予備試験の採点について(実話)

 司法試験予備試験については、故意に予備試験の点数を下げているのではないかという疑惑を私は持っており、そのことについて、昨年ブログに示唆したことがある(2011.10.26)。

http://www.idea-law.jp/sakano/blog/archives/2011/10/26.html

 しかし、その後、司法試験予備試験は本当に、故意に点数を低く採点していることは間違いないと、確信する出来事があったので、ご報告したい。

 実は、私の大学時代の友人が、予備試験を受けていたのだ。彼は、旧司法試験にも26歳で合格し弁護士になって以後15年以上の実務経験を有する。

 その人が、予備試験を受験して合格したのだが、その論文式試験の順位は50位前後だったそうだ。

 もちろん、その人は仕事が忙しくて、受験勉強などほとんど出来ていないだろうから、予備試験に向けて受験勉強をした人達の特に優秀な方々に上位を抑えられることは十分あり得ることで、この順位は不思議ではないかもしれない。

 しかし問題は、予備試験でのその人の得点の評価であり、また、その人がそれなりの実務経験を有する日本の弁護士であるだけではなく、アメリカの弁護士資格も複数の州で取得し、かつ、法科大学院の教員でもあることだ。

 いわば、その人は、私の目から見ても、法科大学院制度が目指した①豊かな人間性と感受性②幅広い教養と専門的な法的知識③柔軟な思考力④説得・交渉の能力⑤社会や人間に対する洞察力⑥人権感覚⑦先端的法分野や外国法の知見⑧国際的視野と語学力⑨職業倫理といった能力において特に劣っているとはいえないのである。

 ところで、予備試験の合格者の点数を見てみると、500点満点で、全国最高点が302点である。仮にその人の予備試験論文式試験での成績が、50位だったと仮定すると、得点は265点あたりということになる。

 法務省が発表した予備試験の論文式試験での採点に関する文書によると、

 優秀:    50~38点(5%)、 

 良好:    37~29点(25%) 

 一応の水準: 28~21点(40%) 

 不良:     20~0点(30%)

 500点満点で265点の得点は、53%の得点率であり、「一応の水準」の最上位ランクではあるが、良好にすら届かない。

 念のため触れておくが、予備試験は、新司法試験を受けても良いだけの基礎的素養があるか、つまり法科大学院卒業生レベルの素養が身についているか、を確認することを目的とする資格試験である(司法試験法第5条1項)。

 それにも関わらず、上記のように、それなりの実務経験を有する実務家教員であっても、その答案が予備試験において、トータルで一応の水準としか評価されていないのである。換言すれば、いかに、法務省が予備試験ルートを故意に狭め、合格者を絞っているかが、よく分かると思う。

 法科大学院制度を維持するためとはいえ、こんなインチキ臭い試験をやっていたら、法曹志願者が激減するのも無理はない。

 法曹養成制度の改革は、優秀な法曹を生み出すこともその目的にあったはずだ。法科大学院制度の設立・維持が目的ではない。私たちは、どこかで、法科大学院側の主張が実は自らの利権維持にすり変わっていないかチェックしていく必要があるように思う。

※この話は、本当のお話である。

新司法試験に関する雑感について

 私が司法試験を受験していて、困ったのは、試験委員が求めている合格答案がどういうものかイメージがなかなかつかめないことだった。

 その点、新司法試験になってから、法務省のHPで、考査委員(採点者)に対するヒアリングなどが公表されるようになったので、今の受験生は、合格答案のイメージという点では恵まれていると思う。

 ところが、その採点者に関するヒアリングの公表内容だが、何度も指摘しているとおり、年々受験生の答案レベルがひどい内容になりつつあることが、明らかに指摘されている。近年の採点者の意見によると法律答案の体をなしていない答案も相当数にのぼるらしい。

関連条文から解釈論を論述・展開することなく,問題文中の事実をただ書き写しているかのような解答もあり,法律試験答案の体をなしていないものも見受けられた(H22刑訴法)。

全く理解や知識がないためか,「他国に損害を与えてはならない」という「常識論」しか記載されていない答案も目立った(H22国際公法)。

 など、極めて辛辣な意見が記載されている場合もある。

 しかし、そういう受験生への批判こそ、受験生が注意し、気をつけるべき宝の山なのだ。こうやれば合格したという方法は人それぞれ千差万別であるが、こうやれば失敗するという方法は結構似通ったものである。

 受験生の皆さんは、よくよく採点雑感を読んだ上で、こうやれば失敗するという方法に陥らないように気をつけるだけで、ずいぶんと違ってくるはずだ。

 十分活用されることをお勧めする次第である。

 ※H23年度の採点雑感が見当たらないと思っていたが、法務省のHP中、司法試験の試験結果の欄に発見できました。是非ご参照下さい。

新司法試験と予備試験の合格者~その2

(続き)

 昨日書いたように、新司法試験の合格者数を決定する基準は、おそらく、司法試験法に記載された「裁判官、検察官、弁護士となろうとする者に必要な学識およびその応用能力を有するかどうかを判定する」という基準ではなく、閣議決定と質の維持の双方をなんとかバランスを取れる範囲で、政策的に決定されていると考えられる。平たくいえば、本来、法曹になれるだけの必要な学識と応用能力を判定するはずの新司法試験が、合格者の数あわせのために合格基準をゆるめていると、いうことだ。

