ヨーロッパの夜行列車~

 ヨーロッパの列車、特に夜行列車は、乗っている者にとって、とても静かに走ります。

 駅を出発するときも時間になれば、発車のベルなども鳴らず、音もなく勝手に動き始めるし、軌道の幅が広いせいか、日本の夜行列車ほど揺れないし、レールの音もさほど聞こえません。

 夜行列車で旅する際に、私のお薦めする季節は冬です。ただでさえ静かなヨーロッパの夜行列車が、雪に音を消されて、更に静かに進んでいきます。特に月夜であれば、月光に浮かぶ窓外の雪景色は寝てしまうのが惜しいくらいの素晴らしさを見せてくれます。

 なんとか、このような夜行列車を上手くお伝えすることができないかと思っていたら、松任谷由実さんの「時のないホテル」というアルバムの中にある、「コンパートメント」という曲が、すごい表現をしてくれていました。

 かなり古いアルバムですし、明るい曲ではありませんが、是非一度聞いてみて下さい。

企業の弁護士ニーズ~その2~

 昨日ご紹介した、大阪大学の「法曹の新しい職域」研究会作成の「企業における弁護士ニーズに関する調査中間報告書」(2007年10月)に関する続きの記事です。

 各企業の経営者に対して行ったアンケートの自由記載欄に、面白い記述が多かったので、印象に残っている部分を抜粋させていただきます(部分的抜粋もあります)。

~以下、 アンケート自由記載欄の抜粋~

・最終の合格率の低下など質の低下が心配です。

・このままいくと一発狙いの連中も増えることでしょう(アメリカ型ヤクザ弁護士のように)。やはり制度はさておき、日本の争いを好まないという美風を尊重するに、町医者、保険の先生、産業医→医局→先端研究という専門化が必要であろう。オールラウンダー弁護士の時代は少なくとも都会では終わっているでしょう。刑事をしても食べていけるようにするとか、行政で食べていけるように受け皿作りも必要でしょう。今のままでは粗製濫造が予想されるでしょうなぁ。せっかく法科大はそのリスクを減らせるのに・・・・。まずは法科大の質と数でしょう。

・弁護士が多くなると仕事を作るために、ことさら事件化して社会がぎすぎすしてくるように思える。日本人の良い習慣である話し合いがなくなり、全て訴訟によらなければ解決しない社会になるような気がします。

・人間性をしっかりと教育して欲しい。信頼できる人材、社会から尊敬される弁護士を育ててもらいたい。粗製濫造では却ってマイナスの社会になるような気がします。「弁護士栄えて社会は滅ぶ」にならないよう、強く望む。

・法律についてしっかりと教育することについてはまったく異論はないが、そもそも弁護士を大量生産することはなんら国益とならず、むしろ不要な訴訟を増加させ、国力を低下させることにつながると危惧する。実質価値を生み出すことのない職種従事者を増加させることに全く国家ビジョン・戦略を感じない。弁護士サービスが使いやすくなるとか社内活用できるというような安易な問題ではないと思う。

~抜粋ここまで~

 自由記載欄について、大阪大学大学院法学研究科の渡邊特任研究員は、次のように分析しておられます。

「自由回答欄の内容を見ると、弁護士の増加が過度の訴訟増加を招いてしまうことへの危惧や、弁護士の増加が質の低下につながらないかという危惧など、将来への不安が示されていました。また、事業分野に関する専門知識をもった弁護士へのニーズや、分かりやすい料金体系へのニーズも示されています。」

 このアンケート自由記載欄を見ると、「企業の経営者は、弁護士増員さえすればいいと脳天気に考えている訳ではない。」、ということがよく分かります。

 ・・・・・ということは、「弁護士増員は国民や企業の要請である。」と根拠もなく言い続けている法科大学院やマスコミの主張が本当に正しいのか疑問に思えてきますね。

企業における弁護士ニーズ~

 大阪大学の「法曹の新しい職域」研究会から、アンケートの依頼があり、その中に、参考資料として、「企業における弁護士ニーズに関する調査中間報告書」が同封されていました。

 上記研究会は、企業の弁護士ニーズを探るために、アンケートを実施しその内容を分析しています。

 「企業における潜在的ニーズはかなり広範囲に広がっているはずであり、企業がそのような潜在的ニーズに気付いていけば、今後、企業で弁護士活用が拡大することはかなり期待できます。」と、福井准教授はアンケート結果を分析しておられます。

