法科大学院制度に一言

 

 法科大学院側が金科玉条の如く振り回す、司法制度委改革審議会意見書(2001年6月12日提言)の、法曹養成制度改革の箇所には、以下のように記載されている。

①「司法試験という「点」のみによる選抜ではなく、法学教育、司法試験、司法修習を有機的に連携させた「プロセス」としての法曹養成制度を新たに整備することが不可欠である。」

②「21世紀の法曹には、経済学や理数系、医学系など他の分野を学んだ者を幅広く受け入れていくことが必要である。社会人等としての経験を積んだ者を含め、多様なバックグラウンドを有する人材を多数法曹に受け入れるため、法科大学院には学部段階での専門分野を問わず広く受け入れ、また、社会人等にも広く門戸を開放する必要がある。そのため、法学部以外の学部の出身者や社会人等を一定割合以上入学させるなどの措置を講じるべきである。その割合は、入学志願者の動向等を見定めつつ、多様性の拡大を図る方向で随時見直されることが望ましい。」


 まあ要するに、①で法曹養成には法科大学院によるプロセスによる教育を実施することが不可欠だ、②で法曹の多様性を確保できるよう人材確保を図る、ということを目標にしているってわけだ。


 さて、法科大学院制度は2004年4月に設置されたが、その後20年近く経過している。
 当初68校(最終的には74校)開校された法科大学院だが、現在35校しか学生を募集していないから半分は潰れてしまったということだ。それだけでも近年希に見る大失敗事例であることは明白である。
 また、実際に司法試験受験者も激減するなか、法科大学院維持のために司法試験合格者を減らすことができないこともあって、今や司法試験も受験者平均点よりも50点以上下回っても合格できる試験になってしまった。
 このように、私から見れば、法曹の人気凋落と法曹の全体的レベルダウンに、力一杯貢献しているのが、われらが法科大学院制度である。


 この点、先日の公明新聞の記事のように、法科大学院出身の法曹は優秀であると根拠なく主張する者もいる。
 しかし司法試験合格率が、実受験者比で、予備試験組(約97.5%)に比べて法科大学院組は圧倒的に低い(約37.7%)こと、大手法律事務所が競って予備試験合格者を囲い込もうとしていること等からみても、法科大学院出身の法曹の全体的レベルが優秀だとは到底いえないことは明白である。

 ちょっと脱線したが、話を戻すと、文科省内の法科大学院等特別委員会(第108回配付資料)で、法科大学院のさらなる充実に向けての議論まとめ案が、出されている(資料3)。ちなみに、この特別委員会には弁護士の菊間千乃さんも参加されているが、「周囲の社会人法曹志願者には予備試験を勧めている」と述べた当初の勢いは何所へやら、今は法科大学院礼賛の意見がほとんどになってしまっているのが残念だ。

 さて、上記資料3は、今後の法科大学院の目標と言い換えても良いだろう。そこに大きく書かれているのは、
 ①多様なバックグラウンドを有する人材の確保
 ②プロセス改革の着実な実施、法科大学院教育の改善・充実
 なのである。

 ちょっと振り返ってみれば、この二つは、司法制度改革審議会意見書が目指した法曹養成制度の目標と変わらない。
 だとすれば、司法制度改革審議会が法科大学院制度を創設して実現しようとした目標を、法科大学院は設立後20年近くかけても、ほとんど実現出来ていないことを自白しているということになりはしないか。

 以前もブログに書いた気がするが、法科大学院等特別委員会は、受験生の予測可能性を奪うような制度をいじる提言ばかりやるのではなく、まずは、自分達が根拠なく素晴らしいと絶賛している法科大学院での、教育効果がきちんと上がっているかどうかを検証すべきだ。
 方法は簡単だ。
 法科大学院出身者の司法試験答案を読めば一目瞭然のはずだ。答案には受験番号だけで氏名の記載もないだろうし、守秘義務を課せば、なんら問題は無いだろう。
 なぜ、やらないのだ。


 売れないうなぎ屋の業務を改善をしようとする際に、まずその店で出されているうなぎの味を確認するのが最優先事項だろう。
 客層だとか、立地条件とか、調理器具とか、衛生状態の問題とか、売れまくっている競合店への非難(予備試験制度への批判)等は、自らが提供するうなぎの味が調ってから検討すべき問題であるはずだ。
 法科大学院はもう18年間も売れないうなぎ屋であることを、上記資料3で自ら明らかにしているのだから、自分の店のうなぎは美味いのだ!(法科大学院教育、プロセスによる教育は素晴らしい、法科大学院出身法曹は優秀である等)と根拠なく過信・断言することはやめ、まずは、一番大事な、うなぎの味をチェックすることからはじめるべきだ。


 司法試験採点実感では,受験生のレベルダウンが示唆され、あれだけ法科大学院が問題視していた論点ブロックカード暗記答案の続出も指摘されているのに、一流の学者たちが、そんな簡単なこともやらずに、制度面だけを議論し、予備試験を敵視しているのは、どうにも解せない。さらに、もし文科省から委員としての費用が支出されているのであれば、私に言わせれば、税金の無駄使いとしか評価できない。

受験者平均点を50点以上、下回っても合格できちゃう司法試験

今年の司法試験の結果が公表された(法務省HP参照)。
久しぶりに、現行の司法試験について思うところを述べておこうと思う。

☆司法試験の総合点の結果は以下のとおりである。

令和2年度(一昨年) 
       最高点1199.86点、最低点439.18点、
受験者平均点807.56点
合格点780点以上(平均点を約27点下回っても合格

令和3年度(昨年)
       最高点1248.38点、最低点413.66点、
受験者平均点794.07点
合格点755点以上(平均点を約39点下回っても合格

令和4年度(今年)
       最高点1287.56点、最低点464.97点、
受験者平均点802.22点
合格点750点以上(平均点を約52点下回っても合格

 このように、ここ数年、受験者平均点と最低合格点との差がどんどん広がってきている。
 合格者の数を維持しようとすれば、このように受験者の平均点から50点以上も低い得点しかできない受験生を合格させる必要が出てくることになる。

 かつての旧司法試験では、短答式試験で5~6人に1人に絞られ、短答式試験に合格した者だけで受験する論文式試験でさらに、6~7人に1人に絞られ、口述試験も課せられていた。
 そして、私の受験していた頃は、短答式試験は、ほぼ8割は得点しないと合格できなかった。
 旧司法試験時代では、受験者の平均点以下で合格できるなど、あり得ない事態であった。