 一方予備試験の合格者はどうか。伝聞情報によると、予備試験合格者決定会議では合格者数の案が幾つか配布され、その中で、今回の合格者数が決定されたそうだ。

 予備試験の合格者の点数を見てみると、、500点満点で、全国最高点が301点である。

 法務省が発表した予備試験の論文式試験での採点に関する文書によると、

 優秀:50~38点(5%)、

 良好:37~29点(25%)

 一応の水準:28~21点(40%)

 不良:20~0点(30%)

となっている。

 全国最高点取得者の得点率は約60%なので、平均すると「良好ぎりぎり」の点数しかとれていないことになる。

 もともと司法試験予備試験は、新司法試験を受験させて良いかどうか、つまり、法科大学院修了者と同程度の学識と応用能力並びに法律に関する実務の基礎的素養を有するかどうかを判定する試験である。

 予備試験の結果からすれば、予備試験全国最高点合格者の成績は、法科大学院修了者として良好ぎりぎりの成績ということにならざるをえないだろう。逆に言えば、この予備試験最高点合格者よりもはるか多くのに優れた法科大学院修了者がいるということにならないとおかしい。

 本当に、法科大学院が優れた教育を実施し、厳格な修了認定をしていると豪語するなら、予備試験問題を全国の法科大学修了生に受験させてみたら、いいだろう。おそらく、予備試験の合格点をとれる法科大学院生はごくわずかなはずだ。

 つまるところ、予備試験は、本来法科大学院卒業生レベルの学識・応用能力、法律実務の基礎的素養があるかを判定するといいながら、基準を厳格に設定しているはずだ。平たくいえば、法科大学院制度を守るために合格者を政策的にごくわずかに絞っていると考えられる。

 法務省に言いたいことは、次の新司法試験では、予備試験合格者で司法試験を受験した人の合格率、合格点分布を必ず出してほしいということだ。わずか120名あまりだから簡単にできるはずだ。

 万一、比較をしないというのであれば、それは、法科大学院を守るために現実を隠蔽しているということだ。

 法務省の良心に期待する。

新司法試験の合格者と予備試験の合格者~その1

 これは、伝聞情報も混じっているので、正確性は担保できない話だ。

まず新司法試験の合格者決定に関しては、新司法試験委員会としては、かなり無理をして合格者2000名を維持しているそうだ。かなり無理をしているとは、本来合格するだけの実力がなくても、合格させているということだ。

確かに平成14年3月19日の閣議決定には「司法試験合格者3000人を目指す」 という文言が入っている。しかしその内容は従前このブログでも記載したとおり、あくまで「目指す」という努力目標にすぎないし、その前に、「後記の法科大学院を含む新たな法曹養成制度の整備の状況等を見定めながら、」という前提が付いている。法科大学院がきちんと教育することができており、法曹の質が維持できることが大前提だった。

ところが、司法試験採点委員の意見・2回試験不合格者の増加等から明らかなように、法科大学院を卒業して司法試験を受け、合格される方のレベルは、全体として低下する一方だ(私とて、法科大学院卒業者の方の中に優秀な方がおられることは否定しない。あくまで全体としてのレベルダウンだ)。つまり、法科大学院が法曹にふさわしいだけの実力を身につけさせることができていないということなので、閣議決定は、明らかにその前提が失われている。

しかし、その閣議決定が存在する限り、法務省・司法試験委員会はこれを尊重する運用をしているらしい。そこで、3000名なんて到底合格させられないが、ぎりぎりの選択として、本来合格させるべきでないレベルの方も含めて合格させて、2000人の合格者を維持し、閣議決定と司法試験の質のバランスを取っているそうなのだ。

これは私の意見ではなく、伝聞ではあるが、司法試験委員会に近い人からの情報だ。かなり信用して良いと思う。

私自身旧司法試験で2000番台の成績を取ったことはあるが、合格してから考えると、そんな成績で合格して修習を受けたとしても到底弁護士業ができるレベルではなかった。3000番台の成績なんて、合格を考えるだけでもおこがましいレベルだった。

私の実感からすると、2000人合格だって相当やばいレベルの人が多く混じっているはずだ。

 確かに、新司法試験では法科大学院で教育を受けた人だけの争いなのでレベルが高い受験者の争いのはずだという主張もあるだろうが、旧司法試験では毎年500人しか合格しなかったので、実力者が順番待ちをしている状況にあった。どうしてあの実力者が合格できないのかという例がごろごろしていた。新司法試験では5年以内に3回受験してダメなら退場だ。実力があるのに運悪く合格できなかった人がどんどん溜まっていったりしない(できない)制度になっている。

 どちらが厳しいとかは分からないが、少なくとも新司法試験で実力者が長蛇の順番待ち状況であるとは聞いたことがないので、私の感覚ではやはり合格者を増やす前の旧司法試験の方が厳しかったのではないかと思う。

(続く)

平成23年度新司法試験合格者発表に思う。

 先日、ある極めて優秀な弁護士の先生と食事をする機会があった。その席で話題になったのは、常識のない新人弁護士が激増しているのではないかという指摘と、今の司法修習生は大丈夫なのか、というものだった。

 司法修習生に関しては、就職が大丈夫かという意味ではない。人としての常識・法律の基礎的知識の点で、本当に実務家にしても大丈夫なのか、ということだ。

 その先生によると、アソシエイト弁護士(イソ弁)を雇用するために、募集をかけたところ、多数の応募があったとのことで、その先生が以前処理された事件を題材に、起案をさせる試験をしたのだそうだ。

 すると、事実を的確に把握して先生の考える正しい法的構成ができた修習生は、わずか2割程度。どう考えても、与えられた事実からは、常識的には不法行為責任で論ずべきところ、無理矢理事実をねじ曲げて債務不履行責任と構成する答案が続出し、「昔の司法試験合格者では絶対にあり得ない。一体、今の合格者はどうなっているんだと心配になった。」とのこと。

