よくある相続の落とし穴① ~母親に相続させるために子供が相続放棄をする場合~

この記事は、当事務所HP(https://www.win-law.jp/)のブログに掲載しておりますが、皆様の参考になるかもしれないと思い転載するものです。

(相談者A、弁護士S)

A:先生、先日父が亡くなってようやく最近落ち着いてきたのですが、ちょっと相続放棄でご相談したいことがあるのです。

S:お父様は急に亡くなられたとお聞きしたので、いろいろ大変だったでしょう。相続放棄ということは、お父様に借金などがあったということなのでしょうか?

A:いえ、いえ、父は堅実なタイプなので、相当額の資産を残してくれていますし借金もありません。ただ、私も弟も事業がうまくいっていますし、経済的にも問題がないので、兄弟2人で相談した結果、全部母親に相続してもらおうと思っています。父の弟の叔父さんが親切にも相談に乗ってくれ、「それなら相続放棄が簡単でいいらしいぞ」、と教えてくれましたので、相続放棄の手続きをお願いしようと相談に来ました。

S:それは、大変! Aさんの叔父さんは、お金に困っているのではありませんか?Aさんのご親戚のことを悪くいいたくありませんが、相続の落とし穴が仕掛けられている可能性がありますよ。

A:ええっ!どういうことでしょうか!?

<解説>

 確かに、父親が亡くなって、母親と子供2人が相続人である場合に、子供2人が相続を放棄すれば、全て母親が相続できそうにも思えます。母親を大事に思って母親のためにと思い相続放棄を考えている人もいるでしょう。

しかし、それは大きな勘違いです。子供2人が相続放棄をしたばっかりに、別の人間が関与してきて、紛争が起きてしまうこともあるのです。

 つまりはこういうことです。

 相続放棄をした場合、「相続放棄をした者は、その相続に関して初めから相続人とならなかったものとみなす」と扱われます(民法939条)。要するに、父親の相続に関して母親と子供2人が相続人である場合に、子供2人が相続放棄をすれば、父親の相続に関しては、子供2人はこの世に存在しない状態として扱われてしまうです。平たくいえば、子供のいない夫婦がいて、その夫が死亡した状態と同じものとして扱われるのです。

 子供のいない夫婦がいて、その夫が死亡した場合、妻は当然に相続人ですが、子供がいないため、第2順位として夫の両親(相続分は妻が2/3、両親が1/3)が法定相続人になってきます。夫の両親が既に死亡している場合は、第3順位として夫の兄弟姉妹(相続分は妻が3/4、夫の兄弟姉妹が1/4)が法定相続人となってきます(民法889条)。

 以上から、Aさんのケースは、母親と子供2人が相続人である状況ですから、子供2人が相続放棄をした場合には、子供がいない夫婦の1人が死亡した場合と同様に扱われ、Aさんの亡父親の兄弟姉妹が相続人として名乗りを上げてくるということになるのです。

 相続放棄は撤回ができません(民法919条1項)から、Aさんと弟さんが相続放棄をした後で、叔父さんが「わしも相続人なのだから遺産の1/4をよこせ」といってきても拒めない、というかなり悲惨な状況が想定されます。

 親孝行のつもりで相続放棄をしたばかりに、思いがけない相続人が財産をよこせといってくる根拠を与えてしまうこともあります。

 相続放棄をする際には、必ず弁護士さんに相談した方が良いでしょう。

 大阪弁護士会所属 弁護士 坂野 真一

児童ポルノ所持と自首

 児童ポルノ大手販売サイトの摘発報道がなされてから、児童ポルノ所持罪が心配になって相談に来られる方が、当事務所にも複数いらっしゃる。

 そのような方から聞いた話だが、児童ポルノ所持について相談すると、逮捕される可能性があるなどと相談者をビビらせて、自首を勧め、自首に同行する費用として高額の弁護士費用を要求する弁護士がいるとのことだ。

 ある相談者の方は、捜索差押や逮捕を避けるには自首したほうがいい、自首のための上申書作成と自首のための弁護士同行で、あわせて80万円もの弁護士費用が必要だと弁護士にいわれ、とてもそんなに払えないということで当事務所に相談に来られていた。

 確かに、児童ポルノ所持とはいえ犯罪態様によっては、自首を選択したほうがいい場合もあるだろう。しかし、児童ポルノ所持にも様々な態様がある。私のお聞きした相談者の方の事件内容であれば、あえて自首をする必要までは認められないと思われるものだった。

 また、自首したから絶対に逮捕されないとか捜索差押えを受けないという保証はないし、正式に自首として受理されれば、自首の手続きは告訴に準じるから、自首を受理した場合、刑訴法245条・同242条により司法警察員は速やかにこれに関する書類及び証拠物を検察官に送付しなければならないことになり、却って捜索差押を誘発する契機にもなりかねなかったりもするのである。

