「愛しい女」 三浦哲郎著

  念仏トンネル。

 ものすごいネーミングである。夏であれば稲川淳二が、若干聞き取りにくいだみ声で、深夜の怪談を語ってくれそうな名前のトンネルである。

 しかし、今から20年以上前の学生時代、私は、北海道をバイクでツーリング途中に、一人、その念仏トンネルに向かっていた。

 念仏トンネルは、北海道積丹半島の神威岬付近に実在するトンネルである。現在では落石危険地帯ということで、岬への旧道と念仏トンネルは立入禁止区域になっているそうだが、当時はそんな立て札があったかどうかはっきりとした記憶がない。

 寂れきった一軒だけの売店から、岬への旧道を歩き、海岸まで降りてきた付近に念仏トンネルはあったように思う。素堀りの、幅と高さ約2mくらいの小さな入り口のトンネルだった。相当風の強い日だった。風と波の音しか聞こえない。他に誰もいないのに(いや、誰もいないからこそ)不気味である。

 入り口からから覗くと、トンネルの中は真っ暗である。出口の明かりさえ見えない。念仏トンネルは、約60mくらいのトンネルだそうだ。両端から掘り進められたものの、測量のミスで直線で開通できず、中央でほぼ20mほどずれていたものを無理矢理直線でつないで開通させているのである。海岸沿いの旧道を行き来していた灯台守の家族が、高波にさらわれる事故があったため、不完全であってもなんとしてでも開通させたかったトンネルのようである。

 だから、入り口からはいると出口は見えず真っ暗である。手探りでまっすぐ途中まで歩き、90度折れ曲がって更にまっすぐ暗闇をしばらく歩き、再度90度折れ曲がってようやく出口の光が見えるのである。

 出口の先に浮かぶ神威岬の光景は、実に素晴らしいもので、独り占めするには惜しいくらいであったが、それは、真っ暗な念仏トンネルを心細い気持ちで乗り越えたからこそ、そう思えるような気もした。

 ・・・・・私が、どうしても念仏トンネルを訪れたくなっていたのは、三浦哲郎の「愛しい女(ヒト)」という長編小説を読んだからだった。ムクドリの卵が蒼い色をしていることも、この本で初めて知った知識である。

 今から思うと、私は、いろいろ青臭いことを考えながら旅をしていたに違いない。ひょっとすると、三浦哲郎の小説を読んでどうしても念仏トンネルに行ってみたかった当時の私は、落石危険地帯につき、既に立入禁止にされていた旧道~念仏トンネル区域に、それと知ってわざと入っていったのかもしれない。

 社会人となった今では、もちろんそんな危険な場所には近寄らなくなった。しかし、そのときに落石事故に遭わなかった幸運に感謝すると同時に、ときどきその頃の青臭さが懐かしい気がするときがある。 

最高裁「痴漢逆転無罪」判決

 平成21年4月14日に最高裁で出された、痴漢事件に関する、3対2の僅差の無罪判決である。

 最高裁判所のHPに判決全文が掲載されているので、是非ご一読頂きたいのであるが、特に2名の裁判官が補足意見、2名の裁判官が反対意見を書いており、非常に面白い。おそらく相当の激論が合議体内部でなされたのではないかと思われる。

 最高裁の事後審制についてはできるだけ端折って、誤解を恐れず、5名の裁判官の立場で主張を分かりやすく、述べれば次のように整理できるかもしれない。

裁判長
 さてこの事件ですが皆さんどうお考えですか?被告人は捜査段階から一貫して犯行を否認していますね。被告人は当時60歳、前科前歴や、この種の痴漢事件を行うような性向を窺わせるような事情もありません。
 また、被告人の犯行を基礎づける客観的証拠はありません。被告人の手に付着していた繊維を鑑定しても、被害者(以下「V」という。)の下着に由来するものかどうか分かりませんでした。
 一方、被害に関するVの供述は内容は、第1審(地裁)では、犯行当時のVの心情も交えた、具体的・迫真的なものでその内容自体に不自然、不合理な点はなく、Vは意識的に当時の状況を観察し把握していたというのであり、犯行内容や犯行確認状況について勘違いや記憶の混乱などが起きることも考えにくいということで、被害状況及び犯人確認状況に関するVの供述は信用できるとされ、原審(高裁)でも同じ判断がなされています。