 また債務不履行責任として論じて論旨が一貫しているのならともかく、都合の悪いところは不法行為責任を合体させるなど、基本的な民法の理解に、大いに疑問を感じたとのことだった。

 まず第一に法律家は、事実に法律を適用するものであって、自分の知っている法律に事実をねじ曲げて当てはめようとすることは、本末転倒。基本的姿勢が間違っている。第2に、民法の理解が不足しているということは、実務では正直いって何の役にも立たない弁護士ということになりかねない。実に恐ろしいことなのだ。

 今日、新司法試験の合格発表があった。2063名の合格者がでたそうだ。 ここ数年、合格者が2000名程度で推移していることを考えると、どれだけ政策的に合格者を増やそうとしても、さすがに合格者のレベルをこれ以上、下げることは、司法試験の性格からして、まずい状況にあると司法試験委員会が判断したからではないか。

 もちろん、相当上位の合格者の方は優秀であろうことは否定しない。ただし、先ほどの先生のお話からも分かるように、合格された方のうち相当多くの方(8割以上の方)は、司法修習が開始されるまでの間、少なくとも今まで以上に必死に勉強をされる必要があるように思う。合格後には、人の社会的生命を左右する重大な仕事に就く可能性が高いのだから。

 それにしても、ロースクール導入により却って、常識を疑われるような答案が増加するとは、皮肉である。ロースクールは一体何のために導入されたのだろうか。

 閣議決定によると、

①豊かな人間性と感受性

②幅広い教養と専門的な法的知識

③柔軟な思考力

④説得・交渉の能力

⑤社会や人間に対する洞察力

⑥人権感覚

⑦先端的法分野や外国法の知見

⑧国際的視野と語学力

⑨職業倫理

 が、これからの法曹に求められ、そのような法曹を育成するのが法科大学院と位置づけられている。

 さて、①~⑨のどれが実現できているのだ。法曹養成フォーラムに参加されて、法科大学院擁護論を全面展開されている井上委員・鎌田委員に、新司法試験の最低点合格者の答案を見ながら、是非聞いてみたいものだ。

 また、優秀な法曹を養成するロースクールを導入すべきと連呼していた(と私は記憶している)朝日新聞・日経新聞などは、この事態をどう説明してくれるのだろうか。

 この点についても是非聞いてみたい。  

※なお当ブログの記載は、当職の個人的意見であり、当事務所の他のいかなる弁護士にも関係はございません。

明日から新司法試験

 明日から、新司法試験が始まる。

 いろいろな事情をかかえた人もいるだろう。大変な方も多いはずだ。しかし、試験自体はみんな大変なんだ。問題を見て、「しまった!もっとやっておけば!」とか、「あ~、全然わからんわ!」となる場合もあるだろう。しかし一部の天才的な受験生を除けば、ほぼみんながそう思っていると考えて間違いない。素知らぬ顔で答案を書いていても、心中不安がいっぱいなのが、ほとんどの受験生だ。

 そうだとすれば、心理的に負けたら損だ。だってみんな、困っているんだから。心理的に、負けなければ活路は開ける可能性がある。

 試験で表現できた実力は、公平に判断してもらえる。とにかく自分の実力を表現することに徹するべきだ。

 実力以上に飾ってみても、見る人が見ればすぐ分かる。万一、それで合格しても、2回試験で落ちるかもしれないし、実務家になってから過誤を起こすかもしれない。それなら、今の実力で堂々と勝負すべきなんだ。

 問題から逃げず、謙虚に問題に立ち向かい、全力を尽くして解答することだ。ツイッターにも書いたが、論文試験で困ったら、まず「問題で問われていることは何か」、「与えられている情報は何か」、「関連する条文は何か」、「当事者だったらどう考えるか(何を求めるか)」、等に整理してとっかかりを探してみるのも一つだ。特に思考が堂々巡りしてしまった場合は、答案構成用紙に箇条書きにして書き出してみれば、何か思いつくはずだ。

 4月後半から、司法試験に関して、ツイッターで心構えなどをつぶやいていたら、どうも、受験生の方のフォローが増えたようだ。せっかくフォローして下さった方々、是非頑張って下さい。

 最後まで絶対にあきらめないこと。万策尽きたと思っても、あきらめないという手段があると無理にでも思い込んで、最後まで戦い抜くことが大事だと思う。

もちろん予備試験を受験される方も、心構えはおんなじだ。

 受験生の皆さんの健闘を祈ってやまない。

予備校の弊害って・・・・?

 昨日の続きになるが、旧司法試験批判として、予備校の存在が大きくなっていたという事実を指摘する声が大きかったのは事実だろう。

 しかし、本当に予備校通いをすることが、弊害になっていたのだろうか。大学入試だって予備校がある。司法試験予備校で受験勉強をすることが、それ自体で問題視されるなら、大学受験予備校だって同じ問題が指摘されても不思議ではない。

 上記の通り、素朴な疑問もあるが、本当に、旧司法試験時代における受験生の予備校通いに問題があったかどうかについては、司法研修所教官が最もよく分かっているはずだ。

 なぜなら司法研修所教官は、司法試験合格後に合格者が司法修習を行う司法研修所の教官であり、一流の実務家(裁判官・検察官・弁護士)がその任に当たっているからである。司法試験合格直後の司法修習生を、一流の実務家が担任制で半年以上も直接様子を見ているのだから、司法研修所教官以上の確かな回答をできる立場の人はいないはずだ。

