将棋ファンとしてはたまらない

 すでに報道されている通り、藤井聡太七段が、将棋のタイトル戦である棋聖戦の挑戦者になった。

 新聞報道によると、正式には挑戦者として対局した時点で、タイトル挑戦最年少記録ということになるのだそうだ。確かに、挑戦者を決定するトーナメントで優勝していても、何らかの事情で挑戦者としての対局ができなかった場合は、タイトル挑戦の事実は生じないので、まあ納得はできる。

 藤井聡太七段が挑戦する棋聖タイトル保持者は、渡辺明三冠である。これまで中学生でプロになれた天才棋士は、加藤一二三・谷川浩司・羽生善治・渡辺明・藤井聡太の歴史上五人しかいない。藤井七段にとって、中学生棋士経験者で、一番新しい先輩が渡辺明ということになる。

 渡辺三冠は、長らく竜王位に君臨し、初めて永世竜王の称号を得たことでも知られる。

 そして渡辺三冠の前に、中学生で棋士になった3人(加藤・谷川・羽生)はいずれも、最も歴史のあるタイトルである名人を獲得している。

 渡辺三冠も、当然早々に名人位を取るだろうと私は思っていたが、どういうわけかこれまで名人位に挑戦すらできていなかった。しかし、昨年度A級順位戦では、順位戦最高のAクラスの猛者達を相手に、全勝して豊島名人への名人挑戦権を獲得した。つまり極めて充実した状態にあるといってもいいだろう。

 新型コロナウイルスの影響で、対局時期が例年より大幅に変わってしまったこともあり、渡辺三冠は、名人戦挑戦と藤井七段を迎えての防衛戦を、並行して戦わなければならなくなった。

 スケジュール的には大変だろうと思う。

 しかし報道によれば、渡辺三冠も、藤井七段とのタイトル戦は、歴史に残るタイトル戦になるだろうと述べているそうで、そのように注目度の高い棋戦で、天才が燃えないわけがない。

 一方、名人戦も最も歴史のあるタイトルであるし、これまで25期もタイトルを獲得していながら、名人位はまだ獲得したことのないタイトルなので、渡辺三冠としては、やはり獲得に燃えているだろう。
 

 これは、将棋ファンとしては楽しみな日々が続きそうである。

豊かな人間性を教えることができるのか?

 中教審法科大学院等特別委員会では、プロセスによる教育の理念等、未だにほぼ20年前に定められた司法制度改革審議会意見書に取りすがった議論がなされているように見える。

 今から見れば、そもそも法曹需要の飛躍的増大が見込まれる、という出発点が完全に誤っており、その誤った出発点を前提に構築された改革意見書ということになるので、その意見書に取りすがる姿は、私から見れば、もはや滑稽でもある。

 以前も言ったことがあるように思うが、豪華客船が航海している際に、今年の冬は特に寒く、現に氷山もいくつか見られるので、進路を変えるべきだと現場の航海士が進言しているのに、船長が「20年前に決まった航路なので、変更することは理念に反する。決められた通り、高速で運行せよ。」と言い張っているようなものである。そういう主張を、当代一流の学者が、法科大学院制度維持のために主張し続けているところが泣けてしまう。

 司法制度改革審議会の意見書内で、法科大学院の教育理念について触れた部分があり、そこには以下のような指摘がある。

「法曹に共通して必要とされる専門的資質・能力の習得と、かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上を図る。」
 

 考えてみれば、ものすごい記載である。法科大学院では、「かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養」、ができるようにするってことである。

 私事になって恐縮だが、私は、関西学院大学の法学部で10年以上教えているし、大学院の法学研究科でも教えているが、いくら大学生・大学院生とはいえ、自分で勉強しようという気持ちにならないと、何にも身につかないと思っている。

 よく、馬を水飲み場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできないというが、勉強においても同じことだと感じている。

 したがって、私もそうだったが、学生さんに無理やり勉強しろと言っても、勉強するわけではないし、学生さんだって就職活動や、恋愛や、クラブ活動に忙しい。そんな中で、いやいや勉強させてもほぼ身につかないので、その点については残念ながらあきらめているといってもいい。

 あきらめているとはいえ、講師として、さじを投げているわけではない。ひょっとして法律って面白いかもしれないね、と思う気持ちの種だけは撒けないかなと思って演習を行っている。

 ひょっとしてこれは面白いかもしれないと思えば、自分で勉強する気になる可能性が出てくるし、勉強する気になって自ら勉強を進めていくうちに、「ん?こいつは面白いとこあるやん?」と思えれば、しめたものだ。
 ゲームにはまる人を見ればわかると思うが、人間って生き物は、面白いと思うことついては、睡眠を削ってでものめりこんでしまうものだし、面白いことであれば頭も働く。もちろん理解も早いし記憶もしやすくなる。

