余計なお世話??~その2

 そもそも、ACCJが在日米国商工会議所であることから、さぞかし、日本の弁護士が少なくて採用できないなどの不利益が、在日アメリカ企業にあるのだろうと思って意見書を読んでみました。

 お読みになった方はお分かりかと思いますが、実際に法曹不足でACCJ加盟企業が不利益を被ったなどという理由は一切書かれていません。

 ACCJの主張の根拠を、もう少し詳しくあげてみると、①司法制度改革審議会が国民の需要に応えるために2010年までに新規法曹を3000人とするといい、閣議決定をしたではないか。そのために、法科大学院が設立されたではないか。②日弁連の2008年7月18日の緊急提言は根拠がない。③新規法曹に質の高い研修機会は可能である具体的には、法律事務所による研修、刑事裁判制度による研修が可能である。④弁護士以外の企業法務部・裁判官・検察官などになる弁護士の数が増大しているから法律専門職の空白を補うため(坂野注:弁護士が不足しているという趣旨か?)新規法曹の数は増加させなければならない。④日本における訴訟処理の速度が遅いため裁判官・検察官の増員も必要で、それに備えて新規法曹の増員は必要である。⑤実際には、東京・大阪以外では弁護士数は不足している。司法過疎は改善されていない。⑥諸外国と比較して弁護士数が少ない。というくらいになるでしょうか。

 順次反論していきます。

 まず、①についてですが、法曹人口増大論者がよく閣議決定を持ち出して、新規法曹を2010年までに3000人にするという決定がなされていると主張します。ではその閣議決定を見てみましょう。

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/keikaku/020319keikaku.html

これが、3000人を決定したとして引用される閣議決定です。

問題の箇所は、

Ⅲ 司法制度を支える体制の充実強化
第1 法曹人口の拡大
の部分に出てきます。

 確かに、「平成22年頃には司法試験の合格者数を年間3000人程度とすることを目指す。」と書かれていますので、一見すると3000人は決定事項かと思われます。

 しかしこの閣議決定を良く読まれれば分かりますが、きちんと決定した事項については(実行できたかどうかはともかく)「所要の措置を講ずる」「必要な対応を行う」と明確に実行を断言しています。例えば、法曹人口の大幅な増加という項目で「平成14年に1200人程度に、平成16年に1500人程度に増加させることとし、所要の措置を講ずる」と記載されていますので、この部分については閣議決定で決まっていると言われても仕方がないでしょう。

 ところが新規法曹人口3000人の部分についての表現は、実行を断言する表現とは明らかに異なり、「目指す」となっています。
 あくまで「目指す」という努力目標でしかありません。決定した事項ではないのです。

 更に詳しく見てみると、司法試験合格者3000人を目指すという文章の前に、「今後の法的需要の増大をも考え併せると、法曹人口の増加が急務となっているということを踏まえ」と書かれた部分があります。このように、法曹人口の増加は、法的需要が増大することがまず前提だったのです。しかし、司法統計をご覧になれば明らかですが訴訟案件は微増ないし減少レベルに止まり、法的需要が増大するという前提は大きく崩れています。しかも、大阪弁護士会某会派の方のお話によれば、現在地裁訴訟案件の55%が過払い金訴訟だということです。つまり、通常の民事事件は大幅な減少傾向にあるのであって、一般国民の間で、法的需要が増大しているとは到底言えない状況にあるというべきでしょう。

 また、「法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、平成22年頃には司法試験の合格者数を年間3000人程度とすることを目指す」とも書かれています。新司法試験委員会の採点に関する報告などを読むと、もっと基本的な知識を習得させるべきであるという意見が多く上がっているなど、決して法科大学院制度が成功している制度ではないことは明らかです。

