映画「ザ・コーヴ」について

 映画、ザ・コーブを上映中止にする映画館が出たとの報道は知っていたが、それに関して、日弁連会長が会長声明を出していることは知らなかった。

 確かに表現の自由は大切だ。表現の自由がない世界では、民主主義すら窒息する危険がある。だから日弁連会長の会長声明も分からないではない。

 しかし、まだ観ていない私が断言するのもなんだが、盗撮を行ったことからもわかるように、ザ・コーヴは明らかに片寄った意図で作成された映画である。おそらく、太地町の漁業に携わる人達の生活や、太地町がクジラ類の慰霊碑を建てて、人間が生きていくために命を頂いたことを感謝しその霊を慰めようとしていることなど、全く触れられていないのだろう。

 私自身、太地町の出身であり、小さい頃、父親と漁船に乗ってゴンドウクジラの追い込み漁に参加させてもらったことがある。イルカやクジラを、魚市場で解体しているところを小学校の頃、帰り道で何度も見たこともある。当然海にも血が流れており、子供心に、かわいそうだと思った記憶もある。

 だが、漁師さんたちが真剣にイルカやクジラを解体しており、どこも無駄にしないように非常に気を遣っていたことだけは、子供でも分かった。それだけ、漁師さんたちは真面目に、人が生きるために頂いた命と向き合っていたのだった。

 ふざけ半分か妙な使命感か知らないが、映画スタッフが変装して太地町にやってきたり、半分スリルを求めるように盗撮カメラを設置する行為とは、間違いなく次元が違う真剣さで漁師さんたちは働いていた。かつて、太地町には、かつて古式捕鯨時代に、鯨を捕獲中大暴風に遭遇し、漁に参加していた漁師たちがほぼ全滅するという、極めて悲惨な事故もあった。それでも生きる糧を得るために、危険を乗り越え、太地の男たちは捕鯨を続けてきたのだ。

 私が仮に映画館の主人なら、腹は立つが、多分ザ・コーブは上映すると思う。但し、ザ・コーブを見てもらったあと、ザ・コーブの監督やスタッフが、牛肉やチキンをバクバク食っているシーンを流し、その後に、「いのちの食べ方」という映画を流してやりたい。当然途中での退席は禁止だ。

 人が生きていくためには、どうしても他の生き物のいのちを頂かなければならない事実を再認識してもらい、ザ・コーヴが如何に片面的なとらえ方をしているかについて、良く考えてもらいたいからだ。

 ザ・コーブが公開され、私がそれを観て考えが変われば、この映画について、また書きたいと思う。ただし、オフィシャルサイトの監督の話から想像するに、99.9%私の考えが変わることはないと思うが。

KOKIA~「ありがとう」

 ふとしたことから、この曲を知った。

 ピアノソロで始まるイントロから、暖かさに満ちた穏やかな曲が続いていく。暖かさでは不十分か。癒しというほど高慢でもない。敢えて言うなら、こちらの気持ちを穏やかにするその曲に込められた想いは、暖かさというよりもむしろ「許し」に近いかも知れない。

 その曲に、透き通ったKOKIAのボーカルが柔らかく重なり、溶け込んでいく。

 どういうわけか、この曲に合いそうな光景として、私には二通りの光景が浮かんだ。

 一つは、人里離れた山の中にひっそりと、しかし堂々と時代の流れに耐えてきた桜の巨木。その誰も知らない木の下で、少し冷たい花冷えの風に吹かれつつ、巨木に背中を預け、桜吹雪が月明かりに映え、果てしなく降り続くのを、じっと眺めている光景。

 もう一つは、何もない、何もかも失われてしまった荒野に一人佇む者を、別の世界から静かに見つめている光景。

 全く違う光景なのに、私の中では、このいずれもが、この曲に相応しいような気がした。

 人がこの世を去るときに、残される者、旅立つ者、そのいずれにとっても最も心残りになるかもしれないことは、大切な相手に、大事に思う人に、感謝の気持ちを伝える機会を持ち得なかった場合ではないのだろうか。

