Portrait展

先日、日弁連の代議員会に出席した。

普段はしゃんしゃんと終わるところ、珍しくいくつか意見や質問が出た代議員会だった。

その帰りに、銀座のギャラリー小柳で、開催されているportrait展を見に行った。

諏訪敦先生の作品が目当てだった。

少し分かりにくいところいあるギャラリーだが、HPの地図を参考にすればすぐ分かる。

エレベーターに乗って、降りたところが既に会場になっている。

私以外、誰もお客がいない。

諏訪先生の迫力のある大作を鑑賞するには絶好の、もったいないくらいの条件だ。

4月8日まで開催されている。

せっかくの機会をお見逃し無く。

花岡幸代さん,ニューアルバム発売!

 新年早々バタバタしていて、花岡幸代さんのブログのチェックを怠っていたが、今日ブログを見てみると、待望のニューアルバムが発売されたとのことだった。
 今回で3枚目。
 実に24年ぶりのニューアルバム発表とのことだ。

 残念ながら、アマゾン等ではまだ購入できないようだが、
 花岡さんのブログ http://blogs.yahoo.co.jp/hanaokayukiyo/ から購入可能サイトにリンクが貼られている。
 
 早速注文させていただいた。
 今から届くのが楽しみだ。

 このブログでも、何度か花岡さんの音楽・歌声をご紹介してきたが、もちろん音楽だから、人それぞれ好みもある。
 だが、今は便利なもので今はYou Tubeで、何曲か花岡さんの歌声を聞くことができる。でも、一度、花岡さんの音楽を何曲か聴いてみて欲しい。

澄みきって宇宙に溶けゆく空を感じさせる「The Water is wide.」(カヴァー)
花岡さん撮影の、空の写真と一緒に聴ける「ルフラン」
私がライブで聞いて滂沱の涙に暮れてしまった「サイド・バイ・サイド」

等がお薦めだ。

 いつの間にか心の奥底に封じ込めてしまっていた、暖かい想いや優しさ、切ない想いを、また揺り動かし、思い起こさせてくれるかもしれない。

 そして、それは、とても、大事なことかもしれない。
 人にとって・・・。

ご満悦

今年も、画家の諏訪敦先生から年賀状を頂くことが出来た。

私は諏訪敦先生の大ファンなのだが、近年いろいろお忙しくされている中で、諏訪先生から一筆添えた年賀状を頂戴し、先生のファンを大切にする姿勢に恐縮しながらも、かなりご満悦なのだ。

諏訪先生から頂く年賀状は、作品として十分鑑賞に堪えるクオリティなので作品を頂いたかのように嬉しい。

現在は、事務所の待合に、先生の個人情報はマスキングした上で、昨年の年賀状と今年の年賀状を飾っている。

今年も、諏訪先生のご活躍を祈念するばかりだ。

ETV特集アンコール~忘れられた人々の肖像~画家諏訪敦”満州難民”を描く

見逃した方には、まさに待望の再放送だろう。

絵画を描くことは、かくも厳しく苛酷なことなのか、内に秘められた画家の凄まじい想いが突き刺さってくる。

敢えて私ごときが言わなくてもいいのだろうが、再度いう。

必見である。

放映日時は

9月17日(土) 23:00~24:00

9月24日(土)午前0:00~1:00 (23日(金)24:00~25:00)

NHK Eテレで。

朗報!(諏訪敦先生のドキュメンタリー番組、再放送決定)

 少なくとも、美術ファンの方にとっては朗報と言っていいと思う。

 今年の4月にNHK ETVで放映された「ETV特集:忘れられた人々の肖像~画家・諏訪敦”満州難民”を描く」の再放送が決定したとのことだ。

詳細は下記のアドレスをご参照のこと。
http://www4.nhk.or.jp/etv21c/x/2016-09-17/31/66093/2259526/

 諏訪先生のファンである私は、当然4月の放映を見ているが、番組から受けた重さのあまり、その番組の感想は、なかなか上手く表現できずにいる。

 もちろんTV番組の宿命として、制作者側の考えも入っていて、諏訪先生をそのまま伝えてくれるものではないだろう。しかし、自らの生命を作品に刻み込むかのような芸術家の苦闘と、諏訪先生の思いの片鱗は見出すことができ、きっと、何かを与えてくれるように思う。