 しかし、企業の潜在的ニーズは、かなり前から言われ続けていますが、一向に開拓される気配がありません。

 また、企業が、弁護士と顧問契約をしない理由は、圧倒的な第1位が「弁護士を必要とする仕事がない」という理由です(46.2%)。福井准教授は、「昨今の状況に鑑みれば、字義通りに『弁護士を必要とする仕事がない』と解することはできず、むしろ企業が『弁護士を利用するニーズはあるがこれに気付いていない』、もしくは『弁護士を利用するニーズはあるがそのメリットに気付いていない』と解釈すべきでしょう。」と解されます。

 しかし、福井准教授の解釈は、あくまで企業が弁護士の有用性についてなんら気付いていないという結論ですから、弁護士の有用性を企業が知らない状況下においてのみ正しいと考えられます。つまり、弁護士の有用性を企業に対して誰も説明してくれない状況が、福井准教授の念頭にあると思われます。

 ところが、日弁連も相当前から、企業に対して、弁護士の有用性を知らしめ、ニーズを拡大しようと活動しているやに聞いておりますが、企業の方々が続々と弁護士ニーズに気付き大量に弁護士の採用を開始したという話は聞いたことがありません。更にいえば、企業のトップの方々が弁護士ニーズがあるのに、そのニーズに気づけないほど洞察力がないとも思われません。

 そうだとすれば、企業における弁護士のニーズを「潜在的にはあるはずだ」という、福井准教授のご主張の根拠は薄弱というしかないと思われます。

 この中間報告書の更に面白い部分が、アンケートの自由記載欄をピックアップした中にあったのですが、それはまた、日を改めて書きたいと思います。

エゾナキウサギ~

 私がまだ、若かった頃、何度か北海道にバイクツーリングに出かけたことがあります。

 そのときに、然別湖に立ち寄った際、珍しいナキウサギがいるということで、遊覧船で対岸にわたり、2時間ほどナキウサギを観察したことがあります。なんでも、ナキウサギは氷河時代からの生き残りといわれており、貴重な生き物だということでした。

 ナキウサギは、ウサギという名前が付いてはいるものの、実際には耳は大きいわけではなく、ネズミのような感じの動物です。キチ・キチという感じの鳴き声を出します。非常に警戒心が強いということもあり、人間が歩き回っていると出てきません。息を潜めてじっとしていると、ガレ場から出てくることがあります。大抵こちらが予期しない場所に出るようで、数人で観察していたのですが、何度か姿を現した中で、私は、3回ほどちらっと見ることができただけでした。しかし、思いがけず私のすぐ近くに出てきたこともあって、その可愛らしい姿は、しっかり見ることができました。

 ナキウサギは学術的にも貴重な生き物だということですが、例に漏れず人間による環境破壊により絶滅のおそれもあるようです。天然記念物に指定するよう求める運動もなされているようです。

 可愛らしい動物なので、テレビなどの特集があれば、一度ご覧になってみて下さい。

ヒグラシの鳴き声~

 先日、ヒグラシの鳴き声を聞きました。

 皆さん、ご存じの通り、ヒグラシは別名カナカナ蝉とも言われ、涼し気な中にも何となく寂しそうな感じを含んだ鳴き声で鳴きます。

 この鳴き声について、カナカナと表現されることが多いようです。しかし、実際聞いてみると、確かに鳴き声の感じは「カナカナ」という言葉の語感に似てはいますが、決して「カナカナ」という語、そのものの音ではありません。もう少し金属的な音がするように思います。

 かといって、ではどう表現するのかと問われると困るのですが、近くで聞くと「キ・キ・キ・・・・・」と聞こえるように思います。少し離れると、(「カナカナ・・・・」+「サリサリ・・・・」÷2)のように聞こえる気がします。

 私は、ヒグラシの鳴き声が大好きなので、ヒグラシの鳴き声を聞くと、なんとかぴったりした鳴き声の表現ができないかと考えるのですが、どうもまだ見つけることができないようです。誰か見つけたら教えて下さい。

心の琴線~

 ひどく感動する音楽を初めて聴いたとき、素直に、いい曲だったな、感動したな、という想いが湧いてくる直前の段階で、どこかで一度聞いたような気がすることはありませんか?