 残念ながら、司法研修所教官らの声はなかなか外に洩れることはない。もちろん司法制度改革審議会も新たな法曹教育のあり方を検討するうえで、最前線でその任に当たっている司法研修所教官から事情を聴取したはずだ(昨日記載した佐藤教授のように直接聴取していない可能性は否定できないが、まさかそこまでひどく偏向した審議会であったとは思いたくはない・・・・。)。

 ところで、日弁連法務研究財団が10年前に行っていた、次世代法曹教育フォーラムでは、司法研修所教官の貴重な声が、垣間見える。下記のリンクを参照されたい。

http://www.jlf.or.jp/jlfnews/vol6_1.shtml

 リンク切れの虞もあるので、そのフォーラムに参加された、東大教授(当時)の高橋宏司教授の「次世代法曹教育フォーラムに出席して」から、引用させて頂く(アンダーライン、字句の色の変更は、坂野が行っています)。

大学人と司法研修所教官経験者との認識のずれが明確化(第1回)

 3月22日に開かれた第1回は、委員がお互いを知り合う顔合わせを兼ねて、次世代の法律家のあるべき姿は何かの自由な意見交換に当てられた。結果として、参加委員全員がなんらかの発言をし、相互の理解は深まったように思われる。しかし、内容面では、どちらかと言えば現行の司法研修所修了者に照準を合わせ、そこが次世代でもあるべき姿だと捉える見解と、次世代の法律家はそれでは足りず更に上の質を目指すべきだという見解に分かれたようである。ともあれ、第1回の大きな収穫は、大学人が現在の司法試験合格者が暗記に走り法的思考能力が劣ると批判するのに対して、司法研修所教官経験者側から司法研修所の教育によってその程度のマイナスは十分に矯正されている、司法研修所修了者の質が劣化していることはない、との反論があったことであろう。大学人側の認識と司法研修所側の認識のずれが、明確になったのである。関連して、司法研修所教官経験者の一部から、大学は司法試験予備校に教育において負けたのである、その点を大学人は見ようとしないし認めようとしない、そこに大きな問題があるという指摘もなされ、議論は白熱した。第1回は、相互の親睦を深めるため、地下の桂で親睦会を開き、盛会であった。

出席者の語る司法試験予備校の実態(第2回)

 4月20日の第2回は、大学での法学教育の問題点を探ることに当てられたが、司法試験予備校の実態を探ることから始められた。最近、司法研修所を修了した、ということは数年前に予備校を利用して司法試験に合格した若手弁護士2名から自己の予備校体験談、および他の予備校の探察談が語られた。大学人は予備校を常に批判するけれども、どれだけ予備校の実態を見て批判しているのか危ういところがあるとの感想も付け加えられた。弁護士委員の一部からは、今や日本では予備校でこそ体系的法学教育がなされている、大学においてではない、という強い声も飛び出した。若手弁護士へのアンケート結果でも、大学教育は役に立たなかったという割合の方が高いという大学人にはショッキングな報告もなされた。公平に見て、大学人からの反論は十分ではなかったというべきであろう。

司法研修所の本当の問題点は?(第3回)

 5月24日の第3回のフォーラムは、大学の法学教育の問題点の補論と、司法研修所での修習に問題点があるかに向けられた。前半では、大学側委員の一人から、大学人は真剣に反省しなければならない、予備校に教えに行く大学教師も少なくないが、そういう者が大学教師としては予備校批判を口にする、これは奇妙ではないか、という発言があったのが印象深い。司法研修所に問題点があるかの本題では、スキル教育に偏重している、法哲学や法社会学を教えないのはおかしいという批判が弁護士委員からなされたが、裁判官委員その他から、司法研修所は司法試験合格後の修習であるからスキル教育でよいとの反論があり、大学人委員の多くもそちらに同調した。続けて、本当の司法研修所の問題点は、裁判官のリクルートの道具となり「官僚裁判官の養成場と化していると主張されていること」ではないか、それを討議しなければフォーラムの意味がないのではないかという発言があり、そこに討議が向けられることになったが、残念ながら、裁判官リクルート批判を強度に展開する委員が少なく、やや不完全燃焼の感が残ったようにも思われる。
 さて、現状についての相互認識の開陳は終わり、第4回、第5回は、いよいよ近未来のあるべき法律家養成に焦点が向けられる。法科大学院の構想、実務教育のあり方、司法研修所の存置等が、直接の話題となるであろう。これまでの3回でよい意味での本音がかなり出されたので、深みのある討議がなされると期待しているところである。

(引用終わり)

 このような当時の現場の声を聞いてみると、いかに予備校教育が流行しようが、むしろ体系的理解を与えてくれて実務に役立つのであれば、大学より良いわけだ。大学受験予備校だって大学に入学できるだけの学力を身につけてくれるのであれば、それで大成功であるはずだ。

 昨日の佐藤教授の発言が明確に示していたように「予備校=悪」とみなして進められた法科大学院構想が、大学側の勝手な思い込み(若しくは学生を奪い返すための姑息な手段)であった可能性は極めて高い。

 いくら大学教授が、予備校教育によって丸暗記の弊害があると言い張っても、現場の一流の実務家が(仮にそのような弊害があっても)司法研修所での教育で十分矯正され、実務家としてのレベルは落ちていないと言っているのだから、後者の評価が正しいことは明白だ。

