「地底旅行」 ジュール・ヴェルヌ著

 リーデンブロック氏が、購入した古書には、古代文字の暗号文が書かれた紙がはさまれていた。リーデンブロック氏の甥であるアクセルが偶然その暗号文の解読に成功する。

 その暗号文には、昔の錬金術師がアイスランドの、とある火山の火口から、地球の中心に到達することができたという、驚くべき内容が記載されていた。

 早速二人は仲間を募り、アイスランドに向かう。果たして入り口は見つかるのか。地球の中心に到達することはできるのか。

 ジュール・ヴェルヌといえば、「80日間世界一周」や「海底二万里」が有名ですが、私が子供の頃最初に読んだヴェルヌの作品は、確か、この「地底旅行(「地底探検」という題名だったような気もします。)」でした。

 非常に面白い作品でしたので、一気に最後まで読み通した記憶があるのですが、そこで、とても印象的だったのが「アイスランドの火山口が地球の中心への入り口になっている」という設定でした。

 アイスランドに旅行しようと決めた際に、よく「どうしてアイスランドなんかに行くんだ。」といわれましたが、心の底ではこのヴェルヌの「地底旅行」の印象が埋もれており、密かに影響していたのかもしれません。それだけの影響力があった本です。古い本ではありますが、是非一読されることをおすすめします。

 なお、本とは関係ありませんが、アイスランドでは、先日ブログに書いたシングベトリル国立公園のように、地殻が生まれつつある光景を垣間見ることができただけではなく、まだ一度も人間に呼吸されたことがないと思われるほど大気が澄み切っており、人間が生まれ出る前の地球の姿に近い自然を見ることができたような気がします。治安も良く、思ったほど寒くもないので遠い国ではありますが、一度行ってみる価値がある国だと思います(但し物価は高いです)。

不公平な国民健康保険

 弁護士の場合、弁護士国保のある弁護士会の所属弁護士をのぞいて、通常は、国民健康保険に加入する必要があります。
 しかし、この国民健康保険料が、非常に高いので、結構驚かされます。
 私の場合、介護保険料を含めて、年間62万円を支払う必要があります。私は独身ですので、たった一人でこの金額を負担させられるわけです。
 家族が何人いても最高限度額までの負担ですので、家族10名の場合でも、私のように一人であっても同じ62万円(介護保険を含む)を1年間で負担させられます。

 私は制度についてあまり深くは知りませんが、次の理由で、国民健康保険には非常に強い不公平感を感じています。

① まず地域によって、保険料が違うこと。通院する病院が一緒でも、たまたま住む地域が違うだけで、保険料が異なるのはやはりおかしいでしょう(地域差)。

② 私のように家族なしでも、家族10名でも全く最高額の保険料が変わらないこと。つまり、家族が10名いれば、私よりも10倍医療保険を使う可能性が高いはずです。10倍危険が高いのであれば、保険料もそれに応じて定めるのが通常のはずです。それが損害の公平な分担を考える保険の基礎的な考えではないでしょうか。それにも関わらず、国民健康保険では、家族の人数は全くと言っていいほど考慮されていないため、独身の人は、他人の保険料まで負担させられている可能性が高いと思われます(人数の問題)。

③ 政府管掌健康保険や、公務員共済などでは、事業主が保険料の最低半額を負担しなければなりません。したがって、うちの事務所でも事務員を政府管掌健康保険に加入させていますので、事務員の健康保険料の半額を負担しなければなりません。他人の保険料の半額を負担しなければならないのに、どうして自分の分は誰も負担してくれないのか、そのような気になってしまいます(事業主負担の有無の問題)。

④ 最大の問題点として、国民健康保険に加入する人の問題もあります。例えば会社員の場合は政府管掌健康保険、公務員の場合は共済組合があり、現役世代のうちは、国民健康保険に加入しません。現役世代=収入もあり、病気の危険も比較的少ない年代です。その年代の人たちだけで健康保険を組織するわけですから、当然医療費も少なくなり、保険料も安くできます。しかも、半額は事業主負担です。ところが、その人達が現役を退いた後に加入するのが国民健康保険です。失業した人も原則は国民健康保険です。現役を退いているため収入は現役時代より少なく健康保険料負担能力は高くありません。また、定年後ですから、高齢化により高額の医療費がかかる危険性は現役時代の比ではありません。このような人たちを、所得が少しでもある現役世代の個人事業主が支える形になっているのが国民健康保険です(健康保険を構成する人たちの問題)。

 簡単に言えば、政府管掌健康保険や公務員共済は、新車(保険料負担能力が高く、病気になりにくい年代)ばかりを集めて経営している運送会社のようなものです。しかも、経費については半額を負担してもらえる優遇措置付きです。
 ところが、国民健康保険はどうでしょうか。新車もありますが、中古車や動かなくなった自動車をたくさん集めて、その中で(国庫の負担はありますが)何とか運送事業をやっていかなければならない運送会社のようなものです。