 私は、できるだけ面白いかも?と思えるような題材を提供できないかと思って演習をするよう心掛けている。学者(学説)の対立構造、裏話、法律それ自体ではなくても法律関連で面白いことがあれば、こいつは面白いかもと、興味をそそらせることができるかもしれないからだ。

 よく、法律なんて血も涙もないと、言う人もいるが、民法の条文をみれば、様々な利害対立を解決するために、ある時は動的安全に重きを置き、またある時は静的安全との調和を図るなど、その裏側にある立法趣旨は相当人間臭い価値判断から来ているものもあるのだ。

 私は自分自身の経験から言っても、教師にできることって、対象に興味を持たせ、学生が自分で勉強していく手助けを行う、その程度だと思うのだ。

 もちろん教える立場にある以上、できることはその程度といっても、私としては質問については、可能な限り誠実に答える。わからない質問にはわからないと答えて、調べて回答できるならそうするし、調べてもわからない場合はどこまで調べたかを伝えて、分からなかったことを正直に答える。誠実さは失ってはならないと思っている。

 私は、自分自身が大した人間ではないことは、わかっているつもりなので、豊かな人間性や幅広い教養などを学生に教えることは到底できない。
 また、少なくとも私が学んだ京都大学では、「私の持っている豊かな人間性を学べ!」などと恥ずかしすぎる態度をとる教授など皆無だったし、今でもそんな、オタンコナスの教授は、いるはずがないと信じている。

 もちろん、それぞれの先生には、それぞれの生き方があったわけで、その先生に魅力的な生き方や人間性があると思うのなら、それを取り入れることは学生さんの自由だ。
 しかしそれを、個々の学生に強要してはならないと私は思う。仮に、大学教授が「自分には豊かな人間性がある!」と、恥ずかしすぎる(ある意味傲慢な)信念を持っていたとしても、それは自分だけの思い込みで、周りが見えていないだけの完全な独善かもしれないじゃないか。

 そもそも豊かな人間性や教養など、学生が自らの努力・経験などから獲得したり作り上げていくものであり、誰かが教えたところで身につくようなものではないと思う。
 仮に万一、豊かな人間性を大学で身に付けさせることができるのであれば、高等教育機関を経た人間は全て素晴らしい人間性を持つということになるだろうが、そのような事実がないことは、誰だって分かる。

 偉そうに人間性など教えようとする人間こそ、人間性を欠いている場合が多いように私は思う。

 以上の私の経験からいえば、法科大学院に通わないと人間性が豊かにならないとか、予備試験を目指す学生の心が貧困であるなどという発言があるとしたら、それは、自分のできることを過大評価しすぎた思い上がりの発言だとしか思えない。

 そういう思い上がった発言をする教師の下で、長期の法科大学院生活を送らなければならないとするのなら、それはとても不幸なことではないだろうか?

今朝の出来事

 今朝、5時半頃だったと思うが、隣からハトの鳴き声と羽ばたきがひどく聞こえてきて目が覚めてしまった。

 何事かと思って、外を見ると、おぼつかない足取りと羽ばたきで塀にすがっている2羽のハトと、近くで鳴き声を上げている1羽のハトが原因だった。

 キジバトなどではなく、普通の土鳩である。羽ばたきはするものの、なかなか飛び立てず、うろうろしているところから見て、巣立ちをしようとしているのだろうとわかった。

 こちらが、窓から見つめていると、若鳥が慌てて塀の上で方向転換しようとして、危なく落ちそうになったので、巣立ちを見守ることはやめて、そっとカーテンを閉めた。

 数分のち、大きな羽ばたきと鳴き声が少し聞こえたのち、静かになった。

 カーテンの隙間から覗いてみると、もうどこにもハトはいない。
 周りを見ても、地面に降りているわけでもなさそうなので、どうやら無事に巣立ったようだ。

 ノアの箱舟の大洪水の際にも、確かハトがオリーブの枝を咥えて戻ってきたという話があったように記憶しているが、現実には繁殖しすぎてフン公害の原因となっていたりする。

 私が事務所から昼食を食べに外に出る際にも、ハトフンがたくさん落ちている近くに、土鳩が十数羽も寝そべっている(実際に、足で立たずに地べたに寝そべっているのである!)場所があるのをみると、環境的にはプラスじゃない生き物かもしれないなと、つい思ってしまう。また、人を怖がるどころか、人がよけて当然でしょと言わんばかりの態度が見えて、普段ならあまり好きな連中ではなかった。

