ロースクール授業参観記~その5

ここからの、教員と院生の質疑応答は、S弁護士がメモを取り損ねた部分でもあり、S弁護士の記憶の限りでの再現にすぎないものであって、この法科大学院での質疑応答の現実が、S弁護士の記憶に基づく記述と全く同じであるという保証はまるで無い、ということを前提にお読み下さい。

教員が院生に質問する。
「株式会社で、取締役を選任するのはどこ?」

ボクシングでいえばジャブにもならない、基本中の基本の質問だ。イロハのイ以前の問題だ。法律の条文(会社法329条1項)にも明記されているし、神田秀樹会社法第14版p27には、「株式会社の特質」という株式会社の概観部分にも「日本の現行法は、株式会社については、出資者(株主)が選任した取締役が取締役会を構成し、そこで経営上の意思決定を行うこととし、その執行は取締役会が選定する代表取締役が行うという姿を典型としている(ただし、第6節で口述するように他の期間設計も認められる)。」と、明確に記されている。

なるほど、弁護士が参観している状況下での、緊張を、超基本的な質問にあっさり答えさせることよって、ほぐそうという狙いなのか・・・・・。緊張をほぐしてそれから、本質の問題に移っていくんだな・・・・・。
S弁護士は、教員の温かい配慮に少し感動を覚えかけた。

しかし、院生は首をひねって沈黙したままだ。かといって六法をめくるそぶりもない。六法に書かれている条文、特に基本条文は実務家必須だ。基本条文については覚えているくらい勉強していて当たり前なのだ。
かつてS弁護士が司法試験の口述式を受験したときにも、司法試験用六法が机におかれているのに、基本条文について確認しようとしても、試験官は参照を許してくれなかったぞ。
逆にいえば、実務では条文の知識は当たり前だが、司法試験(短答式を除く)であっても、条文は受験生の最大の武器なのだ。全ての出発点は条文なんだから。
まさか六法の引き方も知らないで、法科大学院で半年も過ごしてきたはずはないだろうが、どうして六法を引いてでも一生懸命答えようとしないのか。

まさか六法不要の授業ではあるまい。ただでさえ、条文のややこしい読み方が含まれる会社法だ。六法を引き倒すくらい引きまくってもおかしくはない科目のはずだ。
六法を引くのは簡単だ。条文を覚えていればその箇所を引けば良いだけだし、大体330条前後と覚えていればその近辺を探せばよい。
そこまで覚えていなくても、会社法の目次をみれば、第2編株式会社で、第1章は設立、第2章は株式、第3章は新株予約権だから関係ないとして、第4章「機関」の辺りにあることは分かるはずだ。仮に万一、取締役が会社の機関であることも知らずに授業を受けていたのでは、講義は「お経」同然、何ひとつ理解できているはずがないだろう。

第4章「機関」の中を見れば、第3節に「役員及び会計監査人の選任及び解任」と目指すべき条文の位置を示唆する文言がちゃんとでている。そこを引けば、役員(取締役)の選任について書かれた条文があるはずなのだ。

教員は少し笑みを浮かべながら、「緊張しちゃって、忘れちゃったかな?」などと優しく聞いてあげているが、この質問に即答できない時点で、他の院生はともかく、少なくともこの法科大学院生が会社法の基本が全く分かっていないことが丸わかりだ。例え、初学者が半年勉強したに過ぎないとしても基本構造も分からずに、細かい制度が理解できるとは思えない。

そもそも、会社法を含む商法は、民法の特別法だ。一般法である民法を理解した上で、特別法の商法を勉強するのが筋だろうが、実は民法自体、膨大な量がある。初学者が民法を半年勉強しただけで、おおよその理解ができるとも思えない。民法も理解できない段階で会社法の理解が進むとは到底思えない。因数分解も分からない中学生に微積分を教えようといったって、不可能であることは当然だ。

となれば、そもそも未修者を1年で既習者入学レベルまで引き上げることを前提にした法科大学院システム自体が、制度設計として間違っていた可能性がある。

エライ大学教授の先生方は、法科大学院制度を設計する際、私が教えれば初学者でも1年間で法学部4年分の教育ができる!と信じていたのかもしれないが、実際には極めて優秀な学生をそろえでもしない限りそのような夢物語は、実現不可能なのだ。

S弁護士は、ガンダムで出てきたシャア・アズナブルの語った「ガルマ、聞こえていたら自分の運命を呪うがいい。君はよい友人であったが、君の父上がいけないのだよ」というセリフを思い出していた。

何故かS弁護士には、シャアがこう語ったように思えた。
「質問された君、聞こえていたら自分の運命を呪うがいい。君はよい法曹志願者であったが、法科大学院制度がいけないのだよ」

(続く)

ロースクール授業参観記~その4

だって、レジュメ棒読みなら基本書を読んだ方が早いのだ。

会社法の定める制度を表面的に紹介するだけなら、高校生にだって、S弁護士にだって簡単にできてしまう。基本書を棒読みすれば良いだけだからだ。

基本書を教科書としたうえで、さらに講義に意味があるとすれば、基本書にさらっと平板に書いてあることを立体的に、分かりやすく、理解しやすく説明することではないのか。そのためには、何故その制度がおかれているのかという制度趣旨からはじまって、その制度の問題点、問題点の解決に至る過程、さらに未解決の問題があればその問題点がどうして未解決なのか、という点まで、分かりやすく説明がなされていなければならないように思う。

特に法科大学院がお題目のように主張する、「理論と実務の架橋」を目指すのであれば、少なくとも、その制度が具体的にはどのように実務で生かされ、どのような問題点が生じ、どうやってその解決を目指しているのかまで、判例などを題材にして説明しなければおかしい。
単に会社法に規定された制度を示して、こういう制度がある、という説明だけでは、何の理解も進まないだろうし、『「理論と実務の架橋」なんて、どの口が言った!』といわれてもしょうがないだろう。