裁判官A(多数意見) 
 私は、特に満員電車内での痴漢事件という特殊性を考慮すべきだと思います。このような場合、被害事実や犯人の特定について物的証拠等の客観的証拠が得られにくく、被害者の供述が唯一の証拠である場合も多いうえ、被害者の思いこみその他により被害申告がなされて犯人と特定されてしまった場合、その者が有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められます。ですから、本件でも被告人に当該犯行を行う可能性がある客観的事情が認められるなら格別、そうではないのですから、Vの被害供述は特に慎重に行うべきでしょう。
 その観点から、Vの被害供述を見るといくつか不自然な点があるように思うのです。
 第1にVの述べる痴漢被害は相当執拗且つ強度なものですが、Vは車内で積極的に逃げるなどの行動を取っていないのです。
 第2にそのように痴漢被害にあっても積極的に逃げられないほど気弱なVであれば、被告人のネクタイをつかんで「電車を降りましょう」「あなた痴漢したでしょう」と声をかけ、更に下北沢駅で駅長に対し被告人を指さして「この人痴漢です」と訴えることが出来たということとは、必ずしもそぐわない行動のようにも思われます。
 第3に、Vの供述によれば、Aが被告人を痴漢と指摘し、被告人が駅長室まで同行した下北沢駅に着く前に、列車は成城学園前駅で停車し、被告人もVも降りる乗客に押されるように一旦車外に押し出されています。しかし、痴漢被害を受けていれば当然別の車両に移ってもおかしくありませんが、Vは車両を代えることもなく再び被告人のそばに乗車しています。この点は原判決も「いささか不自然」と指摘しているところです。そうだとすると、Vが成城学園前駅までも、ずっと被告人から痴漢の被害を受けていたという供述の信用性については疑いが残るというべきです。そうすると、成城学園前駅から下北沢駅までにVが受けたという痴漢被害に関する供述の信用性についても、疑いを入れる余地があることは否定できないでしょう。
 ですから、Vの供述の信用性を全面的に肯定した第1審判決・原判決の判断は、満員電車内での痴漢事件に必要とされる慎重さを欠いているのではないでしょうか。
 以上から、私は、被告人が本件犯行を行ったと断定するについては、なお合理的な疑いが残るというべきだと思うのです。
 よって、疑わしき派被告人の利益にの原則から、破棄自判して無罪判決をすべきです。

裁判官B
 私は裁判官Aさんに反対です。本件の争点は、被告人と被害者Vのいずれの供述が信用できるかということだと思います。
 Vの供述は、長時間に渡って尋問を受けたものですし、弁護人の厳しい反対尋問にも耐えたものです。被害状況についてもVは,詳細且つ具体的、迫真的に述べており、その内容自体にも不自然、不合理な点はありません。Vは覚えている点については明確に述べ、覚えていない点については、きちんと「分からない」と答えています。十分信用できると思います。
 また、裁判官Aさんのご意見は、被害事実の存在自体が疑問であるから、Vが虚偽の供述をしている疑いがあるということになると思いますが、Vが殊更に、虚偽の供述をする動機を窺わせる事情は記録には出ていないと思います。
 そうなると、被害者Vの供述にその信用性を疑わせるおかしな点があるかということが問題となります。
 この点、裁判官Aさんは、第1に被害者Vが車内で積極的な回避行動を取っていないことが不自然であると仰います。しかし、朝の通勤通学時の小田急線の車内は超過密状態であり、立っている乗客はその場で身をよじるくらいの身動きしかできません。ですからこのような状況下で痴漢被害にあった場合、被害者が避けることは困難であるし、犯人と争いになったり、周囲の乗客の関心の的にされることに対する気後れ、恥ずかしさから我慢していることは十分あり得ることであって、これを不自然と言うべきではないでしょう。
 次に、Vが、車内で積極的に回避行動をしなかったことと、被告人のネクタイをつかんで糾弾した行動がそぐわないというご意見ですが、先ほど述べた理由で我慢を重ねていた被害者Vが、執拗な被害を受けて我慢の限界に達し、犯人を捕らえるために次の停車駅近くで反撃的行為に出ることは十分あり得ますし、非力な17歳の少女ですから、犯人を捕らえるためにネクタイをつかむことは有効な方法といえます。よって、この点からVの供述の信用性を否定することは無理でしょう。
 さらに、Vが成城学園前駅で一旦下車しておきながら、車両を替えることもなく再び、被告人のそばに乗車したことは不自然であると言われますが、Vは降りる乗客にプラットホームに押し出され、他のドアから乗車することも考えたが、犯人の姿を見失ったので迷っているうちにドアが閉まりそうになったため、再び同じドアから電車に乗ったところ、たまたま同じ位置のところに押し戻されたと述べているのです。Vとしては、一度電車を降り、犯人の姿を見失ったのですから、乗車し直せば犯人との位置が離れるであろうと考えても不自然ではありません。また、同じ位置に戻ってしまったのは、Vの意思によるものではなく、他の乗客らに押し込まれた結果に過ぎないのです。裁判官Aさんは、Vが「再び被告人のそばに乗車している」とVが自分の意思でその場所に乗ったようにいうようですが、それはこの時間帯における通勤通学電車が極めて混雑し、多数の乗客が車内に押し入るように乗車してくる現状に対する認識が欠けていると思います。
 以上から、Vの供述は、自然であって、不自然、不合理ではないと思います。
 そればかりではなく、被告人の供述には不自然な点があることを見落としています。
 被告人は、検察官取り調べに対して、下北沢駅では電車に戻ろうとしたことはないと供述していましたが、同じ日の取調中に、急に思い出したなどと言って、電車に戻ろうとしたことを認めています。これは下北沢駅ではプラットホーム状況をビデオ録画していることを察知して、供述を変遷させたのだと考えられます。さらに、被告人は電車内の自分の近くにいた人については良く記憶し具体的に供述していますが、被害者Vのことについては殆ど記憶がないと供述しており、被告人の供述には不自然さが残ると思います。
 私は以上から、原判決の認定に事実誤認はないと考え、上告棄却を主張します。