 マンションのベランダで野生のハトを餌付けした住民がいたため、大量のハトが押し寄せるようになり、部屋の使用差し止めなどの訴訟に発展した事例もあったはずだ。

 おそらく、今日巣立ったハトも野生の環境の中では、生き延びるのは、そう簡単ではないだろう。残念だが土鳩は、あまり好きな種類の鳥ではないし、鳥類全てを博愛主義的に大事にできるほど、私はできた大人ではない。

 だが、恐怖に打ち勝ち、思い切って飛び立った今日の巣立ちを、なぜだか祝ってやりたくなったのは、私が歳を取ったからなのかもしれない。

 巣立ちのハトに早朝に起こされ、ひどく寝不足を感じながらも、私はそう思っていた。

京都五条壬生川、お好み焼き店「ふくい」閉店

 もう30年近くも前、私が、大学生の頃、友人に初めて連れて行ってもらったのが五条壬生川にあるお好み焼き店「ふくい」だった。

 その当時でもかなり年代物の雰囲気はあり、くすんだ壁の色や、色褪せた「日日是好日」の色紙などに、懐かしさを感じるようなお店だった。

 お好み焼き、焼きそば、と緑色の看板に書いてあったように記憶するが、断然一押しは焼きそばだった。

 基本的には、おばちゃん(おばあちゃん?)が焼いてくれるので、客は手を出す必要はない。まず、ラードを使ってそばと具材を焼くのだが、焼きそばの文字通りで、そばが一部カリカリになるほど焼いてしまう。おそらくその方がソースのシミがいいのだと思うが、初めて見たときは焦がしてしまうのではないかと本気で心配になったことを覚えている。

 その次に大きなステンレスの皿に盛り上げた、キャベツが鉄板の上に大量に投入され、おそらく味の素ではないかと思われる調味料がさっと振りかけられた後、その上に具材とよい具合に焼けたそばが、乗せられる。

 おばちゃんが、無造作ながらも、一度でズバリそばの量に見合った適量をつかみ取った鰹節をかけ、辛めのソース、次に甘めのソースを適量加えて、両サイドからキャベツをうまい具合に焼いていけば、出来上がりだ。良く焼いてくれるおばちゃんは、確か「ヒイラギさん」というお名前だったと思う。お歳こそ召されていたが、とてもかわいらしい方だった。

 清潔感あふれるお店かというと失礼ながらそうではない。しかし、食べ始めればそんなことは、もうどうでもよくなってしまう。

 ソースの甘みとキャベツの生き生きとした歯ごたえがたまらない。味(量も)で勝負のお店なのだ。大盛にすればかなりの量にもなるので、腹ペコの男子大学生二人でもお好み焼き1人前、焼きそば大盛2人前にすると、やっつけるのは相当大変だった記憶がある。京都で学生生活を送った方で、「ふくい」の焼きそばにお世話になった方も相当数いるはずだ。

 大学卒業後はしばらく間が空いてしまっていたが、3~4年ほど前から、懐かしくなって何度も通うようになっていた。

 最近では、お好み焼きの他にも、タレが美味いことに気づいて鉄板焼き(キャベツと具材焼き)もお気に入りになり、特に、ここ1~2年はそこそこ通ったほうだと思う。

 確か昔は、深夜3時ころまで営業していたように思うが、いつの頃か夜11時閉店に変わり、週末の夜食には、少し不便にはなっていた。また焼きそばを焼いてくれるのもおばちゃんではなく、中国人留学生?と思われる人が増えていた時期もあった。おそらくインターネット等で紹介されたのだと思うが、外国人の客の姿もだんだん増えつつあった。

 インターネットでの京都新聞ニュースによると、コロナウイルスの影響もあって、昨日閉店したそうである。

 勝手なもので、もうあの焼きそばを食べられないのかと思うと、なぜだか無性に食べたくなる。

そんな食べたい気持ちでさえ、いまは、寂しいものである。

小さいツバメ

 数年前まで、毎年春になると近所の喫茶店のテントの内側で、ツバメのつがいが子育てをしていた。

 テントといっても、キャンプなどで使うものではなく、お店の入り口でお店の名前などを入れて宣伝がてら、お客が雨に濡れないようにしているテントである。

 テントの構造や、喫茶店が営業しているときは人の出入りが激しいので、天敵のヘビやカラスが来ないのだろう。ずいぶん前から毎年、子育てをしている姿を見ることができた。お店の方も、お客への注意書きや、フンが落ちないような受け皿を作るなどツバメを大事にしている様子がうかがえた。。

 ところが、子育て上手のつがいが引退したのか、ここのところ春になっても、ツバメが子育てに来なくなっていた。確か一度、つがいがやってきて以前よりも形の悪い巣を作ったが、あいにく大雨に遭ってしまい巣が落ちてしまったことがあった。それ以降は、ツバメが巣作りをすることもなく、私は、何となく寂しい思いをしていた。