 以上述べたように、2010年3000人というのは、あくまで「目指す」という努力目標です。また、目指すとしても法的需要が増大する前提が満たされ、法曹養成制度の整備の状況を見定めた上での話です。法的需要が増大せず、法曹養成制度の整備も不十分である現状では、増員努力目標の前提が完全に崩壊した状況にあると言えましょう。前提が崩壊している以上、努力目標であった2010年3000人の目標も修正されるのが当然です。

 繰り返しになりますが、閣議で決定されているのはあくまで、「平成14年に1200人程度に、平成16年に1500人程度に増加させることとし、所要の措置を講ずる」点までであり、それ以降ないしそれ以上の増員については、なんら決定されていないのです。

 「閣議決定で、平成22年の司法試験合格者3000人が決まっている」という主張は、誤解か、自分に都合良く閣議決定を読み替えた曲解なのではないかと私は考えています。

(続く)

余計なお世話??~その1

 仮に、在米日本国商工会議所という架空の団体が存在したとします。

 そして、その団体が、アメリカにおける弁護士人口が過剰であり、その結果、弁護士がかつて担っていた公的責任を放棄し、自分の事務所の経営だけを考えるように変質したこと、弁護士が自らの利益のために時間を浪費する訴訟や無闇な買収までを勧めるよう変質してしまったこと、諸外国に比べて異常に高額なリーガルコストを企業・国民が負担せざるを得なくなっていること、仕事を失った弁護士などによる反社会的行為を行われ弱者が被害に遭う事例が毎年多数見られることなどに鑑み、アメリカの弁護士人口を1/10にまで減少させることは、決定的に重要である。
 なんて主張したら、アメリカの弁護士達は黙っているでしょうか。

 余計なお世話だ。
 これは内政干渉ではないか。
 自由競争で弱者が負けることはやむを得ない。それが資本主義だ。
 弁護士といえども職業だ。それを利用して稼いで何が悪い。
 公的責任を負えというなら生活を保障しろ。
 商工会議所に何が分かる。
 アメリカにはアメリカのやり方がある。

その他様々な反論が、噴出することは確実だと思います。

 ところが、在日米国商工会議所(実在の団体です)は、次のような意見書を出しています。

 「法曹の増加は司法制度改革において決定的に重要である」

 その理由として、①日弁連は主張を裏付ける客観的データを提供していない。②新規法曹に対する研修については確かな方法が存在する。③法律専門職の経歴における流動的な性格はより多くの若手法曹の供給を求めている。④弁護士は東京以外、特に過疎地域では不足している。という4点が上げられています。

以下のリンクをご参照下さい。

http://www.accj.or.jp/doclib/vp/VP_BengNKNI.pdf

(続く)

最新司法修習生就職(難)状況

 新62期修習生は、全国各地での分野別修習を7月29日に終了して、集合修習のため埼玉県和光市の司法研修所に戻ることになっているようです。

 私達が司法修習生の頃は、各地での修習を終了し、和光の司法研修所に戻る際には、すでに就職が決定している方がほとんどでした。

 最新の、情報によると、大阪で司法修習中の260名中、アンケートに回答してくれた方が約160~170名、そのうち約45%の方が、まだ就職先が見つかっていないようです。全国平均でも、アンケート回答者の約30%が就職未定のようです。

 しかもこれはアンケート調査ですから、就職が決まった修習生は回答しやすいけれども、就職が決まっていない修習生としては、自分は決まっていませんと回答しにくい 調査です。したがって、本当に就職先が見つかっていない方は、おそらく全国的に見ても40%以上いてもおかしくありません。

 そういえば、前日弁連会長の平山正剛氏は、司法修習生の就職は2010年まで大丈夫とおっしゃっていたはずですが(2007年11月9日の当職のブログをご覧下さい)、この状況でも大丈夫とおっしゃるおつもりなのでしょうか。

 仮に2010年まで大丈夫であっても、大丈夫なのが2010年までということは裏を返せば、その後は大丈夫じゃないということです。平山氏の見解が日弁連執行部の見解だったとすれば、まず現状をどうするのか、次に2010年の後はどうするのか、日弁連執行部に明確に説明して頂きたいところです。