裁判官C
 私は裁判官Aさんに賛成です。
 そもそも痴漢事件について冤罪が争われている場合に、被害者とされる女性の後半での供述内容について「詳細且つ具体的」、「迫真的」、「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な理由により信用性を肯定して有罪の根拠とする例は、相当数あったのではないかと思います。
 しかし私は、痴漢事件には次のような特殊性があり、被害女性の公判での供述が前述のようなものであっても、他に被害女性の供述を補強する証拠がない場合には、「合理的な疑いを超えた証明」に関する基準の理論との関係で、慎重な検討が必要だと思います。
 第1に、混雑する車内での痴漢事件は、時間的にも空間的にも、当事者の人的関係という点から見ても、単純且つ類型的なものが多く、犯行の痕跡も(加害者の指先に付着する繊維や体液を除けば)残らないため、単純に「触ったか否か」が争われる点に特徴があります。このため、普通の能力を有する者(例えば十代後半の女性)がその気になれば、その内容が真実であると、虚偽、錯覚ないし誇張等を含む場合であるとにかかわらず、法廷で「具体的で詳細」な体裁を整えた供述をすることはさほど困難ではありません。(複雑な手順を踏んだ犯行であれば本当に体験した者でなければ具体的で詳細な供述は困難ですが、痴漢という犯行形態では、必ずしもそうではないのです。)その反面、弁護人が反対尋問で供述の矛盾を突き虚偽を暴き出すことも、裁判官が「詳細且つ具体的」「迫真的」、あるいは「不自然・不合理な点がない」などという一般的・抽象的な指標を用いて供述の中から、虚偽、錯覚ないし誇張の存否を見つけ出すことも決して容易ではないのです。このように、本件のような痴漢犯罪被害者の公判における供述には、もともと、事実誤認を生じさせる要素が少なからず潜んでいます。
 第2に、被害者が公判で供述する場合は、被害事実立証のために検察官側の証人として出廷することが殆どです。その場合検察官の要請により事前に面接して、尋問の内容及び方法等について詳細な打ち合わせをすることが広く行われています。痴漢犯罪について虚偽の被害申出をした場合刑事上・民事上の責任を負うこともありますから、一度被害申告した被害女性が公判で被害事実を自ら覆す供述をすることはありません。また検察官としても被告人の有罪立証の頼りの綱ですから、捜査段階の供述調書などの資料に沿って矛盾のない供述が公判で得られるよう入念に打ち合わせがなされます。この行為は刑事訴訟規則191条の3で法令の規程に沿ったものですが、この打ち合わせが念入りに行われれば行われるだけ公判での被害者の供述は、外見上「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で「不自然・不合理がない」ものとなるのは自然の成り行きです。裏を返せば、公判での被害者の供述が「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で「不自然・不合理がない」ものであっても、それだけで被害者の主張が正しいと即断することは危険が伴い、そこに事実誤認の余地が生じます。
 このように、満員電車内での痴漢事件については特別な事情があるのですから、冤罪が真摯に争われている場合には、例え被害女性の供述が「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で弁護人の反対尋問を経ても「不自然・不合理がない」可のように見えるときであっても、その供述を補強する客観的証拠がない場合には裁判官が有罪の判断に踏み切るについては「合理的疑いを超えた」証明の観点から、問題がないかどうか格別に厳しく点検をする必要があると思います。
 本件の場合、被害者の供述を補強する証拠もなく、被害者の供述に特別に信用性を強める方向での内容までは含んでいないでしょう。
 一方、裁判官Aさんが指摘された第1~第3のように、被害者Vの供述の信用性に積極的に疑いを入れるべき事実が複数存在するのですから、Vの供述はその信用性において一定の疑いを生じさせる余地を残したものであり、被告人が有罪であることに対する「合理的な疑い」を生じさせるものと言わざるを得ないでしょう。
 したがって、本件では被告人が犯罪を犯していないとまでは断定できませんが、逆に被告人を有罪とすることについても「合理的な疑い」が残るという、いわばグレーゾーンの証拠状況にあると判断せざるを得ないのです。
 よって「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して、無罪の判決をすべきです。

裁判長
 私は、上告審である最高裁判所の事実認定の在り方として、事実認定に関する原判決の判断の当否に介入することには自ずから限界があると思っています。あくまで事後審としての立場から原判決の事実認定に重大な疑義が存するか否か、及びそれらの疑義が、原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるに足りるものであるか否かを審査すべきです。
 本件では、被害者Vの被害事実に関する供述の信用性の有無のみが問題になります。そこでVの供述を検討します。
 第1にVの供述内容は捜査段階からほぼ首尾一貫しており、弁護人の反対尋問にも揺らいでいません。
 第2に確かに、裁判官Aさんの指摘された第1~第3の点は問題として残りそうですが、裁判官Bさんも述べて下さいましたが、被害者Vの方で、合理的な説明がなされているように思います。ですから、裁判官Aさんご指摘の点だけで、Vの供述について「いささか不自然な点があるといえるものの・・・・不合理とまではいえない」とした原判決の認定に、著しい論理法則違背や、経験則違背を見出すことは出来ないように思います。
 このように成城学園前駅までの痴漢被害についてのVの供述の信用性を肯定した原判決の認定が不合理とまでは言えませんし、その他にVの供述の信用性を肯定した原判決に論理法則違背・経験則違背は見あたりません。さらにVの供述内容と矛盾する重大な事実の存在もありません。
 以上のことから、事後審である最高裁判所としては、Vの供述の信用性について原判決と異なる認定をすることは許されないと言うべきです。
 更に言えば、仮にVが虚偽の被害申告をしたのであれば、その虚偽申告の動機がはっきりしませんし、Vの過去の痴漢被害歴の有無、その際の対応等も不明です。被告人としても犯行のあった4月に助教授から教授に昇進したばかりであり、犯行のあった日の2日後に就任後初の教授会が予定され、被告人は所信表明を行う予定があった、などの事実もありますが、仮にそれらの事実が存在したとしても、この最高裁判所が上告審である以上、原判決を破棄することが許されないことはいうまでもないと思うのです。
 以上から私の結論は、上告棄却です。