 ひと月ほど前、ジョギングの帰りにテントを覗いてみると、2羽のツバメが、寄り添うようにテントの内側で眠っていた。
 この場所に戻ってきたということは、少なくともどちらかは、以前ここで育ったツバメなのだろう。

 この2羽がつがいならば、新たな巣作りをするかもしれない。私は、少し期待をしていた。

 ところが、2羽で眠っていた姿を確認できていたツバメが、数日ほどで突然姿を見せなくなった。その後何度か覗いたが、やはりツバメはいなかった。

 ところが1週間ほど前に、未練がましい気持ちでテントの内側を覗いてみると、ツバメがいた。

 だが、眠っている姿は、1羽だけだ。

 周囲には、子育てをしているツバメや、子育てを終えたツバメたちもいる中で、そのツバメは、おそらく自分が生まれ育ったテントの中で、一羽で眠っているのである。

 ツバメに何があったのか私にはわからない。一緒に寄り添っていた相方となぜ、どういう理由で一緒にいないのかもわからない。

 巣立ちを終えた若鳥や親鳥は、河川敷や葦原などに集まり集団生活をすると言われているが、この子はどうして集団を離れ一人でここにいるのか、その理由もわからない。

 ただ、私には、そのツバメが、なんだか、とても小さく見えた。

まだ続く、法科大学院の予備試験敵視

 最新の法科大学院等特別委員会で配布された資料には、「法科大学院改革の取り組み状況」というものがあるので見てみた。

 そもそも法科大学院制度が2004年に創設されてから、すでに16年経過しているにも関わらず、発足当時から現在に至るまでずっ~~~と改革が必要と言われ続けているという、極めてお粗末な状態だが、今回はそれを措くとして、上記資料の中に、なぜか予備試験の項目があり、予備試験を敵視するかのような次のような指摘が記載されている。

 ご丁寧にも、下記のような引用もなされているので紹介する。

(引用開始)
参考:法曹養成制度改革推進会議決定 第4 司法試験 1 予備試験(抄)) 予備試験受験者の半数近くを法科大学院生や大学生が占める上、予備試験合格者の多くが法科大学院在学中の者や大学在学中の者であり、しかも、その人数が予備試験合格者の約8割を占めるまでに年々増加し、法科大学院教育に重大な影響を及ぼして いることが指摘されている。このことから、予備試験制度創設の趣旨と現在の利用状況がかい離している点に鑑み、本来の趣旨を踏まえて予備試験制度の在り方を早急に検討し、その結果に基づき所要の方策を講ずるべきとの指摘がされている。
(引用ここまで)

 回りくどい言い方をしているので、私なりに簡単に言ってやると、予備試験ルートの受験生は圧倒的に法科大学院ルートの受験生よりも司法試験合格率が高い。だから、優秀な学生は予備試験を目指しがちであり、法科大学院制度に来てくれない。優秀な学生が来てくれないと司法試験合格率を上げられない、つまり法科大学院にとって予備試験制度は敵である。だから法科大学院が生き残るために、予備試験を何とかしてください、はっきり言えば制限してくれ、できれば廃止してください、ってことだ。

 ケチをつけるなら、もともと法科大学院だって入試を行って、法曹になれる可能性のある学生を選抜しているはずだ。だから、仮に優秀な学生が予備試験に合格して中退していっても、残された学生だって、もともと法曹になれる可能性のある学生として入試で選抜されているはずだから、きちんと教育してやれば司法試験に合格させるだけの力を身につけさせることができなければおかしい。優秀な学生が来なければ合格者を増やせないというのは、自らの教育能力のなさを自認するに等しいとても恥ずかしい主張のはずだ。

 それはさておき、司法制度改革の目的は、質・量とも豊かな法曹を生み出すのが目的であり、法科大学院制度はその手段として想定された。これは、いくら法科大学院万歳の学者先生であっても認めてざるを得まい。

 そうだとすれば、手段は重要ではない。要は、目的さえ達成できていればいいのである。

 予備試験が現状通りであっても、質・量とも豊かな法曹が生み出されているのであれば、何の問題もない。再度述べるが、目的が達成されているのであれば、手段はどうだっていいのである。

 法科大学院が何とかの一つ覚えのように振り回す、「プロセスによる教育の理念」だって、プロセスによる教育が優れている、優れた結果を出せるという証明は何一つなされておらず、実際には法科大学院側の学者が、そのように言いつのっているだけなのだ。

 私の知る限り、プロセスによる教育が法曹に必須であるなどという主張に、何の根拠もないのである。

 何の根拠もないプロセスによる教育理念に縋り付き、それを振り回して現実を見ようせず、さらには法科大学院制度維持のために意固地に予備試験の制限すら求める学者先生から、プロセスによる(ある程度の長期間かかる)教育を施された法科大学院生に、他人に共感する力や豊かな人間性が身につくのだろうか。