 ただこのような比較を提示すると、現在の司法試験の受験者は法科大学院を経由しているため受験生の質が高いから、最終合格者のレベルには何ら問題がない、との反論が出されることがある。

 この点についての答えは簡単だ。

 現在の司法試験の短答式試験の問題は、以下の申し合わせ事項からも明らかなように、旧司法試験の短答式試験よりも簡単になっている。
 以下のとおり、法務省が、短答式試験について基礎的な問題を中心に据えて、形式的にも簡単にした問題を出題することを公表している。

「司法試験における短答式試験の出題方針について」
 ~平成24年11月16日司法試験考査委員会議申合せ事項
 司法試験の短答式による筆記試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうかを判定することを目的とするものであるが,その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わないものとする

 そしてこのように基礎的事項を中心とした簡単な形式の問題を中心にした短答式試験の結果はこうである。

令和3年度(175点満点) 受験者平均点117.3点、合格最低点99点
            (8割以上得点した者は648名)

            合格者2672名(3424名中)

令和4年度(175点満点) 受験者平均点115.7点、合格最低点96点
            (8割以上得点した者は453名)
            合格者2494名(3082名中)

 短答式試験に56.57%(R3)、54.85%(R4)の得点率で合格できてしまうのだ。そして短答式試験に合格した受験生の半分以上が最終合格する(短答式試験合格者の最終合格率R3:53.18%、R456.26%)。

 かつて現在よりも、基礎的事項だけに留まらず、複雑な形式による出題がなされていた旧司法試験の短答式試験であっても、ほぼ8割の得点が合格に必要で、更に短答式試験に合格した受験生のうち論文式試験で6~7人に絞られたことと比較して考えると、「現在の司法試験は受験生の質が高いから最終合格者の質も維持できている」と主張するなど、現実を何ら見ていない暴論であると言うほかはないと思われる。

 更に言えば、予備試験経由者の合格率である。
 令和3年度 予備試験経由者の最終合格率93.5%(実受験者比)
 令和4年度 予備試験経由者の最終合格率97.53%(実受験者比)

 そもそも予備試験は、法科大学院卒業した者と同程度の学識、応用能力、法律に関する実務の基礎的素養があるかを判定するための試験であると明記されているから(司法試験法5条1項)、当然予備試験に合格するレベルは、法務省が想定する法科大学院卒業者と同程度のレベルということになる。
 したがって、現在の司法試験では、法務省が想定する法科大学院卒業者と同レベルであるならば、約95%が合格する試験になっている。


 かつて司法制度改革審議会意見書では、
 「法科大学院では、その課程を修了した者のうち相当程度(例えば約7~8割)の者が新司法試験に合格できるよう、充実した教育を行うべきである。」
 と記載されていた。

 この内容が誤解されて、法科大学院を卒業すれば司法試験に7~8割合格できると約束したではないかなどと、マスコミや法科大学院擁護派の学者等から指摘されたこともあった。

 それはさておき、現在の司法試験制度は、法科大学院卒業レベルにあると法務省が認定した予備試験合格者が約95%合格できるレベルにあるということであり、司法制度改革審議会が想定していた、きちんと法科大学院で勉強し卒業したレベルの受験生が7~8割合格できる司法試験合格レベルよりも、合格レベルが相当下がっているということもできよう。

 誤解して欲しくはないのだが、私は司法試験に合格された方の全てがレベルダウンしていると指摘しているのではない。もちろん私なんかより優秀な方も多いだろうし、国が合格を認めたのであれば、胸を張って資格を取得し、仕事をされれば良いだけのことである。

 ただ、司法試験合格者の全体としてのレベルダウンはどうしようもなく進行していることは間違いないと思われる

 そもそも国民のための司法制度改革だったはずであり、国民の皆様に信頼出来る司法を提供するのが目的だったのではないか。

 国民の皆様に、弁護士の仕事の質の良し悪しは、なかなか理解しがたい。そうだとすればきちんと能力を持つ者に資格を与えるようにして、資格の有無でその者の仕事の質をある程度担保することは、一つの有力な方法である。

 それなのに、司法試験合格者を減少させれば法科大学院の存続に関わることから、いまの司法試験は、合格レベルを下げてでも法科大学院の利権維持のため合格者を減少できない試験制度に成り下がっているように感じられてならない。

弁護士は社会生活上の医師ではない

 よく、「弁護士は社会生活上の医師として・・・・」などと言われることがある。司法制度改革を断行してきた政府や日弁連も大好きなフレーズである。


 確かに弁護士が社会生活上の医師であって、社会生活上の問題をみんなのために解決してくれるのであれば、社会生活の健康をも守るためにも弁護士の数は多い方がいいという主張にも一理あるのかもしれない。

 しかし、「弁護士は社会生活上の医師」であるという主張に関して、私は全くナンセンスだと思っている。

 基本的に、医師の敵は病気である。

 人間にとっての共通の敵である病気を攻撃して殲滅できれば、患者にも人類にとってもプラスである。要するに、医師の病気を治癒しようとする戦い(仕事)は、病気をやっつければやっつけるだけ、賞められ、人類全体のプラスになる、絶対的正義と言って良い。

 これに対して、弁護士の敵は、基本的には依頼者の相手方である。

 弁護士が自分に弁護士費用を支払ってくれた依頼者の利益のために、相手方を攻撃して成功すれば、依頼者にとってはプラスであるが、相手方にとってはその分マイナスとなるのである。

 つまり、仮に私が、依頼者の為に裁判で奮戦して勝訴判決を得た場合、私の依頼者にとっての私は、自分の言い分をかなえてくれた救世主的弁護士である。しかしその一方、敗訴した相手方にとっての私は、自分の言い分をことごとく粉砕して被害を与えてきた悪徳弁護士に他ならない。

 ぶっちゃけて言えば、弁護士稼業は、相手方をやっつければやっつけるだけ依頼者からは喜ばれるが、相手方からは恨みを買う仕事である。

 要するに弁護士が仕事上で達成できる正義は、あくまで依頼者にとっての正義、すなわち相対的正義に過ぎないのであって、医師のように人類全体にとっての絶対的正義の実現ではない。

 このように、弁護士は基本的には、依頼者にとっての正義を追求する仕事を行うものであるから、人々の社会生活全般に利益を与える行動を取るとは限らないのであって、弁護士が社会生活上の医師と名乗ること自体おこがましいこと極まりない、と私は思っている。

 むしろ、弁護士の仕事の実態から評価すれば、「こんな日弁連に誰がした(講談社α新書)」の著者である小林正啓先生がかつて評価されたように、「弁護士は社会生活上の傭兵」であると考えた方が、よほど現状に即した評価であろうと思われる。