裁判官D
 私の意見が最後になりますが、結論的には裁判官A・Cさんと同意見です。
 本件に置いては、被害者Vと被告人の供述がいわゆる水掛け論になっているのであって、それぞれの供述内容をその他の証拠関係に照らして十分に検討してみてもそれぞれに疑いが残り、結局真偽不明であると考えるほかないのであれば、公訴事実は証明されていないことになるはずです。言い換えれば、本件公訴事実が証明されているかどうかは、被害者Vの供述が信用できるか否かに全てが係っています。
 満員電車内での痴漢犯罪という特殊性からすれば、裁判官Cさんが指摘されるように、被害者の供述内容が「詳細且つ具体的」、「迫真的」、で「不自然・不合理がない」といった表面的な理由だけで、その信用性をたやすく肯定することは危険です。
 本件に置いては、少なくとも裁判官Aさんが指摘されるように、被害者Vの供述にはいくつかの疑問点があります。その反面、被告人にはこの種の犯行(しかも相当悪質な部類)を行う性向・性癖があると窺わせるような事情は記録上見あたらないのですから、これらの諸点を綜合して勘案すれば、被害者Vの供述の信用性には合理的な疑いを入れる余地があるというべきです。
 誤解して欲しくないのは、これらの諸点によっても、被害者Vの供述が真実に反するもので被告人が本件犯行を行っていないと断定できるわけではなく、ことの真偽は不明だということです。
 なお、裁判長は、最高裁判所が事後審であることから、原判決の当否に介入することは限界があるとお考えのようですが、最高裁判所が事後審であることが、公訴事実の真偽が不明の場合に、原判決を維持するべきであることを意味するものではないと思います。
 殊に原判決が有罪判決であって、その有罪とした根拠である事実認定に合理的な疑いが残るのであれば、原判決を破棄することは最終審たる最高裁判所の職責とするところであって、最高裁判所が事後審制であることを理由に、まるで有罪の立証責任を転換したかのごとき結論を採るべきではないと、私は信じています。
 以上から私は、原判決破棄、無罪判決をすべきだと考えます。

裁判長
 以上で、この第三小法廷の結論が出ましたね。
 原判決破棄、無罪判決で判決ということで、後は各自のご意見をお書き頂くということにしましょうか。
 

今年のお花見

  先週末は、非常に暖かく、まるで初夏を思わせるような日差しでした。

 紅葉はもちろんですが、桜も、お日様の光が透けて見えているのが美しいと思うときがあります。

 鴨川の河川敷などものすごい人出で、ちょっとお花見というには騒々しすぎる感じがしました。そこで、ギックリ腰の回復を試す意味もあって、自動車で大原の方まで、少し足を伸ばして見ました。

 大原には、後に下流で鴨川に合流する高野川が流れています。国道を離れて脇道に入れば、その河川敷に桜が何本も植わっている場所に出ます。

 ただ、もう老木であるせいか、今を盛りと満開に花開く桜の木ではありません。枝の所々にまばらに花をつけているくらいです。花見という華やかなイメージとは相当かけ離れたものです。

 しかし、生命力を誇示しているようにも見える鴨川の桜と異なり、何となく奥ゆかしい感じがして、これはこれでよいものだ、と私には感じられました。

 その桜を見ていると、壇ノ浦で入水したものの、捕虜とされ、その後、ひっそりと先帝と平家一門の菩提を弔い続けた建礼門院が、この大原で庵を結んだことをなんとなく思い出しました(寂光院)。

 大原の山には、山桜もありましたから、きっと、建礼門院も桜を見たのでしょう。

 安徳天皇の母として一時は栄華を極め、一門と共に滅びようとしても叶わなかった建礼門院は、どのような想いで桜を眺めたのでしょうか。

 そんなことを思いながら、眺めた桜の古木は、私には、何となく花見に似つかわしい対象であるような気がしたのでした。

ちょっと期待はずれ?「明日の司法を語る会」

 先日、「明日の司法を語る会」というシンポジウムに出てきました。大阪弁護士会でまかれたビラも40期以降の若手の方へというものであり、執行部に若手の意見を反映させる目的もあるように書かれていたので、参加してみたのです。

 会の代表者(世話役?)は、明賀英樹先生でした。この時点で、私としては??という気がしました。明賀先生ご自身は40期以前の方ですし、私達が平林正剛前日弁連会長に質問状を送ったときに、木で鼻をくくったようなお返事を頂いたのは当時日弁連事務総長であった明賀先生からだったからです。

 若手のパネリストの方が順番にお話しされ、それについて会場の意見を募るという会でした。結構な若手の人数がいるようで、私としても、これだけ若手がいれば、議論が白熱するのではないかと、内心期待したものでした。

 残念ながら、司会の先生が会場の若手に意見を求められても、積極的に意見を述べようとする若手の方は殆どおられません。「執行部にもの申す」つもりで集まったはずの若手達だと思っていたのですが、どうもそうではなかったのかもしれません。この点で、ちょっと期待はずれであったことは否めません。