 また、昨今、法科大学院への志願者が減少の一途であることが、報道されていますが、無理もありません。時間もお金もかけて法科大学院へ進学し、新司法試験・2回試験に合格して、ようやく資格を得ても、就職すら困難なのですから。

 そして、就職困難な状況は、需要がないのに供給が増え続けるのですから、更に悪化することはあっても改善する兆しは今のところありません。

 法科大学院の関係者の方には、新司法試験の合格率が低いから志願者が減少しているのだ、と主張されることがあるようですが、世の中の人々は、そんな馬鹿ではありません。

 法科大学院卒業というだけでは、なんら就職に有利でもない現状を十分知っているのです。そのうえで、新司法試験が、法科大学院に対してたくさんのお金と貴重な時間を費やしたうえで、なお、挑戦するに値する試験なのか否かを冷静に判断しているはずです。

 その冷静な判断の結果、挑戦するに値しない制度であり、資格であると判断するからこそ、志願者が激減しているのではないでしょうか。

 おそらく法科大学院としては、「法曹はいつの時代でも食いっぱぐれないし、法曹の魅力はいつの時代でも変わらない」と思っていたのかも知れません。しかし、いくら社会的に有意義であっても、仕事がなく食えない職業であれば、多くの人はその職業を目指しません。職業は、自分を実現していく手段ですが、同時に生活の糧を得る手段でもあり、いずれかを欠く職業は魅力がないからです。しかも、その職業に就くために、たくさんのお金と時間がかかるならなおさらでしょう。

 ちょっと脱線してしまいましたが、法科大学院も、いつまでも新司法試験のせいにせず、自らへの志願者の減少の本当の原因を、冷静に探る必要がある時期に来ていると思います。

※ このブログの記事掲載の日時が誤って7月17日と表示されていました。正しくは7月21日ですので、訂正いたします。

昔話~高校の想い出(クラス分け)

 私の通っていた、和歌山県立新宮高等学校の普通科は男女比率はほぼ同じであったが、1年生の時は特にコースわけを行うこともなくクラス分けをして授業をし、高2からは、生徒の希望を基本に、通称文系・文理系・理数系の3系統に別れて授業を行うことになっていた。

 私の通っていた高校でも、世の中でいわれている傾向通り、女性は理数系は苦手な人が多かったらしく、文系>文理系>理数系の順で、女子生徒の比率が高く、大学進学率は理数系>文理系>文系という傾向にあった。

 何せ、色気づき始めた高1~高2生である。どのコースに進むかの希望を出すときに、どうもあの子が○○系を希望しているようだとかいう噂が立ったりする。私もご多分にもれず、そんな単純な理由で、文理系にするか理数系にするか悩んだものだ。

 私は結局、理数系を選択した。

 クラス分けにより理数系は2年10組の一クラスとされるとの発表があった。

 私は、初めて理数系に分類された2年10組の教室に入った瞬間の景色を、いまだに忘れることができない。

 そこには、男子生徒しかいなかった。誰一人として女子生徒はいなかったのだ。

  しかも集まった連中は、基本的に理系志望だから、純情可憐な文学的要素などもってのほかで、理系っぽい何となくダークな雰囲気が充満しているのだ。

 男女比率が同じ共学の高校で、何故か男子クラス!知ってりゃ絶対文理コースにしたはずだ。

 しかも、2年間はクラス替えがない。

 思春期の最も中心的な2年間を、男の園で暮らさなければならないのだ!