 もちろん、TV番組でもよくあるように弁護士によって判断・意見が異なることはありうるから、私の見立てが絶対に正しいとは言わない。
 しかし、少なくとも私が相談に応じた事案は、自首する意義がほとんどないと思われるような事案であった。

 私に言わせれば、このような事案で自首を勧めることは、一般の方に分かりやすいように病気に例えるならば、まったく虫垂炎の気配もなく、今後も特に問題は生じるとは思えない状態であるにもかかわらず、敢えて将来的に虫垂炎になる可能性を医師が指摘し、それを聞いて、「虫垂炎も手遅れになれば死にますよね」、と必要以上にビビっている相談者に対して、健康保険が適用されない自費診療での高額な予防的虫垂摘除手術を勧めるようなものである。

 とはいえ、このような手術を勧めても、違法ではないだろう。

 医師としては屋上屋を架すことになっても、念には念を入れて虫垂炎の心配を取り除くほうが良いと考える場合もあるだろうし、虫垂炎になってから手術をしても十分間に合うものの、高額の手術料を支払っても虫垂炎になる心配を失くしておいたほうが気が楽だという人も、ひょっとしたらいるかもしれないからだ。

 しかし、全くの健康体でありながらあえて高額の費用を支払ってほとんど意味のない手術をするかといえば、通常は、そのような手術を希望する人はいないだろう。虫垂炎になって手遅れになったら死ぬかもしれない、と必要以上に怖がっている人の恐怖に付け込んで手術を勧めているのからだ。したがって、この虫垂摘出手術のような例は、違法ではなくても、妥当な医療行為かと問われれば、そうではない、と私は考える。

 話を児童ポルノ所持に戻せば、逮捕される可能性や捜索差し押さえを受ける可能性がゼロであるとは、誰にも断定できない。したがって、「逮捕される可能性はあります」「捜索差押えを受ける可能性もありますよ」と伝えること自体は、嘘でも違法でも何でもない。

 しかし、弁護士から「逮捕される可能性がある」「捜索差押えを受ける可能性がある」と指摘されれば、そのような方面に知識が乏しい一般の方々は、相当な高確率で、逮捕・ガサ入れの事態が生じると誤解する可能性が高いのではないだろうか。

 だとすれば、その誤解に乗じて、健康な人に虫垂摘出手術を行うように、実質的にはわずかな意味しか持たないサービスを(相当高額な費用を取って)売りつけることが、果たして正当な弁護サービスの提供と評価してよいのだろうかという疑問が私にはぬぐえない。

 ところで、以前盛んに叫ばれた、「弁護士も自由競争しろ」、とのマスコミや法科大学院支持の学者の主張(大合唱)は、一見正しそうに見えなくもない。大新聞や偉い学者が何度もそう言っていたのだから、なおさらだろう。

 しかし、自由競争原理を弁護士業にも全面的に導入すべきだとすれば、自由競争社会では利益を上げることが最優先課題になる。利益を上げられない者は、競争に敗れるわけだから、退場するほかないからである。

 したがって、自由競争信奉者の人たちからすれば、例えわずかしか意味がないサービスであっても、(意味はゼロではないかもしれないので)そのサービスを売りつけ、高額の利益を上げる弁護士が自由市場で生き残り、その一方で、意味がほとんどない弁護サービスは敢えて行うべきではないとして相談料しか受けとらない弁護士が利益を上げられずに自由市場から退場することになっても、それは自由競争の結果として当然である、ということになるのだろう。

 しかし、上記のどちらの弁護士が、国民の皆様にとって良い弁護士、生き残ってほしい弁護士というべきなのだろうかという点から考えると、果たしてどうだろうか。

 自由競争により経済的に勝者となった弁護士が良い弁護士(国民の皆様にとって望ましい弁護士)であると即断してよいはずがない、と私は思っていたりもするのである。

新型コロナウイルス特措法案と日弁連~2

(昨日のブログの続きです。)

 ここで話を戻すのだが、新型コロナウイルス特措法案で、法テラス適用要件を緩和するということは、経済的にさほど困っていない人でも法テラスを利用できるようにしようということだ。

 法テラスを利用することにより弁護士費用が抑えられるのであれば、多くの人は健全なそろばん勘定をした上で、利用可能であれば法テラスを利用するはずだ。現に「弁護士費用を安くする裏技」などとして、法テラス利用がインターネットで紹介されていたりすることからも、法テラス利用者が激増することはほぼ間違いあるまい。

 これは、弁護士業界に、提供する法的サービスに応じた報酬が得られない仕事が激増することと、同義である。また、多くの国民の皆様に弁護士費用の内的参照価格を大きく引き下げてしまう(弁護士費用は法テラス基準が普通であり、通常の弁護士費用の方を常に高価だと多くの方が感じてしまうようになる)というデメリットもある。