 あまりに議論が出ないので、仕方なく私も何度か執行部への苦言を申し述べさせて頂きました。

 途中で、大阪弁護士会畑会長も、入ってこられ、議論を聞いておられました。会長という忙しい職にありながら、若手の意見を聞こうという会に出てこられた、そのフットワークの軽さに驚きました。

 その後、日弁連執行部関係からもお客さんが来られていたようで、その方々が、「大阪ではこんなに上に向かって忌憚のない意見を言うのだ、ということに感心しました」という趣旨の言葉を述べていたことが印象的でした。

 私に言わせれば、「上に向かって」という意識自体がもう既に時代遅れだと思っています。そういう姿勢で、「若手に意見があれば聞いてやってもいい」という考えなら、執行部にいる価値はないと思います。若手の意見を聞きたいのであれば、「出てくれば聞いてやる」という姿勢ではなく、若手の間に入っていってその意見を直に聞くべきでしょう。そもそも執行部は弁護士の全体ために働きたい人たちが、集まっているはずです。その方々が、自分たちが上にいるのだという意識で若手の意見を聞こうとしても、その時点で若手としては、しらけてしまいます。

 仮に、今回沢山集まっていながら全く意見を述べようとしなかった方々が、人数集めの動員をかけられていたのであれば、そういうやり方自体が既におかしいことを知るべきです。執行部に危機感を持ってもらうのであれば、むしろ動員などせずに、あなた達の考え・やり方で若手の意見を聞こうとしましたが、全く集まりませんでした。これは、あなた達が見捨てられているということですよ、と知らしめた方が良かったのかもしれません。 

 ただ、救いとしては畑会長が、こういう若手の意見を聞く会は、勉強になる、今後もやれればいい、という趣旨の発言をされていたことです。

 リップサービスではなく、本当にそうお思いなのであれば、若手の意見を聞くプロジェクトチームでも作って頂けないでしょうか?

第1回常議員会~その2

 審議事項の後、畑大阪弁護士会会長から、会務執行方針についての報告がありました。畑会長の選挙公報や○○会の会長当選おめでとう号にも書かれていたように、「弁護士のプレゼンスを高めよう」というのが方針だそうです。

 他にも会務報告として、予算編成方針などについての説明もありました。

 私としては、畑会長の会務執行方針に質問しても良いのかなと思っていたところ、別の先生が先に質問して下さったので、安心して、質問させて頂きました。

 質問の方法もきまりがあって、挙手→議長が発言許可→目の前にあるマイクのスイッチオン→名前を先に行ってから発言→発言終了でマイクオフ、というのが事前に説明されていました。マイクスイッチをオンにするとポーンと音が鳴るようになっているのか、ぽーんと言う電子音が聞かれました。

 私の質問は、弁護士増員(但しそのスピードは現状維持)を掲げる畑会長が、どのくらいの増員を考えているのか、増員には弊害もあるという畑会長が、どんな弊害をお考えなのか、他士業との業務に関して会務執行方針に記載がないが、どう考えているのか、の3点でした。

 畑会長は、弁護士人口5万人を否定する理由はないと思う、という趣旨のことを述べられ、弊害については特に明確に言及されなかったように記憶しています。また他士業との業務関連に関しては、司法書士は弁護士の不足している地域での補完をしているという認識であるとのことでした。

 更に突っ込んでお聞きしようとすると、おそらく議長?の先生から、「そのような問題はこれから議論していくべきものであって、今ここで議論すべきではないと思う。どうしてもというのであれば発言されたい。」、というご主旨のご指摘を受けました。

 しかしここでひるんでは意味がないと思いましたので、司法書士だけではなく行政書士までもが、法律上扱うことを禁止されている法律業務を行っていることを指摘し、きちんと対策されたい、その意味で会長のプレゼンスに期待します、という趣旨の発言を付け加えさせて頂きました。

 詳しい内容は、常議員会の議事録に記載されていると思いますので、興味ある方はご覧下さい。私自身も、少し緊張していたので、きちんと日本語をしゃべっていないかもしれませんが、いろいろ興味深いやりとりも含まれていると思います。

第1回常議員会

 常議員会って、一体何をやっているのだ?という弁護士の方も多いでしょう。

 常議員会は、大阪弁護士会において、総会に継ぐ意志決定機関なのだそうです。もちろん審議の内容には、秘密にすべき事項もあるので、全てを公開するわけにはいきませんが、どんな感じなのかはお伝えできるかと思います。

 まず常議員会は、概ね隔週火曜日に大阪弁護士会12階の会議室で15:00~18:00の間に行われることになっています。

 席が決まっているわけではなく、出席する常議員は、会議室の入口で、自分の名前の書かれたネームプレートを探しだし、既に常議員会の当日配布資料が置かれている席に着席します(何処でも構いませんが、配付資料の無い席に座ると資料のある席に移るよう注意されます)。

 席上には、当日配付資料と、大阪弁護士会関連の規程集(弁護士会名簿くらいの厚さのもの~結構分厚い)が、置かれており、ペットボトルのお茶も1本付きます。昨日は、最近広末涼子さんがCMをしている、からだ巡茶(280cc)でした。