 私は、むしろ疑問に思う。

 いつも言っているように思うが、学者の先生方には、本当にプロセスによる教育が法曹養成にとって必須なのかについて、はっきり示してから、「法曹教育にはプロセスによる教育が必須であり、だから予備試験ではその点で問題がある」と、堂々と主張していただきたいものだ。

 単に(正しいかどうか証明されてもいない)理念に反する、というのでは理由にならないはずだ。

 理念に反していても、目的を達成に役立つならそれは有用なのである。理念に沿っていても目的達成に役立たない制度ならそれは無用の長物なのだ。

 今では、プロセスによる教育課程を経ていない予備試験ルートの法曹実務家はすでにたくさん世に出ている。

 もし本当にプロセスを経ていない予備試験経由の法曹に、なんらかの問題が生じているのなら、その事実を簡単に証明できるはずだ。

 但し、現実には、ずいぶん前から大手事務所が競って予備試験ルートの合格者を採用しようとする態度を続けているし、予備試験ルートの司法修習生が裁判官、検察官に多く採用されている事実からみても、私には、予備試験ルートの法曹に特に問題があるとは思えない。

 それどころか実務界では高く評価されているといってもいいだろう。

 この私の評価が正しければ、結局プロセスによる教育は法曹養成に必須ではなく、したがって、法科大学院制度自体が不要、ということになると思う。

 上記のような現実を知っていて、なお、法曹養成には法科大学院におけるプロセスによる教育が必須であると主張しているのであれば、法科大学院を維持することだけが目的となった、学者先生(もしくは利害関係者)による身勝手なド厚かましい主張といわざるを得ないだろう。また、知らないのであれば、法科大学院等特別委員会の委員たる資格はないだろう。

 国民の皆様も、必要も効用もない制度に多額の税金を投入されるのは、もうごめんだとお考えになると思うんだけどなぁ・・・。

オンライン演習雑感

 関西も緊急事態宣言が解除されたが、私が非常勤講師を務めている関西学院大学では、まだ学生の登校が許されていないようだ。

 文科省が、オンライン授業をするにしても、授業終了後速やかに、①「設問解答、添削指導、質疑応答等による十分な指導」を行うとともに、②「学生の意見の交換の機会」を確保する必要があるとの告示を出したため、大学側も苦慮しているようだ。

ちなみに、Zoom等が使用できないなどオンライン通信環境が整っていない学生がいることも想定されるが、それについては、最低限のチャンネルを確保して別途の対応を配慮してくれという、きわめて抽象的な指針しか出されていない。

 幸い関西学院大学には、ネットワーク環境が比較的整っている部分もあったため、私は、事前に学生にアンケートを取ったところ、回答者は全員可能だとの解答であったため、今回初めて、オンライン授業(演習)をやってみた。

 一応無料アカウントからは、1対多数のオンライン会議は40分が限度と記載されていたことと、初めての試みであることから、最初は40分に限って行うことにした。

 結果は、やれないことはないが、相当厳しいのも事実だ。

 私は、学生の理解を助けるために、板書したり、図解するなど、黒板を多用することが多い。私の場合、板書は、学生さんが理解できない点について理解を助けるために行うものであるため、一見分かりにくそうでも学生さんが理解していれば板書は不要だし、簡単そうでも学生さんが引っ掛かっている点があれば、板書でさらにかみ砕いて説明することもある。このようにどの項目を板書して説明するかは学生さんとのやり取りで決まるともいえるので、板書をパワーポイントなどで事前に準備することは不可能である。

 もちろん法律に関する問題を扱っているので、裁判などの事例を説明する必要も出てくるだろうが、どのような事案についての裁判例なのかについて、文字だけの説明を読むよりも間違いなく図示したほうが、理解がしやすい。司法試験の短答式問題を解くときでも、論文答案を作る時でも、登場人物の法的関係を図示してわかりやすくするのは常套手段である。

 また、学生がきちんとレジュメの該当部分を見ているのかについても、確認がとりにくい。

 何より、学生の反応が読み取りにくいのが困る。

 演習なので、学生の反応を見ながらヒントを出したりして誘導することもあるのだが、学生の反応が読めないとどこまで誘導すればいいのか判然としないのである。

 また、私の演習では、六法をバンバン引かせるのだが、学生がどれくらい六法を引くのに手間取っているのかも分かりにくい。

 1度の経験で何が分かるといわれるかもしれないが、現に大学受験予備校がサテライト授業として展開しているような、大教室講義型(一方通行型)の授業のほうが、オンラインではやりやすいのではないかと感じた。