 美術ファンの方にも、そうでない方にも、非常に多くの示唆を与えてくれる番組であるはずだ。

 放映日は、9月17日 23:00~24:00
 必見である。

映画「つみきのいえ」~加藤久仁生監督 2011.5.24掲載

 1人の老人が、穏やかに暮らしていた。但し、その世界では、水が次第に満ちてくる。老人は、住んでいる部屋が水に浸かりそうになると、上の階を継ぎ足して、しのいでいる。ある日、老人はお気に入りのパイプを水の中に落としてしまう。そのパイプを拾いに潜水服で潜った老人が見たものは・・・・・。

 世界でも数々の賞を取った作品ですので、今さらという人もおられるでしょう。

 わずか十数分の短編アニメーションですが、込められたメッセージは深く広いものだと思います。

 自分の住んでいる世界は、老いるにつれ否応なく狭くなっていく。しかしその世界の奥底には、静かな想い出の世界が広がっている。その世界は、次第に、極めてゆっくりと色あせるかもしれないが、決して失われるものではなく、ずっとそこに在り続けている。そしてそれらは、人が生きていく上でなくてはならないものなのだ。これまで、老人がその人生で積み上げてきては、水に沈んでしまった積み木の家のように。

 ただ、何らかのきっかけがないと、その世界に分け入ることを人は思いつけないのかもしれない。普段の生活で想い出を忘れてしまっているように。

 しかし、きっかけを見つけることは難しいことではない。どんな些細なことであっても、そこから想いをたぐっていく気持ちさえあれば、誰でもその世界に帰ることは出来る。その世界は、もう戻ることが出来ないが故に美しい。

 けれども、その美しい世界にずっと止まることは許されない。潜水服の空気が次第になくなるように、いずれ現実に戻り、そこで生きて行かなければならないのが、人の世の常なのだ。そのような悲しい定めを人は持ちながらも、これまでの想い出に触れることは、人生を豊かにしてくれるものなのだ。ラストシーンの老人のように。

 他にも様々な思いを心に呼び覚ましてくれる映画だと思います。ナレーションなしのバージョンの方が心に響くように感じられますのでお勧めです。

画家 諏訪敦先生~

尊敬している画家の諏訪敦先生から、今年も年賀状を頂くことが出来た。

年賀状が、美術作品そのものになっていて素晴らしい。

お忙しいであろうに、一言書き添えて下さったことも嬉しい。

本当にファンを大事にして下さる方だ。

早速、連絡先を見えないように付箋でマスキングして、額に入れて待合に飾らせて頂いた。

最近はお忙しいようでなかなかブログの更新も出来ない様子だが、ツイッターの方は比較的頻繁に更新しておられる。諏訪先生の優しい視線が感じられるツイッターは、私もいつも楽しみに拝見している。

今年は昨年以上に多くの方に、諏訪先生の作品に触れて頂き、何かしら感じ取ってくれたらいいな、と思っている。

人の心や魂に疲労が溜まったときに、芸術のように美しいもの、素晴らしいもの、感動を受けるもの、に触れないとその浄化は難しいように思う。

特に、人の心が荒みつつある昨今、芸術の力を感じさせてくれる諏訪先生の作品はより人々に必要とされていくに違いない、と私は思っている。

鴨居玲展~2

 金沢に行く機会があり時間的余裕があるとき、私は石川県立美術館で、鴨居玲の作品を見ることが多い。そして、「1982年 私」の作品が持つ力に打ちのめされる。

 キャンパスを前にした自画像の周囲に、これまで鴨居玲が絵画の題材として描いてきた人物が描かれる。背景は中心から端に向かって暗くなっていく。しかし、鴨居によりかつて絵画としての生命を吹き込まれたはずの人物が、誰1人として、嬉しそうな表情を浮かべてはいない。困惑・諦観・不安・刹那的感情等の入り交じった感覚にとらわれたまま、その場に配置されている。そして中心に座る鴨居は、何も描かれていない白いキャンパスの前で絵筆を持たず呆然と座り込み、この絵を見るものに何かを問いたげに口を開けている。

