やはり少ない接見施設

 前にも何度か書いたが、被疑者国選制度が採用されてから、警察での接見(面会)の待ち時間が、異常なくらい伸びている。

 今日も、某警察で接見申入れをしたのが、17:05、接見室に入れたのが、18:35と、1時間半も待たされた。接見室が一つしかなく、弁護人接見は時間無制限であるため、ゆっくり接見する弁護士がいると、うんざりするくらい待たされることになる。多分同じような思いをされている弁護士の方が、相当多数おられるのではないだろうか。

 弁護士との接見は被疑者・被告人の権利である。接見禁止が付されている場合、被疑者・被告人の外部交通は弁護人に限られるため、接見は極めて重要な意味を持つことになる。しかし、その権利を守るため弁護士だけに長時間の待機を強いるのは間違っているように思う。弁護士だって生活がある。長時間待たされたとしてもその待機時間の給料を誰かが支払ってくれるわけでもない。

 長時間待たされるのが常態となれば、接見を少し控えようかと考える弁護士が現れても責めることはできないのではないだろうか。

 被疑者国選制度の導入とともに、被疑者段階での接見が激増することは分かっていたのだから、各警察署で接見室の増設を行うべきだったのだ。しかし予算の都合か、接見室が増設されている様子は殆ど見られない。

 司法改革といえば聞こえは良いが、あまりにも場当たり的で不備の多い改革のように思えてならないときもある。

祇園祭宵山

 今日は祇園祭の宵山だ。明日に山鉾巡行を控えて、おそらく京都は凄い人出だろう。

 私は浪人時代から今まで20年以上京都に住んでいるが、祇園祭の宵山を見物に行ったことは、数回しかない。あまりの人出のため、人すら一方通行で歩かされ、人混みが嫌いな私には、ダメージが大きすぎたのだ。

 それでも、若者たちは浴衣で楽しそうにしており、その様子を京阪電車の駅で見かけることもある。

 モードが似ているからだろう、最近、浪人時代のことをよく思い出すよ。どういうわけか楽しい思い出ばかりだな。

 そういえば今日は祇園祭の宵山ではないか?予備校の同じクラスの彼女と行きました。でもそのときのことはよく覚えていないなあ。翌年の大学1年生のときには二人そろって浴衣で出かけたんだっけな。夜店を覗き込む彼女の横顔と髪を結い上げた襟足が夜店の灯かりに照らされて幻想的にきれいだったのをよく覚えている。

 昨年のこの時期、こういうメールを闘病中にくれた、大学時代の友人も、今は、この世には、いない。

 祇園祭に関しては、俺はグライダー部で割り当てられた船鉾のバイトしていたので、あまり宵山といってもデートの記憶はないが、信國の言う「幻想的な美しさ」ということは理解できるつもりだ。女性も気付かない、女性の本当の美しさを理解できるのはやはり男じゃないかと思うぞ。

 私は、いろいろ考えたあげく、彼の祇園祭の想い出に対し、上記のようなありきたりのことしか書けなかった。

 そんなことを思い出しつつ、今年も見物することなく、宵山の夜を過ごしてしまいそうだ。

東京地裁

 つい先ほど、東京地裁での期日が終了したところだ。

 これから、別件で弁護士さんと介護する必要があるため、弁護士会館で待ち合わせになる。

 裁判所には当然、法廷があり、それぞれの法廷には番号がつけられている。

 ところが、東京地裁には、全く同じ法廷番号をもつ違う法廷がある。今回私が、弁論期日を行った、601号法廷もその一つだ。東京地裁601号法廷と、東京地裁601号法廷(商事部)が存在する。

 同じ東京地裁に601号が二つあるのだから、待ち合わせの際など、間違えやすく戸惑う。

一般の方ならなおさらだろう。

 できれば、使う人の目線に立って、番号を変えていただければと思うのだが。

ソフトバンクのCM

 私は断然犬派なので、ソフトバンクの携帯電話を使っていないにもかかわらず、北大路欣也さんがお父さん犬の声をあてている、ソフトバンクの連作CMは結構好きである。白い日本犬である「お父さん犬」は、どうやら北海道犬らしいが、私も昔、実家で「お父さん犬」によく似た真っ白な紀州犬を飼っていたため、非常に親近感を覚えてしまう。

 旅に出たり、いろいろあったものの、お父さん犬は、結局黒幕?の大滝秀治に目をつけられ、上手く乗せられた結果、選挙に出ることになったようだ。近々行われる参議院選をもCMの背景に取り込んでしまう広告会社のたくましい商魂には脱帽だが、悔しいことに、6月3日・7日・20日放送開始分のCMの選曲が良い。