残念ながら、この授業の講義部分には、その点が決定的に欠けているように思えた。

だが、理論と実務の架橋が崩れ去っているとしても、まだまだ決断を下すのは早い。なんと言っても、法科大学院の目玉はもう一つある。少人数双方向性授業だ。なんでもソクラテスメソッドとか言って、教員と生徒のやりとりで生徒の理解を深める方法らしい。S弁護士としては、ハーバード白熱教室のサンデル教授ばりに熱い議論がなされることを期待した。

以前、法科大学院の実務家教員の方に、ソクラテスメソッドの利点を聞いてみたところ、「生徒が眠ることを防止し、講義に緊張感を持たせるメリットがある」と聞いたことがあるが、S弁護士は信じなかった(ホントは信じたけど)。
そもそも、眠気防止なわけないだろ。だって、素晴らしい法科大学院の理念に沿った双方向性授業が単なる眠気防止の意味しかないなんて、多額の血税を法科大学院制度に投入させられている国民を、あまりにも馬鹿にしているじゃないか。

いかなる理由があっても、そんなことがあって良いはずがないのである。

ところが、なかなかその双方向性授業とやらは始まらない。延々と教員による会社法の制度の表面的解説が続いていく。

会社法353条(株式会社と取締役との間の訴えにおける会社の代表)の解説も、こういう場合は利益相反でまずいから、という説明しかなされない。何故利益相反なのか、利益相反だと何故まずいのか、という点について、具体的な説明が一切ないのだ。大学院生が理解しているので、説明を省いているのならそれはそれで構わない。もちろん膨大な会社法を1年で全範囲教えきるのは難しいはずだからだ。

大学院生達は、黙々とノートを取ったりしている。理解しているのかどうか分からない。353条の解説場面で、「利益相反だと、具体的にどのような不都合が出るのか」という質問が出ることもない。

この法科大学院は、2009年に不適合判定を食らったものの、その後3年は経過しているし、きちんと運営できているから、現在ではもちろん法科大学院としては適合しているはずだ。

ただし、適合不適合は、授業内容には及んでいないと聞いたことがある。
S弁護士から見れば、法科大学院はどれだけ優秀な法曹を生み出すかが至上命題だから、授業内容が優れていなければ全く意味がないと思うし、評価の対象として授業内容が含まれていないなどという馬鹿な話はないと思うのだが、現実はどうも違うらしい。

そのようなことを漠然と考えながら授業を参観していたところ、ようやく、教員が、学生に質問をし始めた。弁護士が授業参観していることもあってか、緊張気味の学生に、S弁護士は心の中で声をかける。

当たらなければ、どうということはない!

(続く)

ロースクール授業参観記~その3

皆さんご存じの通り、法科大学院側は、素晴らしい理念に基づいた素晴らしい教育を行い、厳格な修了認定を行っていると、これまで明言してきた。

S弁護士も大学法学部を卒業した身であり、大学にはそんなこと到底無理だと思っている一方で、(そのほとんどが法科大学院関係者であったり、法科大学院推進派であった方々ではあるが)法科大学院は素晴らしいと仰る弁護士の先生もいらっしゃるので、心の片隅で、自分の考えが誤っていたらどうしようという不安もないではなかった。

だから、今回は、プロセスによる教育の、お手並み拝見だ。

さて、見せてもらおうか、ロースクール理念の神髄とやらを!

威勢の良いかけ声とは裏腹に、S弁護士の座る席の机の上には、はるばる事務所から持参してきた神田秀樹教授の「会社法」(弘文堂)最新版がおいてある。授業の正確性や分かり易さなどを比較しようという目的もあるが、万一、教員から当てられたときに変な答えをしないためというちょっとした自己防御目的もあったのかもしれない。

せっかくもらったパワーポイントのレジュメと、スクリーンに映し出されている映像が一致していることがすこし気になる。レジュメを配布しているのであればわざわざ同じ内容をスクリーンに映す必要ないじゃないか。スクリーンに映すなら、具体的事例とか、設問とかなら、分かるんだがなぁ。

一抹の不安をS弁護士は抱えながらも、とにかく授業は開始された。

ご存じの通り、会社法には様々な制度が規定されており、会社の基本構造を学んだ後は、そのような制度への理解を深めていく必要がある。特に初学者には会社の基本構造は大事なところだ。

教員の説明は、この制度がある、という点に関しては、丁寧な口調だ。
だけど、結構早口だ。
それに、ある制度の説明の具体例を口頭でいうので、分かりにくい。

例えば、会社法349条5項(株式会社の代表取締役の権限に加える制限)について、

「代表取締役の包括的な代表権を制限しても(例えば食品部門にはA代取、薬品部門にはB代取の担当とする等)、善意の第三者には対抗できない。このように不可制限的な権限なんですね。」とレジュメ記載通りで説明が終わってしまう。