 あとで大学のメールアドレスからアカウントを作成すれば、zoomを無制限で使える可能性があると学生に教えてもらったので、来週からは、一コマ分きっちり時間を取って、学生さんに単位を付与しても大学や文科省に文句をつけられないようにしていきたいと思っている。

 やはりいくら通信手段が発達しても、面と向かってのやり取りにはまだまだ敵わないのだろうと感じた一日だった。

黒川検事長の賭け麻雀

 黒川検事長の賭け麻雀が大きな話題になっている。

 麻雀と聞くと、すぐ悪い遊びだという人もいる。麻雀放浪記や麻雀劇画に出てくるように麻雀にはまって家庭を壊したり借金まみれになったりするイメージがあるのかもしれない。

 しかし、麻雀をやったことがない人には分からないと思うが、麻雀それ自体は、相当面白いゲームである。

 高得点の手役を狙おうとすれば、仕上げるのに時間がかかる上、ツキも必要だし、ガードががら空きになりがちだ。他の人に先に上がられてしまう可能性も高くなる。他人に上がられてしまえば、いくら最高得点の手役が手の内で出来上がっていても無得点だ。
 一方、安い得点の手役は、手の内で仕上げることに時間はかからないことが多いが、いくら上がっても、一発でかい役を上がられてしまえば、逆転されてしまう。

 その中で、状況を読みながら自分に最も有利になる戦い方を選択していくのが楽しいのだ。もちろん相手がいることなので、相手の状況や心理も加味して、いま自分がとるべき行動を選択する必要があるのが麻雀であり、それ故に面白いのだ。

 ゲーム自体の面白さだけではない。運気の流れが見えるように感じられる場合もある。
 ツイているときは、狙った方向にどんどん進展する。失敗したはずなのに、その失敗すら、よりよい結果に結びつくこともある。下手な人でもツキさえあれば、経験者をあっさり食ってしまうこともある。一方ツイていないときは、どんなに足掻いても、ちっとも好転してくれない。何も失敗しているつもりはないのに、持ち点だけは減っていくような場合もある。

 私は大学の頃、クラブの連中に教えてもらって、よくやったが、やはり面白いゲームだった。

 ゲームセンターに行くと、麻雀のアーケードゲームがあり、よくあるパターンだが、勝つと一枚ずつ漫画の女の子が服を脱いでいくようなものもあった。もちろん、あと数枚までたどり着くと、急にコンピューターが強くなり、なかなか勝てなくなるのが常だった。今はもうない、北白川バッティングセンターだったと思うが、コンティニューを続けてあと1枚までたどりつき、最後のコインでコンティニューしたところ、牌が配られた瞬間にコンピューターに「ロン!」といわれ、詐欺のようなテンホウを食らって、撃沈された記憶もある。

 ちなみにテンホウとは、配られた牌で上がっている状態である。つまり、コンピューターがテンホウで勝つということは、お互いに牌を配った時点で勝負が決まり、お金を入れたはずのこちら側は、画面を見ていただけで、何一つできなかったということだ。

 多分、麻雀ゲームでテンホウを食らったことのある人は、ほとんどいないと思われる。

 ただ、怒られるかもしれないが、麻雀は確かに少しだけ賭けた方が絶対に面白いのは事実だと思う。

 全く失うものがない場合の麻雀は、どれだけ相手に高い手を上がられても痛みがないので、相手に気を使わずに自分が高い手だけ狙うことができてしまう。どんなに相手に放銃(相手の当たり牌を出してしまい、相手に点棒を支払わなければならないこと)してしまおうと、全く平気だからだ。
 みんながみんな自分のことだけを考えて戦っても、麻雀は面白くない。

 大きなリターンを狙うにはリスクを伴う。その状況下で他人と駆け引きしつつそのリスクを管理していくのが麻雀の楽しさの一つだからだ。

 ただ、今回、検察庁方の改正などで、渦中にあったといって良いはずの黒川検事長が、緊急事態宣言の中、自ら進んで、賭け麻雀を行ったとは考えにくい。想像だが、黒川検事長は、麻雀に誘われ、大したレートではないから楽しくするためにやりましょうなどといわれて賭けることになったのかもしれない。おそらく気心の知れた中であったか、何らかの信頼関係があった上でのことだったと考えるのが自然だと思う。

 一応刑法上賭博罪も規定されてはいるが、競馬・競艇・競輪・オートレースなど公営賭博が堂々と適法に行われ、街中にはパチンコ店も多数存在する中で、賭博行為に処罰に値するだけの法益侵害があるのかにつき、疑問がないわけではないが、「賭け麻雀」という見出しがマスコミに踊れば、当事者の失脚は免れない。