 音楽:千住明 と表示されているだけで、曲名はCMでは分からない。

 しかし、一度聞いただけで、あっ、どこかで聞いたことあるな、格好いい曲だな、なんだっけな、という気にさせる曲だ。視聴者にそう思わせただけで、このCMに関しては、もう広告会社の勝ちだろう。大量に流されるCMの中で、視聴者の気を引き止め、興味を持たせたのだから。

 正解は、NHK大河ドラマの「風林火山」のテーマ曲だったようだ。

 誰もがみんな知っている曲を使うよりも、どこかで聞いたがすぐには思い出せない曲を使って、興味を持たせる制作会社の選曲センスに、私は素直に脱帽せざるを得ない。

ニュージーランド ドライブ事情2

 以前も一度書いたように思うが、ニュージーランドのドライブは相当ハイペースで飛ばせる。街中は50キロ制限が多いが、町の出口には堂々と100キロの道路標識が現れる。

 つまり、街中は50キロだけど、町を一歩出れば100キロで良いよ、ということらしい。ニュージーランドの南島は人口も少ないため、大体次の町まで100キロなら、1時間ちょっとで到着するとの目算が立つ。ただところどころ、75だの、55だの速度を制限する標識が突然現れることがある。急カーブがあるので、これくらいに制限せよと意味らしい。

 55と表示されているから、まあ80㎞くらいでカーブに進入しても良いかなと甘く見ると、曲がるのに、苦労することがある。日本だと、スピードを落とさせるため安全速度を殊更に低めに示すようだが、ニュージーランドではそうは問屋が卸さない。

 いろいろ試してみたが、55と書いてある場合、75キロで侵入しても結構怖い場合もある。特に慣れないレンタカーであれば注意が必要だろう。ニュージーランドの道路標識は正直だと思った方が良いようだ。

 あと特殊事情として、道路を家畜が大量に横断する場合がある。羊が延々道路を横切っていたり、牛が何頭も道路を横切るのを待たされる場合もある。大抵は、農家の方が、立って合図してくれることが多かったが、いつもそうとは限らないだろう。カーブを曲がり終えたら目の前に牛がいるというシチュエーションだって十分考えられる。

 私の場合は、鹿を右の牧場から左の山に移す場面に遭遇し、15分くらい待たされた記憶がある。農家の方はこっちを15分も待たせながら、大してすまなさそうな顔もしない。むしろ、なんでこっちが忙しいときに、この道を通るんだ、といわんばかりの態度をとっていた。おそらくこの国ではそれが普通なんだろう。

 ただ、家畜以外の障害は殆ど無い上、自動車自体少ないから、当然、みんな飛ばしている。こっちが100キロでも、追い抜かしていく車が相当ある。 そんなにすれ違うことは多くはないが、対向車だって100キロだ。事故ったら大事故は免れないだろう。その点では十分な注意が必要だ。

 道路脇に、轢かれた小動物の死体をいくつも見たが、100キロで走っているときに飛び出されても多分よけられないだろう。避けようとするとこっちが危険である。事故っても場所によっては通る車も殆ど無いし、隣町まで何十㎞もあることが普通だ。仮に町にたどり着けたとしても、その町に、医者がいる保証はない。

 まだ私は、幸いにもニュージーランドをドライブ中に小動物を轢いてしまったことはない。しかし、万一飛び出されたら、こっちの身を守るためは、「申し訳ない!ごめん!」と神に祈るくらいしかできないだろう。

 とはいえ、ニュージーランドでは、荘厳な自然が満喫できる素晴らしいドライブが可能だ。機会がある方は是非チャレンジされることをオススメしたい。

大阪の夕暮れ

 たった今、大阪の街は、実に美しい夕焼け空の下にある。

 刻々と変化するあかね色の空は、ボンヤリ見ていても、そうでなくても何となしか胸を打つ力がある。

 そういえば「星の王子様」は、一日に43回も夕焼けを見たことがあったな、と思い出したりする。

 しかし、実は、サン・テグジュペリの書いたフランス語の原稿は44回であり、英訳本は正しく44回なのに、仏語版では長らく原稿と違って43回と記載されていたという話を聞いたことがある。私の読んだ内藤訳では確か43回だったように思うので、仏語版に忠実に訳されたものだったのかもしれない。

 43回だろうが、44回だろうが大して違いがないようにも思うが、今日の夕焼け空の美しさを見ると、星の王子様が43回の夕焼けを見たあとで、なおあと1回の夕焼け空を眺めたということは、王子様が自分の心を納得させるためにどうしても必要だったに違いないと思えてくる。