 野党の新型コロナ特措法において、法テラス基準の緩和を日弁連の方から申し出たという情報が事実なら、日弁連は、新型コロナウイルスで打撃を受けた人は被害者であり、被害者は救済してあげなければならない、とお人好しにも考えたのであろう。その意気やよし、である。
 しかしその考えは、裏を返せば弁護士業界にペイしない仕事を大量に導入させ、かつ将来の顧客の減少にもつながる愚策でもある。

 もっと解りやすい言い方をすれば、日弁連は、新型コロナウイルスで打撃を受けた人の生活や財布は心配してあげようとしたが、高い会費を支払って日弁連を支えている弁護士それぞれの生活や財布は心配しなかったのだ。

 もちろん弁護士が、特権的に保護され、全員が経済的に豊かであり、老後も含めて生活していくのに何の心配もない、という牧歌的な状況であれば、そのような夢物語を語っても許される場合があるのかもしれない。

 しかし現実は違う。

 法曹需要が伸びない現状を無視して弁護士の激増政策を継続した結果、弁護士の所得は減少の一途をたどっている。

 日弁連の弁護士白書によれば、2006年と比較して、2018年の弁護士の所得の平均値・中央値とも半減している。最も多い所得層は、所得200万円以上500万円未満である。弁護士には退職金もない。健康保険は国民健康保険で、年金も国民年金(平均支給額月額5万5千円)だ。もちろん会社が半額負担してくれるわけでもない。
 そして、今後、急に訴訟社会が到来する等、弁護士需要が激増するとの見込みも全くない。

 このように、自らの将来の生活を見通すことすら大変な状況で、日弁連執行部は、なお、弁護士は弱者を救えと言い張ったということなのだ。

 私にいわせれば、アホとしかいいようがない。

 やってることが完全に逆だからだ。

 他人の財布を心配できるのに、日弁連を支えている、所得急減中の会員達の財布を心配できないのは愚の骨頂である。日弁連執行部は、弁護士が金のなる木を持っていると勘違いしているのかもしれないが、日弁連執行部にお勤めのエライ先生方と違って、普通の弁護士は金のなる木などもっていないのである。

 日弁連は弁護士から会費を取って運営しているのだから会員である弁護士を守らなくてどうするというのだ。

 理想を追うのも結構だが、きちんと足下(会員の状況)を見た上で、できれば多くの国民の皆様の利益に沿う方向で、かつ、弁護士にとって利益のある提言をするべきだ。
 いくら弱者救済の理想を掲げても、経済的裏付けのないボランティア仕事を増やすことは弁護士制度の将来的な維持存続にとっても百害あって一利無しである。

 また、日弁連や弁護士会が掲げる理想が国民の皆様の意向に沿っていない可能性だってある。これまでも日弁連は理想に燃えて人権のため、社会正義のためと称して弁護士に負担をかけてきた。市民のためにと、大阪弁護士会が公設事務所として設けた大阪パブリック法律事務所(通称大パブ)もその一つである。

 私とて大パブの意義を否定するものではないが、これら弁護士らの努力が国民の皆様方の意向に沿っていて評価を受け、弁護士・日弁連等に感謝してくれているのであれば、もっと一般社会から日弁連や大パブに寄付が集まってもおかしくないはずだ。大学などに何十億円も寄付する実業家が存在するのだから、現実に社会のお役に立つ行動をとっていたのなら日弁連だって、大パブだって寄付の対象になってもおかしくはないだろう。

 ちなみに大パブは15年間で5億8800万円の自腹を大阪弁護士会に切らせたが、人権擁護などを主張するマスコミや、実業家などから大パブに高額の寄付金支援があったという話は、私は聞いたことがない。

 それでも、日弁連執行部が特措法を推進するなら、提案がある。特措法推進によって、仮に法テラス適用要件が緩和されたのであれば、日弁連執行部にいらっしゃる先生方、およびその賛同者の方々で、その仕事を(もちろん法テラス基準で)担当してもらいたい。

 口が悪い私に言わせてもらうなら、執行部の先生方は、勝手に理想をぶち上げておきながら、その理想実現という困難な問題を若手など他の弁護士に丸投げしているように思えることがある。

 その昔、弁護士過疎の問題が出た時に、若手に過疎地に行けと号令をかけたり、過疎地に行ってくれる弁護士の援助方法を検討している執行部の先生方はたくさんいたが、自ら過疎地に行こうとする先生はいなかった。

 私も、かなり前であるが、大阪弁護士会の常議員会で、弁護士過疎の対策が必要と力説する某会長に向かって「そんなに過疎対策が必要なら、会長や会長経験者が出向けば解決するでしょう。過疎地も会長まで務めた立派な先生が来てくれたらとても喜ぶでしょう。」と申しあげたこともあるが、結局、過疎地対策の必要性を力説する会長経験者が過疎解消のため自ら過疎地に出向いた例を、寡聞ながら知らない。
 