 もし、黒川検事長が嵌められたとすればの話だが、そのような機会を提供した側には信頼関係を裏切って相手を地獄に蹴落としてでも、自らの利益を図るという空恐ろしい計算が見えるようで、私は好きではない。

ベネチアの夜

 ベネチアは、深夜のほうが、素顔に近い。

 4~5回しかベネチアに行った経験がない若輩者のうえに、ここ10年ほどは人の多さに嫌気がさしてしまい、行ってもいないくせに、私は生意気にも、勝手にそう思い込んでいる。

 ご存じの通り、ベネチアは世界的観光都市だから、昼間の混雑は相当なものだ。ヴァポレット(水上バス)にあふれんばかりに観光客が乗っていることもあるし、土産物店などが集中している地区では、すれ違うのもやっと、ということもある。

 しかし、私が何度か行っていた頃のベネチアでは、夜の飲食店が店を閉めた後の深夜は、人通りも少なくなり、少しだけ静かな時間が戻っていた、と記憶している。

 大体、どこの観光都市でも道路が近くを通っていることが多く、人通りがほとんどなくなった深夜でも、遠くからごぉーっという、自動車の走る低い響きが聞こえてくるところがほとんどだ。私は京都に住んでいるが、京都だって、この音から無縁ではいられない。

 ところが、ベネチアにはその響きがない。深夜で運行本数が減ったヴァポレットが響かせるディーゼル機関の音がときおり遠くで聞こえるくらいなのである。
 自動車が入れない街だから当然なのだが、そこが、まず、かなり素敵に感じられる。

 それに加えて、静かな通りを、ゆっくり歩いていると、ちゃぷちゃぷ、とか、ぴちゃぴちゃ、という、運河の波が、岸を優しくなでているような音が聞こえてくる。不思議なことに、急いだり、普通に歩いているときにはその音は聞こえず、ゆっくり歩いているときに限って、その音に気づくことができるようにも感じられる。

 どういうわけか、このような水の音を聞くと、不思議と気持ちがなだらかに、穏やかになっていくような気がする。

 おそらくこの町で眠っている人は、特に気にもしていない音かもしれないが、街の本質的属性としてこの音が、住民やこの町を訪れる観光客が眠っているうちに、ひそやかに彼らの無意識の中に深い影響を与えていくように、私には感じられたりするのだ。

 だから、深夜のほうが、街としての素顔に近いのではないか、と感じたりするのだろう。

 もちろん、治安のいい日本と違ってイタリアだし、いくら当局が威信をかけて警備に力を入れているからといっても、強盗が出ない保証もない(聞いた話では、暗殺者通り~アサシンストリートという名前の通りもあるとか・・)。したがって、あまりお勧めはしないのだが、やはりベネチアの深夜の散歩は魅力的だという思いが私には強い。

 機会があれば、是非再訪してみたい都市のひとつである。

法科大学院等特別委員会での意見

文科省中教審の法科大学院等特別委員会は、私の見る限り、司法制度改革の目的よりも、手段であったはずの法科大学院制度の維持存続に汲々としている印象がある。

 プロセスによる教育のどこが優れているのかも明らかにせず、司法試験合格率で彼らからすればプロセスによる教育を経ていない予備試験組に惨敗し続けながらも、学者の先生方は何の根拠も示すことなく、「プロセスによる教育」というマジックワードを振り回し続けている。

 議事録についても、学者の現実を見ない、偏った法科大学院ありきの意見ばかりが多く、腹が立つので最近読んでいなかった。

 しかしふと思い立って少し近時の議事録を見てみると、多くの学者委員が、本来の目的を見失い、法科大学院維持存続ばかり考えた発言を繰り返す中、弁護士の酒井圭委員は問題の本質に迫る、なかなか鋭い提案をなさっているときがあることに気づいた。
 しかし、残念ながら、結局多くの学者委員に、はいはいそんな意見もございますな・・・という感じでスルーされている印象が強い。

 また、最近、専門委員に加わった、弁護士菊間千乃委員も令和元年9月10日の第94回特別委員会で、「(法科大学院における)法学未修者教育の充実」の議題について、未修者を切り離す意見もあるとの報告に対し、面白いことを述べているので一部引用する(着色は坂野による)。