 もしも時間が戻せるものならば、一言でいい、感謝の気持ちを伝えたかった。

 「ありがとう」・・・・と。

 そういう想いを持つ人、かつてそういう想いを抱いたことのある人には、是非聞いて頂きたい名曲である。

今年度アカデミー賞、長編ドキュメンタリー賞に思う

 今年度アカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞に、イルカ漁映画「The Cove」が選出されたそうだ。

 ドキュメンタリーとは、私の記憶が正しければ、そもそも「事実を伝える」という意味であり、ドキュメンタリー映画とは事実を記録した映画でなくてはらならないはずだ。そして、記録映画である以上、事実を意図的にねじ曲げただけで、すでにその内容は(事実を伝えるものではないから)フィクションとなり、ドキュメンタリー映画としての性格を失うことになるはずだ。

 当然、そうなればドキュメンタリー映画部門の受賞資格もないはずだ。ドキュメンタリーじゃないからだ。

 そもそも日本で公開されているかどうか知らないし、私は、この映画を見ていないが、その映画を見た欧米人が感情的に反発していると報道されていることから、太地の捕鯨従業者がクジラの慰霊碑を建立して毎年供養していることや、17~19世紀の欧米が行ってきた鯨油目的の乱獲捕鯨(日本の沿岸捕鯨など比較にならないほどの大乱獲)など触れずに作成されているのだろう。~あくまで推測なので間違っていたらスミマセン。

 この映画に対する、私の意見は既に、2009年8月26日付ブログで公開している。

 http://www.idea-law.jp/sakano/blog/archives/2009/08/26.html

 牛を殺して食べるのはなんの良心も咎めないが、クジラを殺して食べることは野蛮である、要するに、捕鯨禁止主張国はそう言いたいわけだ。じゃあ、クジラを殺して鯨油だけ搾り取って後は捨てていた連中は野蛮じゃないのか。欧米の捕鯨禁止主張国の中にそのような過去を持つ国は多くあるはずだ。原潜のピンガー(探信音)で聴覚を破壊されたり、死亡するクジラもきっと多いはずだが、そのことについてのドキュメンタリーはやらないのか。

 少なくとも、太地町の捕鯨は人間の生活のための捕鯨である。そして、人間の生活のために命を頂いた以上、出来る限り無駄にしないように全てを利用しようとする。それが、人間の生活のために命を頂いたせめてもの礼儀だからだ。鯨油だけ搾り取って、後は利用せずに捨てていた、過去の欧米の捕鯨とは全く異なるのだ。

 更に言えば、牛と鯨とでどうして生命の重みが違うのか。野生と家畜の違いというなら、養殖した鯨なら殺しても良いというのか。50億羽もいたといわれる野生のアメリカリョコウバトを絶滅させたのは誰なんだ。

 クジラは賢いというのなら、サルや犬を食べる文化を先に非難すべきだし、賢い動物を人間の生活のために食用にしてはいけない合理的な理由を教えてもらいたい。

 クジラがかわいそうというのであれば、フォアグラを作るために強制的に大量のエサを与えられ無理矢理脂肪肝にされるガチョウや鴨はかわいそうではないのか。

 クジラは可愛いというのであれば、それは主観の問題に過ぎない。私から見ればニワトリだって、牛だって、カンガルーだって可愛いぞ。

 おそらく昔流行った(私も見ていたが)、わんぱくフリッパーとか言うイルカのTV番組にも影響されているのかも知れないが、他国の文化を尊重せずに自国の文化が正しい(だからそれに従え)という考えは、相手の文化を自らの文化より劣ったものであるという無意識のおごりがその中心にある。

 早くその、おごり高ぶった無意識に気付いてもらいたい。

ジョン・マーティン 「神の大いなる怒りの日」 追記

 (3月4日追記)