 仮に弁護士が社会生活上の医師であって、社会の全てにおいて絶対的正義を実現してくれる存在であれば、その数は多い方が正義が実現されて良いではないかと考えることも可能である。
 しかし、弁護士の実態が社会生活上の傭兵であり、あくまで依頼者の正義(相対的正義)しか実現できない存在であるとした場合、弁護士を増やしすぎるということは、相手方からいつ傭兵を差し向けられ攻撃されるかも分からない状況を作り出すことであり、また、仮にそうでないとしても、食うに困った傭兵どもが社会内をうろうろしている状況を作り出すことでもある。

 そのような社会を国民の皆様が望んでいるのだろうかと考えた場合、答えは否ではないかと、私は思うのだが・・・・。

弁護士の質に関する議論について雑感~3

(前回の続き)

さらに、年輩弁護士は法律を知らない、法改正にも対応しておらずレベルが低い人もいる等の、若手からの批判もあると聞く。


 これに関して本音を言えば、確かに弁護士資格取得後は、仕事に追われることもあり、司法試験受験時代のレベルでの勉強を継続できる人は、おそらく希である。また、自らが主に担当する分野の事件についてはより深く勉強するが、そうでない分野についてはさほど勉強が進んでいかないことも当然ありうる。

 したがって、弁護士になったあとは、経験は積み重ねられていくが、仕事等に追われて、多くの弁護士の勉強時間は少なくなっていく傾向が強いであろうと思われる(当然、厳しい勉強を重ねてどんどん優秀になっていく弁護士の存在を否定はしない。あくまで一般論としての私の見解である)。

 そうだとすれば、現在の若手弁護士だけが、これまでの弁護士たちと異なって特別に勉強時間を多く取って勉強を継続しているという事実があるのならいざ知らず、そうでないのであれば、現在の若手も年を経れば、現時点で批判対象としている年輩弁護士のようになっていく可能性も相当高いのだ。

 その際に、厳しい試験を通過するために相当程度の知識を得た時点(若しくは簡単になった試験でも優秀な成績で合格した時点)から知識的に劣化していくのと、簡単な試験にぎりぎり合格できるだけの知識しかない時点から劣化していく場合とでは、最終的に落ち着く先はかなり異なる可能性が高いと考えられる。

 つまり、今の若手が40年選手を笑っていても、自らが40年選手になった際には笑っていた相手よりもさらに低い高度でしか飛べていないことも、理屈上、ありうるのだ。

 また、仮に年輩弁護士の知識面に不安があると仮定しても、事件の見立て、和解のやり方など、一見分かりにくいが、経験に基づいた紛争解決能力が進化している場合も当然ありうる。


 したがって、(そもそも司法制度改革に関しては、質の問題は司法試験の合格時で判断すべきであることは既述したとおりであるが、)現時点の法的知識の比較だけで、弁護士の質の議論をすることは十分な検討にならないことはお分かり頂けるのではないだろうか。

 次に、質の議論からは少し外れるが、司法試験合格者を減員しても、弁護士数は増え続ける。

 私はよく例え話をするのだが、乗客が1万人乗っている船に1500人乗って500人が下りた場合、乗客は増えることは分かるだろう。その翌年に、乗る乗客が1000人に減っても、降りる乗客が500人であるならば、船に残った乗客数は増えるのだ。


 長らく司法試験合格者数500人時代が続いたため、法曹をやめる人の人数はしばらくは毎年500人と考えられる。したがって、司法試験合格者を1500人から1000人に減らしたところで、法曹の数は増え続けるのだ。

 それにも関わらず、なぜ、日弁連は司法試験合格者1500人を目指すように受け取られる宣言をしようとしているのか。

 私が思うに、それは法科大学院制度を維持するため(そして法科大学院支持を決めた自分達の過ちを認めたくないため)という理由に尽きるのではないだろうか。

 弁護士全体で見た場合、弁護士増加に見合うだけの仕事が増えていないことから、弁護士の収入は減少傾向が続いている。

 裁判所データブック2021によれば、全裁判所に新たに持ち込まれる事件数は、平成元年に約440万件あったが、令和2年は約336万件に減少している。1年間に裁判所に持ち込まれる事件数は30年以上経って、増えるどころか約100万件減っているのである。平成元年の弁護士数は約14000人程度、令和2年の弁護士数は約42200人(平成元年の3倍以上)である。

 確か月刊プレジデントでは、取得に時間もお金もかかり苦労する、その割には見返りが少なすぎるなどの理由で弁護士資格はブラック資格と認定されたこともあったと記憶している。

 医師会だって、無医村に医者を派遣するのは経済的に成り立つかどうかが大前提としている。これは医師も職業である以上、その収入で生活をし家族を養う必要があるので生計が成り立つことが大前提であると、当然のことを述べているに過ぎない。

 一方日弁連は、弁護士ゼロワン地区解消のため、弁護士業が経済的に成り立たない地区にでも弁護士会費を突っ込んで弁護士を派遣する等、自腹を切って弁護士過疎解消に努めている。しかしそのお金は日弁連が産み出したお金ではない。支払わなくては弁護士資格を失うため、強制的に各弁護士から徴収されている弁護士会費から支払われているのだ。要するに、蛸が自分の足を食べているのとなんら変わりはない。

 日弁連も、弁護士のための団体であるのなら、弁護士の職業としての意味を失わせないように、むしろ積極的に司法試験合格者を減少させるよう発言しても良いくらいなのだ。

 それにも関わらず、司法試験合格者をむしろ現在(1421名)よりも増やすべきといわんばかりの宣言を出そうとするのは、別の目的があるからとしか考えられない。

 そして司法試験合格者1500人以上を強力に求めてきたのは、法科大学院関係者である。1500人以下の司法試験合格者だと、法科大学院の維持が相当困難になるのだろう。日弁連執行部は、文科省と組んで法科大学院賛成の方針を採用し、半数以上は廃止され、法曹志願者を激減させるなど、大失敗に終わった法科大学院制度に関して、未だに過ちを認められずに維持するよう働きかけを継続している。

 有為の人材を法曹界に導く目的で、日弁連は法科大学院と組んで法曹志願者を増やすために、やりがいを強調するなどの宣伝活動を弁護士会費を用いて行っているようである。それでも法曹志願者の減少傾向は止まっていない。法科大学院側からは、もっと合格者を増やせば志願者も増えるはずだと、机上の空論を振り回す意見もあるようだが、完全に間違っているとしか言いようがない。