果たしてこの説明だけで、法科大学院生は理解できるのか?
多分、学生時代のS弁護士なら無理だ。
具体的に問題となる場面が即座に、頭の中に浮かばないからだ。

『349条4項を見ても分かるとおり、法律上、代表取締役は株式会社の業務に関する一切の裁判上裁判外の行為をする権限を有するとされている。
だから、例えばX社と食品を取引しようとするY社からすれば、X社の代表取締役といえばX社の業務に関する一切の権限を持っていると考えるはずである。その結果、Y社としてはX社代取AをX社の代表として扱って取引すれば安心だ、と考えるのが普通だろう。
ところが、じつはX社の中に内部規定があって、代取AはX社の扱う商品のうち薬品のみの担当であり、食品については代取Bという別の代表取締役の担当とされていて、代取Aには食品を取り扱う権限がないとされていた場合どうだろうか。
Y社とX社代取Aで締結した食品に関する契約はAにその権限がなかったということで無権代表行為や権限濫用などの瑕疵があるものになるとして良いだろうか?法律上、代表取締役には、一切の裁判上裁判外の行為をする権限を与えられているにもかかわらず、X社の都合だけでその権限を制限し、その制限を対外的にも主張できるとして扱って良いだろうかという問題だ。
それでは、あまりにもX社と取引するY社の取引の安全を侵害する。なぜなら、Y社からすればX社内の代表取締役の権限の制限など知りようもないはずなのだ。それなのに、X社から、取引後に「実は、うちの代取Aには食品を扱う権限がなかったので、代取Aの権限濫用行為でした。申し訳ありませんが、その取引はなかったことにして下さい」等といわれても困る。
だから、349条5項は、取引安全の見地から、代表取締役の代表権の制限をしても第三者に対抗できないとして規定しているのだ。
ただし、この規定はあくまで、取引安全のための規定だから、代表取締役の権限濫用行為まで知っていた相手方まで保護する必要はない・・・・・。』

と説明して、最判S38年9月5日の判例(代表取締役の権限濫用行為に民法93条但書を類推適用した判例)へと結びつける。

大体これくらいまで説明してもらわないと、多分、学生時代のS弁護士は理解できなかったと思う。

大学院生の反応も、極めて希薄だ。後ろから見ているせいもあろうが、分かってるんだか分かってないんだか、さっぱり分からない。なんだか必死にノートを取っていたりするけど、ホントに分かってるんだろうか。

S弁護士はだんだん不安になってきた。

(続く)

帰り道のこと

昨日、21時過ぎ頃、S弁護士は帰宅の途に就いていた。

仕事上、若しくは今後の営業上、考えなくてはならないことをボンヤリと考えながら、S弁護士は急ぎ足で淀屋橋に向かって御堂筋を歩いていた。
立秋とは名ばかりで、生暖かい風が、妙に腹立たしい。

あ~、やってられん。音楽でも聴くか。

S弁護士は、アイポッドを取り出した。
以前、アイポッドでは、スティーブン・ジョブズの、伝説と言われたスタンフォード大学での卒業演説を繰り返し聞いていたのだが、最近は音楽がメインだ。

S弁護士はJ・POPからクラシックまで幅広く音楽は聴く方だ。しかしラップは、何が良いんだかさっぱり分からないし、浜田省吾は好きだが、実はうるさい音楽はあまり得意ではない。しかし、聖飢魔Ⅱの「Stainless Night」のようにメロディラインが美しいと感じる曲は、ヘビィメタルであっても、ときどき聞く。

気分転換のために選んだのは、「陰陽座」というヘビメタバンドの「甲賀忍法帖」だ。

「甲賀忍法帖」は、アニメの主題歌でもあったそうで、アップテンポではあるが、ボーカルである黒猫の伸びやかでつややかな声を聞いていると、どうしても人には越えられない悲しさがあり、その悲しさが曲に秘められているようにすら聞こえてくる。ついついボリュームを上げてしまった。

当初、S弁護士の気は重かった。しかし、さすがに、アニメの主題歌、大ボリュームで乗りの良いさびの部分を聞いていると、S弁護士も気分がだんだん高揚してくる。「水のように優しく、華のように激しく、震える刃(やいば)でつらぬいて」等という歌詞が、黒猫のパンチのある歌唱力で歌われると、気付いてみると、S弁護士の気分は、もう甲賀忍者だ。

「引け! 引かねば、斬る!」等というやりとりが本当にあったのかは不明だが、S弁護士は、心なしか足を速めて、御堂筋通りを南下していた。

ところが、大江橋手前の交差点にさしかかったとき、何人かのオッチャンが、キャリーバックを引きながら突然横から現れた。音楽に集中して、甲賀忍者になりきっていたS弁護士は危うく、オッチャン達にぶつかりそうになった。せっかくの甲賀忍者気分に水を差されたS弁護士は、心の中でこう叫ぶ。
「運が良かったな、世が世であれば、切って捨てるところよ!」だって、気分はすでに、無敵の甲賀忍者になっているんだから、しょうがない。

ところが、そのキャリーバックを引っ張ってS弁護士の通行を邪魔した狼藉者達の方から「あっ!Sさん」と、S弁護士の本名を呼ぶ声が、S弁護士の頭を支配している黒猫のボーカルの隅から聞こえた。

S弁護士は一瞬で、現実に引き戻され、慌ててイヤホンを外す。

この近辺でS弁護士のことを「Sさん」と呼ぶのは、同期の弁護士か、かなり修習期が上の弁護士先生のことが多い。何故だか分からないが、修習期にかなりの差がある場合、年輩の弁護士は若手の弁護士を「○○先生」とは呼ばず、「○○さん」、と呼ぶことが多い。だから、S弁護士が「Sさん」と呼ばれた際には、大先輩の弁護士からの呼びかけであることが多いのだ。

慌てて振り返ったS弁護士の目に飛び込んできたのは、S弁護士が(妄想の中で)切って捨てようとした不埒な狼藉者、ではなかった。

にこにこ笑いながら手を振っていたのは、Y先生だった。現大阪弁護士会の会長である。S弁護士は常議員会や懇親会等の機会に、Y会長に直接意見を何度も申しあげたことがあるので、面識があるのだ。

狼藉者達は、一瞬で、大阪弁護士会の重鎮の先生方へと変化した。

S弁護士は弁護士会の重鎮の方々については、意見は異なることはあっても、弁護士としては尊敬している。それは、気分が無敵の甲賀忍者であっても変わらない。「あ~、切って捨てなくて良かった・・・」。