 なぜなら、殆どの大学教授は、実務家ではないし、司法研修所の教育を受けたこともないからである。実務家の評価は、実務家が一番分かっている。それにも関わらず、佐藤教授を会長とする司法制度改革審議会は、実務家教育について、実務家の意見を聞き入れたのかどうか明確ではない。むしろ、昨日のブログに引用した枝野vs佐藤論争からみれば、佐藤教授は明らかに、「予備校=悪」の観念に凝り固まったまま審議会を主催されていた様子が伺える。

 このフォーラム第1回で司法研修所教官経験者が語ったように、大学は法曹教育において予備校に負けたのである。しかし大学は、その事実を頑なに認めようとせず、法科大学院制度を導入する、制度変更という手段によって予備校を駆逐しようとしたのだろう。しかし、大学側はもう一度敗北したのだ。仮に、法科大学院が本当に素晴らしい教育をしているのであれば、今も司法試験予備校が隆盛しているはずがないではないか。つまり、枝野vs佐藤論争で、いみじくも佐藤教授が予備校のような教育をやろうと思えば出来ると豪語していたが、実は、それすらも出来なかったということになりはしないか。

 さらに、法科大学院側は、予備試験合格者を減らすよう要望しているという。また、法科大学院志願者が激減していることを、新司法試験の合格率のせいにして、新司法試験の合格率を上げるように要求しているそうだ。

 ちょっと厚かましすぎるんじゃないだろうか?

(かつて)白熱!枝野vs佐藤論争!

 かつて、司法制度改革審議会は、司法試験を受験する学生が、大学の講義よりも予備校に通う「ダブルスクール化」、「大学離れ」によって、法曹となるべき者の資質に重大な影響を及ぼすに至っている、と主張し、法科大学院制度導入が必要であることの理由にした。

 現在でも、法科大学院擁護の論をくずさない、いわゆる大新聞の論説委員も、未だに旧司法試験時代の予備校は弊害があったと、なんの根拠もなく(馬鹿の一つ覚えのように)繰り返し主張する。

 しかし、法科大学院が導入された後も司法試験予備校は健在であり、ダブルスクール化は、一向に解消されていないという話も聞かれる。

 果たして、大新聞の論説委員が盲信している(と思われる)、司法制度改革審議会意見書は、きちんと審議したうえで結論を出していたのだろうか。

 結論的には否と答える他はないだろう。

 「第151回国会法務委員会第20号 平成13年6月20日」 の議事録は、上記の点を探るうえで格好の資料だ。下記のリンクをご参照されたい。

http://www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000415120010620020.htm

 その中で、枝野幸男議員と司法制度改革審議会の佐藤幸治会長の質疑を引用する(注:下線・色づけは坂野が行っています)。

○枝野委員 

私は、法曹養成制度の問題についてお尋ねをしたいと思います。
 法曹人口を大幅に増員するべきであり、そして、そのためにプロセスとしてのロースクールという発想までは大賛成でありますが、今回の答申の法科大学院、こういう構想には、内容的にも手続的にも納得がいかないというふうに思っています。
 答申の六十一ページに、「「ダブルスクール化」、「大学離れ」と言われる状況を招いており、法曹となるべき者の資質の確保に重大な影響を及ぼすに至っている。」と答申はしています。どんな重大な影響が出ているのですか。佐藤先生に。

○佐藤参考人 

 申し上げるまでもありませんけれども、今の大学の法学部の実情というのは、もともと教養教育、専門教育、いずれともやや中途半端な状況にあります。専門でもない、教養を十分身につけていただく状況でもない、もともとそういう状況にありました。大学として、大学紛争などがありまして、本格的にそれに取り組むのが相当おくれたのでありますけれども、ようやくここに来て大学をいかに再生すべきかという課題に取り組んでいるところであります。
 それで、法曹となるためには、私はよく言うのですけれども、人生には踊り場が必要である、その踊り場で自分がどういう道を歩むべきかということを真剣にじっくりと考える期間があって、そして、その上で職業を選択してもらう、そしてプロとしての教育を受けてもらう、そういう形に持っていかないと、中にはどういうシステムをとりましてもうまくいく人もいるでしょうけれども、全体のシステムとして考えたときに、そういう大学がプロフェッションの教育を担わなければいけないということ、これは世界的にもそういうことでありますし、我が国が、そこは著しく立ちおくれてきたということでありまして、そこを何とかしなければいけないということであります。
 今、重大な問題は何かということでありますけれども、やはりこれは試験一発主義、試験信仰、試験万能、一発の試験ですべてが決まるという、そのシステムの持っている限界ということを私ども考える必要があるのじゃないかということを申し上げているわけです。

○枝野委員 

 佐藤先生ともあろう方が、質問に正直に、真っすぐに答えていただかないと困るのです。
 法曹となるべき者の資質の確保に重大な影響を与えているとここでは書いてあるのです。大学教育に影響を与えているとか、そういうことを言っているのじゃないのです。つまり、ダブルスクール化、大学離れ以降の法曹の資質には問題があると書いてあるのです。どこに問題があるのですか。

○佐藤参考人 

 それは、さまざまな見方があるかもしれませんけれども、法曹をプロとして考えるときに、あるべき法曹ということをこの最終意見書にも書いておりますけれども、豊かな教養とそれから豊かな専門的な知識、プロとしての知識であります、それをじっくりと育てる必要がある。それが今まで満たされていなかった、十分そういうシステムがなかったということから、大学へ入ってすぐ、例えば大学以外のところに行って、試験に通るようにできるだけ効率的な勉強を目指す。それをまず目指す、大学に入ってすぐ。そういうことは、人間の養成としていかがなものであろうかということを申し上げているわけでありまして、一人一人の法曹がどうだとか、今の法曹がどうだとかということを申し上げているわけではありません。あるべき姿として、そういうことであるべきだと申し上げています。