 旧司法試験は合格率が低く、2%台未満の時代もあったと思うが、志願者は(丙案導入時の受け控えを除き)一貫して増加していた。それは資格に魅力があったから、難関であっても多くの志願者を引き付けることができていたからだ。合格しやすくなれば志願者が増えるという単純なものではないのである。

 一般社会で有為の人材をヘッドハンティングしようとする場合を想定して欲しい。

 仕事のやり甲斐だけで、優秀な人材をハンティングできるだろうか。確かにやりがいも一部の理由になるかもしれないが、実際には収入や名誉や地位など現世利益(少なくとも、今後安心して食べていけるだけの収入)を提供しないと、多くの場合成功しないだろう。優秀な人ほど仕事・生活の将来性を含めてきちんと検討するからである。

 弁護士数の激増傾向は変わらない、裁判所での事件はどんどん減少していく、日本の人口も減少段階に入っている、このような状況から分析すれば、優秀な人材ほど法曹界を敬遠してもおかしくはないのだ。

 やりがいだけでは、お腹は膨れないし、将来自分の家族を養うこともできないのである。

 現在の医学部人気も、現時点では医師資格がほぼ唯一、安心して将来を設計しやすい資格であると見做されているからと考えれば合点がいく。

 だから、法曹志願者を増やすことは、実は簡単なのだ。

 (もう手遅れかもしれないが)法曹資格の魅力を上げれば良いだけである。


 そのためには、安易に法曹資格をばらまく方針をやめ、法曹人口激増にブレーキをかけ、法曹資格者がより安心して暮らせる状況を目指すことは当然の前提と言って良いだろう。


 
 これくらい、誰だって分かる話のはずだ。

 それにも関わらず、現状の分析もきっちり行わず、さらに司法試験合格者を増加させる必要があると言わんばかりの意向を表明しようとする日弁連の腹の中は、私には、なんとか法科大学院制度を守りたい(そうでないと執行部の失敗となってしまう)という一念で凝り固まっているとしか、考えられないのである。

 君子は豹変す。


 君子であればこそ、過ちがあるなら直ちに認めて正しい方向に向かって歩き出せるはずなのだ。

 日弁連執行部に君子はいないのか。

 君子がいなければ、烏合の衆と呼ばせてもらって良いのか?

(この項終わり)

弁護士の質に関する議論について雑感~2

(前回の続きです)

 こういう指摘をすると、以前コメントでも頂いたことがあるが、旧司法試験合格者が優秀だとマウントを取っているのだろうと批判される。

 しかし、私自身についていえば、旧司法試験を合格するまで時間もかかり、丙案による犠牲にもなってしまった(平成8年の論文式試験で私は0.03点差で落とされたが、私よりも成績の悪い受験生が、受験回数が3回以内という理由で200名以上も合格した)こともあり、相当苦労させられた人間でもあり、自分が優秀であるなどと思ったことはない。

 確か東大・京大出身者でも12~13人に1人くらいしか合格しなかった時代だったと思うが、参加者の多くが合格した奇跡の勉強サークル「ニワ子でドン」に参加させて頂いたときも、参加者の方々はみな若くて優秀であり、私は教えを請うことばかりだった。司法研修所でも裁判官志望の方々の自主的な勉強会に入れて頂いて、教えを請うてきた。


 ただ、私自身が、旧司法試験で1500番程度の成績しか取れなかった頃のレベル(そこから最終合格まで7年かかった。)で考えると、1500番程度の実力では実務家を名乗って弁護士バッジをつけるなど、本当に恐しくてしょうがないレベルの実力しかなかったことだけは確かである。

 現状の司法試験の合格者全体のレベル低下の危険を指摘する議論をした場合、「最近の合格者を誹謗しているのではないか、弁護士会内部を分裂させるおそれもある、むしろ弁護士になって懲戒処分を受けているのは最近の合格者ではない、質の低下は懲戒処分を多く受ける年輩弁護士の方である」との反論もある。

 しかし私は思うのだ。

 私が前回のブログで指摘した①~③の点は、私の意見の部分を除き、事実なのである。

 最近の合格者に遠慮して今起きている事実から目を背けていれば、問題が放置されたまま取り返しがつかなくなってしまうのではないかと。

 国が資格を認めたのだから、合格者の方は、胸を張っていれば良いのだ。

 しかし、若手弁護士の方も良く周囲を見直して頂きたい。ご自身が今、依頼者の人生を左右する事件を扱っている現状から考えて、受験者平均点の40点も下の得点しか取れないレベルは、法曹として十分な知識と応用能力があると本当に言いきってよいのだろうか自分が依頼するとして安心して任せられるレベルなのだろうかと。

 私の主張が仮に正しく、法曹の全体としてのレベルダウンがさらに進行する事実が生じるならば、いずれ司法に対する国民の信頼は失われ、誰も司法を当てにしなくなるだろう。

 そうなっては手遅れなのだ。

 次に、弁護士の質を懲戒事例数で判断しようとする議論については、私はこう考えている。

 そもそも、司法制度改革の基礎となったと思われる司法制度改革審議会意見書には、「大幅な合格者数増をその質を維持しつつ図ることには大きな困難が伴うこと等の問題点が認められ、その試験内容や試験方法の改善のみによってそれらの問題点を克服することには限界がある。」との記載があるように、司法制度改革では司法試験合格時点の質が問題にされている

 また、司法制度改革審議会意見書には、弁護士倫理に関して、弁護士会の果たす役割について、「弁護士会は、弁護士への社会のニーズの変化等に対応し、弁護士倫理の徹底・向上を図るため、その自律的権能を厳正に行使するとともに、弁護士倫理の在り方につき、その一層の整備等を行うべきである。」と明確に記載されており、司法試験合格者の質の議論と弁護士倫理の問題は完全に区別して論じられている。

 したがって、司法制度改革との関係では、司法試験合格時の質を問題にするのが筋なのであって、懲戒事案で質論を語るのは筋から外れている。

 また、懲戒事例は弁護士として、相当大きな失敗や不法行為・犯罪行為などが原因になることが多く、個人の資質や考え方による部分も大きいため、一般化できるものではない。

 例えば、昭和40年生まれの人がこれまで殺人罪を犯した率は○%で、平成30年生まれの人がこれまで殺人罪を犯した率は▲%で、その率は平成30年生まれの人の方が低いから、昭和40年生まれの人は殺人傾向が強いなどと断定しがたいだろう。犯罪に手を染める人は、概ね特殊な事情があったり、特殊な感情や考え方を持っているなど、一般の同世代の人と同質だと考えることはできないから、例え昭和40年生まれの犯罪者がいたとしてもその犯罪者の特性が、昭和40年生まれの人の全体の特性である、と一般化して評価して良いわけがないからである。