(引用ここから)
【菊間委員】 菊間です。私は未修者で社会人で4年コースの夜間のロースクールに行った経験からお話しさせていただきますけれども,未修者といっても社会人と,あと仕事をしないで未修の人とでは全く違うので,そこをまず分けて考えなければいけないかと思っています。私も社会人から弁護士になったので,弁護士になってから本当にたくさんの社会人の方から法律家になりたいのだという御相談は受けています。ただ,皆さんロースクールには行っていません。私がいた頃よりも夜間が減っているということがあるのと,今こういう現状だと,仕事を辞めてロースクールに,私が行った2期生の頃は仕事を辞めてロースクールに入る人が多かったのですが,今は非常にそれは危険だということで,働きながらとなるとロースクールは難しいので予備試験を私も勧めていますし,予備試験の方に社会人の方は今受かっている。その社会人の方もロースクールの中に取り込んでいきたいということであれば,大きく考え直さないといけないのではないかと。今の状況で社会人がロースクールにはまず来ないのではないのかという気がしています。
学習の未修者のことを考えた場合もですけれども,例えば私も加賀先生と同じ御意見で,既修者との切離しというのは違うのではないかと思います。自分の経験からいっても,先生方は未修者からするとできない人の気持ちが分かっていないというか,何が分からないのかが分かってくれないのですね,先生方が。私も法学部出身ですけれども,ここで先生方にこんなことを言うのも何ですが,大学には全く行っていなかったので,本当に何も分からないままロースクールに入ってしまったので,一からだったのですね。その時に何が一番役に立ったかというと,既修者の人に勉強の仕方を教わったことですよ。既修者の方はどう勉強したら物事が分かるかとか,どういうノートの取り方を取ったらいいかとか,どう論文を書いたらいいかとか,今まで自分達がいっぱい悩んで考えてきたことを未修者の人に教えてくださった。

(後略・引用ここまで)

 つまり菊間委員は、大宮法科大学院の卒業生でありながら、自らの体験を踏まえても、後進の社会人法曹志願者には、法科大学院ではなく予備試験を勧めているのだ。法科大学院の先生方は、未修者にとって、何が分からないのかという根本問題すら理解してくれなかった、勉強の仕方、ノートの取り方、論文の書き方など大事なことは法科大学院教員ではなく、既修者に教わったとも述べている。

 このような現実が指摘されていることについて、文科省・中教審・法科大学院の教員は、恥ずかしいと思うべきだ。

 確かに、未修者の教育には教員の多大な労力と、未修者自身の多大な努力が必要である。法科大学院制度導入の当初、えらい学者の先生達が、1年もあれば既修者に追いつくだけの力を身につけさせてやれると自らの教育能力を過信したため、法科大学院では1年間で既修者に追いつくという無茶苦茶な制度設計がなされた。
 未修者を切り離す制度を考えるのであれば、自分たちが自らの教育能力を過信して制度設計をしてしまったことへの反省がまず最初に必要だと思われる。しかし、残念ながら、私が読む限り議事録から学者委員にはそのような反省の動向はうかがえない。

 今回の未修者を切り離すという問題提起の中には、おそらく、既修者とは別の未修者向けの教育が必要だからという建前があるのだろうが、その裏には、既修者のみの法科大学院にして司法試験合格率を上げたいという、自分たちの教育能力の欠如を棚に上げた野望が潜んでいるように感じられてならない。

 話は少しずれてしまうが、法科大学院側(学者委員)は、現実を見ていないだけでなく、菊間委員が現状に即して、社会人法曹志願者に対して勧めている予備試験を敵視し、プロセスを経ていないとか、本来の趣旨と異なるなどと批判することにより制限しようと躍起になっている。

 そもそも、予備試験を通じてでも、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹が生み出されるのであれば、何ら問題はないはずだ。

 仮に学者委員が言うように、プロセスを経ない予備試験ルートに問題があるというのなら、すでに予備試験ルートでの法曹も相当数存在するのだから、彼らを調査し予備試験ルートの法曹に何らかの問題があることを立証する必要があるし、それは容易に可能なはずだ。

 ところが現実には、大手法律事務所が予備試験ルートの司法試験合格者を就職において長年にわたって優遇し続けているし、予備試験ルートの司法試験合格者も多数、裁判官や検察官に任命されていることから、予備試験ルートの司法試験合格者は問題があるどころか、むしろ見どころがあると実務界では思われているとみて間違いあるまい。

 だとすれば、予備試験ルートを制限する理由は存在しないということになるはずだ。

 結局、未修者を切り離し、予備試験を制限しようとする法科大学院等特別委員会は、多様なバックグラウンドを持つ優秀な法曹を生み出すという司法制度改革の目的を達成することを目標にしているのではなく、ひとえに法科大学院制度という手段を維持することが最優先事項にしているといわざるをえないだろう。

 さて、菊間委員の発言を聞いた学者先生方は、どう反応していくのか。

 今まで通り、現実から目を背け、プロセスによる教育というマジックワードにすがって、それを振り回し続けるのだろうか。もしそうなら、そのような人間を有識者として専門委員に任命した文科省の見識も疑わざるを得なくなるだろう。

 酒井委員や菊間委員が現実に即した発言を今後も続けた場合、次回の委員編成で再任されるのかも要注目だ。