先生方に気付かなかったのが、こちらの落ち度か、メロディラインの美しさのせいか、黒猫の美しいボーカルのせいかは分からないが、とにかく、S弁護士は挨拶をしてお別れした。

ただ、S弁護士も慌てていたのだろう。会長以外の方にも、きちんと挨拶することを忘れていたことに、京阪c特急の中で気がつくことになる。

「お弁当」と俊寛僧都

 先週土曜日に、日弁連で法曹人口問題検討会議が開催された。S弁護士も、近畿弁護士連合会の枠で推薦して頂いて、その末席に参加させて頂いていた。東京霞ヶ関、朝10時開催の会議に遅れないように7時過ぎの新幹線に乗らなくてはならず、慌てて家を出たので、S弁護士は、朝食としては小さなパンを一口かじったくらいだった。

 新幹線の中でS弁護士は、事前に渡されていた延べ五〇〇ページ以上の資料の重要部分に目を通し、会議に備えていたため、のんびり朝食を取ることなどできる余裕もなかった(ただし、資料を読みながら若干意識を失っていた時間はあったようだ)。

 S弁護士は確かに、お医者さんに指摘され、若干ダイエットをしなくてはならない身だが、午前6時過ぎに起床して殆ど食べていない状況では、いささか空腹も困った状況になりつつあった。

 午前10時過ぎに、宇都宮日弁連会長の挨拶を、皮切りに会議が開始された。会議の内容は後日、議事録的なものが公開される可能性があるそうなので、あまり詳しく述べることはできないが、S弁護士も何度か発言させて頂いた。発言途中に、空腹に耐えかねたお腹の虫が鳴くこともあり、お腹の音をマイクが拾ってしまうのではないかという心配をもS弁護士は、しなければならなかった。

 議論が相当出ている中、お昼の12:30すぎになった。議長が、これから30分の昼食休憩を取ると宣言して、日弁連執行部側の先生方は席を立って議場を出て行った。

 「ちょっ、ちょっと待ってよ。30分後に再開って、みんなお昼食べられるの?」

 確かに、日弁連会館の地下には飲食店がいくつかある。定食を食べられるお店もあったはずだ。しかし、今日は土曜日である。店は、やっているのだろうか。またわずか30分の休憩で、食事に行って帰ってこれるのだろうか。会議の委員は140人もいるのである。

 不安になったS弁護士は、隣のT先生に、「T先生、地下のお店、開いてるんですかね」と尋ねてみた。

 T先生は、「いや~、日弁連の会議ですから、弁当が出るでしょう」と当然のように仰る。何を言ってるんだい?という感じである。ほぼそれと同時に、執行部側の先生だと思うが、お弁当は後ろに用意してありますとのアナウンスがあった。

 なんだ、弁当が出るのか。要らん心配して損した。

 そう思って、S弁護士は、会議室の後部へ弁当を取りに行った。果たして弁当は、紙のお弁当箱に入って積まれていた。

 お弁当箱をもらって、S弁護士は自分の席(席順が決まっていたのである)へと戻る。空腹のせいか、お弁当箱から伝わってくる、ほのかな暖かみと、何となく感じる重みが心地よい。「出来立てだよ、いっぱい入っているよ」弁当が語りかけてくるようにすら感じられる。

 自分の席について、改めて弁当箱を見ると、「とんかつの○○」とお店の名前が書かれている。

 自慢じゃないがS弁護士は、とんかつが、結構、好物である。学生時代に京大生協で食べず、ちょっと贅沢するときの夕食の定番は、京都市左京区にある一乗寺商店街にあった「とん八」の定食480円だったし、未だに一乗寺商店街のオリジナルとんかつの店「とん吉」をこよなく愛しているので、むしろ、とんかつは相当、好物といって良いかもしれない。しかも、東京のとんかつは結構値段は張るが、美味しいものが多いと聞いたことがある。

 「いや~日弁連は、分かっていらっしゃる。グレイト!」

 S弁護士は、他人に聞かれたら恥ずかしいような快哉を心の中で叫びながら、机上の弁当箱を眺めやる。上蓋がシールで止められていて中は見えないが、それすらも、とんかつ弁当でありながら控えめな雰囲気を醸し出しているようで心憎い。

 「多分とんかつソースもオリジナルなんだろうな。楽しみだぜ。なんてったって、とんかつの○○なんだからな。」一度も行ったこともないくせにS弁護士の頭の中では、昔から「とんかつの○○」のファンだったかのような期待がふくれあがっている。

 「だが、まて。そう焦るな。ここで一気に開けてしまっては楽しみがない。ここはとんかつに敬意を表して、綺麗に手を洗ってから頂こうではないか。」

 S弁護士は、手洗いに立った。S弁護士は、結構、楽しみを先に延ばしておきたいタチでもあるのだ。

 手洗いの途中に、「もし誰かに取られたらどうしよう」などとあり得ない心配も心のほんの片隅で感じながら、S弁護士は綺麗に手を洗ってから会議室に戻ってきた。

 いよいよ、とんかつとご対面だ。ふたを閉じているシールをはがそうとするが、上手くはがれない。「ちくしょう、憎いぜ。ここまで来てじらしやがって。」等と訳の分からぬことを頭の中でほざきつつ、鼻歌交じりでシールの隙間に爪を入れシールを破る。

 現れたのは、次のようなお弁当だった。

 右側に梅干しののったご飯、まだ暖かい。うんうん、うまそうだ。

 左側上部にきんぴらと、漬け物・ひじき。本当はとんかつには千切りキャベツが定番だと思うが、まあ、これは弁当だ。メインディッシュの引き立て役としてはちょっと異質だが、まあギリギリ想定の範囲内だ。

 そして左側下部のメインディッシュコーナーに収まっていたのは・・・・・・・・・・・・・・・。

 焼き魚だった。

 そんな馬鹿な!