 大抵は、いい曲だったな、感動したな、という気持ちに呑み込まれてしまい、どこかで一度聞いたような気がすることを忘れてしまうのですが、少なくとも私は、初めて聴いた曲であっても、そのような気がすることが多いようなのです。

 何故そのような気がするのか、私にも説明が難しく不思議なところですが、もしこの感覚が私だけのものでないとして、敢えて仮説を立てるのであれば、次のように考えることもできるかもしれません。

 人は誰しも、感動の根幹となるものを持って生まれてくるのであって、その感動の根幹を揺り動かすことができる曲が、その人にとって感動に値する音楽なのかもしれません。作曲という作業は、その感動の根幹(感動を生み出す部分)に触れる音・フレーズを探り当てて、その音を紡いで曲にする作業にように思えます。

 もともと、生まれながらに持っている部分に触れられるので、どこかで(あるいは生まれる前に?)聞いたことがあるような気がする感覚が、一瞬ですが感じられるのではないでしょうか。
 

もちろん、個々の人が持って生まれてくる感動の根幹はそれぞれ違うものであって、ある人には感動的な曲でも、別の人にとっては騒音に近い場合もあるかもしれません。しかし、多くの人を感動させる曲は、より多くの人の感動の根幹に作用する部分を探り当てた曲だったということになるように思えます。

 そう考えてみると、誰が言いだしたのか知りませんが、「心の琴線に触れる」という言葉は、すごい言葉だと思います。誰もが、自分の心に響いたときにだけ、良い音色を奏でる琴を心に持っていて、感動とはその見えない琴の弦をふるわせ、その人だけに分かる美しい音色が心の中に鳴り響いている状態であることを示しているように思うからです。

 出来る限り、精神的にも、身体的にも、心の琴線によって美しい音色が鳴らせる状態でいたいものですね。

週末の帰省~

 お盆も事務所を開ける予定であるため、週末だけの短期間帰省をしてきました(私はお盆の後に少しお休みを頂く予定にしています)。

 金曜日の夜に出発して、土曜日の未明に実家に到着。自動車の運転で疲れていたので、すぐに2階の座敷に用意してもらっていた布団に入りました。

 私の田舎は海に近いせいか、京都・大阪に比べて気温が幾分低めであり、風さえあれば窓を開けてクーラーの世話にならずに眠ることも可能です。
 できればクーラーを使いたくなかったので、窓を開けて網戸にし、眠ろうと努めました。しかし夜のドライブは神経を高ぶらせてしまうためか、すぐには寝付けません。
 しばらく、月明かりにうかぶ窓の外をぼんやりと眺めることになりました。

 私の実家は、小さな川の側にありますので、水の流れる音が聞こえてきます。向こうの畑から地虫や少し気の早いコオロギの鳴き声も聞こえるようです。国道も近くにありますが、夜中は殆ど自動車は通りませんので、都会のように夜でもゴォーっと、どこか遠くから響いてくる自動車の騒音は全くありません。ただ、時々、はるか上空を、通過していく夜間飛行のジェット機の音が、風にくるまれて届けられたかのように、いかにも遠くから、何故か強弱をつけて、響いてくるのが分かるくらいです。

 いつも京都で見かけるジェット機は、上空を音もなく飛行機雲を曳いて飛んでいるように思え、それが当たり前に思うようになっていました。今回の帰省では、「静かであれば、夜間飛行の音も聞こえる」ということを忘れてしまっていた自分に、気づくことができました。

電車の窓

 先日、私が通勤に使っている京阪電車を利用して帰宅しようとしていた際、走行中のK特急の車内灯が突然減灯され車内が暗くなってしまいました。

 車内放送によると、電車の発電機が故障したためだということでした。車内灯は復旧できるが、エアコンはすぐには復旧できないとのことで、窓を開けて下さいという指示が車掌さんからありました。幸い、たまたま、京阪電車の特急型車両の中でも旧型車両であり、殆どの窓が開けられるタイプのものでしたので、助かりました。

 確かにエアコンに比べると、温度を下げることができないため、少し汗ばむような状況でしたが、外からの風が相当入ってくるので、耐えられないような暑さにはなりませんでした。

 むしろ、風によって感じられる涼しさが心地よく、また風の音、車外の音が良く聞こえるので、とても懐かしく思われました。

 私の育った町は、紀勢本線が通っており、電化されたのは確か私が小学校6年生の頃でした。電車が走るまでは、当然汽車(気動車)が走っていましたから、小さい頃から鉄道車両を、いつも汽車と呼んでいました。さすがに最近は間違えなくなりましたが、大学時代でも、つい汽車と言ってしまったことを覚えています。

 電化された後でも、紀勢本線には古い客車が利用されていたこともあり、まるで松本零士さんの「銀河鉄道999」に出てくるような客車(直角背もたれの奴ですね)で、高校から帰宅することも良くありました。

 ドアも手動で、一番後部の車両からは、飛び降りようとすれば簡単に飛び降りることもできました。古い客車ですから、当然冷房もなく、夏は窓を全開にして風を取り入れ、扇風機を回すくらいしか涼をとる手段はありませんでした。大きな扇風機が天井に一列に並んで取り付けられており、それぞれが円を描きながら好き勝手に首を振り続け、その風が網棚の網(本当に糸を編んだ網を網棚に使っていました。)を時々揺らす光景を、何故だか鮮明に覚えています。