 終わった・・・・・・・。

 私の高校生活は完全に終わった・・・・・・・・と思った。

 この悲惨な状況は、体験したことがある人にしか分からないだろう。

 体育祭のフォークダンスの練習は、半分が女性の役割をしなければならない。そんなフォークダンス、頼まれたって嫌だろう。

 修学旅行で、学校側が気を利かせて催してくれたキャンプファイアーを囲んでの懇談会でも、周囲は男ば~っかり。

 男同士で踊ろうったって、気味が悪いだけで踊る気が湧くはずもない。男同士で語ろうったって、たいした人生経験もない思春期真っ最中の当時は面白くもなんともない。

 竹内まりやの曲で、「毎日がスペシャル」という曲が、TVで流れていたことがあったが、その当時の私にとってみれば、理数科教室での毎日は、大げさにいえば「♪~毎日がモノクロ」という感じだった。 

 しかも担任は、柔道5段?くらいだった道上徹先生。生意気盛りの高校生がささやかな反抗を考えても、柔道5段が立ちふさがるのだ。

 そのうち、女性に気を遣わなくても済むというメリットもあるし、良い奴もいるんだということが分かってくるが、まあ、当初は落ち込んだものだった。

(続く) 

高速道路で

 私は結構ドライブが好きなので、仕事で遠隔地の警察署などに接見に行かなければならないときなど、高速道路をよく利用することがあります。

 先日、新名神の追い越し車線を気持ちよく走っていたところ、前を走っているボルボの運転席から何かが飛んできました。一瞬何のことか分からなかったのですが、小さな白いものが飛んできて、私の自動車のボンネットに当たりました。高速走行中に小さな虫が当たったような音がしたので、大したことはないのは分かりました。しかし、一体なんだろうと思っていたところ、こんどは、同じボルボの助手席の方からもう一度同じようなものが飛んできました。

 今度は、路上で跳ねて私の運転する車のフロントグラスに当たり、そのまま運転席側の窓に沿って飛んでいったので、何が飛んできたのか分かりました。

 小さい物体の正体は、タバコでした。

 あまりのことに、私は唖然とし、次に怒りがこみ上げてきました。おそらく、火も消さずに窓の外に放り投げたタバコでしょう。もし私が、窓を開けて運転していたのであれば、そのタバコは運転席側の窓沿いに飛んでいったことから、窓から車内に飛び込んできてもおかしくないはずです。

 万一火のついたタバコが、私の車の後部座席に飛び込み、私が気付かなければ、車両火災になっていてもおかしくありません。タバコの火を消したつもりでも、完全に消えていなければ同じ危険が後続車に生じます。
 しかも、タバコを捨てた方の車種はボルボです。安全性に相当配慮されて作られたことで有名な自動車メーカーの車に乗っている方ですから、おそらく家族の安全には相当配慮されているはずです。しかし、運転席だけではなく助手席からもタバコが路上に投げ捨てられたことから考えれば、おそらく、自分たちさえ安全であれば良いという発想のご家族ではないかと思ってしまいました。

 これだけではなく、最近タバコの灰を窓から捨てる方、吸い殻を平気で投げ捨てる方を、昔よりよく見かけるような気がします。確かにタバコの灰や吸い殻を車外に捨てれば車内は綺麗なままだし、灰皿の掃除も不要でしょう。しかし、自分の都合で、誰かに迷惑をかけても構わないという発想は、社会全体を汚していくように思えてなりません。

 公の場で他人に迷惑をかけることは恥ずかしいことだという、ごく当たり前のことが次第に忘れ去られつつあるような、残念な思いがしました。

プロセスを重視した法曹養成って・・・・?

 法科大学院が素晴らしいものであることを示す理由の大きな柱として、「プロセスを重視した法曹養成」があげられてきたことは、皆さんご存じのことと思います。

 要するに、今までの司法試験は一発試験であり、そこでの成績が合否を決めてきたが、法科大学院制度では違う、もっと法律家養成のプロセスを重視するとの、うたい文句であったように思います。

 でも、翻って考えると、法科大学院の成績と関係なく、法律家となるための関門として新司法試験がある以上、新司法試験の時点では、一発試験の成績で合否が決まることには変わりありません。