 日弁連は理想を追う前に、まず足元をきちんと見るべきだ。業界全体で見たときに、わずか10年ほどで所得が半減し、さらに弁護士増員が止められず、新たな需要も見いだせていないという危機的状況に目を瞑った状態で、どんなに気高き理想を唱えそれを追っても、現実は(そして会員も)、日弁連執行部の後に、ついていけないのである。

 いい加減に目を覚ましてもらいたい。

 あなた方と違って、普通の弁護士は金のなる木を持ってはいないのだ。
 会員のための施策を行わないのであれば、いずれ日弁連は瓦解する可能性が高いだろう。

 賢明な方には、既にその足音が聞こえているはずだ。

新型コロナウイルス特措法案と日弁連~1

 新型コロナウイルスに関連して野党が特別措置法を提案しているようだ。特別措置法の中に、法テラスの適用要件緩和が盛り込まれており、しかもその適用要件緩和について、日弁連が提案したという情報が流れており、弁護士の中で問題視されているように思う。

 ご存じの方も多いと思うが、法テラスは経済的な理由で法的サービスを受けられない方に、その費用を立て替えたりする制度である。

 その話だけ聞けば、法テラスとは経済的弱者を救済する素晴らしい制度と思われるかもしれないが、実際に法的サービスを提供する弁護士としては、手間ばかりかかり、しかも(通常事件に比べて)弁護士報酬の減額を強いられる、ひどい制度なのである。

 何の理由か分からないが、法テラスの弁護士報酬基準は、相当低く定められている。

 しかも、法テラスの弁護士報酬が普通に生活できる水準であれば、文句もいわないのだが、実際には法テラス報酬基準が低すぎてそのような報酬で事務所を維持し、生活するのは、ほぼ無理である。仮に法テラスの報酬基準で生活しようとすれば、多くの案件を受任した上で、相当手を抜いた業務をしないと不可能であろう。

 自らが提供する法的サービスに見合った報酬が頂けないとして、法テラスと契約しない弁護士が相当数存在することからも、その事実は明らかだ。

 この点、医者だって経済的に困っている生活保護の人の医療費を無料にして診療しているじゃないかという人もいると思うが、医師がボランティアで無料にしているわけではない。後で国が医師にきちんと医療費を支払っているのだ。
 医師の方は、そもそも制度がしっかりしていて、健康保険適用の医療行為でも、十分生活できるだけの報酬が確保されている。むしろ、何か問題を起こして、健康保険適用資格を剥奪されると、たちまち死活問題になる医師の方が多いのだ。

 ぶっちゃけいえば、法テラスは経済的に困っている人に対し、正規の弁護士費用ではなく、ダンピング価格で法的サービスを提供せよ、という制度であり、弁護士の善意がなければ到底成立しえない制度なのである。

 既に弁護士は、ずいぶん前から、刑事事件に関して、国選弁護というダンピングサービスを強いられてきたが、それに加えて民事事件においても法テラスというダンピングサービスを背負い込んだのである。

 私は、ずいぶん前から法テラス基準は低すぎて、他の事件の弁護士報酬の引き下げにもつながるとして、反対してきたし、あまりにひどい支給しかされなかった場合に異議を申し立てたこともある。

 とはいえ、私自身、国選事件は100件以上こなしたはずだし、法テラス案件も少ないながら引き受けることもある。自分でもお人好しだと思うが、司法修習時代に税金で育ててもらったという思いや、困っている人のお役に立ちたいという思いが消えてしまったわけではないからだ。とはいえ、経済的に困れば、当然ながらペイしない案件を引き受けるのは無理である。

 確かに、マスコミが大好きな「弱者への配慮」という点は、弁護士の使命である「社会的正義の実現」にも関係するので、忘れてはならない。しかし、問題は提供する法的サービスに見合った適切な報酬が確保されているのかという点である。適切な報酬が見込めない仕事はいずれ破綻する。理想は現実に勝てない。継続的に適切なサービスを提供するためにも、提供する仕事に見合った報酬は必要なのだ。

 例えば、政府がマス・テラスなる制度を設け、「経済的に困っている人でも知る権利は大事である。そのためには経済的に困っている人に対して、5割引で新聞や週刊誌を販売せよ。その負担はマスコミが負うこと。」と命じたら、どのマスコミも大反対キャンペーンを展開するだろう。そして反対にも関わらず導入されたら、多くのマスコミが破綻しかねない状況に追い込まれるであろう。おそらくそれは他のどの業界でも同じである。

 このように、私に言わせれば、資本主義社会ではあり得ない話が、何故かまかり通っているのが、法テラスという制度なのである。

(続く)