 弁護士にとっての懲戒事案に関しても、この犯罪率と同様に、懲戒を受けた同世代に一般化できるものではないのだ。

 加えて、懲戒事案に関して、きちんとした比較は事実上不可能なのだ。

 現在懲戒事例について、若い期の弁護士の方が少なかったとしても、若い期の弁護士がさらに経験を積んだ20年後に、同様に懲戒事例の比率が少ないとは誰にも断定はできない。

 条件を揃えるなら、司法修習50期の弁護士が20年間のうち何件懲戒処分を受けたのかという割合と、司法修習60期の弁護士が20年間のうち何件懲戒処分を受けたのかという割合を比較しなければならないだろう。司法修習50期の弁護士が弁護士になってから23年間での懲戒を受けた割合と、司法修習60期の弁護士が13年間での懲戒を受けた割合を比較するわけにはいかない。前提条件が余りにも異なるからだ。

 仮に20年期間で比較できるとしても、その20年間は同じ20年間ではない。弁護士にとって過ごしやすい20年なのか、厳しい20年なのかによっても結論は大きく変わる可能性があるだろう。

 それなら、この1年間に懲戒を受けた数なら関係ないのではないかとの反論もあるだろうが、それは懲戒を受けた弁護士の置かれた状況や過ごしてきた環境が余りにも異なるからやはり、同じ条件での比較ができないため、適切な比較は不可能であると私は考えている。

 以上から、司法制度改革に関して言えば、懲戒事例を基にした弁護士の質論については、私は全くナンセンスだと思っている。

(続く)

弁護士の質に関する議論について雑感~1

 現在日弁連は、法曹人口政策に関する当面の対処方針案について各単位会に意見照会をかけている。
 日弁連の対処方針案には、司法試験合格者の更なる減員を求める状況にはないとの趣旨の記載があるそうだ。
 現状、閣議決定で司法試験合格者1500人程度を目指すことになっているが、令和3年度司法試験合格者は1421名と目標より大幅に減少した人数しか合格していない。この状況下で、更なる減員を求める状況にないとの意見を日弁連が出せば、日弁連は司法試験合格者1500人維持を主張していると受け取られることはほぼ間違いないだろう。

 私は従前、合格者が1421名に留まったのは、司法試験の合格が簡単になっていることから、どんなに合格レベルを落としてもこれ以上レベルの低い受験者を合格させるわけにはいかないと司法試験委員会が判断したからではないかとの意見をブログに記載し、その意見は未だ変わっていない。

 この点、日弁連の委員会は、弁護士の質の議論については客観的な証拠が見当たらない等の理由でまともに議論していないようだが、私はこれまで述べてきたように、


①短答式試験が基礎的問題に限定され簡単になっていること(法務省が発表している)、

②簡単になった短答式試験での令和3年度の合格最低点は56.7%であり、受験者平均点の約18点下でも合格できること(これに対し旧司法試験では基礎的問題に限定されていなかった短答式試験でありながら、最低合格者の得点率は概ね80~75%であり、合格率は20~25%にすぎなかった)、

③令和3年度の短答式試験合格者のうち、53.2%の者が最終合格し、受験者平均点よりも40点も低い者でも合格していること(旧司法試験では、基礎的問題に限定されていなかった短答式試験を75~80%の得点率で合格してきた者の中から、さらに6~7人に1人に絞られ、口述試験も課せられた。)、
などから、もちろん優秀な合格者の存在は否定しないが、全体として見た場合の司法試験合格者のレベルは相当落ちてしまっている可能性を否定できないと考えている。

 司法試験採点実感については、旧司法試験時代はそのような実感は公表されていなかったが、新司法試験制度になってから公表され始めている。読んで頂ければ分かるが、その内容は年を追うごとに、ひどい内容が報告されるようになってきている。この点からも司法試験受験生の全体的レベルのダウンは一目瞭然である。


 確か、何年か前に民事系の採点実感で司法試験に合格したからといって優秀だと思わず、ちゃんと勉強するようにと釘を刺す趣旨の実感もあったはずだ。

 さらに、令和2年度の採点実感に至っては、
 営業の自由を精神的自由そのものと記載するトンデモ当案(こんなの大学2年生でも間違わない内容である。)や、
 「今回の答案の全体的傾向は、法律家としての思考が表現されている答案が少なかったことにある」(公法系第2問~法律家の思考が表現されていない答案が多数を占める中、半分以上を合格させてよいのか疑問)、
「500万円の返還を免れたことが昏睡強盗罪の客体にあたるとして同罪の成立を認め、「2項昏酔強盗殺人」という犯罪が成立するとした答案もあった。」(刑事系第1問~ちなみに昏酔強盗の客体は条文上、財物に限られており財産上の利益は含まれていないので、法律上存在しない犯罪を受験生が勝手に創り出して認定していることになる。)
 など、これまでの採点実感では指摘されていなかったレベルダウンの実例があれこれ指摘されるようになってきている。司法試験採点者の危機感が滲み出ていると言わざるを得ないだろう。

(続く)

お詫びと訂正

 10月1日、2日に掲載したブログ記事の中で、司法試験短答式試験問題「憲法第1問」を引用しておりますが、平成8年度の短答式試験として紹介した問題は、平成9年度の短答式試験の第1問であり、引用に間違いがございました。

 お詫びして訂正致します。

ちなみに、平成8年度短答式試験問題「憲法第1問」は以下のとおりです。

[ 憲法]
〔No. 1〕次の文章中の〔 〕内に,後記AからHまでの語句の中から適切な語句を挿入して文章を完成させた場合,〔 〕のうちの①ないし③に順次挿入する語句の組合せとして正しいものは,後記1から5までのうちどれか。