 もう一度良く、メインディッシュを見る。ド近眼のS弁護士は、見間違いを期待した。しかし、どう見ても、魚の照り焼きが、素知らぬ顔して座っている。右から左に見ても、上から下に見ても、魚の照り焼きがこの弁当のメインなのだ。とんかつの姿はどこにもない。

 何かの間違いか。それともこの弁当だけ、とんかつの代わりに焼き魚になったのか?

 S弁護士は慌てて、弁当に張られている原材料などのシールを眺めやる。そこには、豚肉の文字はなく、「銀だら」の文字がきざまれている。

 あきらめきれないS弁護士は、隣のT先生の弁当箱を盗み見る。もしかして、S弁護士の弁当だけ、とんかつが足りなくなって焼き魚になったのかもしれない。そうならまだ手段はあるかもしれない。とんかつをお嫌いな先生もいらっしゃるかもしれないじゃないか。

 しかし、T先生のお弁当も、やはりメインは、焼き魚だ。

 馬鹿だった・・・・・・。 

 日弁連に期待した自分がおろかだった・・・・・・。

 思いっきり身体から力が抜けてゆく。それと同時に、あれだけ期待して舞い上がっていた自分が情けなく、また、かわいそうにも思えてくる。

 かの昔、平家物語によると、鬼界ヶ島に流された俊寛僧都は、全く同じ罪で流された3人のうち、赦免状に自分の名前だけが載っていないことを知り、赦免状を上から下へ、下から上へ改め直し、さらに懐紙も改めたという。そして、許された者の中に自分の名前が載っていないことを知ると、へたり込んでしまったという。

 俊寛僧都の気持ちが、ほ~んの少しだけわかったような気がしたS弁護士だった。

日本経済新聞~安岡崇志論説委員の書いた中外時評 その2

 上記の中外時評は8月1日の日経新聞に掲載されていたものであるので、既に、相当時期遅れになってしまったが、批判を続ける。

 安岡委員は、改革審意見書は「10年ころには新司法試験合格者を3,000人に増加させる」としていた。と述べておられる。

 はっきり言って「嘘」である。嘘という表現がいけないのであれば、誤導である。

 改革審意見書にはこう書いてある。

 法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、平成22(2010)年ころには新司法試験の合格者数の年間3,000 人達成を目指すべきである。(司法制度改革審議会意見書p53参照)

 つまり、法科大学院を含む法曹養成制度がきちんと整備され、実際に新しい法曹養成制度が十全に機能していることを前提に、新しい法曹の質が低下しない状況下で(これは上記意見書が、「質の低下を来さないよう留意しつつ」とする、臨時司法制度調査会の意見を引用していることから明らかである)、新司法試験の年間合格者を3000名にすることを「目指す」、いわば努力目標である。

 法科大学院を含む法曹養成制度がきちんと整備され、十全に機能しているかということについては、この中外時評の最初に、「制度自体が悪循環に陥りつつある」と自認した率直さに驚いた、と安岡委員自身が書いているのだから、安岡委員自身も、否定的なのだろう。

 つまり、安岡委員の改革審意見書の引用は、実現されなければならない前提事実が全く実現されていないという現実を故意に無視し、さらに努力目標を既定の事実のように記載する点で、2重に誤導を行う、念の入ったやりかたなのだ。

 それに、努力目標が年間3,000人合格者であったとしても、法曹としての必要な学識及びその応用能力を有しない者を合格させるわけにいかない(司法試験法1条1項参照)。これは、法律で決まっていることであるし、司法試験の役割からして当然なのだ。

 おそらく、司法試験委員会になぜ合格者を2000名程度にしたのか聞けば、必ずや、合格レベルに達していた受験生がそれだけしかいなかったからだと答えるにきまっている。そして、法曹の資格を与えるレベルに達していない者を不合格にすることは、新司法試験の目的であるはずだ(大学入試だって、新聞社の入社試験だってそうだろう)。

 ところが、安岡委員は、司法試験委員会に取材を行うこともせず、次のように続ける。

 この目標を今年達成するのは,まず無理だ。合格者数を昨年、一昨年の実績から1,000人増やさなければならないのだから。しかもこれまでの人数でさえ「多すぎて、必要な知識、資質を備えない人まで入っている」と日本弁護士連合会は主張し、増員のペースを落とすよう求める。各地の弁護士会の警戒感、反発は、もっと強い。

 理由もなく目標達成は無理だと断じ、まるで、日弁連・弁護士会の判断で、新司法試験合格者数を限定した(若しくは、日弁連・弁護士会が批判するせいで合格者が限定された)かのような書きぶりが続く。ここでも、安岡委員お得意の誤導モード炸裂である。

 いったい、いつから日弁連や各地の弁護士会が、新司法試験合格者を決定する権限を与えられたのだろう。日弁連に新司法試験合格者数を決定する権限があるのなら、安岡委員の主張はあながち間違ってはいないだろう。しかし、現在の日弁連・弁護士会にそのような権限があるはずがない。司法試験委員会が合格者を決めるのだ(司法試験法8条参照)。

※このあたりの事情については、小林正啓先生の「こんな日弁連に誰がした?」が詳しい。第2版がでるらしいので、売り切れで入手できなかった方には朗報だろう。

 どうやら、安岡委員は日弁連・弁護士会が新司法試験合格者を決めていると六法も見ずに決めつけ完全に誤解しているか(六法を見れば中学生でも分かるので、論説委員ともあろうお方がそこまであからさまな誤解をするとは思えないが)、新司法試験合格者数が増えないことをなんとか日弁連・弁護士会のせいにしたくてしょうがないらしい。

