二つの時間

 私が中学生の頃だったと思うのですが、「ノストラダムスの大予言」という本が流行していました。

 ノストラダムスという占星術師・予言者が、「1999年の7の月に恐怖の大王が空からやってきて、人類が滅びる」と予言したという事だったようです。しかも、ノストラダムスの予言は99%当るという話まで出ていて、「1999年が来たらどうするんだ」などという話で結構友達と盛り上がったものです。

 当時の私は思春期であり、人生のことなど何にもわかっていない生意気小僧でしたから、浅はかにも次のように思っていました。

 「1999年には自分は30歳を超えているから、もう十分生きたといえるんじゃあないか、だったら、人類が滅びてもそんなに後悔しないのではないだろうか。お年寄りが、自分はまだまだ若いというけど、それは間違いじゃないだろうか。」

 ところが、不惑の年を少し越えた今、十分生きたと感じられるのか、と振り返ってみると、ちっともそのような実感がないのです。

 実際の時間は私が生まれてから、40年以上経過しているのは間違いありません。私の甥だって高校生になるくらい成長しているのですから、やはり時間は間違いなく経過しています。

 しかし、こと私の内面の時間となると、まだ物心付いてから16~7年くらいしか経過していないような気がするのです。小さい頃は、実際の時間と私の内面の時間は一致していたのでしょうが、次第に私の内面の時間はその歩みを止めがちになり、一方、実際の時間は忙しさのためか、年々足早になっていくように思います。

 私の内面の時間が、急に実際の時間と同じように流れ出すとか、実際の時間に追いつくとは思えないので、おそらくこのような状況が私が生きている限り続くのでしょう。

 そうだとすると、悔いが残るかどうかは別として、多分、私も十分生きたという実感を持てずにこの世から去る日を迎えるように思います。

 同じ一つの時間しかないはずなのに、実際の時間の他に、人には内面の時間があるようです。しかも、人は、自分自身を振り返ったときに(良いか悪いかは別にして)内面時間を実際の時間として感じてしまうような気がします。

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