 新司法試験に合格するかどうかの前段階でプロセスを重視するということを意味しているのかも知れません。しかし、そうだとすれば、旧司法試験が論点暗記に走っていると批判されていた(受験した経験があるものとして断言しますが論点暗記だけでは、旧司法試験は絶対に合格はできませんでした。)ことが、法科大学院制度では大幅に改善されていないとおかしいような気もします。

 ところが、日弁連法務研究財団認証評議会第11回議事録のなかで、井上日弁連法曹養成対策室長は次のように述べています。

「今、司法研修所の民事裁判教官室自体が、要件事実というのはやめようと。学生が要件事実を暗記するという傾向がやっぱり最近強まっている。大事なのは物の考え方であって、それを暗記することでは決してないんだというようなことを非常に強くメッセージとして研修所が発しているという、そういうふうな印象を受けるんですね。」

 これは要するに、物の考え方よりも暗記を優先する傾向が、法科大学院生・司法修習生において、更に進んでいるということを述べているようです。前述の通り、法科大学院は、旧司法試験を暗記優先であると批判して作られた制度でもあるはずです。そのうたい文句がプロセスを重視した教育だったはずです。

 ところが、その新しい制度でプロセスを重視して教育を受けるはずの者が、今まで以上に暗記に走っているとすれば、いったい何のための制度変更なのでしょうか。

 私には、どうもプロセスを重視する法曹養成という意味がよく分かりません。そしてプロセスを重視すればどういう利点があるのかも分かりません。何となく司法改革の中で、プロセスを重視した法曹養成という言葉が一人歩きして、何となくその方が良いような気になっているだけかも知れないのです。

 どなたか、プロセスを重視する法曹養成の利点を教えて頂けないでしょうか。

 そして、そのプロセスを重視する法曹養成を行っているはずの法科大学院制度が実施されているにもかかわらず、暗記重視の傾向が従来より強まっているという指摘は何故なのか、教えて頂けないでしょうか。

被疑者国選

☆ボランティア募集!

・日時は(都合はお聞きしますが)平日昼間など、当方で指定します。
・熱心にやっていただける方は20時間以上も可能。
・場所の指定を受けた方は、何回通われても8キロ以内は交通費支給無し。
・ボランティアに必要な道具もご自身でご準備頂きます(若干の補助あり)。
※なお、参加1時間あたり7000円程度を支払って頂きます。

 このようなボランティア募集があったとします。
 どう思われますか?

 ふざけんな。誰が金払ってまでボランティアせなあかんねん。

 ボランティアの時間まで指定されたら仕事に差し支える。

 場所をそっちで指定するなら交通費くらい出してよ。

 必要な道具の準備の負担をどうしてしなければならないの。

 自由な時間にできて初めてボランティアじゃないの?

というのが普通の人の反応だと思います。

 だから、上記の条件であれば、誰もボランティアに参加するはずはありませんよね。何らかの事情があって仕方なく参加するとしても参加する時間が長くなればなるだけ損するので、できるだけ短時間ですまそうとするはずです。

 しかしこれが、(給料を頂いている勤務弁護士さんには当てはまりませんが)私のような経営者弁護士から見た国選弁護の実態です。今年から被疑者国選制度が拡大されてはいますが、このような劣悪な条件は殆ど改善されていません。この状況で、経営者弁護士が国選弁護から手を引こうと考えても無理はありません。

 詳しくは、私のブログ2008年2月3日、3月5日、3月6日、3月25日をご覧頂ければお分かりになるかと思います。私は修習生時代、税金で育てて頂いたという気持ちがあるので国選弁護を続けてきましたが、そろそろ考え直す必要があると思いはじめています。せめて赤字にならないようにして頂ければ、もう少し頑張れるのでしょうが。

 やればやるだけ赤字になる仕事を善意だけで続けることは、限界があります。

 被疑者国選が拡大されたが引き受ける弁護士が足りないという報道が一部にあったようですが、どこの世界に行っても上記のような条件のボランティアなど誰も引受けてはくれません。こんな劣悪な条件で引受け手を捜す方が間違っているのです。マスコミの方は、そこまで踏み込んで書いて下さいね。