 第1回の常議員会ということで、議長・副議長の選出が行われます。形式上、どなたかご意見ありませんかということを、全員に聞き、○○さんが適任だと思います。と誰かがいって、それでよろしいですか、異議なし、ということで、議長と副議長があっさり決まります。
 これがおそらく完全な出来レースで、今年は議長は○○の会派の誰それ、副議長は△△の会派の誰それ、と予め決まっているようです。
 そんなことなら、やりたい人が立候補すればいいのに、こういうところは、なんだか形式を踏むようです。

 議長・副議長選出の後、常議員会議事運営に関する件についての説明があり、いよいよ審議事項の始まりです。

 審議については、担当の方が審議事項を読み上げて、賛成の方は挙手をという場合と、御異議ございませんか、と問う場合があるようです。どうやって区別しているのかまだ分かりません。

 御異議ございませんか、と議長が問う場合、若干名の方が低い声で「異議なし」とお答えになり、議長が「異議なしと認めますので・・・・・」と議事を進行していきます。おそらく、異議なしと答えておられる方は10名以下ではないかと思うのですが、はっきりとはしません。

 議事の進行は、手続きを明確に踏むためだと思うのですが、全く同じ結論(例えば「~~という理由で継続審議になる」)に至ることが明らかな議案でも、いちいち議案ごとに「御異議ありませんか」「異議なし」が続きます。個人的には第〇〇号案件から第〇〇号案件までは、~~という理由で継続審議とさせて頂きます、ご意見・御異議ございませんか、とまとめたらどうかと思うのですが、そうもいかない事情があるのかもしれませんね。(続く?)

現実はどうか?

 日弁連が、法曹人口に関する提言を理事会決議で決議して、公表してしまったことで、法曹人口問題は一応収束してきたのではないかという考えをお持ちの方もおられるでしょう。

 しかし法曹人口問題は、現実には何らの解決もされておりません。今年は1000人規模の失格者(法科大学院を卒業しても、新司法試験に合格できずに終わる方)が出るのではないかという意見もあるようです。

 先日、以前このブログでも紹介しましたが、「司法の崩壊」を書かれた、河井克行衆議院議員のブログを拝見しました。(法曹人口問題について深刻な問題意識をお持ちの数少ない議員の方です。)

 河井議員のブログ「あらいぐまのつぶやき」によると、「法曹養成と法曹人口を考える国会議員の会」が結成され、3月19日に第1回勉強会、3月26日に第2回勉強会が行われたそうです。(第3回の勉強会についての記事はまだ掲載されていません。)

 その勉強会の内容はかなり凄いので、法曹人口問題について興味のある方は、是非河井議員のブログをご覧になって頂きたいと思います。

 ちなみに、第1回勉強会での参加された議員の共通認識は、次のようなものだそうです(以下、河井議員のブログから引用)。

① 旧試験時代と比べて法科大学院修了生の「質」は確実に下がってしまった。これは法曹の質量ともに向上すると約束した当初の理念が裏切られたことであり、結果として無駄な予算が法科大学院関連に垂れ流しになっている、

② 三千人増員を推進する前に、日本社会に本当にそれだけの法曹人口が必要なのか、需要の検証を立ち止まってしっかりと行うべきである、

③ 「質」が伴っていないのに数ありきの発想で新司法試験合格者数が年々増やされているのは国家と国民の利益を著しく損なっている、

④ 法科大学院に通える経済的な余裕がある層(無理して資金を工面している人の負担も大変です)しか新司法試験を受けられない現行の仕組みは社会の実情に合っていない。予備試験を充実させ幅広い多様な人材が法曹を目指せるよう抜本的な対策を講ずるべきである。

⑤ 役所の説明を聞いていると、「一度始めた制度は続けるしかありません」と他人事のような言い振りである。だからこそ、政治が動かなければならない。

(引用ここまで)

 「質」の点については、実力をつける前に卒業・新司法試験・司法修習となってしまっていることもあるため、断言することはできないかもしれませんが、その他は、至極まっとうな、議論が展開されているようです。日弁連の暴走ぶりに辟易している私には、このようなまともな議論がなされていることは、微かな救いです。

 逆に言えば、このようなまともな議論が何故日弁連で出来ないのか、それが不思議でなりません。一体何故なんでしょうね?

週刊誌~高校時代のこと

 もうあまり関係がないんだけれど、と思いつつ、ついつい買ってしまうのが、週刊誌の高校別主要大学合格者数特集です。

 私の高校(和歌山県立新宮高等学校)の場合、東大・京大合格者速報に名前が出ることはまずないので、東大・京大速報の週刊誌は避けて、高校別の合格者速報を密かに買うのですが、正直言ってこの時点で、なんだかよその高校に負けたような、少し残念な気がします。

 今年の最終合格者数までは判明していませんが、残念ながら、私の母校はあまりふるわないようです。地方こそ人材育成が大事だと思うのですが、優秀な人間は都会の恵まれた環境を目指すためか、どうも進学に関してうまく行っていないようなのです。

 HPで母校を見ると、普通科のクラスが7つになり、私達の時代より3~4つ減っています。そして、私が高校2~3年生のときに現代国語を教わった、中谷剛先生が校長を務めておられるようです(新年度の異動はどうなるか分かりませんが)。