 もう描けない、自分には絵を描くしかできないのに、もはやそれもできない。
 これ以上何を画くのか、何を描けば良いというのか、何が画けるというのか。
 それなのに、あなたは(神は)、何故、なお描くことを私に求めるのか。

 そのような声にならない鴨居の叫びが、ズンと響く。

 画家にとって絵を描くことは本能にも等しく、またその存在価値に直結する行為である。絵が描けないということは画家にとって自らの存在価値を否定することにもつながる。鴨居に兆した、もはや絵を描くことができないという自己否定の思いと、その自己否定の思いに抗いつつ感じていたであろう自負と、その自負を飲み込むに十分な底知れぬ恐怖と絶望。それを裏付けるかのように、展示されていた、鴨居の使用していたパレットの裏側に残された「苦るしかった」との走り書き。

 鴨居の自己否定にもつながりかねず、鴨居の心の奥底に封じ込まれ暗黒の天幕に覆われていてもおかしくないこの心的情景を、神が、あるとき、残酷にも部分的に光を当て浮かび上がらせたのかもしれない。
 そして、その情景を見てしまった鴨居が、自らの意思というよりも、画家としての本能で描ききったのがこの作品ではないか、とさえ思える。

もちろん、「1982年 私」も、この展覧会で展示されているはずだ。

東京、函館、金沢での展示が終わり、伊丹が最後の展覧会だ。

是非ご覧になることをお薦めする。

※作品に関する感想はあくまで坂野の個人的な感想であり、画家本人、解説者の方の見解と異なっている場合は当然あり得ます。

鴨居玲展~1

没後30年 鴨居玲展~踊り候え~が、現在伊丹市立美術館で開催されている。
http://artmuseum-itami.jp/exhibition/current_exhibition/10915/

 素直に、必見の展覧会だと思う。

 ただし、自分の精神状態がちょっと不安定かもしれないな、と感じる方には、お薦めはしない。鴨居玲の作品から受ける重さに耐えきれない可能性があると思うからだ。

 私は10月に金沢で、この展覧会を見た。
 土曜日で兼六園などの人出は多かったようだが、幸い、展覧会は空いていた。

 金沢は鴨居玲の生誕の地であることもあって、金沢市にある石川県立美術館には、鴨居玲の作品が多く所蔵されている。
 そのおかげもあってか、石川県立美術館では、この鴨居玲展と同時にもう一つの鴨居玲展と題して、所蔵する鴨居玲の作品を展示しており、まさに鴨居玲を堪能できる贅沢な環境だった。その一方、多くの鴨居作品に触れすぎて、随分疲労もしたようにも記憶している。

 学生の頃、わざわざバイクで広島県立美術館まで見に行った「教会」も展示されていた。「教会」を題材にしたいくつかの絵も興味深い。

 最初期の「教会」は、存在する教会を写実的に描いたもののように見える。しかし、時を経るに従い、鴨居玲の描く「教会」は、入口も出口もそして光を教会内に取り入れる窓さえも失っていく。まるで、石から切り出したかのような教会が描かれるのだ。

 誰もその中に入れず、誰もその中から出ることのできない教会。
 その中に光さえ届かない、堅い石造りの教会。

 鴨居にとってキリスト教や信仰は、このように見えたのか。

 その後、教会は、不安定に傾き、あるいは地中に埋没し、さらには空中に浮遊していく。巨大な十字架のような影を落とす作品もある。背景も陰鬱な暗度の高い色調の作品や、悲しみを感じる青で描かれた作品もある。青の背景で描かれた教会には、教会自体もその青に染まり、空間に同化しやがて消え失せる過程であるかのような作品もある。
 暗い背景の中に、忽然と佇む教会の向こうの地平に明るい光の兆しのようなものが描かれた作品もある。しかしその光は、遙か向こうにある。救いにつながるかもしれないその光には、おそらく、人の手が届くことはないのだ。