 ではこれから、被疑者国選の被疑者に面会(接見)に行かなければなりませんので・・・・。

日弁連はもっと文句を言うべきだ(その4)

 さらに、自由競争により弁護士が使いやすくなるのではないかという指摘について述べる。

 仮に自由競争によって弁護士が安く使いやすくなるのであれば、弁護士があふれかえっているアメリカでは、自由競争により非常に安い値段で弁護士が利用できていなければおかしいはずである。しかし、アメリカにおけるリーガルコストは、日本と比較して非常に高いと指摘されており、自由競争により弁護士が安く使えるという状況が実現するかは、実際には大いに疑わしいと考えるべきである。

 この点、アメリカでは確かに企業の使う一部の弁護士の費用は高騰しているが、一般国民の利用する弁護士の費用はそうではない可能性があるではないか、との批判も考えられる。しかし、企業が負担する高額の弁護士費用は、製品・サービス等の値段に転嫁されて最終的には消費者(一般国民)の負担になる。つまり、弁護士費用分を上乗せされた製品を消費者は買わざるを得なくなるということだ。一般国民の方が直接弁護士に依頼する場合に、仮に安くなったとしても、それ以上に、日常の買い物の中でリーガルコストを負担させられていくことになるだろう。
 つまり、弁護士を多数生み出し、自由競争させた結果、高額のリーガルコストが必要になっているアメリカでは、結局国民全体で、多額のリーガルコスト負担をしなければならない状況に陥っているといってもおかしくはないだろう。これでも、自由競争により弁護士が安く使える状況が到来すると言えるのだろうか。

 また、仮に、万一、自由競争により弁護士が使いやすくなるとしても、それは、自分だけが使いやすくなるのではなく、相手方も使いやすくなるということである。これまでは当事者同士の話し合いで済んでいた話が、相手が弁護士を立てて来た場合、法的知識の不足する一般の方としては、やはり弁護士に依頼せざるを得ないだろう。
 今は、まだ(少なくとも私の知る)日本の弁護士は、訴訟しても実質的に回収が困難である場合などには訴訟を勧めることはないが、今後自由競争になり少しでも実入りが必要になれば、実質的に依頼者の利益になるかどうかをさておき、とにかく、訴訟を勧める弁護士が出てこないとも限らない。実際にアメリカでは、すぐに訴訟沙汰になることも少なくないと聞いている。

 仕事にあぶれて食うに困って弁護士が軒先をうろうろしている、一旦もめ事が起こればすぐに弁護士が飛んできて訴訟にしようと勧める、そのような社会を本当に国民の方々は望んでいるのだろうか。

 私の6月19日のブログにも書いたが、ニューズウイーク日本語版の記載からすると、自由競争にさらされてきた現在のアメリカの弁護士の状況は、決して望ましいものではないようにアメリカ国民に受け取られているように読める。

 だから、日弁連も、弁護士を大量増員して自由競争させるべきだという主張に対しては、弁護士業の自由競争化は、社会的強者にとっては有り難いが、一般国民の方に迷惑を掛ける可能性が高い。現に自由競争をしているアメリカの例が成功していると言えるのか、などと毅然と反論して論破して頂きたい。

 これまで弁護士達は、司法修習への協力、国選弁護や当番弁護など、相当多くの赤字の仕事を、その職務に鑑み引き受けてきた。

 完全自由競争にするというのであれば、赤字の仕事はすべてやらない、後進の育成も商売敵を育てることになるからやらない、となってしまっても自由競争だからおかしくはないのである。自由競争を主張する論者が、弁護士達が自腹を切ってこなしてきた仕事の費用負担をしてくれるのであれば、そうでなくても財源の手当をしてくれるのであれば、別であるが、そこのところは完全に無視されたまま話は進んでいるように見える。