「近代憲法の最も重要な特質は,内容的には自由の基礎法であること,法的性格としては国の最高法規であることに存する。自由は,〔 〕の根本的な目的であり価値である。そして,近代憲法は,何よりもまず,この自由の法秩序である。ただ単に国の最高法規であるという点に本質が存するのではない。
自由の本質は〔 〕であることに存するが,自由の基礎法であるという憲法の本質は,権力の究極の権威ないし権力が国民に存し,したがって国民の国政に対する積極的な参加すなわち〔 〕が確立されている体制において,初めて現実化する。
国民が権力の支配から自由であり得るためには,統治の客体の地位にあった国民自らが,能動的に統治に参加することを必要とするからである。〔 〕は〔① 〕を伴わなければならないのである。このようにして,〔 〕は〔 〕と結合する。この自由と民主の不可分性は,まさに近代憲法の発展と進化を支配する原則といってよい。
〔 〕にいう自由は,20世紀になって,さらに,〔② 〕をも含むように拡大された。人間に恐怖からの自由と〔 〕を付与し,人間としての十分な人格の発展を妨げる制約及び抑圧から人間を解放する新しい自由は,旧来の自由と全く異なるが,にもかかわらず,人間として万人のために当然要求される。このように考えると,〔③ 〕は,〔 〕のみならず,さらに,〔 〕とも結びつく。」


A 民主主義 B 社会国家の原理 C 立憲主義 D 欠乏からの自由
E 権力への自由 F 国家への自由 G 権力からの自由
H 権力による自由

1.G-E-C  2.E-H-A  3.H-E-A
4.G-H-B  5.E-H-C

この問題も、憲法に関連する概念についてしっかりとした知識を基礎にし、良く考えて判断しなければ正解に到達できない問題であり、単なる知識だけ(または常識論だけ)で解答可能だった、令和3年度の司法試験短答式試験問題「憲法第1問」よりも、難易度が相当高いことはお分かりだろう。

以上からすれば、

【旧司法試験時代】

 難易度の高い問題が短答式試験で出されており、その試験で75~80%の得点を獲得した4~5人に1人しか短答式試験に合格できなかった。

短答式試験合格者だけで論文試験が実施され、6~7人に1人しか論文式試験に合格できなかった。

【現行司法試験時代(令和3年度)】

 難易度が落とされた(簡単になった)短答式試験が出題され、56.7%の得点(平均点より約18点も下)で合格できる。

 短答式試験合格者だけで論文試験が採点され、短答式試験合格者の2人に1人以上(平均点よりも約40点低くても)が合格できる。

 

 以上の比較からすれば、いくら受験生の多くが法科大学院を卒業しているといっても、合格者全体のレベルは下がっていて当然だろう。

 受験生のレベルが上がっているから、司法試験合格者のレベルも決して低くなっていないはずだとの意見は、上記の試験の状況から考察すれば、現実を見ようとしない極めてお気楽な考えであると言わざるを得ない、と私には思われるのだが。

令和3年度 司法試験合格者決定についての雑感~2

(続き)

 平成89年度の憲法第1問は、平等原理について述べた論文を用いて平等について考えさせる内容の問題であり、きちんと自らの憲法に関する知識を下に論文の内容を把握し、しっかり考えて適切な内容の言葉を当てはめていかないと、答えが出せない(しかも空欄が12であるのに、空欄の候補は15挙げられており、本当に適切な言葉を選択しないと正解に到達できない。)。

 これに対し、令和3年度の憲法第1問は、選択肢だけ見れば数が多くて解答しにくいようにも見えるが、要するに最高裁判例の動向を知っていさえすれば解答が可能である。つまり、最高裁判例の結論の暗記ができてさえいれば解答可能であり、思考力は不要である。

 そればかりか、実際の権利制約が最高裁判例に反して行われているはずがないから、実際の権利制約について常識的に考えればそれだけで解答可能だ。

 例えばアについては、逮捕・勾留という制度があり、身柄拘束された者は留置場や拘置所等に入ることは常識である。そして、そこで身柄拘束された者が自由自在に行動できるはずがない。このことは常識としてすぐに分かる。
 イについても、一般社会でも喫煙可能な場所は限定されてきているのだし、特に刑務所ともなれば喫煙の自由がないだろうということは常識的にも判断可能である。
 ウについては、裁判官に中立・公正な裁判が強く期待されると書いておきながら、一般公務員より政治的行為の禁止要請は低い、と選択肢自体が矛盾している内容ともいえ、常識で誤りと判断可能である。

 このように、短答式試験は旧司法試験時代と比較して相当簡単になっているのである。

 旧司法試験時代は、現在より難しい内容の短答式試験であったにも関わらず、短答式試験の合格点は概ね75~80%であり、4~5人に1人しか合格しなかった。そして短答式試験に合格した者だけで争う論文式試験でさらに6~7人に1人に絞られたのである。

 ところが、問題が簡単になっていながら、令和3年の短答式試験は得点率56.7%でも合格できる。受験者平均点よりも18点少なくても合格するのだ。確かに論文式試験と引き続いて実施されるという不利な状況もあるが、問題が簡単になっており、実務家を目指す以上、やはり7.5~8割は得点しておいてもらいたいところだ。

 そして、令和3年度、短答式試験の合格者2672人中、最終合格したのは1421名である。短答式試験合格者だけで見た最終合格率は53.2%である。上記のように問題自体が簡単になり、しかも平均点を大幅に下回っても合格できる短答式試験を通過できれば、2人に1人以上が司法試験に最終合格できてしまうのである。

 最終合格者の総合点での合格最低点は755点(法務省発表)である。これだけ見ればフ~ンと思われるだけかもしれないが、受験者全員の総合点の平均点は794.07点(法務省発表)であることを知れば、事態の重大さがお分かりになると思う。

 要するに、総合点で受験生平均点を約40点下回っている受験生も最終合格しているのである。

 1421人以上合格させるとなれば、さらにレベルの低い受験生を合格させなければならない。

 いくら閣議決定があろうと、閣議決定が法律に優先することはできない。司法試験法1条からすれば、本来もっと合格者が少なくてもおかしくはないと私は思っている。

(この項終わり)

令和3年度 司法試験合格者決定についての雑感~1

 令和3年度司法試験の最終合格者は1421名だった。

 内閣が閣議決定で合格者1500名程度を指摘していたにもかかわらず、1421名の合格者に留まったのは、どれだけ合格レベルを落として甘くしても1421名を合格させるのが精一杯であり、受験生の答案のレベルから見れば、とてもではないが1500名も合格させることはできないと判断した、というのがおそらく真実だろうと思われる。

 司法試験法1条1項には、「司法試験は、裁判官、検察官又は弁護士となろうとする者に必要な学識及びその応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする国家試験とする。」と明記されていることから、いくら閣議決定で1500名程度の合格を期待されていても、司法試験委員会は上記の司法試験の目的に鑑み、1421名しか合格させることができなかったのだろう。

 まずは短答式試験から見てみる。

 短答式試験の受験者数     3424名
 短答式試験合格者       2272名
 短答式試験平均点       117.3点(175点満点)
 短答式試験合格最低点      99点(法務省発表より)