この場合、新車だけに大きな負担がかかることは目に見えています。これはあまりにも不公平でしょう。

 早めに健康保険制度を改革しないと、このままでは国民健康保険を支える人間が耐えられなくなります。

 国民健康保険制度がおかしな制度でないのであれば、国民全体の奉仕者である公務員(国会議員も含む)の共済制度は直ちに廃止して、国民健康保険に移すべきです。そうすれば、保険料を負担できる現役世代が増加するため、国民健康保険の財政も間違いなく好転するでしょう。事業主である国や地方公共団体も半額負担をしなくて済む(と思われる)ので、税金の節約にもなります。それが国民全体への奉仕というものではないでしょうか。

 それをしないのは、国民健康保険制度があまりにも不公平であり、負担が大きいことを公務員が知っているからとしか考えられません。

シングベトリル国立公園(アイスランド)

 2006年の年末から2007年の正月にかけて、アイスランドを旅行する機会がありました。

 アイスランドには、グトルフォスの滝、ゲイシール(間欠泉)、シングベトリル国立公園を巡るゴールデンサークルツアーがありました。まあ、3大観光名所ツアーのようなものですね。

 その中で、シングベトリル国立公園は、マントル対流が地上にわき出し、左右に水平に分かれていく部分が地上で見られる非常に珍しい場所です。凹の形をした、地溝帯があり、片側はユーラシアプレート、もう一方は北アメリカプレートになっています。アイスランドはこのプレートの動きで、年間数㎝くらいずつ大きくなっているそうです。

 地殻の生まれる場所に近いとも言えるこの国立公園は、地球の歴史を形作ってきたようにも思えます。単に景色だけ見れば、地溝帯に過ぎないのですが、地球が生まれだしてくるような場所と考えれば、とても感慨深いものがありました。

 アイスランドは、海沿いこそ、メキシコ湾流の影響で暖かですが、内陸にはいるとグンと気温が下がります。真冬の寒さに凍えながらも、地球の歴史に思いを馳せ、その地球の歴史の、ほんのごくわずかな時間、地上に存在できた私達のことを考えることができたのは、貴重な体験でした。

 人類が生まれる前からこの場所は存在し、おそらく人類が滅びた後も、この場所から地球の表面を覆っているプレートは生まれ続けるのでしょう。

 壁のようにそそり立っている地溝帯の壁(岩の壁)に、そっと触れてみました。ひんやりとした冷たい岩の感触だけが感じられました。しかし、単に冷たい岩の感触だけではなく、地球という星が生きていて、動いているということを感じさせる何かが潜んでいるような気がしたのは、ちょっと感傷的になりすぎていたからかもしれませんね。

法科大学院の志願者

 法科大学院に進学しようとする人は、原則として法科大学院適性試験を受験しなければなりません。

 ですから、法科大学院適性試験を受験しようとする人の数を見れば、どれだけの人が法曹を目指しているのかを把握することができます。大学入試センターの公表した資料によると、驚くべき実態が明らかになっています。

 平成15年度法科大学院適性試験受験者数  28,325人

 平成16年度法科大学院適性試験受験者数  21,298人

 平成17年度法科大学院適性試験受験者数  17,791人

 平成18年度法科大学院適性試験受験者数  16,625人

 平成19年度法科大学院適性試験受験者数  14,266人

 明らかに受験生が減少しています。わずか5年で半減しています。これは法律家を目指す人間が激減しているということです。法律家という仕事に魅力が失われているということです。

 2007年8月27日の私のブログに、次のように書きました。

(以下私のブログからの引用)

 ところが、今後、弁護士を目指す人の生活面はどうなるのか。

 まず、高いお金を支払って法科大学院に進学する必要があります。

 次に法科大学院に進学しても、きちんとした実力をつけてもらえるかは、未知数です。卒業できるかどうかのリスクもあります。

 なんとか卒業しても新司法試験に合格しなければなりません。

 新司法試験に合格しても苦難の道はそれでは終わりません。

 司法修習生の給与が2010年からは支給されなくなり、貸与制になります。また司法修習生はアルバイトが出来ませんので結果的に借金して修習生活を送らねばなりません。

 そして、借金で修習生活を送っても、2回試験(司法修習生考試)に合格しなければ法律家の資格はもらえません。

 仮に2回試験に合格しても、弁護士が余っているのですから、就職が出来ない可能性があります。運良く就職できても、弁護士余りなのですから新人弁護士の給与は、たいして期待できません。更に次から次へと新たな弁護士が激増してくるので、育ててもらう前に使い捨てられるかもしれません。