私、怒ってます(ミュンヘン:クローネサーカス)

弁護士法人東京ミネルヴァ法律事務所の破産に思う

 報道によると弁護士法人東京ミネルヴァ法律事務所(以下「東京ミネルヴァ」という。)が、東京地裁から破産開始の決定を受けたそうだ。弁護士法人としては過去最大の負債総額らしい。第一東京弁護士会が債権者破産の申し立てを行ったようだ。

 弁護士法人の破産と聞くと、意外に思われる方もおられるかもしれない。また、不幸にして東京ミネルヴァに事件を依頼して処理途中だった方は、その後の手続きが心配だろう。

 私は良く知らないが、東京ミネルヴァは、大々的に広告を行って過払い請求、B型肝炎給付金などの顧客を集めていたようだ。金儲け目当ての業務に特化しているとしてネット上では、本業をやっておけばよかったのに、、、との批判的な指摘もあるようだ。

 東京ミネルヴァの破産報道に接して、ぼんやりと考えたので以下、とりとめのない雑駁な感想だが記しておく。

 司法改革が話題になってきたころから、マスコミは何と言ってきたか。

 弁護士も自由競争せよ。そのためにも法曹(司法試験合格者)の増員が必要である。

 こう言い続けてきたのだ。

 私は、弁護士の仕事の良し悪しは、顧客の方にはなかなか理解しがたいから、自由競争の前提が成り立たない(判断者である国民の皆様が弁護士の仕事の優劣を判断できない以上、自由に競争させれば良い弁護士が生き残るはずだという競争の前提が成り立たない)などとして反対してきたが、残念ながら結局国民の皆様から反対のご意見が出ることもなく、司法改革は推進され、法曹の大幅増員(といっても実際には弁護士の大幅増員)は実施され、今もその流れは止まっていない。

 マスコミは、弁護士をターゲットに、自由競争するように言い続け、その一方で「弁護士は社会的インフラである」などと矛盾したことを平然と述べていたこともあった。

 さてこのように、マスコミは弁護士も自由競争すべきだとの大合唱をしていたのだが、翻ってみるに、自由競争下では、収益を上げられない者、事業に失敗した者は、退場するしかない。したがって自由競争下では、何とかして収益を上げることが最優先課題になる。

 そうだとすれば、収益を上げることを最大の目的とし、大規模広告を行って大量の相談者を集め、その中から手間がかからず儲かりそうな案件だけを選別して受任し、相談者が非常に困っていてもペイしない事件は受任しない、というやり方は、弁護士が社会から期待されている役目に合致するかどうかはともかく、自由競争の中で生き残るための営業方針・ビジネスモデルとしては決して間違った方向ではないということになるだろう。

 そうだとすれば、金儲け目的に特化した弁護士という批判は、当たらないということになるのかもしれない。

 では、弁護士が社会から期待されている役割とは、何だったのか。

 かつて司法改革において、司法制度改革審議会意見書は弁護士について次のように述べた。

『弁護士は、「信頼しうる正義の担い手」として、通常の職務活動を超え、「公共性の空間」において正義の実現に責任を負うという社会的責任(公益性)をも自覚すべきである。その具体的内容や実践の態様には様々なものがありうるが、例えば、いわゆる「プロ・ボノ」活動(無償奉仕活動の意であり、例えば、社会的弱者の権利擁護活動などが含まれる。)、国民の法的サービスへのアクセスの保障、公務への就任、後継者養成への関与等により社会に貢献することが期待されている。』

 かいつまんで言えば、弁護士は社会的責任を自覚して、無償奉仕活動等で社会に貢献するよう期待されているってことだ。

 賢明な皆様には、もうお分かりだと思うが、上記のような弁護士像が、経済的利得を得られなければ退場せざるを得ないという自由競争社会の本質になじむものだったのかについては大きな疑問が残るだろう。

 収益を上げなければ退場しなくてはならない市場に放り込んでおいて、無償奉仕活動にいそしめと言われても、その要請が無茶であることは子供でも分かる話だ。

弁護士だって人間だ。
弁護士だって職業のひとつだ。

 人間だから弁護士だって霞を食って生きるわけにはいかない。また、弁護士だって弁護士業で働いて得たお金で、ご飯を食べなくてはならないし、家族を養わなくてはならない。自由競争下におかれたら、無償奉仕にいそしんでいる余裕などないのである。

 仮に司法制度改革審議会意見書の弁護士像を弁護士の理想像だと仮定するなら、将来の法曹需要を完全に見誤って弁護士の大量増員を支持した司法制度改革審議会、司法制度改革を通じて弁護士の増員を支持した人、弁護士も自由競争すべきと安易なマスコミの論調に流された人たちは、弁護士の大量増員を実現させたことにより、弁護士の理想像の実現をかえって遠ざけたという皮肉な結果をもたらしたともいえるだろう。