いくつかの「教会」作品を一度に眺めることができるだけでも、価値があるように思う。

(続く)

※絵に対する感想は、坂野個人の感想であり、鴨居玲本人や高名な解説者の方が全く違う意味で解説をされているかもしれません。あくまで絵画好きの素人の感想とお考え下さい。

花岡幸代ライブ~その5

 ライブの最後の曲は、私も大好きな「サイド・バイ・サイド」だった。私が勝手に想像するに、一昨年に永遠に分かれることになってしまった世界で一番大事な人と、花岡さんが一緒に歩けるようになったときの想いを曲にしたものなのかもしれない。
 この曲が作られたときには、一昨年の突然のお別れ、少なくとも花岡さんがブログで書かれていたような形でのお別れは、想像すらしていなかったはずだ。

 大切な人と一緒に歩くことができたものの、その輝いていた時間に突然の終わりが訪れ、その大切な時間にはもう想い出の中でしか戻れない。そして、時という残酷な存在は、人から痛みを引き受けていくのと引き替えに、その想い出をもゆっくりと、しかし確実にセピア色の霧に包み、色褪せさせていくのだ。

そんな今、花岡さんはどのような気持ちでこの曲を歌うのだろう。

 ゲストの板倉雅一さんの、ピアノの優しいイントロだけで、私はもう、ダメになりかかっていたが、花岡さんの歌うサビの部分

「いつまでも忘れないで
 初めて逢ったあの日の二人を
 いつまでもはぐれないで
 つないだ指と指の温もり
 忘れずに」

で、やはり私は、ダメになった。

いつまでも、一緒に同じ夢を見ていたかった。
いつまでも一緒に歩きたかった。
ずっと大事にしてきた音楽をおいてまでも、その人との時間を大切にしたかった。

それなのに、、、、

見事にもう一度、涙ぼろぼろの中年のおっさんの出来上がりである。

ライブが終わり、ようやく鼻水を止めて落ち着いた私は、友人との待ち合わせもあったため早めに帰途についた。

つきなみの言葉しか出ないが、

素晴らしかった。

本当にいいライブだった。

来て、本当に良かった。

心の底からそう思った。

そして、何故だかわからないが、

「その道は、苦しいし大変だけれど、心を汚さないようにして生きていくほうが、つらくてもきっと素晴らしい。」

そういう心の種火を、ぽっと小さく自分の中に、ともしてもらえたような気になった。

ライブハウスの出口で、お知り合いの方々だろう、板倉雅一さん、そして18年ぶりのライブの緊張感から解き放たれた花岡幸代さんらがにこやかに談笑されていた。花岡さんはやはり小柄で、そして笑顔の似合う女性だった。

 どうしても一言お礼が言いたくて、私は、花岡さんに、「素晴らしい音楽を、ありがとうございました。」などとお伝えした。もっと気の利いたことが言えれば良かったのかもしれないが、そのときの私には無理だった。

花岡さんは、私を見て、「あの、ブログの方ですよね」と言ってくださった。
私は、以前ブログに花岡さんのことを書かせていただいたこともあるし、花岡さんのブログにコメントさせていただいたこともある。どちらの意味かまではお聞きするだけの余裕はなかったが、私としては、すばらしい時間を分けていただいたことをお伝えできただけでも良かった。

そんな花岡さんの新曲CD「十六夜」が出されている。
私はライブ会場で購入できたが、まだ、アマゾンでは出ていないようだ。
購入方法がわかればまた、私のブログでお伝えすることができるかもしれない。

もし花岡さんの音楽に興味をお持ちの方は、復刻されたアルバムも今なら入手できるので、是非聞いていただきたい。

そして、できるならライブで花岡さんの生の歌声に、是非直接ふれていただきたいと思っている。

このような音楽を聴くことのできる幸運を逃してしまうのは、あまりにも惜しい。

真剣にそう思うからだ。

(この項終わり)