 日弁連は、これまでの実績をきちんと説明し、弁護士業務に自由競争を持ち込む発想が、如何に問題が大きいのか、もっと声を大にして主張してもらいたい。

 日弁連はもっと文句を言うべきなのだ。

日弁連はもっと文句を言うべきだ(その3)

 次に、自由競争の過程で生じる問題点について。

 弁護士業にも自由競争を導入すべきとする論者は、不適格な弁護士は法的処理に失敗するなどしてその噂が立つだろうから、そのうち誰もその弁護士に頼まなくなるから、質の悪い弁護士を排除することに役立つと述べる。お医者に例えると、「藪医者」と噂の立つ病院には誰も行かないだろうということになろうか。

 しかし、不適格な弁護士と判断されるためには、法的処理に何度も失敗するなどしてあの弁護士はやばいという噂が立たなければ、その弁護士は排除されない。その噂が立つまでの間にその弁護士に依頼した人の利益は全く保護されないことになる。弁護士に事件を依頼しようとする人は、まさに人生の一大事を専門家に依頼して一緒に戦おうとしているはずである。そのようなときに、弁護士の資格を信じて依頼したのに、「あなたの依頼した弁護士は、不適格弁護士でした。運が悪かったですね。」で、すまされたらたまったものではないだろう。

 裁判で白黒つけるしかないという最後の土壇場で、依頼する弁護士が信頼できるかどうか分からないという状況が本当に正しいのだろうか。

 この点、大企業は資金もあるし調査能力もあるので信頼できない弁護士には依頼しないだろう。しかし、仮に大企業に訴えられた場合に、自らを守るために依頼する弁護士が信頼できないかも知れないとしたら、一般の国民の方は、一体誰に依頼すればいいのだろうか。

 つまり、自由競争は沢山の人に弁護士資格を与えて、競わせ、優れた弁護士だけが生き残ればいいという発想であるが、競わせる過程で犠牲になる人のことを全く考えていない発想なのである。

 また、先に述べたように優れた弁護士かどうかの判断は依頼者の方には困難である。勝訴率で比較できると考える某大学教授もいるようだが、弁護士実務の実際を知らないナンセンスな考えとしかいいようがない。

 例えば、国家に対する訴訟のように勝ち目は低いがどうしても依頼者がかわいそうでなんとかしたいと思って、訴訟を引き受けることの多い弁護士は、勝訴率は低くなるだろう。一方、もともと勝ち筋の事件しか引き受けない弁護士であれば訴訟の勝訴率は圧倒的に高くなるだろう。この場合、両者の優劣の比較はできない。むしろ、勝ち目の低い事件をいくつか勝訴まで持ち込んだ前者の方が、弁護士として優秀な場合もあるはずだ。しかしそのことは勝訴率を基準にした場合には、誰にも分かってもらえないだろう。このように、某教授の発想は、弱者のために頑張ってきた弁護士を自由競争により、排除してしまう危険すらある考えなのだ。

 さらに、新司法試験合格者の爆発的増加と法科大学院の機能不全により、基礎的知識の不足する司法修習生が見られるようになってきていると指摘されているが、その大部分が弁護士になる事実を自由競争を導入すべきとする論者は見落としている。

 つまり、仮に弁護士業務に自由競争が機能して、不適格弁護士が排除される事態が発生したとしても、排除される数を上回る勢いで、今まで以上に基礎的知識の不足の危険がある弁護士が大量に増産されてくるのだから、弁護士の淘汰はいつまでたっても終わりはしないのだ。

 更に加えるならば、こんな点も問題になる。

 先にも述べたように、弁護士資格を乱発して自由競争にまかせた場合、弁護士のレベルにばらつきが生じていても、大企業は弁護士を選択するのに困らない。資金も情報も調査能力もコネも持っているからだ。

 しかし、一般の国民の方々はどうだろうか。弁護士を選択するのに必要な、資金も情報も調査能力もコネもない。弁護士のレベルにばらつきがある場合には、不適格弁護士に依頼してしまう危険を、常にはらむことになる。