 3月3日のブログで紹介した、ジョン・マーティンの「神の大いなる怒りの日」であるが、これはヨハネの黙示録第6章の、以下の部分を描いたものとされている。

 6:12第六の封印を解き給ひし時、われ見しに、大なる地震ありて日は荒き毛布のごとく黒く、月は全面血の如くなり、 6:13天の星は無花果の樹の大風に搖られて、生り後の果の落つるごとく地におち、 6:14天は卷物を卷くごとく去りゆき、山と島とは悉とくその處を移されたり。 6:15地の王たち・大臣・將校・富める者・強き者・奴隷・自主の人、みな洞と山の巖間とに匿れ、 6:16山と巖とに對ひて言ふ『請ふ、我らの上に墜ちて御座に坐したまふ者の御顏より、羔羊の怒より、我らを隱せ。 6:17そは御怒の大なる日既に來ればなり。誰か立つことを得ん』

東大寺戒壇院

 奈良東大寺といえば、やはり大仏様、南大門の金剛力士像が頭に浮かぶ。

 しかし、東大寺には、他にも見所が多い。

 例えば、二月堂はお水取り(修ニ会)の行事で有名である。お水取りでは、お松明があまりにも有名だが、夜遅くに行くと修ニ会の本行?を窺うことができて、興味深い。堂内を、練行衆が歩き回ったりする音や姿を垣間見ることができるのだ。お松明だけで満足せずに、是非一度、あの言葉にできそうもない修ニ会本行の雰囲気を味わってみることをお勧めしたい。もちろん昼間に登って、奈良の街を眺めても気持ちが良い。

 三月堂(法華堂)も素晴らしい。不空羂策観音、日光・月光菩薩、梵天・帝釈天、四天王など、国宝だらけだ。大学時代、真夏の暑いときにセミの声を聞きながら、汗が幾筋も背中を伝っていくのも構わず、仏像に見入ったことが思い出される。

 先日、初めて東大寺の戒壇院に行く機会があった。小学校低学年のときに両親に連れられて初めて、大仏様を見てから、何度か東大寺を見学したことはあったが、戒壇院に行ったことはなかった。

 大仏殿に向かって左側に大仏殿の入り口があるが、戒壇院は、そこからさらに左の方にしばらく歩いて行ったところにある。大仏殿・二月堂・三月堂は観光客に大人気で、修学旅行生を含めて人ばかりだが、少し離れた戒壇院は、休日であったにもかかわらず驚くほど人が少なく、静かである。

 戒壇院の目玉は、四天王像(国宝)だ。持国天・増長天・広目天・多聞天がそれぞれ東・南・西・北をそれぞれ守るとされている。

 四天王はそれぞれ邪鬼を踏みつけているが、その邪鬼の姿に惹かれる人もいるという。

 邪鬼も面白いが、四天王は抜群だ。素晴らしい仏像だった。

 個人的には、広目天が気に入った。私の勝手な印象だが、仏敵を睨みつけているような表情の持国天・増長天とも違い、高いところから人の愚かさを嘆いているかのような表情の多聞天とも違う。上手く言えないのだが、人という真摯に省みればどうしようもない部分を持つ存在への限りない慈愛をうちに秘めながら、やむなく厳しい表情をしているようにも思われた。

 東大寺に行かれる際には、戒壇院もお忘れなく。

映画「宇宙(そら)へ」

 マーキュリー計画・ジェミニ計画・そして有人月面着陸を成功させたアポロ計画から、現在のスペースシャトルまで、アメリカの宇宙計画をNASA秘蔵の貴重な映像で紹介する、ドキュメンタリー映画である。

 宇宙から見た地球のあまりにも圧倒的な美しさ、月面の神秘的映像、だけではない。

 人類最大のロケットであるサターン5型の打ち上げシーンは、是非劇場でご覧頂きたい。人類が僅かながら神に近づいたかもしれない、と勘違いしてもおかしくないほどの大迫力である。