 マスコミも、これまで「弁護士にも自由競争をさせるべきだ」と散々述べてきたのだから、東京ミネルヴァの破産についても、社説や解説で、「東京ミネルヴァに依頼していた方は気の毒だが自己責任だ、これが自由競争社会のあるべき姿なのだ」と、堂々と主張してみたらどうだろう。

 その方が主張として、首尾一貫すると思うのだが。

法科大学院等特別委員会議事録から

 中教審の法科大学院等特別委員会の最新議事録で、菊間委員がおもしろいことを述べている。

(前略)今年も複数の社会人から相談を受けましたけれども,その中でロースクールに行くメリットは何と聞かれたときに私が答えているのは,エクスターンですとか,クリニックですとか,模擬裁判とか実務につながるような経験ができるということと,ロースクールにいるときから,裁判官や,検事や,弁護士と触れ合う機会がものすごく多くて,その中で実務,働き方が具体的に明確になるというところとお話ししています。また,ロースクールで知り合った先生方と弁護士になった後も仕事をしていることもたくさんあるので,そういう人脈づくりみたいな,人脈という言い方がふさわしいかどうか分からないんですけれども,そういうこともロースクールのメリットかなと。(後略)

 以前ご紹介した、菊間委員の発言内容「社会人から相談を受けたときに予備試験を勧めている」が、かなり衝撃的発言であったことから、今回はかなりトーンを落としてロースクール擁護に回っておられるように読めなくもない。

 それはさておき、菊間委員のご主張通り、実務家との接点と働き方が明確になるという点がロースクールの魅力だとすると、それは、従前の司法修習で十二分に果たされていた点であり、敢えてロースクールを設ける必要はないことになると私は考える。

 私の経験した実務修習では、裁判所・検察庁・弁護士会、いずれでも素晴らしい実務家の先生と一緒に事件を検討し、討論し、一流の実務家のスゴ技を目の当たりにして自らの未熟さを痛感するなど、エクスターンやクリニックのようなまねごとではなく、修習担当の先生が実際の事件という真剣勝負の中で一緒になってハンドメイドで教えてくれる貴重な体験が可能だった。

 私の時代に比べて、現状の司法修習期間では短すぎて実務家との接点が少なすぎるのでダメだとの反論が考えられるが、それなら期間を延長して司法修習を充実させればよいのである。

 実がなるかどうかわからない(司法試験に合格できるかどうかわからない)種モミ全てに、税金を投じて法科大学院教育を施しても、実がならない種モミにかけた税金は相当程度無駄になる。

 この点、法曹にならなくても、ロースクールでリーガルマインドを身につければ社会のお役に立つはずだ(だから税金の無駄遣いではない)との苦しい反論も考えられるだろう。しかし、現在の社会ではロースクール卒業生に与えられる法務博士の肩書が就職に役立ったとか、法務博士に限って採用したいという話が聞こえてこない(少なくとも私は、聞いたことはない。むしろ一部の上場企業法務関連担当者から、大きな声では言えないがロースクール卒業生はプライドだけ高くて使いにくいから採りたくないという話を複数聞いたことがある。)。

 つまり法務博士の資格は社会的に評価を得られておらず、極論すれば何の意味も持たないことからみても、ロースクール教育それ自体に、実社会が何らの価値を見出していないことは明らかある。したがって、ロースクール制度が税金の無駄遣いであることは、少なくとも私から見れば火を見るより明らかなのである。

 それに比べて、旧制度のように、司法試験を突破して生育可能性を示した早苗を選別し、その早苗にお金をかけて実務家に育てるほうが当然効率がいいし、仮に修習期間を延ばしたところで法科大学院に投じる税金より安く済むはずなので、税金の無駄も省かれるだろう。

 それでも、プロセスによる教育を受けなければ法曹としてダメだとロースクール擁護派が主張するのであれば、その証明をしてほしい。すでにロースクール開校から20年近くたっているのだから可能なはずだ。

 しかし、その証明はできまい。

 ロースクール擁護派の学者・実務家が言うように、もし本当にプロセスによる教育が法曹に必須なのであれば、予備試験合格ルートの司法修習生は、実務家になった後に、問題を起こしているか、実務界から忌避されていてしかるべきだ。

 ところが現実は違うのだ。

 むしろ大手ローファームが予備試験合格者を囲い込んでいたり、裁判官、検察官に予備試験ルートの修習生が相当程度採用されている事実からすれば、「プロセスによる教育」などという得体のしれないお題目に、実務界は何ら価値を置いていないことは明白である。ロースクール擁護派の弁護士がパートナーを務める法律事務所が、予備試験合格者を囲い込むような募集を行っているという、冗談のような話も散見されるのだ。