 ここまで書いて、再び空を見たが、既に夕焼け空はどこかに逃げてしまったあとだった。

 何度夕焼けを見てもまた夕暮れを心ゆくまで見られる小さい星も、悪くはないな、と思った。

ゼロに近い確率

 ゼロに近い確率を表す際に、よく使われるのが、「宝くじで一等に当たる確率」という言葉だ。

 確かに、ジャンボ宝くじの1等賞の当選確率は1000万分の1だから、まず当たらない、ほぼ当たらない、確率といっても良いだろう。その意味では、「宝くじで一等に当たる確率」という表現は正しいように思う。

 ところで、1000万分の1といっても全く想像が付かない確率だ。

 それよりも、昨年の年末ジャンボでは億万長者が210人!(但し、2等を含む)と宣伝していたので、「210人も当たるなら、俺だって」と思っても、不思議ではないし、もちろん買わなきゃ当たらないので、宝くじに夢を託すのも、人間の自然な反応のようにも思う。私の父も昔、何度か、宝くじで1等が当たったら~~を買ってやる、と約束してくれたものだが、未だに実現していない。

 しかし、1000万分の1とはどれくらいの確率なのだろうか。

 ある天文学者の計算では、この1年の間に、恐竜が滅亡のした際に地球に衝突したのと同じクラスの巨大隕石が地球に衝突し、人類が滅亡する可能性は、100万分の1の確率だと、本に書かれていたのを眼にしたことがある。

 ということは、ジャンボ宝くじで1等に当選するする確率は、今年一年に隕石が地球に衝突して、人類が滅びてしまう可能性よりも、十倍ほど実現困難な確率ということになる。もちろん、ジャンボ宝くじを10枚購入すれば、当選確率は10倍に跳ね上がるが、それでも当選確率は100万分の1で、今年中に地球が滅亡するのと同じ確率にすぎないということになる。

 そうなると、ジャンボ宝くじで1等に当選する人などいないようにも思うが、現実には毎年何十人かは当選する。

 ほぼゼロに近い確率の領域では、何が起きても不思議ではないということのようだ。

ちょっと嬉しいこと

 2年ほど前に、自治体で無料法律相談をし、その後何度か事務所に法律相談に来たことのある方が、尋ねてこられた。

 法律相談の際には、その人は、ある財産犯を犯しており、発覚する寸前だった。私が調べたところ、私の持っている量刑データベースによると、同じ犯罪で同じくらいの被害額では、執行猶予になった事例はなかった。

 その人は本当に悩んでいた。自首することは非常に勇気が要ることでもある。自首せずに逃げてしまおうかと本気で考えていた。家族も、そう勧めたそうだ。

 私は、迷うことなく自首を勧めた。第一には、その人の家族や今後の生活を考えれば、間違いなくその人は社会内で更生すべきだと思われたため、執行猶予の可能性を少しでも高める方法として、自首すべきだと考えたからだった。

 もちろん、自首したからといって執行猶予が付く保証は全くなかった。しかし、そのリスクがあっても、事件関係者とその人との関係、その人のこれからの人生も考えるなら、罪は罪と認めてきちんと責任を取ることが、その人にとって最善だと判断したという面もあった。

 結局その人は、自首した。起訴された後の裁判では、私選では弁護士費用が捻出できないということだったので、国選弁護人の先生に弁護してもらったそうだ(国選弁護では弁護人を選ぶことはできないので、私が弁護することはできなかった)。

 そして、被害弁償もほぼできないというギリギリの状況下ではあったが、国選弁護人の先生の努力と、自首したことが情状面で考慮され、執行猶予をもらえたのだそうだ。

 判決を聞いた際に、体中から力が抜けたそうだ。

 「あのとき、先生(私)に相談して、自首を勧められなかったら、間違いなく実刑でした。先生の言葉がずっと心に残っていて、自首する勇気につながりました。本当に有り難うございました。」

 その人は、そう言って深々と頭を下げてくれた。

 どのように、その人を説得したのか、2年も前のことなので、私はもう覚えていなかった。 しかし、執行猶予判決を伝えるその人の顔は、心からの安堵と決意に満ちていた。

 執行猶予が付されたとはいえ、刑事責任が0であったというわけではない。また、その事件についても、他の面についても、その人には、これからやらなければならないことは多い。

