用いながら、絵画によって娘を蘇らせて欲しいと願う父親に、諏訪は極めて遠くから、優しく、現実の受容を促していたのではないのだろうか。

 そう考えると、諏訪が絵の中に書き込んでいる薄いオーラのような「何か」は、実は、現世と現世ではない世界を明示するために、敢えて書き込んでいるのではないか、という気もしてくる。

 余りに卓越した写実の力故に、現実と現実ではない諏訪に描かれた世界が諏訪自身の中で混同を来さないように、若しくは、諏訪によって描かれた世界が現実世界に現れることを諏訪自身が無意識に恐れるが故に、敢えて無くても良いはずの「何か」を書き込んでいるのかもしれない、そう思えてきた。

 上手くは言えないが、異空間を体験させてもらった絵画展であったように思う。

(※上記の感想は、あくまで坂野の個人的な感想であり、諏訪敦さんや他の方が全く違う解説をされているかもしれません。悪しからずご了承下さい。)

 図録の販売はないが、求龍堂から発売される、諏訪敦絵画作品集(画集)が、会場で先行販売されている(税別3800円)。

 明日8月6日、13:30から諏訪敦本人によるギャラリートークも予定されている。機会があれば是非ご覧になることをお勧めする絵画展である(絵画展は9月4日まで)。

(諏訪敦 公式サイト)

http://members.jcom.home.ne.jp/atsushisuwa/

(諏訪市美術館公式サイト)

http://www.city.suwa.lg.jp/scmart/index.htm

諏訪敦絵画作品展~「どうせなにもみえない」 その1

諏訪敦絵画作品展「どうせなにもみえない」

NHKの「日曜美術館」で放映された番組で、諏訪敦という画家を知った。

番組HPによる紹介は以下のとおり。

記憶に辿りつく絵画~亡き人を描く画家~

「亡くなった娘を絵画で蘇らせて欲しい」。1人の画家に来た依頼だ。
画家は独自の写実表現で注目される諏訪敦。
 諏訪は以前、舞踏家の大野一雄を1年にわたり取材し、連作を描いた。そして7年後に100歳を迎えた大野を再び取材し描いている。諏訪は写実的に描くだけでなく、徹底した取材を重ねて対象となる人物と向き合い、人間の内面に迫ろうとする気鋭の画家だ。
 依頼したのは、2008年の5月、南米ボリビア・ウユニ塩湖で交通事故に遭(あ)い炎上死した、鹿嶋恵里子さん(当時30)の両親である。鹿嶋恵里子さんは結婚も決まり、結納式から10日後の突然の悲劇だった。
 依頼した内容は、諏訪の絵によって快活な娘を蘇(よみがえ)らせて欲しい、というものだ。
 亡き人を描くために彼はわずかな手掛かりを求め、さまざまな取材・手法から彼女の特徴を探っていく。 自分の表現としての作品性と、依頼した両親の娘に対する思いをどのように1枚の絵画に描いていくのか。諏訪が悩み、葛藤していく様を撮影した。

 番組では6か月にわたり諏訪と依頼した鹿嶋さん家族を取材。親の思い・亡き人と向き合った彼の苦悩と完成までの軌跡を追った。

http://www.nhk.or.jp/nichibi/weekly/2011/0626/index.html

(以上、NHKのHPより引用)

 この番組で、私は、凄まじいまでの取材(苦闘?)を重ねる諏訪敦という画家に強烈な印象を受けた。

 その諏訪敦の絵画作品展がこの夏、長野県諏訪市美術館で開催されると聞いたので、どうにも見逃せなくなって、先日見に行ってきてしまった。

(続く)

絵画展ポスターのpdfファイルをダウンロード