 当時の中谷先生の現代国語の試験は、時折ユニークな設問があり、問題文に掲げた小説の一部を空欄にして、そこを生徒に自力で埋めさせるという設問がありました。

 初めてその設問を見たときに、作家が必死に考え最も良い表現をしたはずの小説の一部を、人生経験も乏しい高校生がとても埋められるわけがないじゃないかという思いと、作家よりも上手く埋めてやろうじゃないかという思いが交錯し、時間配分を間違いそうになったことを覚えています。

 高1のときに現代国語を教わった、舩上光次先生は高1のときの担任もして頂き、おかげさまで国語は予備校でもトップを取ったり、大学受験でも得点源となりました。

 その他にも、いろいろお世話になった素晴らしい先生方がいらっしゃいました。機会があればご紹介させて頂こうと思っています。

魔女の一撃~後日談

 ギックリ腰を患って分かったこと。

 ・歩行者、自転車が怖いこと。

 とにかく、歩くのが精一杯なくらい痛い場合があるので、急な進路変更、体重移動はできません。また、すれ違うときに肩が当たるくらいでも激痛必至なので、とにかく、他の歩行者・自転車に近寄らないよう、十分警戒して歩く必要があります。また、歩行スピードがかなり落ちるので、歩行者用信号が点滅し始めると、もう道路を渡ることは出来ません。急いで渡ろうとする人がすぐ近くを走りすぎると、ドキッとします。

 ・階段の手すりが有り難いこと。

 階段を昇降する際には、結構腰に負担がかかるため、あらゆる階段で手すりが有り難く感じます。そうはいっても、階段の手すりは、通常通路の両はしにあるため、私がヨチヨチと階段を下りている際に、階段の端っこを上ってきて、進路を譲ろうとしない若造とは一瞬鉢合わせ状態になってしまいます。そのときには若造の「何や、このオヤジは!」という無言の圧力にさらされます。 また、階段の手すりが思ったより汚れている場合も多く、これは考える必要があるかもしれないと思いました。

 ・満員電車は痛いこと。

 満員でなくても、電車の中で長時間立つことは苦行になります。腰の負担を軽減するため、周囲に分からないように、できるだけつり革にぶら下がり、腰に重量がかからないようにするのです。しかし、降車する人が後ろを通過するたびに、身体が少し当たりますので、その際には、腰に相当な痛みが走ります。

 ・やっぱり痛み(辛さ)は見えないこと。

 周囲から見れば、全く痛みのない行動が、私にとっては痛みを伴う行動となるので、私が痛がっていることが不思議に思われるようです。この魔女の一撃がどれだけ痛いかについては、体験してみて下さいとしか言えません。特にやっちまった初日は、四つんばいで這うことすら大変な状態でした。

 考えてみると、上記の各点は、いずれも健康なときには気付かないことであって、人間は、やはり相手の立場に立って考えることは難しいものなんだ、と改めて感じさせられました。

予備試験は、「狭き門とするべきか」?

 新司法試験は原則として法科大学院卒業者しか受験できません。

 しかし、経済的理由など諸般の事由で、法科大学院に入学できない方でも、法曹界への道を残すという見地から、新司法試験受験資格を与える予備試験という制度が残されています。

 そして、今、法科大学院を卒業しなくても新司法試験を受ける資格を与える、予備試験をどのように設計するかで、意見が分かれています。

 法科大学院側は、予備試験は簡単に合格させてはならない、予備試験に簡単に合格できる制度設計はおかしい、という見解に立つようです。あろうことか、日弁連もほぼ法科大学院の意見に沿った意見を出しているようです。

法科大学院の本音は、おそらく、次のようなものでしょう。

 予備試験合格を簡単にすれば、みんな予備試験を受けて新司法試験を受けるようになるかもしれず、そうなれば、(高額の費用がかかる)法科大学院に学生が来なくなる。また、予備試験組の司法試験合格率が高かったりすると、法科大学院の教育が意味がないのではないかと叩かれる危険がある。だから法科大学院維持存続のために予備試験を難しくして、簡単に新司法試験を受験できないようにして欲しい。

 ただ、露骨にそう主張すると法科大学院の既得権保護だと言われるので、「プロセスとしての法曹養成を目指す見地から、法科大学院での教育を原則とすべきである。」だから、「プロセスとしての法曹養成の例外なのだから予備試験は狭き門でよい。」という主張をしているはずです。

 私は上記の法科大学院の意見(私の思いこみの場合は申し訳ありません)には全く反対です。

① まず、法科大学院の従来の立場と矛盾します。
 法科大学院協会は、新司法試験の合格者の質が下がりつつあると実務界から非難されていながら、法科大学院の教育には全く問題がない。むしろ、従来より優れている部分があると、大見得を切っています。
 もしそうなら、予備試験合格者を大幅に増やしても、法科大学院が素晴らしい教育を施していれば、新司法試験の合格率で圧倒的に予備試験合格者組を上回るはずでしょう。法曹を目指す人は(新司法試験に合格しないと法曹になれないわけだから)、新司法試験に合格するために法科大学院の教育が必要不可欠で、新司法試験合格に十分な教育を提供してくれるのであれば、競って法科大学院進学を目指すはずです。
 つまり、本当に法科大学院が素晴らしい教育をしているのであれば、どうしても法曹になりたい人は法科大学院を目指すはずです。結果的に、予備試験合格者を増やすことは、法科大学院教育が優れている証明になるはずです。