○枝野委員 

 だとしたら、この文章を変えなければおかしいのです。重大な影響を与えているのじゃなくて、こういうことがあるべきだけれども、あるべき論と今が違っているというのだったらわかりますが、これだったら現在の、最近のダブルスクール化、大学離れ以降の法曹は資質がないと言っているという中身になるのですよ、どう考えたって、この文章を読んだら。どう考えたって違うのじゃないですか。
 では、違う論点から行きます。
 今先生もおっしゃいました、試験に受かることに最短で行くための試験勉強になっている。先生御自身も司法試験委員をされていたと思いますけれども、司法試験というのは、そういった受験技術を身につければ受かる、そんな試験をされてきたのですか。

○佐藤参考人 

 お答えします。
 私も、九年間司法試験委員をやりました。最初のころは、できるだけ暗記に頼らないようにということで、私がなったとき問題を工夫したことがあります、そのときの皆さんで相談して。そうしたら、国語の問題のようだといって御批判を受けたことがありました。しかし、それに対してまたすぐ、数年たちますと、それに対応する対応策が講じられて、トレーニングをするようになりました。その効果はだんだん薄れてまいりました。
 申し上げたいのは、試験を一発の試験だけで決めようとすると、試験の内容をどのように変えても限界があるということを申し上げたいわけです。

○枝野委員 

 別の視点から聞きます。
 今回、受験技術優先、それから受験予備校に大幅に依存するダブルスクール化ということを問題だという視点から取り上げていらっしゃいますが、例えば、受験予備校の実態、そこでなされている教育、そこで教育をしている教育者の立場、そこで教育を受けている人たち、そういうところの教育の結果として司法試験に受かったそういう若手法曹の意見、こういうものはどれぐらい聞かれましたか、あるいは調べましたか。

○佐藤参考人 

 直接ヒアリングに来ていただいて伺ったということはしておりませんが、いわゆる予備校などから審議会あてに、こういうことだ、こういうことを考えていただきたい、そういう文書はちょうだいしておりますし、私もそれは目にしております。実際にどういう実情にあるかというのは、私はつまびらかにはしませんけれども、私の関係した学生やいろいろなものを通じて、どういう教育の仕方になっておってどうかということは、ある程度は私個人としては承知しているつもりであります。

○枝野委員 

 つまり、十分に御存じになっていなくてこういう結論を出しているわけですよ。
 この法曹養成の問題というのは、もう端的に言えば、受験予備校と大学とどっちがいい教育をしているのか、どっちが時代に求められる、社会に求められる教育をしているのかというところが、一つの大きな争点なんです。ところが、この法曹養成にかかわってきた委員の皆さんは、全部大学関係者なんです。ところが、この大学教育では、法曹としての資質を、あるいは法学としての基礎素養を覚えられない、身につけられないから、司法試験予備校が少しお金が高くたってみんな行っているわけですよ。
 そのことに対しては、当事者である皆さんの意見だけで物事を判断している。手続的にまさにおかしくありませんか。公正ではないのじゃないですか。これは自分たちの大学というものの存在を守るための結論になっている、そう言わざるを得ないと思いますが、いかがですか。

○佐藤参考人 

 先ほどから、プロとしての教育ということを申し上げてきました。そして、もう一つお考えいただきたいのは、国際資格、そこの勉強をすることによって、どういう国際的に通用する資格を取得するかという問題にもかかわっております。それは、国のあり方として、その問題は真剣に取り組むべき課題であろう。
 そして、先ほど来申しておりますように、法曹プロの教育に大学が責任を担わない国というものは、私の理解するところ、ないと思います。今の大学がどうかという判断、評価は別であります。別でありますけれども、この最終意見書は、国民生活上の医師であるというように位置づけておりまして、医師ならば、医師という理解が正しいならば、それに見合うような教育のシステムを我々として考える必要がある。そういう観点から考えておるわけであります。

○枝野委員 

 それは、大学教育を抜本的に変えなければならないということが一方であるのは当然です。しかし、だとしたら、このロースクール構想とかが出てくる以前の問題として、各自の大学が今まで何を努力してきたのですか。予備校に全部学生をとられて、そして今まで何年間、何をやってきたのですかということを一つ申し上げたい。
 それからもう一つ、医師という話をしました。では、医師養成プロセスの話をどれぐらい調べられましたか。医学部が医師を養成していますが、医師国家試験のために、結局ダブルスクール化、予備校化しているのを御存じではありませんか。

○佐藤参考人 

 後者の方から申し上げますけれども、私も、自分のことを言ってなんですけれども、京大で、井村総長のもとで特別補佐をやったことがあります。井村先生は御承知のようにお医者さんでありますが、医者の実情についていろいろ、よく議論をいたしました。今のやり方で十分とは思わないというのは、井村先生もよくおっしゃっておりました。
 ちょっとそれはあれしまして、今ここで申し上げたいのは、医者の試験が難しいといいましても、一発のその試験だけで医者として資格を認めるということはないはずです。医学部の教育、今の医学部の教育がいいかどうか、これはさっきも紹介した井村先生の話なんですけれども、少なくとも今のを前提にしましても、医学部で教授について、いろいろなプロセスを経て教育を受けて、そして試験がある。プロセスは何もなくてもいい、試験だけ通ればいいというシステムには、私は今の医学部の試験はなっていないと思います。
 それで、プロの教育というのは、やはり過程が大事なんだというように考えるわけであります。