 しかし、刑務所に行かなくてすんだということで、これから、皆さんにご迷惑をおかけした分、頑張って恩返ししていきたいという思いが、その人には、みなぎっていたのだ。決して平坦な道ではない、むしろ極めて厳しい道だろうが、この人なら頑張れるかもしれないと、私は思った。

 その人の人生に、ほんの僅かではあるが、お役に立てたかもしれない。そう思うと、ちょっと嬉しかった。

ネットの功罪

 私は、大学で演習を担当して4年目になるが、学生のインターネットへの依存度が年々高まっているのではないかと感じている。

 私の演習では、事前に課題を出題し、解答させて検討するというスタイルを取っているが、殆ど同じような間違いを犯した解答が連続して学生から提出されることがある。

 先日など、遺失物(落とし物)に関する出題をしたのだが、学生のほぼ7割が「遺失物は、遺失物法に定めるところに従い、広告をした後六ヶ月以内にその所有者が判明しないときはこれを取得した者がその所有権を取得する。」(民法二四〇条)と解答してきた。

 遺失物法は平成18年に改正され、遺失物に関しては広告後三ヶ月以内と期間が短縮されている。民法二四〇条にもそう書いてあるので、民法の教科書を読むか、六法で条文を参照すれば、間違いようがない問題だ。

 間違えた学生たちに、どこで調べたのか聞いてみると、ほぼ全ての学生がインターネットで調査したと返答していた。私の感触では、年々その傾向は強まりつつあるようだ。

 インターネットの情報は確かにお手軽だ。キーワードを上手く拾えば、検索エンジンを用いて容易に解答にたどり着けることもあるだろう。しかし、その情報は必ずしも正確なものではなく、過ちを含んでいる可能性がある。ネット上の情報は、コピーアンドペーストにより、ねずみ算的に増殖していくので、誤った情報の方が多くネットで流通している危険すらある。

 言い古された言葉になるが、インターネットを情報の手がかりとして利用するのは良いが、その情報に全面的に頼った場合、思わぬ痛手を被る危険があることを知って利用すべきだ。

 それでも、ネットの情報が正しいのか、教科書くらいチェックしたらどうなんだろう。

 だって、大学生なんだから。

善き羊飼いの教会

 ニュージーランドのテカポ湖の湖畔にある小さな町、テカポに、「善き羊飼いの教会」という名の小さな教会がある。

 ものの本によると、1935年に開拓民により建てられたそうで、小さく質素な教会である。ここの祭壇は特徴的で、小さな十字架の掲げられた祭壇の後ろは、ガラスになっており、湖と遠くの山脈が一望できるように作られている。

 また、テカポ湖は、氷河の溶けた水が流れ込むこともあり、非常に美しいターコイズブルーの湖水を持つ。したがって、教会内からみる祭壇は、その美しい湖水と、遠くに雪を頂く山々を、同時に十字架の背景にしているという仕組みになるのだ。

 そのこぢんまりしたかわいらしさに着目してか、日本人のカップルの結婚式も時々あるそうだ。その話を聞いて、私は、勝手に俗化された教会をイメージしていた。だから敢えて人のいなさそうな遅めの時間に教会に行ってみたのだった。

 私がわざと遅く訪れたときは、もう夕暮れ時で、教会も閉まっていた。そのため残念ながら特徴的な祭壇を教会内から見ることはかなわなかった。ただ、遅い時間に訪れたため、観光客は殆どおらず、ゆっくりと暮れていく夕陽の中で、ひっそりと湖畔に佇む小さな質素な教会を(外からだけだが)のんびりと見ることができた。

 夕陽が、誰もいない教会の窓に灯をともし、鳥たちが隊列を組んでねぐらに向かっていた。

 あたりは、ひたすら静かだった。

 俗化しているのではないかという私のありきたりな予想などとは全く関係なく、教会は、すっと背筋を伸ばし、遠くを見つめるように、そこにいた。それを見て、私は、おそらくこの教会は俗化などとは一切関係がない教会なのではないかと考えを改めた。

 教会自体は、建てられた当初から、ただ信仰のために訪れる信者の拠り所としての役目を果たしているだけであって、それ以上のものではないのだ。どれだけ観光客が訪れようが、その役目に変わりはなく、またその役目を立派に果たしていることにも変わりがない。俗化しているかどうかは結局他者から見た外部的判断であって、どんな判断をされようと、教会自体は、自らの役目をじっと、黙って果たしているし、これからも果たし続けるのだろう。

 その光景の静けさを上手くカメラに納められない自分に少しいらだちながらも、私は、75年前に建てられた、小さな湖畔の教会から、静謐だが、豊かな夕方をプレゼントしてもらったような気分になっていた。