 そうだとすれば、いくら声高に必要性を叫んだところで、実務界では一顧だにされないプロセスによる教育を、なぜ多額の税金を投入して継続する必要があるのか、という素朴な疑問にたどり着くことになる。

 この素朴な疑問に対する、私の解答は極めて単純だ。

 法科大学院及び(文科省を含む)関連者の、既得権維持、これしかあるまい。

 こんなことで多額の税金を無駄に使い、法曹志願者を激減させて法曹の質を低下させた法科大学院制度は、根本的に間違っているとしか言いようがないだろう。

 ちょっと脱線が過ぎたので、本題に戻ろう。

 菊間委員によれば、ロースクールで人脈づくりができたとのお話だが、多くのロースクール卒業生が菊間委員のように、知り合った先生方と一緒に仕事がたくさんできるような人脈を構築できているとは思えないし、少なくとも私の知る限りでは、ごくまれな特異な現象だというほかない。
 おそらく、それは菊間委員の個人的属性に基づいて生じた結果ではないかと考えられるのであり、それを法科大学院のメリットとして一般化することは困難であろうと思う。

(続く、かも)

小さいツバメ~その後

 近所の喫茶店の軒先にあるテントに、一羽のツバメが止まっていることについては以前ブログで書いた。

 先日ジョギングの帰り道に、ふと気になって見に行ってみたところ、彼は相変わらずテントの内側を止まり木にして静かに寝ているようだった。

 しかし、以前とは違う点があった。

 彼の泊っている先にある、テントの内側の角には、泥や草で作られた新しい巣がかけられていたのである。

 背伸びして、巣の中をうかがうと、もう一羽のツバメのしっぽが見えた。
 おそらく、メスのツバメが抱卵しているのだろう。

 ベテランのツバメがかける巣に比べれば、少し不器用な形ではあったが、急ごしらえにしては、なかなかのものと見えた。

 ツバメは、1シーズンに数度、子育てをすることがあるそうで、どうやら最後の子育てチャンスにギリギリ間に合うように、パートナーと巡り会えたらしい。

 彼は、立派に、子育てに向けて頑張っているのだろう。

 一人で眠るその姿が小さく見えたという私の見立ては、どうやら間違っていたようだ。

 しかし、それが間違っていたことが、私には、うれしかった。

日弁連副会長~近弁連ブロックの持ち回り

 日弁連副会長については、東京三会、大阪の会長が兼務することはよく知られているところだが、他の副会長がどうやって選出されているのかは意外と知られていないかもしれない。

 私自身、日弁連代議員として、日弁連副会長を選出する代議員会に出席している者であるが、代議員会の前に、選挙によらずに選出する場合の参考資料として副会長候補者の一覧表が送付され、代議員会では規程上選挙により副会長を選出するのが原則でありながら、必ず動議が出て選挙によらず、事前配布の候補者が当選するはこびとなっている。

 ところが、その事前配布の候補者をどうやって決定しているのかについては、代議員になっても知らされることはなかった。

 今日、常議員会で、近弁連で来年度(令和3年度)の日弁連副会長を推薦する単位会について、従前の申し合わせ・ローテーションを参考に討議したとの報告があったので、その申し合わせやローテーションを具体的に教えてほしいと質問してみた。

 担当副会長がちょっと明確に答えられなかったので、川下会長が直々に、答えてくださった。

 川下会長の説明で、近畿弁護士連合会に所属する大阪・兵庫・京都・滋賀・奈良・和歌山での、日弁連副会長の選出順序が私にもようやく理解できた。

 川下会長の説明はおおむね以下のとおりである。

 まず、近弁連管内に割り当てられている日弁連副会長の席は2つである。
 そして、2つのうち1つは、大規模会である大阪の会長が当確で日弁連副会長を兼務することになっている。

 残りの1つの席については、近弁連の単位会を、兵庫・京都・その他(滋賀・奈良・和歌山)の3つに分け、持ち回りで日弁連副会長を出す。

 つまり、ローテーション通りだと、大阪は毎年、兵庫・京都からは3年に一度日弁連副会長を出すことになり、滋賀・奈良・和歌山の弁護士会は9年に一度日弁連副会長を出すことになるそうだ。

 圧倒的大規模会である大阪に日弁連副会長を全て独占させるわけでもなく、かといって会員数が異なる小規模会と大規模会を完全に同じ扱いするわけでもないので、それなりに考えられた割り当てなのだろう。

 弁護士会執行部、日弁連執行部に色気がある方なら常識の範疇なのだろうが、私のように特に執行部参画に色気も持たずに生きてきた一会員としては、初めて知った知識であった。