○枝野委員 

 私は、最初に申し上げましたとおり、ロースクールということで、プロセスで教育をするということを否定していないのです。今の大学をベースにすることが間違っていると申し上げているのです。
 それで、今の医学部教育も、プロセスとして大学医学部でやる、それはいいことなんですよ、いいことなんですけれども、結局は予備校化していますね。ダブルスクール化していますよ、かなりの部分。医師国家試験のための予備校というのがたくさんできていますよ。どこに問題があるのかといったら、教え方に問題があるのですよ。教える側の問題なんです。ちゃんとプロセスで、医学部で教育をして、そこでちゃんと教わっていれば受かるように教えていればいいけれども、それを教えていないから、だからプロセスとしての医師養成教育にしても予備校がたくさんできるのです。
 というのは、予備校は競争しているから、きちんと、どうやったら一番効率的に教えられるかという努力をしているのです。大学には競争がないから、それがだめなんですよ。だから、既存の大学をベースにロースクールをつくってもだめだ、学校教育法なんかで守られるロースクールをつくってもだめだ、自由競争で競争させる、そういう法曹養成プロセスをつくらないと、結局同じことになりますよ。いかがですか。

○佐藤参考人 

 今までの法学部の、さっきから申し上げたように教え方がよかったかどうかということは、これは私自身も、おまえはどれだけやっていたかと言われれば、内心じくじたるものがあります。
 ただ、申し上げたいのは、今のような一発試験のもとで法学部で頑張ってくださいと言われても、これは限度があります。これは、全体のシステムの中で法曹をどう育てるかという観点からの法学教育であり、大学院のあり方だということをぜひ御理解いただきたい。
 そして、予備校でやっている、どうだと。私の理解する限りは、さっき申し上げたように、効率的にいかにとなりますと、それは、正解があって、正解を求める、そういう発想になりがちです。これからのローヤーにとって大事なのは、考え方を鍛えることです。
 私は憲法ですけれども、例えばアメリカの憲法のケースブックをごらんになればわかりますけれども、正解なんて一切出てきません。あらゆる角度から問題をぶつけて考え方を鍛えるのです。そういう考え方を鍛えるためには、豊かな教養で、そして何年もかけて教えなければできることではないと思います。
 予備校のように教えろというなら教えられないわけではありませんけれども、そういうことが大学の役割ではないというのが私の考え方です。

○枝野委員 

 その考え方を身につけさせるという教育を大学がされているということは、私もそう思います。そう思いますけれども、私は最初の方で、実際に予備校で何をどう教えているとかときちんとお調べになりましたかということをお尋ねしました。間接的にしかお調べになっていないですね。受験技術も教えています。つまり、試験の最終盤とか、受験予備校に例えば三年通っている三年目とかというのは、確かに、技術、答案の書き方、そういったことも教えています。
 しかし、法学入門的な話、あるいは学部の講義のレベルの話、そういう基本的な法律の物の考え方とか、民法とは何なのかとか、憲法とは何なのかという基本的な話を実は大学で教えてくれていない。あるいは、教えてくれている先生が少ない。つまり、そういう研究者、高度な専門家の皆さんにとっては当たり前のことを大学では教えていないのですよ。高校を卒業して、いきなり入ってきて、高校でも、もしかすると、今公民というのですか何というのですか、つまり歴史すら勉強していないかもしれない大学新入生に対して、いきなり憲法の最先端に近いようなレベルの高い授業をやっている。どの科目だってそうですよ。そういう大学教育があるから、だから、みんな予備校へ行くのです。
 そういうことをきちんと予備校では教えていますよ。つまり、憲法とは何なのか、民法とは何なのかという基本的な、本来、大学の二、三年生、一、二年生ぐらいのところできちんと教えなければならない、そこのところの教育が欠けているということの自覚なしに、大学をベースに幾らこういうものをつくっていったって、基礎のところが違うのだ。だから、実際に予備校で学んでいる人や予備校出身で司法試験に受かった人、そういう人たちの話を聞かないで結論を出したって、明らかに片手落ちだ。
 こういう手続的にきちんとしたプロセスを踏んでいないような答申には私は賛成できないということを申し上げて、終わります。ありがとうございます。

 この議論から、司法制度改革審議会は、予備校がどれだけ努力しているのか具体的に調べもせずに「予備校=悪」と決めつけ、予備校に奪われた学生を取り戻すべく、その切り札として法科大学院構想を推し進めたことが分かるだろう。

 佐藤教授が言うように、プロになるのに、人生の踊り場が必要なのであれば、京都大学の学生時代に勉強をあまりせずに4年間体育会グライダー部で過ごし、就職内定後に考え直して司法試験を目指した私は、それだけで理想的な法曹だと言ってもらえるのだろうか。

 大学紛争で大学の対応が遅れたそうだが、大学紛争が終わってどれだけ立つのだろうか。確かに私が京大に通っていた頃は、教養部の前でヘルメットを被りマスクをした中核派とおぼしき人が立っていたが、特に紛争はなかったはずだ。私は佐藤教授の授業を数回受けたことはあるが、大学紛争で授業ができなかったことなどなかったぞ。

 また、アメリカのケースブックには正解がないと言うが、アメリカの司法試験にも予備校(bar briなど)が対策講座を開講し、多くの学生が予備校通いをする実態をどう考えているのだろうか。

 そもそもプロセスによる教育がどういうもので、どこがどれだけ良いのか分からないし、それだけ素晴らしい教育をしているはずなのに、一般社会から法科大学院修了生(法務博士)に対する求人が殺到していないのは何故なんだ。

 また、それだけ法科大学院教育に自信があるなら、どうして予備試験合格者を可能な限り減らすように要望するんだ。法科大学院教育が本当に素晴らしいのであれば、予備試験すらなくしても堂々と受けて立って、新司法試験で戦えば勝てるはずじゃないのか。

 他にも多々突っ込み処はあるが、言い出せばきりがない。しかし、そのような方が中心になって作られ、現在その歪みがあちらこちらにでている状況で、なお司法制度改革の青写真を未だに維持しろと主張される佐藤教授のお考えは理解できない。

 学者だって間違うことはあるんだから、間違いは間違いとして、素直にお認めになられる方がよいのでは?