 また、月面着陸直前にアポロ11号の着陸船のコンピューターがオーバーフローを起こし、自動操縦に頼れず、急遽手動操縦に切り替える際の緊迫したやりとりなど、映画を観ていることを忘れてしまうほどのリアリティである。

 そして、「幾多の尊い命が、その栄光を支えた」と映画のキャッチフレーズにも書かれているように、栄光の裏側に隠れがちな、無謀ともいえる挑戦、悲惨な事故、貴い犠牲についても目をつぶることなくこの映画は描いていく。

 初めて月に着陸したアポロ11号に搭載されていたコンピューターが、ファミコンレベルの計算能力しかなかったという話をどこかで耳にしたことがあったが、アポロ8号の月周回の計画は、生存帰還率50%以下であったことはこの映画で初めて知った。アポロ8号の宇宙飛行士達は、それを知っていたのだろうか、知っていたとしたら、どのような気持ちで月へと旅立っていったのだろうか。

 アポロ1号の火災事故、スペースシャトル「チャレンジャー号」の発射直後の爆発事故、同じく「コロンビア号」の地球帰還直前の大気圏突入時の空中分解事故、事故の映像だけではなく、地上スタッフの映像も織り込まれ、事故を現場で目撃しているかのように、この映画を観た者に迫る。

「打ち上げの中継を見ていた子供達に伝えたい。冒険や発見の過程では、こうした痛ましい事故がときに避けられないのです。しかし、これは終わりではない。希望は受け継がれます。未来は臆病な人々のものではなく、勇気ある人々のものです。」

 チャレンジャー号の事故の映像が流れ、観客が、何故人類はこのような犠牲を払ってまで宇宙を目指すのか、と心の中で自問し始めたときに流れる、レーガン大統領(当時)が語る言葉が胸に響く。

 ちなみに私が観たときは、公開1週間後でありしかも「20世紀少年~最終章」の公開初日でもあったため、私を含めて観客は5~6名しかいなかった。

 このまま公開が終了してしまうのがあまりにも惜しい映画である。この迫力は、絶対に映画館でなければ体験できない。

 機会があれば是非、映画館で鑑賞されることをお薦めします。

映画 「ボルト」

 ボルトはスーパードッグである。白く美しい身体には、スーパードッグの証である稲妻の紋章が浮かび上がっている。鋭い眼光は鉄をも溶かし、スーパーボイスで敵の軍隊を吹き飛ばす。ボルトは、大好きな飼い主のペニーと一緒に、ペニーの父親をさらった「緑の目の男」と戦い続けている。
・・・・・・・という自らが出演するハリウッドのTVドラマを、真実だと信じ込んで育った犬の物語が、この映画「ボルト」だ。

 ボルトの知っている世界はドラマのセットの中だけであり、ボルトが自らをスーパードッグだと信じ込んでいるため、主演のボルトによる迫真の演技(ボルトにとっては演技ではなく現実)が視聴者を釘付けにしている、人気番組だった。

 ある日、飼い主のペニーがさらわれたと誤解したボルトは、セットを飛び出してしまい、宅配便で、ニューヨークまで送られてしまう。
 ボルトは、なんとかして愛するペニーの下へ帰ろうとするが、人間に辛い目に遭わされた過去を持つ猫のミトンズは、人間なんて信じるな、ペニーは演技をしているだけなのだとボルトを諭すことになる。途中でハムスターのライノも合流し、ハリウッドを目指しての3匹のアメリカ横断珍道中がはじまる。一方、ボルトが失踪しても高視聴率ドラマを作り続けたい会社側は、ボルトそっくりの犬を連れてきてペニーと競演させようと目論んでいた・・・・・。

 まず、誰もが映画冒頭のボルトの大活躍に目を奪われるだろう。素晴らしいCGアニメーションが息つく暇もなく展開される。ものすごいクオリティであり、これなら、犬が自分がスーパードッグであると信じてもおかしくないや、と映像の力だけで説得されてしまう。