 おそらく乗客の方の多くは、エアコン完備の電車しか乗ったことがないでしょうから、特急電車で走行中に窓を開けるということは、とても新鮮な体験だったと思います。

 私としては、新鮮な体験と言うよりは、柔らかい涼しさにつつまれまがら、列車通学をしていた高校時代を少し思い出させてもらうことができ、得した気分で電車を降りることになりました。

二つの時間

 私が中学生の頃だったと思うのですが、「ノストラダムスの大予言」という本が流行していました。

 ノストラダムスという占星術師・予言者が、「1999年の7の月に恐怖の大王が空からやってきて、人類が滅びる」と予言したという事だったようです。しかも、ノストラダムスの予言は99%当るという話まで出ていて、「1999年が来たらどうするんだ」などという話で結構友達と盛り上がったものです。

 当時の私は思春期であり、人生のことなど何にもわかっていない生意気小僧でしたから、浅はかにも次のように思っていました。

 「1999年には自分は30歳を超えているから、もう十分生きたといえるんじゃあないか、だったら、人類が滅びてもそんなに後悔しないのではないだろうか。お年寄りが、自分はまだまだ若いというけど、それは間違いじゃないだろうか。」

 ところが、不惑の年を少し越えた今、十分生きたと感じられるのか、と振り返ってみると、ちっともそのような実感がないのです。

 実際の時間は私が生まれてから、40年以上経過しているのは間違いありません。私の甥だって高校生になるくらい成長しているのですから、やはり時間は間違いなく経過しています。

 しかし、こと私の内面の時間となると、まだ物心付いてから16~7年くらいしか経過していないような気がするのです。小さい頃は、実際の時間と私の内面の時間は一致していたのでしょうが、次第に私の内面の時間はその歩みを止めがちになり、一方、実際の時間は忙しさのためか、年々足早になっていくように思います。

 私の内面の時間が、急に実際の時間と同じように流れ出すとか、実際の時間に追いつくとは思えないので、おそらくこのような状況が私が生きている限り続くのでしょう。

 そうだとすると、悔いが残るかどうかは別として、多分、私も十分生きたという実感を持てずにこの世から去る日を迎えるように思います。

 同じ一つの時間しかないはずなのに、実際の時間の他に、人には内面の時間があるようです。しかも、人は、自分自身を振り返ったときに(良いか悪いかは別にして)内面時間を実際の時間として感じてしまうような気がします。

竹島問題

 本日の日経新聞朝刊第2面に、『竹島問題、何が対立点』という記事と、『「竹島」福田外交に影』という記事が載せられています。

 要するに、日本が新学習指導要領の解説書に、初めて竹島に触れたことをきっかけにして、韓国側が態度を硬化させていることに関する記事です。

 竹島問題については、http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/takeshima/をお読みください。日本政府は公式見解として竹島は日本の領土だと主張しています。私も日本政府の主張に分があると思います。

 日本政府の公式見解が、竹島が日本の領土であるのなら、新学習指導要領の解説書に記載することは当然のことです。それを何故批判されなければならないのでしょうか。正しいことを述べているのですから、堂々と主張して頂きたいところです。

 韓国側に異論があるのであれば、国際司法裁判所で堂々とその主張をお互い述べ合って判断してもらうべきでしょう。日本は何度か、国際司法裁判所への提訴を提案しましたが、韓国側はこれに応じていません。本当に韓国側が国際的に通用する領有根拠があるのであれば、なんら国際司法裁判所に提訴することに異論はないはずなのですが、何故応じないのでしょうか。(国際司法裁判所は、紛争の両当事者が同裁判所において解決を求めるという合意があって初めて動き出すという仕組みになっています。したがって、仮に日本が一方的に提訴を行ったとしても、韓国側がこれに応ずる義務はなく、韓国が自主的に応じない限り国際司法裁判所の管轄権は設定されないこととなります。)

 なお、韓国は、1954年から竹島に警備隊を常駐させ実効支配に入っています。このまま韓国の実効支配が長期化し既成事実化してしまえば、国際司法裁判所に提訴しても、現実の韓国側の実効支配の長さが判断に影響を与えてしまう危険が出てくるでしょう。

 韓国側も、竹島問題を、「竹島問題に触れると、外交に悪影響を及ぼすぞ。それが嫌なら引っ込めろ。」といわんばかりの対応を取るべきではなく、国際司法裁判所に提訴するなど、平和裡に建設的な解決を目指すべきではないのでしょうか。