 弁護士会によって異なりますが、弁護士登録するだけで50~100万程度かかりますし、登録後も弁護士会費が毎月4~5万円かかります。

 こうなってくると、もはやお金持ちしか弁護士になれないし、弁護士としてやっていけないのではないかという疑問すら出てきます。また、法科大学院・司法修習・弁護士登録などの費用を借り入れなければならないとすると、相当額の借金を背負って弁護士生活をスタートしなければならなくなる可能性が大です。そのように借金まみれでスタートする弁護士が、現実問題として社会正義の実現のために奔走できるでしょうか。私は(将来的に経済面で安定すればともかく、そうでない限り)無理だと思います。

 以上の点から、法律家には次第に魅力がなくなっているのだと思います。法科大学院の先生方は合格率さえ高めれば志願者は増加するかのように考えているようですが、全く現実を見ていないと思います。

(引用終わり)

 多くの人が法律家を目指さないのであれば、絶対に優秀な人材は法曹界に集まりません。多くの人が法律家を目指し、頑張って競いあうからこそ、優秀な人材を法曹界に導くことができるのです。人権を守るための最後の砦となる司法権、法の支配、を維持するための人材が脆弱では、国民みんなの人権が守られなくなります。

 言葉を換えていえば、多くの人に法律家になりたいと思ってもらう必要があり、その中で、しっかり競争させて、意欲と実力のある優秀な方に法律家になって頂く必要があるのです。そのためには誰もが法律家になりたいと思うような魅力のある職業でなければならないはずです。

 法科大学院は、(ごく一部の優秀な方をのぞき)優秀な法律家を育てることができないでいるにもかかわらず、自らの失敗を棚上げして、法科大学院に志願者が集まらないのは、合格者数を増やさないからだと主張しています。しかし、その主張は間違っています。従来の司法試験のように合格者が少なくても魅力のある仕事には志願者が自然と集まるものです。合格者が多くても魅力のない仕事には志願者はそう増えません。法科大学院制度は、合格者の増加と一体になって、明らかに法律家の職業としての魅力を失わせる制度であり、その結果優秀な人材を法曹界に導くためには邪魔な存在となっています。

 いい加減に、法科大学院自らが、失敗を認めるべき時期に来ていると思います。早急に法科大学院制度を廃止しないと、更に法律家の質の低下を招くだけです。もともと司法改革は国民のためのものです。国民の害になることが明白な法科大学院制度自体が司法改革の目標に反している存在なのです。

 おそらく、法科大学院制度を強力推進した大学教員達は、自分達の教育能力を過信していたのでしょう。それと同時に司法試験合格者のレベルをあまりにも低く見積もりすぎていたのではないでしょうか。

 それでも大学教員の方が、法科大学院出身者の方が間違いなく優秀だと仰るのであれば、旧司法試験時代の司法修習生を担当したことのある司法研修所教官に、現在の法科大学院出身者の司法修習生を見てもらい、比較すればすぐに結論が出るはずです(両方を見た新60期の研修所教官が、法科大学院卒業生を酷評していることは既に何度も述べたとおりです。)。また、2回試験の結果を比較しても、相当程度解ると思います。

 その当時は、(噂で聞きましたが)民法で不動産が即時取得できると考える修習生や、刑法で罪責を検討するのに違法性から検討する法科大学院卒業生のように、基本中の基本が解っていないまま司法試験に合格する者は、絶対にいなかったはずです。

 過ちを正すには、早いほうがいいに決まっています。国民のためを考えれば法科大学院に遠慮している時間などないでしょう。もともと司法改革は国民のために行うものなのですから。

鴨川の桜

 私は京都に住んでいるのですが、通勤電車に乗る駅に歩いて向かう途中で、鴨川を渡ります。

 いま、京都では、ちょうど桜が見頃になりつつあります。満開の桜はそれだけでもとても美しいのですが、特に川沿いに咲く桜は、私にとっては、美しく感じられます。

 ただ、単に「美しくていいなあ」というだけの印象ではなく、ちょっぴり寂しいような悲しいような気持ちが次第にその美しさに混じって感じられるようになりつつあるようです。

 その想いは、年齢を重ねるごとに強くなっていくような気がします。不思議と、そのような寂しいような悲しいような気持ちが強くなるに従って、桜の花の美しさが更に増していくようにも思えるのです。

 しかし、どうもそれだけではないようです。私がこの世からいなくなっても春になれば花を咲かせ続けるであろう桜の木に対する、わずかながらの嫉妬も、正直言えば、あるように思えます。

 おそらく、この美しい花が、あとわずかの時間で散ってしまうこと、そしてこの桜の花に象徴されるように世界のそして宇宙の全てが時に沿って流れて行き、決して今のままではいられないこと、しかし私がいなくなった後も何事もなかったように桜の木は花を咲かせ続けるであろうことが、川沿いの桜の短い命によって、無意識にではありますが自覚させられるからなのかもしれません。

 「願わくは・・・・」と詠んだ西行法師の気持ちが、ちょっぴり理解できる年齢になってきたのかもしれませんね。