 上手い例えが見つからなくて恐縮だが、例えば、東大・京大が、合格者をこれまでより年間3000人ずつ増やすよう努力すると言っていたとする。ところが入試を実施した際に、合格者判定会議で東大・京大で勉強についていけるレベルに達した人が少なかったということで結局2000人ずつしか合格者を増加させなかった場合、誰が非難できよう。

 また、その時点で、「これまでの合格者増員で学生の質が下がり、勉学について行けない学生が多すぎる」と、東大・京大の在学生が大学側を批判していたと仮定した場合、学生たちには合格者を決定するなんの権限もないにもかかわらず、合格者が3000人ずつ増えないのは学生が入試や合格者(質も含めて)の数を批判するせいだと、日経新聞(あるいは安岡委員)は批判するのだろうか。

この中外時評では、安岡委員は堂々と上記の例でいうところの、学生に対する批判と同様の批判を日弁連・弁護士会に対して行っている。

 確かに一読すれば、説得力がありそうな安岡委員の中外時評だが、そこには誤導の罠が幾重にも仕掛けられている。

 論説委員たる者、誰からも批判されないのだろうか?

 もっと現場の記者さんの御意見を聞いてみたら?とご注進申しあげたくなる。

(元気があれば、もう少し続けます。)

本当の怖さ

 「馬鹿野郎、なんで寄ってくるんやっ!冗談じゃねーぞ!!」

 クラクションを鳴らしまくりながら、S弁護士は心の中で叫んでいた。

 決して相手を威嚇するためではない。自分の身を守るための行動だった。

 場所は、未明の中央自動車道上り線。恵那峡SAを出た後、しばらく走った緩やかな左カーブ。長野市で行われる全国証券問題研究会の第42回大会に参加するために、先週金曜日の未明、京都から長野に向かって高速道路を走っていたときの出来事だった。

 ご存じの通り、法律の規定により大型トラックには90㎞のスピードリミッターが装着されている。当然だが、自家用車のスピードは大型トラックより速いため、通行量の少ない深夜の高速道路では、現実的には大型トラックを何台も追い抜くことになる。
 ただし、大型トラックが何台も連なっているときは追い抜くときに注意が必要だ。こちらが追い越しをかけるのと同時に、先行するトラックを後続のトラックが追い越そうとして高速道路の車線がふさがれてしまう場合もあるからだ。

 だが今回は、単独走行のトラックだ。別のトラックを追い越そうとして追い越し車線に入ってくる心配はない。
 そこまで確認して、追い越しをかけたときだった。トラックがウインカーも出さずに追い越し車線にゆっくりとはみ出してきた。危ないな、と思いつつS弁護士はパッシングをし、クラクションを一度鳴らした。
 しかし、トラックのはみ出しは止まらない。そのままどんどん追い越し車線にはみ出してくる。

 いかん、こいつは、何も見ていない。

 スピードを落とそうにも、既にトラックの車体の真ん中くらいまでこっちの車は進んでいる。
 さらに、トラックは、はみ出してくる。S弁護士にもようやく(といっても僅かな時間の出来事だが)事態が理解できた。はみ出して来ているのではない。トラックは直進しているのだ。緩い左カーブを直進しているのだ。その結果、追い越し車線にはみ出してきているのだ。

 間違いない、こいつは居眠り運転だ!!

 頼む!気付いてくれ!!、気付かんか、このボケ!!

 S弁護士は、半分神に祈りつつ、半分はトラックのドライバーを罵りながら、クラクションを鳴らし続ける。と同時に、僅かに隙間のある前方に向かってアクセルをさらに踏み込む。V6、3.7Lエンジンがフル加速を開始する。しかしギアはトップだ。加速は歯がゆいほどゆっくりに感じられる。どうした、333馬力!もっと加速してくれ!必死に何かに祈る。確かにブレーキを踏んで減速する手段も考えられた。しかし、それだと、仮にトラックとの衝突が避けられても、トラックがこのまま中央分離帯に激突し、横転でもした際のこちらのダメージが怖すぎる。迷っている暇はなかったのだ。

 しかし、トラックのはみ出しは止まらない。

 中央分離帯には、あまりに接近しすぎたドライバーに注意を促すために、その上を走ると車体に振動が伝わってくる白線が引かれている。既にその白線の上を走っている振動が、S弁護士の握るハンドルに伝わっている。しかし、トラックとの衝突を避けるためには、致し方ない。その危険な白線を超えて、S弁護士は自分の自動車を中央分離帯にさらに寄せる。
 中央分離帯のガードレールが大きく迫り、その付近の荒れた路面のため、ハンドルが取られそうになる。
 左側からは大きなトラックの車体が迫る。

 あかんか・・・・

 S弁護士は本気でそう思った。

 そこで、トラックの接近が止まってくれた。トラックが不安定に揺れながら、走行車線に戻っていく。
 おそらく、鳴らし続けたクラクションにより居眠りから目覚めたトラックのドライバーが、慌てて走行車線に戻ったのだろう。
 間一髪とは、よく用いられる言葉だが、なかなか身を持って体験できることではない。

 助かった・・・・・。

 おそらく5秒も経たないくらいの短時間の出来事だったはずだ。
 安堵の思いと同時に、ぞくっと寒気が背筋を走った。時速100キロ以上での事故がただですむはずがないではないか。

 多分、S弁護士が追い抜きをかけていなかったら、そしてクラクションを鳴らし続けなかったら、このトラックの運転手は居眠り運転のまま中央分離帯に激突していただろう。言い換えれば、えらい怖い思いをしたが、全くの偶然により、ヒト1人を結果的に救ったことにもなるだろう。