 結局、弁護士業務を自由競争化させるべきだという主張は、その裏に、「社会的強者は弁護士業務が自由競争にさらされても、良い弁護士を選べるので、全く被害を受けない。一般国民が不適格弁護士を選んでしまうリスクがあっても、それは資金も情報も調査能力もコネもないのが悪いのであって、弁護士を選ぶ時点から勝負ははじまっている。」という弱肉強食の思想が流れている、と考えることもできそうだ。

 そもそも、裁判の世界は、社会的な力関係に左右されることなく、法的に見て客観的に筋の通った主張をする方を勝たせる公平・公正な場であるはずだ。その裁判の場面で一緒に戦う弁護士を選ぶ時点で既に、社会的強者が有利な立場にあるとすれば、公平・公正な場であるはずの裁判の前提が崩れはしまいか。

 また、資本主義社会における自由競争は、言い換えれば、儲けたモン勝ちである。いくら誠実に業務をこなし、依頼者にとって素晴らしい弁護士でも儲けられない場合は退場しろということである。依頼者のために良い弁護をしようとすれば、時間がかかる。しかし、時間を掛けていれば仕事を沢山こなせないから儲からない。いきおい、良い弁護よりも儲かる弁護が横行する傾向が進むことは間違いないだろう。

 既に、最近の司法修習生にはビジネスロイヤー志向が強くなってきているという指摘が、司法研修所教官からなされている現状は、弁護士の大量増員と無関係ではないようにも思われる。

 (続く)

日弁連はもっと文句を言うべきだ(その2)

 次に弁護士業も自由競争した方が良いのかという点についてのべる。

まず、自由競争の前提として、弁護士業が自由競争になじむものなのかという点である。

 弁護士業務のもっとも典型的業務として訴訟があるが、訴訟は過払い金請求事件のような特殊な類型を除けば、何一つ同じ物がないといっても良い。相手方の主張・反論も千差万別であるし、再反論も相手の主張に対応する内容になっていくことも多い。つまり一つ一つの訴訟がオーダーメイドなのだ。しかも弁護士の訴訟追行には職人技的な面もある。

 確かに、同じ仕立て料を払い、全く同じ生地を使って、全く同じ注文で、紳士服を何軒かにオーダーメイドすれば、どこの店が優秀かどうかは分かるかも知れない。
 しかし、ある一つの事件を訴訟にする場合、同一の事件を全く別の弁護士に依頼して別の訴訟で争ってもらうわけにはいかない。全く同じ事件で、弁護士の比較をすることが、本質的にできないのだ(比較ができない問題)。この場合、結局、クライアントとしては、依頼した弁護士がきちんと仕事をしてくれることを期待するしかないのだ。

 次に、やっかいなことに、訴訟になどにおける弁護士が作成した書面の優劣について、クライアントは判断することが難しい面があげられる。この点、ラーメン店であれば簡単だ。美味いかどうかはすぐ分かるし、美味くないラーメン店には行かなければ良いだけだ。

 しかし、弁護士の作成した準備書面を見て、それだけで弁護士の仕事の優劣を判断できるクライアントがどれだけいるだろうか。前にも述べたが、関東の某大手事務所に勤務する弁護士を訴訟相手にしたことがあるが、法的に意味のある主張は僅かであり、その他は、事件とあまり関係のない判例を多数引用しただけの書面であった。しかし、書面自体は立派な某大手法律事務所の名前入りの紙に印刷され、あちこちに最高裁判例が引用されているので、おそらくクライアントとしては、非常に頼もしい書面を作ってもらったと誤解しているだろうと思われた(仕事内容の優劣がクライアントに分かりにくい問題)。

 したがって、通常の場合、弁護士に自由競争をさせたところで、クライアントとしては比較もできないし、仕事の内容の優劣も分からないという状況に陥ることになる。

(続く)