 これでは、チコチャンに「ぼーっと、生きてんじゃねーよ!」と叱られてしまいそうである。

昔話~ホンダVT250F

 VT250Fは、私が大学生のころ、ホンダが出していた250CCバイクである。

 その名の通り、90度V型ツイン(2気筒)エンジンを積み、素直なエンジンの特性などから、多くのライダーが乗っていた、いわば定番バイクでもあった。

 私自身、グライダー部の後輩のO君に借りて、九州ツーリングをさせてもらったりした。O君のVTは、VT250Fインテグラと呼ばれるレーシングタイプのカウルがついた特別仕様車で、とても格好良かったことを覚えている。

 そのツーリングは、確かクラブの先輩と二人で行ったはずで、長崎や阿蘇のユースホステルを利用して九州北部を回った。

 かなり記憶が薄れているが、阿蘇では、ご来光を拝もうとユースホステルに来ていたライダー達10人ほどで大観峰まで走ったように思う。集団で走るのもなかなか面白いものであることを知ったのも、この時である。

 どこをどう走ったのかあまり記憶に残っていないのだが、ユースホステルで仲良くなった女の子と別の観光地で待ち合わせをすることになったとかで、一緒に来ていたクラブの先輩から突然、「一人で帰っていいよ」といわれ、帰り路が一人だったことは、なぜだか鮮明に覚えている。

 京都に戻り、その先輩に「○○さん、ひどいじゃないですか~。女の子とデートするために俺を見捨てるなんて・・・・」と苦情を言ったところ、「そんなこと、あったっけ?」ととぼけられ、諸行無常を感じたものである。

 「ボビーに首ったけ」という片岡義男の小説がアニメ映画化されたが、その中でも主人公はVTに乗っていたはずだ。エンジンパワーも、35馬力→40馬力→43馬力と、パワー競争に対応して上げられていた。

 私が乗った経験があるのは35馬力と40馬力のものだ。43馬力のVTはデザインが少し私好みではなく、興味が持てなかった部分もある。

 私も事情があってカタナイレブン(スズキのバイク)を手放した後、司法試験に合格した先輩から安くVTを譲ってもらって少し乗っていたことがある。

 カタナ自体は、デザイン的にも乗っているときの優越感等も含めて、とてもいいバイクだったが、VTはVTで、パンチのきいたところこそなかったが、乗り手を選ぶことがない、角の取れた素直なバイクだった。楽に乗れてそこそこ走れるという点で、決して悪いバイクではなかったと思う。

 今の私にはおそらくビッグバイクは手に余る可能性が高いが、VTくらいの素直なバイクなら、まだ乗れそうな気がしたりもする。それだけ扱いやすかった記憶が残っているバイクである。

昔話~ヤマハPHAZER

 私が大学生だった頃、250ccのバイクでも4気筒のものが流行っていた。確か最初はスズキが、GSで250ccで初めて4気筒モデルを出したように思うが、特に一時期人気を集めていたのが、ヤマハのフェーザー(FZ250)だった。

 未来的なフォルムのハーフカウルを身をまとい、レッドゾーン16000回転(確かタコメーターは18000回転)まで回る高回転型エンジンを積み、その高回転時の排気音は、まるでジェット機を思わせるようなものだった。それでいて、小さくて扱いやすく、小柄なライダーや女性ライダーが乗っていることも多かった。

 私も、知人に借りて初期型に乗ったことがあるが、またがってみると、両足がぺたんとついて余裕があることにまず驚いた。エンジンに火を入れて、アクセルを回してみると、軽々と吹けあがり、タコメーターがビュンビュン動く感じだった。

 もちろん高回転まで回せば、ジェット機のような排気音を高らかに響かせ、エンジンのパワーバンドに入ったあたり(確か8000回転くらいだったと思うが)から、グンと加速する感じだったことを覚えている。

 自動車でいうなら、ホンダの、ハイカムに切り替わったVテックエンジンを尖らせたような感触といえばよいのだろうか。それまでの回転数とは違う加速を見せるエンジンだった。

 その後、ホンダ、カワサキも4気筒250ccのバイクを投入し、比較的旧式となったフェーザーは、FZRへとバトンを渡すことになったはずだ。

 私は、大型バイクに乗りたくて、当時免許試験場でしか実施していなかった限定解除試験に何度も挑戦していたので、限定解除を果たしてカタナに乗るまで、中型バイクを買ったことはなかったが、4気筒250ccのバイクも実は相当魅力的だった。

 季節が良くなると、バイクを楽しんでいる人も増えてきて、時折、昔のように乗ってみたいと思う気持ちもわいてくる。

 おそらく、昔のままの気持ちで安易に触ると、当然、体力も反射神経も衰えているので、たちまち、転倒→骨折→松葉づえのゴールデンパターンにはまることは火を見るより明らかだ。

 しかしそれであっても、機会があれば、バイクを乗り回してみたいと思ってしまう、少々厄介な自分がいることもまた、事実である。