 まだ見てない方のために詳しい内容はこれ以上触れないが、ボルトは道中、自分がスーパードッグではないことに気付いていく。しかし、全てが仕組まれたものだと分かっても、ボルトはペニーと自分の絆だけは嘘ではないと信じて、ハリウッドを目指す。このあたりが私のような犬好きにはたまらない。もちろん、斜に構えていながらボルトに現実を教えていく猫のミトンズ、いつも前向きなハムスターのライノ、いずれも魅力的であり、猫好き・ハムスター好きの方でも十二分に楽しめる映画であることは間違いないと思う。

 だが、私には、ボルトが単なる子供向けの映画に止まらず、大人に対しても何かを伝えようとしているようにも思われた。

 上手く言えそうにもないので恐縮なのだが、私はこんなことを考えた。

 私達は、生まれてから赤ん坊の時代、幼少の時代は、普通、親に守られて育つ。そこでは、歩いただけで誉められ、笑っただけで誉められる、泣けば面倒を見てもらえる、いわば万能の時代である。逆に言えば自分は家庭の中で王様の扱いを受けて育つと言っても良い。それが、幼稚園(保育園)からはじまる集団生活の中で次第に自分は王様などではなく、みなと同じ一人の人間であることに気付いていく。

 人は人であるというだけで価値があるが、それは自分だけに価値があるのではなく、相手も同じであり、全ての人に価値がある。そして、社会の中では、自分の価値だけが大事にされなければならないものではないし、仮に自分が今ここで死んでも、世界は何事もなかったように動いていくのだ、ということに、大人になる頃にようやく気付く。

 人間として個々に不可侵の価値がありながら、社会の中ではあくまで社会の一員にすぎないという、矛盾をはらんだ存在が人間である、ということに気付いていくのが、大人になるということの一つではないかと私は思う。

 ところが、現実はどうだろうか。みんなは俺を評価してくれない、私の実力はこんなものではない、もっとみんな(社会)は僕を大事にしてくれないとおかしい、自分は絶対正しい、世間が間違っている、などと自分の価値だけに着目した視点だけを声高に述べる大人が多すぎるのではないだろうか。そのような大人は、自分をスーパードッグだと勘違いしていたときのボルトと同じである。

 確かに、自分に不可侵の価値がありながら、社会の中では自分だけが大事にされなければならないというわけではない、と自覚することは、なかなか大変であるし、私自身も自覚できていると断言まではできない。自らがスーパードッグではないことを自覚していくボルトのように、自覚に至る過程で自らの価値を見失いかねない危機にも遭遇する人もいるだろう。けれども、苦しくても自らの個としての存在・社会の一員としての存在の、双方を自覚をしていかないと、人間社会が成り立つはずもない。

 ただ、その苦しい大人への道の途中にあって、自分の価値に疑問を抱く場面に遭遇しても、本当に信ずべき絆があるのだ、その信ずべき絆を信じて進めばよいのだ、ということを「ボルト」は表現したかったのではないだろうか。

 私は、吹き替え・3D版を見たが、吹き替え版でも違和感を感じなかった。特にミトンズ役の江角まき子は、ぴったりはまっていたように思う。3D版も少しお値段は高くなるが、現在の3D映画のすごさを味わうことができるので、3D眼鏡に抵抗がなければ、一度体験されても損ではないと思う。

 是非映画館で、ご覧になることをお薦めします。

映画「ハゲタカ」

 日本そのものとすら言える、自動車産業の中心的存在アカマ自動車。「日本は宝の山だ、買いたたけ!」と狙いをつけた中国系ファンドが、赤いハゲタカと異名を取る劉一華(玉山哲二)を中心にアカマ自動車にTOB(株式公開買付)を仕掛けてくる。一見友好的な提案なのだが、アカマ自動車には中国政府系ファンドの狙いは読めない。