 法科大学院ルートの受験生数 3024名 合格者数2272名(合格率75.1%)
 予備試験ルートの受験生数   400名 合格者数400名(合格率100%)

 そもそも、受験者の平均点よりも18点も得点が低くても合格できてしまう試験がどれほどの選別能力を持っているか疑問であるが、なんと予備試験ルートの受験生の短答式合格率は100%なのである。

 予備試験は、法科大学院の過程を終了した者と同等の学識及びその応用能力並びに法律に関する実務の基礎的素養を有するかどうかを判定することを目的としている(司法試験法5条1項)。したがって、予備試験の合格者は、法務省が想定する法科大学院卒業レベルの実力をもつ者である。

 そうだとすれば、予備試験ルートの受験生と法科大学院卒業ルートの受験生の司法試験短答式合格率は近似していなければおかしい。
 ところが、予備試験ルートの受験生が400名全員合格する短答式試験で、法科大学院ルートの受験生は25%も落ちるのである。

 この事実一つから見ても、法科大学院が厳格な修了認定を行っていないことが丸わかりである。

 また、以前もブログで指摘しているが、司法試験考査委員会は、短答式試験について、平成25年から

「その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わない」

との申し合わせ事項を公表し、短答式試験を基礎的問題に限定する、要するに簡単にすると明言している。

 この点、受験生のレベルが上がっているから、司法試験短答式合格者のレベルも決して低くなっていないはずだとの意見もあるが、残念ながら私はそうは思わない。

 法務省HPで入手可能な最も古い平成8年平成9年(旧)司法試験短答式問題と令和3年の司法試験短答式問題を比較してみよう。

平成89年度 司法試験短答式問題
憲法
(坂野注:配点は1点。憲民刑で各20問(合計60問)出題される。)

〔No. 1〕次の文章は,平等原理について論じたものであるが,( A )から( L )に下記のアからタまでの語句を挿入した場合,後記1から5までのうちで正しい組合せとなっているものはどれか。

 「自由と( A )に示される自由放任政策は,19世紀において,社会経済生活における自由競争を力づけ,資本主義の発展と高度化を促したが,他方,富の偏在,( B )などの重大な社会問題を引き起こした。「すべての者に等しく自由を」という市民国家の権利保障は,各人の事実上の不平等を問題にしなかった。( C )は,権利主体や当事者の経済的・社会的地位を考慮しない抽象的普遍性の外観のもとで,現実には,資本制社会の矛盾を激化させたのである。市民社会がその矛盾を自ら克服することができない状態は,市民社会が自律性を失ったことを意味し,その存立と補強のための国家の介入が必要となったことを意味する。( D )ではなく,生存に対する脅威から個人を解放し,人間に値する生活を各人に保障することが国家の任務となった。市民法の体系からはみだす( E )が形成せられ,所有権の絶対性と契約の自由の制限を手段とする( F )へと国家機能の転換がみられるのである。20世紀の憲法に登場する( G )と一連の( H )はこのような事情を基本権の内容に反映させるものである。平等の観点からみた場合,この国家機能の変化は,平等の意味を形式的なものから実質的なものへと転換させることを意味し,( I )の理念を思想的根拠としている。
 平等は,はじめは自由主義の原理であったが,ついで( J )の原理になる。国民主権の下においては,法律は国民全体の意思の表現であり,国民の自治が実現するのであるが,国民の平等な政治参加がその前提条件となる。政治の領域における平等も,( K )を排除したほかは,市民の立場からみた国家に対する貢献の資格と能力に応じた相対的な意味のものであった。財産・性別等を理由とする( L )から出発したのはそのためである。しかし,政治の領域においても,各市民を正当に遇するために必要と考えられてきた伝統的な区別の要素が,国民の政治的統合にとり本質的なものでないことが明らかになり,政治的権利の絶対的平等化が志向されるに至った。19世紀後半から20世紀初頭にかけて進行する普通選挙,婦人参政,選挙年齢の引き下げは,徹底した平等主義の方向を歩んでいる。」


ア 労働者の有産階級化  イ 労働立法や経済統制立法 ウ 国家権力による解放  
エ 財産権の相対化    オ 財産の不可侵      カ 労働者の貧困,失業
キ 民主主義 ク 国家権力からの解放  ケ 社会国家ないし福祉国家  コ 社会的基本権
サ 配分的正義 シ 資本主義社会  ス 封建的特権  セ 不平等・制限選挙
ソ 所有権の自由と契約の自由 タ 平均的正義

1.(A)オ,(D)ウ,(F)ケ,(I)タ,(K)ス
2.(B)カ,(E)イ,(G)ア,(J)シ,(L)セ
3.(A)オ,(C)ソ,(F)ケ,(H)コ,(K)ス
4.(B)カ,(D)ウ,(G)ア,(I)サ,(L)セ
5.(A)オ,(C)ソ,(E)イ,(H)コ,(J)シ

※10月7日訂正後記 大変申し訳ありません。これは平成9年の短答式試験問題憲法第1問でした。お詫びして訂正致します。

令和3年度 司法試験短答式問題
憲法

[憲法] 〔第1問〕 (配点:2)
 公務員や未決拘禁者など,公権力との関係で特別な法律関係にある者の権利制約に関する次のアからウまでの各記述について,最高裁判所の判例の趣旨に照らして,正しいものには○,誤っているものには×を付した場合の組合せを,後記1から8までの中から選びなさい。(解答欄は,[No.1])

ア.多数の被拘禁者を外部から隔離して収容する施設では,施設内でこれらの者を集団として管理するに当たり,内部の規律及び秩序を維持し,その正常な状態を保持する必要があるから,この目的のため必要がある場合には,未決拘禁者についても,身体の自由やその他の行為の自由に一定の制限が加えられることはやむを得ない。
イ.刑事収容施設内において喫煙を許すことにより,罪証隠滅のおそれがあり,また火災発生により被拘禁者の逃走や人道上の重大事態の発生も予想される一方,たばこは生活必需品とまではいえず嗜好品にすぎないことからすれば,喫煙の自由が憲法の保障する人権に含まれるとしても,制限の必要性の程度と制限される基本的人権の内容,これに加えられる具体的制限の態様とを総合的に考慮すると,施設内における喫煙禁止は必要かつ合理的なものといえる。
ウ.職権行使の独立が保障され,単独で又は合議体の一員として司法権を行使する主体として,国に対する訴訟を含めて中立・公正な立場から裁判を行うことが強く期待される裁判官に対する政治運動禁止の要請は,議会制民主主義の政治過程を経て決定された政策を,政治的偏向を排し組織の一員として忠実に遂行すべき立場にある一般職の国家公務員に対する政治的行為の禁止の要請ほどには強くないというべきである。
1.ア○ イ○ ウ○  2.ア○ イ○ ウ×  3.ア○ イ× ウ○
4.ア○ イ× ウ×  5.ア× イ○ ウ○  6.ア× イ○ ウ×
7.ア× イ× ウ○  8.ア× イ× ウ×