 S弁護士は、そのように考えてトラック運転手への怒りを、誤魔化しながら、本当の怖さは後から来るものなんだな、と考えていた。
 

ドロミテでの出来事

 もう5年前にもなるが、S弁護士はボーツェン経由でドロミテまで行って、トレッキング(軽いハイキング程度だが)をしたことがある。

 非常によい天気の日で、汗ばむほどの陽気だった。遠くの山々を背景に、馬が放牧されていたり、アヒルやニワトリが家の庭を散歩していたりして、のどかというより、のびやかな感じがする光景の中を歩くことができた。トレッキングコースも整備されており、道に迷わないように、ルートを色分けした看板で示すなど様々な工夫がなされている。

 ところが、S弁護士は美しいドロミテ地方の風景に見とれて油断したらしい。途中で道を間違えてしまい、妙な山道に入り込んでしまった。すると、同じように道に迷ったと思われる外人に道を聞かれた。

 奴は遠慮もなく、地図をこちらに突きだし、なにやらしゃべっている。

 「ヘイ! ぺらぺらぺらぺらぁ~~~」

 ヘイ、は分かった。そのあとの言葉は多分アメリカ英語だ。それくらいは分かる。しかし、内容がわからない。

 大体なんで俺に聞くんだよ。眼鏡をかけているし、カメラだってきちんと首からさげている。足だってそんなに長い方じゃない。どう見たってあからさまに日本人じゃないか。もっと、英語の分かりそうな奴に聞け!しかもヘイってなんだ。道を聞くときはエクスキューズミーと言うもんだ。中学校でそう習ったぞ。と心の中で叫びながらも、S弁護士の言葉は心の叫びを裏切る。

 「ぱーどん、スピーク・スローリー?」

 「ぺらぺらぺらぺらぁ~~~」

 奴のしゃべるスピードは、全く変わらない。

 「なんやねん、世界中で英語が通じるとでも思ってンのか?もともとヨーロッパの端っこの島国の言葉やんけ!」と、S弁護士も少し腹が立ってきた。自分が異国の街で道に迷った際には、英語が通じると信じて、僅かに知っている英単語を並べて、たどたどしく聞くことなど、もう忘れている。

 「プリーズ・スピーィク・スロウリィ」

 思いっきり、ゆっくり言ってやった。しかも一単語一単語ごと、区切って言ってやった。

 どうだ、これで俺が英語が駄目だってことが分かったか、分かったらゆっくりしゃべれ!

 「ぺらぺらぺらぺらぁ~~~」

 奴は全く動じなかった。全く同じスピードで、おそらく全く同じことを聞いている。

 もう駄目だ。仏の顔も3度までだ。こいつに関わっていたら日が暮れちまう。さっきミネラルウォーターを買ったら間違えて炭酸入りだったのも、こいつのせいかもしれない。しかも、歩いているうちに、リュックでゆられて、開けようとしたら吹きこぼれたんだぞ。どうしてくれる。

 ・・・だが、こうなったら、最後の手段だが、もはやあの手段をとるしかない。

 S弁護士は、肩をすくめ両手をあげて見せた。万国共通のあきらめのポーズである。

 「ぺらぺらぺ・・・・」

 奴は、一瞬あっけにとられたかのように、しゃべりかけていた言葉を途中でやめた。そして、地図を引っ込めると

 「フンッ」という感じで行ってしまった。

 なんて礼儀知らずの奴なんだ。アメリカ=正義じゃねえぞ。英語は世界の共通語でもない。単なるアングロサクソンの言葉だろうが。お前だって、知っているロシア語はせいぜい「ピロシキ」くらいだろうに!

 と、せっかく美しいドロミテを散策しながら、だんだん訳の分からなくなるS弁護士であった。

極楽丸事件~その2

 冗談ではない。こちらはまだ仏ではない。極楽はどんなに素敵なところなのか知らないし、漁船に乗っている誰かが仏様や先祖の霊にどんなに愛されているのかも、学生Sは知らない。しかし、どんなにエライ仏様やご先祖様であっても、向こうさんの勝手な都合で、一緒に連れて行かれるのはゴメンである。

 エンジンをかけることあきらめたオッチャンが仕切って、若い衆が両舷に配置され、水をかいて、岸を目指すよう指示が出た。水をかけといわれても、オールがあるならばともかく、そのような便利なものが漁船に装備されているはずがない。だから手のひらで水をかくしかない。しかし他に方法もない。

 学生Sを含めた数人が両方の船端につき、手で水をかき始めた。水をかくことに集中するせいか、船をまた沈黙が支配する。誰かの話し声がしていないと、また聞こえてくるのが、チャプチャプという仏船を叩く波の音である。仏船は自らの意思を持ったかのように揺らいでいる。不気味だ。

 学生Sは、空元気をだして、「まあ、こんな経験、滅多に出来ひんわ。あとで話の種になるわ。なあ、H兄ちゃん。」と話しかけたが、H兄ちゃんは答えてくれない。見てみると、前を睨み必死のパッチで水をかいている。話しかけた声も聞こえていないようである。真っ正面を向いて、ひたすら水をかいている。そういえばH兄ちゃんは新婚だった。後から考えれば必死になるのは無理もない。

 ところが、大の男が6~7人乗った漁船である。いくら小さな漁船とはいえ、数人が手で水をかくくらいでは、引き潮に逆らって、岸に戻れるわけはない。
 漁船は、多少方向を変えたものの、一向に陸地は近くならない。むしろ引き潮に乗って、さらに沖合へと流され始めた。もちろん極楽丸も一緒である。

 「こりゃ駄目だ。しょうがない、誰かが泳いで助けを求めに行った方が早い。」と若い衆が言い始め、「いいや、この潮では危ない。」とオッチャンが止める。そうこうしているうちに、船外機を取り外して船の上に引き上げ、点検していた漁船の持ち主が、エンジンストップの原因を突き止めた。