 一方かつて伝説のハゲタカとまで呼ばれた凄腕ファンドマネージャー鷲津(大森南朋)は、日本を見限り海外で生活をしていた。

 鷲津は、かつて敵対し、その後、協力したこともある、アカマ自動車執行役員の芝野(柴田恭兵)から、「アカマを救ってくれ」と要請を受けるが・・・・・・・・。

 「ハゲタカ」は、NHKで6回シリーズでドラマ化、放映された番組である。冷酷に患部を切り捨てていく手段を用いる鷲津と、旧態然としたしがらみに苦しみつつ日本的な経営を改善していくことで会社を蘇らせようとする芝野の対立構造が非常に見応えがあった。傑作ドラマであったといっても良いと思う。

 もちろん原作(真山仁著「ハゲタカ」)も非常に面白い。私は、関西学院大学法学部での講義の際に、敵対的買収に興味を持ってもらうために授業で、毎年、この本とドラマを紹介している。

 そのドラマの配役そのままに、映画化されたのが、映画版「ハゲタカ」である。まだ、映画をご覧になっていない方のために詳しい内容には触れないが、できればドラマをDVDで一度ご覧になってからの方が、詳しい背景、人間模様が分かるため、断然面白く見ることができると思う(最低でもNHKのHPでドラマ「ハゲタカ」のあらすじを確認された方が良いと思う)。

 また、多少なりとも敵対的買収に興味がある方にとっては、なお面白いかもしれない。私は、芝野が社内で敵対的買収対策チームに指示を出すところで、某敵対的買収対策本と全く同じ内容で、チーム編成を行い、指示を出していたことから、緊迫した場面でありながら、少し笑ってしまった。逆に言えばそれだけ迫真性に富んだ内容であったとも言えるだろう。

 いずれにしても、話の筋が分かりやすいので、経済に関する知識がなくても十分楽しめる。脇役の松田龍平・島田久作・志賀廣太郎もドラマ同様、非常に良い味を出している。

 お薦めの映画であることは間違いない。

6月6日より公開中

誰かの願いが叶うころ~宇多田ヒカル

 決して大ヒットした曲、とまでは言えません。

 しかし、映画「CASSHERN」の主題歌として映画のラストに流れたこの曲は、言葉で簡単に説明できない程、観客の心を揺り動かしたのではないかとわたしは、思っています。

 非常に素晴らしい歌詞でもありながら、謎めいた部分もある歌詞です。

 少しだけ、この名曲の歌詞について考えてみました(あくまで私見です。宇多田ヒカルさんが全く違う解説をされていても、わたしの思いこみで書いていますので、ご了承下さい)。

 「自分の幸せ願うこと、わがままではないでしょ。それならあなたを抱きしめたい、出来るだけギュッと。」

と歌った後で、宇多田ヒカルは

 「誰かの願いが叶うころ、あの子が泣いているよ。みんなの願いは同時には叶わない。」

という歌詞をつけています。

そして短い間奏の後、

 「小さな地球が回るほど 優しさ身に付くよ。もう一度あなたを抱きしめたい、出来るだけそっと。」

と歌って締めくくります。

 「出来るだけギュッと」が「出来るだけそっと」に変わっています。優しさを身につけ、自分中心に考えていた望みを捨て、相手にも配慮した希望へと変わっているように思います。あるいは、「あなた」を出来るだけそっと抱きしめた後、宇多田ヒカルは「あなた」のことを考えるあまり、大好きな「あなた」の元を去らねばならないという決意をしているのかもしれません。