(続く)

令和2年司法試験の採点実感~公法系第2問から

 公法系第1問(憲法)でも相当恐ろしい答案が続出していたようだが、公法系第2問(行政法)は、なお恐ろしい答案が続出していたようであるのでいくつか引用する。

・法律や判例等に関する知識以前の基本的な用語について理解していない答案,不作為の違法確認訴訟の本案審理の内容が何かを理解していない答案,政省令を裁量基準(法的拘束力を有しない裁量基準)と誤解している答案,運用指針が法令であると誤解している答案などが多く見られた。これらは,司法試験を受験する上で最低限理解しておくべき行政法の常識的な知識ともいうべきものである。

・例年のことではあるが,問題文中に書かれている指示に従って一つ一つ議論を積み重ねることのできた答案は極めて少なかった。このことは,型どおりの解答はできるが,それ以上に問題に即した事案を分析することを苦手とし,問われたことに柔軟に対応する力が欠けている受験生が多いことを示しているのではないかと考えられた。

・問題文や会議録には解答のヒントや誘導が盛り込まれており,これらを丁寧に読むことは,解答の必要条件である。それにもかかわらず,問題文の事実や指示を読んでいないか,あるいは事案等を正確に理解せず,問題文が何を要求しているかについての論理的な理解が甘いまま解答しているのではないかと思われる答案が多く見られた。問題文をきちんと読んで,何を論じ,解答すべきかを把握した上で答案を作成することは,試験対策ということを超えて法律家としての必須の素質でもあることを認識してほしい。

・自己が採る結論をなぜ導けるのかということを説得的に記載することが最も大切であるのに,問題文中の事実を指摘しただけで,さしたる根拠も論理もなく突如として結論が現れる答案が多く見られた。

・本年度は,解答が終了していないいわゆる途中答案がかなり見られ,特に,設問2については,ほとんど解答がされていないものや,全く解答がないものが少なくなかった。

・処分性の判定に当たり,公権力性の有無に一切言及しない,また,公権力性の有無について係争行為を行った主体が「国又は公共団体」であるか否かで判断するなど,基本概念の理解ないし用法が十分ではない答案が多かった。

・少なくとも主要な判例について,その内容を正確に理解することは行政法の学習においては重要であり,基本的な学習が不十分ではないかと考えられる。

・成熟性についてはそもそも論点として検討すること自体していない答案が多く,問題文を読んでいるのか疑問があった。

・条文を引用し,問題文の事案を丁寧に拾って要件への当てはめをするという形式的なことができていない答案が多かった。

・会議録にある「本件農地についての別の処分を申請して,その拒否処分に対して取消訴訟を提起する」という会話文中の「別の処分」が何なのかを考えずにそのまま書き写しているだけの答案や,同じく(中略)会話文を書き写し,法令のどの要件との関係が問題になるかを示すことなく,「したがって考慮不尽に当たる」といった結論めいたことを書いている答案など,会話文が持つ法的含意を余り考えない安易な答案も数多くあった。

・多くの答案が裁量権濫用の問題として捉えており,このために判断のポイントを十分に押さえきれていない論述となっていた。条文をよく読んだ上で論理的に考えれば,裁量権濫用の問題でないことは分かるはずであり,問題の論理的構造を把握する能力が不足していると言わざるを得ない。

さらに採点実感は次のような内容を法科大学院教育に要望している(一部抜粋)。

・ 単に判例の知識を詰め込むような知識偏重の教育は必要ないであろうが,主要な判例については,当該判例の内容や射程についての理解を正確に身に付けることは重要と思われる。


・ 実体的な違法性の検討においては,多くの答案は裁量論に(のみ)重点を置いており,多くの受験生にとっては,個別法に沿った解釈論を組み立てる能力の涵養について,手薄となっているように思われる。(中略)法科大学院においては,このような分野についてもトレーニングが行われる必要があると考えられる。

・ 法科大学院には,基礎知識をおろそかにしない教育,事実を規範に丁寧に当てはめ,それを的確に表現する能力を養う教育を期待したい。

・ これまでも繰り返し言われていることだろうが,行政法の基本的な概念・仕組みと重要な最高裁判例の内容・射程を確実に理解した上で,それらの知識を前提にして,事例問題の演習を行うことが求められるように思われる。事例問題の演習においては,条文をきちんと読み,問題文の中から関係する事実を拾い出して,それを条文に当てはめたり法的に評価したりする作業を丁寧に行うことなどを意識すべきだろう。

・ 法曹実務家は現実の紛争解決に有効な法理論を身に付けることが求められる。(中略)そのためには基本的な法理論を土台ないし根本から深く理解することが重要であり,「応用力」というのはその発現形態にすぎない。すなわち法理の基本に立ち返って深く掘り下げることができるような思考力を涵養することが,真の応用力を身に付ける早道と思うので,そのような観点からの教育を期待したい。

・ 今回の答案の全体的な傾向は,法律家としての思考が表現されている答案が少なかったことにあるように思う。生の事実をただ拾うのではなく,それが法的にどのような意味を持つのか,どの法令のどの文言との関係で問題となるのかなどについて,考え,表現する癖を付ける教育が望まれる。

・ 設問への解答において行政裁量を論じる必要があるか否かをよく考えずに裁量の有無,裁量の逸脱・濫用を検討する答案が目立った。本案における行政処分の適法性の検討においては事案のいかんを問わずとにかく行政裁量を論じれば良いと考えているのではないかと疑われる答案が,全体としては優秀な答案の中にも少なからず見られ,事案を具体的に検討することなく,裁量の有無,裁量の逸脱・濫用に関する一般論の展開に終始する答案も少なくないなど,行政裁量の問題が飽くまでも法律解釈の問題の一部であるという基本的な事柄が理解されていないと実感した。行政裁量に関する基本的な学習に問題があることが,このような設問によって逆に明らかになったように思われるが,これまでの行政法総論の学習,教育の在り方全体を見直す必要があるのではないかという気がした。