② 次に、法科大学院の意見は、新司法試験の機能を完全に無視しています。
 新司法試験は、「(法曹となろうとする者に)必要は学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験とする(司法試験法第1条1項)。」と法律で定められた、きちんと法律家の卵としての素養があるかを判断するための国家試験です。したがって、例え予備試験に合格しても、法律家として必要な学識及びその応用能力がない場合は、新司法試験で不適格者は排除できるはずです。それにも関わらず、予備試験合格者はプロセスによる法曹教育を受けていないからという理由で、新司法試験の受験機会すら奪おうとすることは、新司法試験ではきちんとした法律家の素養の判断が出来ないと言っている(国家試験を馬鹿にしている)のと同じです。

③ さらに、サービスの受け手である、国民を無視しています。
 裁判なんて一生に一度あるかどうかでしょうから、国民は、きちんとした法的サービスを期待しているはずです。プロセスの教育を経てもきちんとした法的サービスを行えない法曹と、プロセスの教育を受けていなくてもきちんとした法的サービスを行える法曹とを比べれば、国民がどちらを選ぶかは誰の目にも明らかです。そうだとすれば、真に重要なのはプロセスとしての法曹教育を受けているかどうかではなく、きちんとした法的サービスを行える実力があるかどうかということのはずです。
 そして、きちんとした法的サービスを行えるかどうか(ないし、その素養があるか)については、新司法試験で判断できるはずですから(もし出来ないのであれば新司法試験制度自体がおかしいことになります)、極論すれば、予備試験すら要らないといっても良いのではないでしょうか。

④ 多様な人材の登用につながる
 法科大学院導入の、理由の一つに、多様な人材を法曹界に導くという目的に合致するということが挙げられていました。果たして法科大学院制度は本当に多様な人材の登用に役立っているのでしょうか。法科大学院を卒業しなければ新司法試験を受験できないという現行制度は、却って法科大学院に通う時間的・経済的余裕のない人を完全に排除しています。旧司法試験では誰でもいつでも受験することが出来ました。会社に通いながら独学で勉強して合格した方も何人もおられます。しかし、新司法試験になると、会社に勤めながら法律家を目指そうと思っても、近くに法科大学院がないとアウトです。近くに法科大学院があっても夜間コースがなければアウトです。夜間の法科大学院があっても会社の都合で通えなければやはりアウトです。会社を辞めて法科大学院に入学しなければ、新司法試験を受験することすら出来ないのです。しかし修習生の深刻な就職難が伝えられる現在、会社員という比較的安定した地位を自ら捨てて、就職できないかもしれない法科大学院→新司法試験受験という道を選ぶ方は、むしろ減るのではないでしょうか。家族をお持ちの方ならなおさらでしょう。
 逆に、極めて優秀な方は、短期間の勉強で合格できる実力をつけることも可能なはずですが、法科大学院制度では例え短期間で合格できる実力を身につけていても、最低2年は法科大学院に通わなければならないという回り道を強いられます。
 そうみると、受験資格に一切制限がなかった旧司法試験の方が、むしろ多様な人材を法曹界に導くことが出来たのではないかと思うのです。

⑤ 法科大学院制度は、司法過疎の解消につながらない。
 法科大学院を各地方に作ることにより、地域に根ざした法律家が生まれ、司法過疎の解消につながるという意見もあったようです。しかし、その意見は、全くナンセンスだと思います。
 例えば私の郷里は司法過疎地域の一つでしょうが、最も近い県庁所在地までJRの特急で片道3時間はかかります。つまり、夜間コースのある法科大学院が設置されていても結局、会社勤めをしながらロースクールに通うことは時間的・経済的に絶対的に無理なのです。そして始末が悪いことに、そのような遠隔地ほど司法過疎といわれている地域は多いように思います。
 法科大学院が、せめて全国の各市に分室を作って希望者にはいつでも法科大学院の教育を完全に行える体制をつくってくれれば、ひょっとしたら地域に根ざした法律家が誕生し、司法過疎は解消するかもしれません。しかし、需要のないところに法科大学院が分室を作ってくれるはずがありません。当然赤字になるからです。

 少し脱線しますが、法科大学院側で司法制度を論じる方は、司法過疎を解消できていないのは弁護士数が少ないせいであると主張される場合が多いようです。ということは、法科大学院側の方は、数を増やせば、司法過疎は解消すると考えていることになります。
 では、法科大学院の削減が必要であると、法科大学院の過剰設置が言われている現在、遠隔地に住んでいる方の全てが、会社勤めをしながらでも法科大学院に通える状況が出来ているでしょうか。出来ているわけがありません。法科大学院といえども赤字では経営できないからです。法科大学院過疎は法科大学院の増加では解消できません。
 弁護士も全く同じです。弁護士の数を増やせば司法過疎を解消できるというのは、全くの誤りなのです。弁護士も職業ですから、仕事を通じて生計を立てる必要があり、生計が成り立つのであれば弁護士は開業します。

 そうだとすれば、各地に法科大学院を作ることを考えるよりも、むしろ、司法過疎地域・法科大学院過疎地域の人間にも機会を与える、予備試験を広く認める方が理にかなっているでしょう。
 

 少なくとも以上の理由から、明らかに、予備試験は狭き門とすべきではなく、法科大学院卒業者の最低レベルと同等以上の方は合格させ、新司法試験を受ける資格を与えるべきだと思います。

 法科大学院も日弁連も何考えてるんでしょうね。