ドロミテでの出来事

 もう5年前にもなるが、S弁護士はボーツェン経由でドロミテまで行って、トレッキング(軽いハイキング程度だが)をしたことがある。

 非常によい天気の日で、汗ばむほどの陽気だった。遠くの山々を背景に、馬が放牧されていたり、アヒルやニワトリが家の庭を散歩していたりして、のどかというより、のびやかな感じがする光景の中を歩くことができた。トレッキングコースも整備されており、道に迷わないように、ルートを色分けした看板で示すなど様々な工夫がなされている。

 ところが、S弁護士は美しいドロミテ地方の風景に見とれて油断したらしい。途中で道を間違えてしまい、妙な山道に入り込んでしまった。すると、同じように道に迷ったと思われる外人に道を聞かれた。

 奴は遠慮もなく、地図をこちらに突きだし、なにやらしゃべっている。

 「ヘイ! ぺらぺらぺらぺらぁ~~~」

 ヘイ、は分かった。そのあとの言葉は多分アメリカ英語だ。それくらいは分かる。しかし、内容がわからない。

 大体なんで俺に聞くんだよ。眼鏡をかけているし、カメラだってきちんと首からさげている。足だってそんなに長い方じゃない。どう見たってあからさまに日本人じゃないか。もっと、英語の分かりそうな奴に聞け!しかもヘイってなんだ。道を聞くときはエクスキューズミーと言うもんだ。中学校でそう習ったぞ。と心の中で叫びながらも、S弁護士の言葉は心の叫びを裏切る。

 「ぱーどん、スピーク・スローリー?」

 「ぺらぺらぺらぺらぁ~~~」

 奴のしゃべるスピードは、全く変わらない。

 「なんやねん、世界中で英語が通じるとでも思ってンのか?もともとヨーロッパの端っこの島国の言葉やんけ!」と、S弁護士も少し腹が立ってきた。自分が異国の街で道に迷った際には、英語が通じると信じて、僅かに知っている英単語を並べて、たどたどしく聞くことなど、もう忘れている。

 「プリーズ・スピーィク・スロウリィ」

 思いっきり、ゆっくり言ってやった。しかも一単語一単語ごと、区切って言ってやった。

 どうだ、これで俺が英語が駄目だってことが分かったか、分かったらゆっくりしゃべれ!

 「ぺらぺらぺらぺらぁ~~~」

 奴は全く動じなかった。全く同じスピードで、おそらく全く同じことを聞いている。

 もう駄目だ。仏の顔も3度までだ。こいつに関わっていたら日が暮れちまう。さっきミネラルウォーターを買ったら間違えて炭酸入りだったのも、こいつのせいかもしれない。しかも、歩いているうちに、リュックでゆられて、開けようとしたら吹きこぼれたんだぞ。どうしてくれる。

 ・・・だが、こうなったら、最後の手段だが、もはやあの手段をとるしかない。

 S弁護士は、肩をすくめ両手をあげて見せた。万国共通のあきらめのポーズである。

 「ぺらぺらぺ・・・・」

 奴は、一瞬あっけにとられたかのように、しゃべりかけていた言葉を途中でやめた。そして、地図を引っ込めると

 「フンッ」という感じで行ってしまった。

 なんて礼儀知らずの奴なんだ。アメリカ=正義じゃねえぞ。英語は世界の共通語でもない。単なるアングロサクソンの言葉だろうが。お前だって、知っているロシア語はせいぜい「ピロシキ」くらいだろうに!

 と、せっかく美しいドロミテを散策しながら、だんだん訳の分からなくなるS弁護士であった。

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