 「ペラ(スクリュー)に縄が噛んどる。誰ぞ、カッターかドライバーかなんぞ持ってへんか。」。誰かが海に捨てた縄が漁船のスクリューに絡んで堅く食い込んでいたのだ。原因は分かった。その縄をスクリューからはずせば、エンジンはかかるのだ。岸に帰れる。しかし、先祖の霊を、カッターナイフやドライバーを懐にしのばせて見送ろうとする不届き者がどこの世界にいるだろう。一瞬の光明は敢えなく消えそうになった。

 しかし追い込まれれば人間、知恵が出るものでもある。試行錯誤をしているうちに、誰かの発案で、縄の食い込んだスクリューを逆に回して、縄の食い込みをゆるめようということになった。大の男が何人かで力を合わせて、相当苦労はしたものの、縄の絡んだスクリューを、なんとか人力で逆方向に回転させることに成功した。その結果、堅く絡んだ縄をゆるめ、スクリューからはずすことが出来たのだ。

 エンジンがかかってしまえば、岸へ帰り着くことは拍子抜けするくらい簡単だった。どうやら、港の方でも漁船が帰ってこないことで騒ぎになっていたらしく、あと10分遅かったら消防に連絡して捜索してもらうところだったと、伯父から聞かされた。伯父の本当にホッとしたような表情が印象的だった。

 後に町長を務め、名町長と謳われたその伯父も、今年鬼籍に入り初盆を迎えた。

 S弁護士は、今年の8月16日、京都五山の送り火を眺めつつ先祖の霊を送りながら、ふと極楽丸事件を思い出したのだった。

極楽丸事件~その1

 大分記憶が薄れているが、S弁護士がまだ大学生か高校生の頃、田舎で経験した事件である。

 学生Sの田舎は和歌山県太地町であるが、居住地区は太地町の森浦という地区にあった。森浦区では、初盆の家は、お盆初日に百八体と呼ばれる線香を焚く行事などがあり、8月16日(だったと思うが)に先祖の霊と初盆を迎えた仏様をお送りする行事があった。

 その行事は、わらなどで造った粗末な船(といっても5mくらいはあったと思う)に先祖の霊などをお乗せして、小さな漁船で引っ張りある程度沖の方まで引っ張っていって、適当に花火など打ち上げて、切り離し、お送りするというものだった。

 まだ学生であったSは、母親の親が亡くなったことでもあり、初盆の仏様をお送りする役目を、本家筋の従兄弟であるH兄ちゃんと一緒に仰せつかった。

 薄暗くなってきた森浦湾をゆっくりと、他の初盆を迎えた人たちの親類縁者6~7人と一緒に、一隻の小さな漁船に乗って、仏様をのせた船(もちろん紙製の灯籠などが吊ってあり、飾り付けされているが、わらなどで造った粗末な船~以下「仏船」という。)を引いていく。引っ張る側の漁船には、ヤマハかヤンマーの船外機が取り付けられており、順調に沖の方に向かっていった。

 ちなみに最近は、環境問題もあって、仏船を一度沖の方まで引っ張っていくが、最後は浜までそのまま引き返し、浜で焼くように変わっているそうだ。しかし、当時は、沖合で切り離し、あとは仏様達にお任せする(放置する)のが常だった。子供の頃に、流した数ヶ月後に浜にボロボロになった仏船が漂着していることを見かけることもあり、「本当に、あの世に帰れたのかな」と不思議に思ったこともあった。

 さて、ある程度沖合に出た頃、そろそろ花火を上げるようにと年輩の方に指示され、学生Sは、他の若い衆と適当に手持ち花火を、沿岸で見送っている人たちに見えるようにくるくる振り回したり、ロケット花火を打ち上げたりして、暢気にお役目を果たしていた。

 そのとき、であった。

 急に漁船のエンジンの回転音が下がり、えっ?と思う間もなく、エンジンが止まってしまった。
 慌てて漁船の持ち主が、スターターの紐を引っ張り、エンジンをかけようとするが、どうしてもかからない。何度やっても駄目である。若い衆は「なんでかからんの?」とか「ガス欠ちゃうの」等と気楽なことをいっていたが、辺りは次第に暗くなる。引き潮に引かれるように、次第に船は沖へと徐々に流されていく。

 誰かが岸に向かって、故障を告げようと声を張り上げたが、既に岸は相当遠くて声は届かない。遠目に見えていた見送りの人たちは、花火も終わったので、ぞろぞろ帰りだしているようだ。

 エンジンがかかっていない船の上は、不気味なほど静かで、これまで全く聞こえなかった、仏船にあたる波の音がチャプチャプ、チャプチャプと聞こえてくる。うちの田舎の町から鯨を追っかけていき、帰れず、漂流して多くの犠牲者を出した事件を書いた本を読んだ記憶が、何故だか蘇る。

 「舟板一枚、下は地獄」確かそんな言葉を聞いたこともあった。この薄いプラスティックの舟板の下は地獄かもしれない。

 後ろを振り向けば、あの世に帰る先祖の霊を乗せた船だ。すっかり暗くなってきた中で、怪しく仏船の灯籠が揺れている。どういうわけか船の動きと連動せずに、自分の意思を持って揺らいでいるように思えてくる。潮のせいなのか、仏船はゆっくりと漁船に近づいてくる。本来同じ潮にのって流されつつあるのだから、距離は一定に保たれていておかしくない。しかし仏船は何故かこちらに近づいてくる。不気味だ。

 仏船には、お経などの幟(のぼり)が立てられており、その幟の一つに船名が書いてある。次第に近づいてくる仏船の幟に墨痕鮮やかに、書き付けられた船名はこうだった。

 「極楽丸」

(続く)