 なぜなら、曲の中盤で、「自分の幸せ願うこと、わがままではないでしょ。それならあなたを抱きしめたい、出来るだけギュッと。」と自分の望みを切なく歌い上げる直前に、

「みんなに必要とされる君を 癒せるたった一人になりたくて 少し我慢しすぎたな」

という、今までの歌詞とはかなり口調が異なる歌詞が突然出てくるのです。

 これまで一人称で「わたし」・「あなた」で紡いできた歌詞が、突然その部分になると「君」となります。

 素直に考えれば、「わたし」・「あなた」で歌っているのは宇多田ヒカルです。歌の途中で急に「君」と言い換えたり、男性口調に換える必要はありません。そうだとすれば、この部分は、むしろ宇多田ヒカル本人を「君」とよべる存在から、宇多田ヒカルに対して向けられた詩であるように思われます。

 つまり、歌詞のこの部分は、「みんなに必要とされる君(宇多田ヒカル)を癒せる、たった一人であったはずの、当時夫であった紀里谷氏(映画「CASSHERN」の監督)が、宇多田ヒカルを大事にするが故に我慢しすぎていた」ということに、宇多田ヒカルが気付いてしまったことを表したものではないでしょうか。

 宇多田ヒカルは、自分を大事にしてくれているが故に、紀里谷氏が我慢しすぎていたことを知ってしまった。それでも、紀里谷氏が大好きだった、だから、「自分の幸せを願うことはわがままではないでしょ」と、歌い、「それならあなたを抱きしめたい、出来るだけギュッと」、と歌った。

 けれども、残酷であるけれども、「みんなの願いは同時には叶わない」のです。

 (もしかしたら、宇多田ヒカルは、紀里谷氏から、「このまま僕らの地面は乾かない」と言われたのかもしれません。この部分も若干歌詞に違和感を感じる部分です。) 

 だから、最後に、せめてもの望みとして、こう歌わざるを得なかった。

 「もう一度あなたを抱きしめたい。できるだけ・・・・そっと。」

 そしてそのことに宇多田ヒカルが気付くためには、地球が何度も回るだけの時間が必要だったのではないでしょうか。 

 宇宙全体から見れば本当に小さな地球です。宇宙を流れる時間に比べれば地球が回る時間など、そして私達の一生など、一瞬の出来事でしょう。しかし、優しさを身につけなければならない私達にとっては、地球が何度も回らなければならないほど、途方もなく長い時間がその道のりには必要なのかもしれません。

 その他にも、いろいろ想像できますが、とにかくこの素晴らしい曲を、一度お聞きになって下さい。そして、歌詞の内容について考えてみるのも、たまには良いのかもしれません。

映画 ザ・ムーン

 原題は、IN THE SHADOW OF THE MOON 。

 これまで秘蔵されていた膨大なフィルムの中から、素晴らしい映像を選び抜き、その映像とアポロ計画の宇宙飛行士に対するインタビューを中心に進められていくドキュメンタリー映画です。

 宇宙から地球を眺めた宇宙飛行士達の言葉がとても印象的です。

「月は驚くほど美しい砂漠が支配する世界だった。手つかずの汚れなき世界。その脈動を感じる。月と漆黒の宇宙の鮮明なコントラストに思わず神秘と驚異を感じずにはいられなかった。」

「圧倒されるような経験だった。そして気付いた。己の肉体の分子も、宇宙船の分子も、クルー仲間の肉体の分子も、その原型ははるか昔に宇宙で作られたものだと。全てはつながっていて一体なのだと。他と私ではなく、万物は一つなのだ。」

「我々はなんと小さな存在だろう。だがなんと幸せだろう。この肉体を持って生まれてきてこの美しい地球で人生を謳歌することができて。」

「地球は生き生きとして雄大で、その存在は偶然の産物にしてはあまりに美しすぎる。」

アポロ計画によって、本当に人類が月面に着陸が出来たのか疑問視する見解もあるようですが、彼らの言葉から考えると、少なくとも、宇宙飛行士達は、例外なく魂を揺さぶられるような経験をしたことは間違いないようです。

 私も一度で良いから、宇宙から地球を眺めてみたいと思っています。荘厳な景色としては、宇宙から見る地球に勝るものはないようにも思います。

 公開されている映画館は少ないかもしれませんが、是非ともご覧頂きたい映画です。