平成20年新司法試験採点実感等(憲法)

 法務省のHP→審議会等情報→司法試験委員会会議→第51回司法試験委員会会議→配付資料1「平成20年新司法試験の採点実感等に関する意見」をご覧頂きたい。

 憲法の採点実感、3 「改めて学んで欲しいこと」(1)、アを読んで、驚かない法曹関係者はいないだろう。

 そこにはこう書いてある。

 「今回の設問も、法令違憲と適用違憲(処分違憲)とを区別して論ずるべきであるが、法令違憲と適用違憲(処分違憲)の違いを意識して論じている答案は少なかった」

 こんなの、憲法の答案のイロハのイ以前の問題である。

 旧司法試験は紋切り型の答案が多い等と批判されてはいたし、私も憲法が得意だとはとても言えなかったが、少なくとも、私の受験時代では、憲法の論文試験2問のうち、1問でも上記のような間違いをやらかしたら、その答案はサヨナラ答案(その年の合格はサヨナラ=不合格を決定づける答案)であり、まず絶対と言っていいほど合格できなかったはずである。

 しかも、最悪答案の例として、「法令違憲と適用違憲の区別が付かないという信じ難い答案が若干あった」というのであればともかく、「法令違憲と適用違憲の区別ができていた答案が少ない」とは、信じがたいし、あってはならない状況ではないかと思う。

 憲法の司法試験委員も、

「法科大学院での教育成果は、なお、産みの苦しみの段階にあるといえよう」等と回りくどいことをいわずに、

「法科大学院での教育成果は上がっていない。このままでは、本当にひどいレベルの法律家が生み出され続ける。直ちに改めるべきだ。」と分かりやすく述べてくれればいいのに・・・・・。

GWがなかった頃

 私が司法試験受験生であった頃からずっと、司法試験の第1関門である短答式試験(マークシート方式)は、5月の第2日曜日である。

 つまり、世間はGWで華やいでいる頃、司法試験受験生は短答式試験の最後の追い込みに追われていたのだ。新司法試験も5月中旬なので、新司法試験受験生も最後の追い込みという面では、私達が受験生だった頃と同じく、GWなんて関係ないはずである。

 新司法試験と異なり、私達が受験生であった頃の短答式試験は、単なる足きり以上の過酷さがあったように思う。冷やかし受験の人がいるにせよ、競争率は5~7倍、ほぼ競争試験である。しかも、司法試験に合格して受験界から出て行ってくれるのは、合格した500人と受験をあきらめた方であり、再受験する人も相当いた。10年以上受け続けても短答式に合格できない人もいたし、わずか3時間~3時間半の一発勝負であるため、前年度の論文式試験で総合A評価を受けた実力者でも油断すると足下をすくわれる危険があった。  

 私は、短答式試験は京都大学で受験していたが、変な体験もある。

 武田鉄矢主演のトレンディードラマ(?)「101回目のプロポーズ」が放映されていた頃、ドラマの中で武田鉄矢が振られた腹いせだったのかどうか忘れたが、一念発起して司法試験に挑むという設定があった。しかも、理由は忘れたが、武田鉄矢が、走行してくるトラックの前にいきなり飛び出し、「僕は死にませ~ん」と叫ぶ妙なシーンもあった。確か、「僕は死にませ~ん」は、かなり流行語にもなったような気がする。

 そんな頃、京大の教養部で行われた短答式試験に私は参加していた。外はGW最後の日曜日であり、京大を公園代わりにお弁当もって散歩に来て騒いでいる人たちもいた。試験が始まり、みんなが必死に試験に取り組んでいるのに、散歩に来た人たちの大騒ぎは止まらない。たまりかねて、同じ教室の受験生が試験官に注意してくれるよう頼んだ。試験官も、腹に据えかねていたのだろう、すぐに出て行って注意してくれたようだ。

 試験官がぼそぼそと注意する声が聞こえたあと、おそらく酒によっているであろう人の、馬鹿でかい声が聞こえた。

 「お~い、騒ぐなってよぉ!」

 「なんでやねん。ええやんか、休みの日やねんから!」

 「なんか知らんけど、司法試験やってるんだとさ!」

 「けっ、司法試験!『僕は、死にませ~ん』か!勝手にやってろ!」

 ・・・・・・・・・・・・・諸行無常の意味を身にしみて感じたような気がした。

 こんな体験もある。

 短答式試験の受験会場に、帽子をかぶったままの受験生がいた。その受験生のためにか、わざわざ試験前の注意でも帽子はかぶらないよう指摘されていたが、その受験生は注意など全く意に介していなかったようだ。試験官も試験が始まれば帽子を取るのだろうと考えていたようすである。

 から~ん・から~んと、試験開始の合図がならされた。当時の試験開始はハンドベルのでかい奴で告げられていた。受験生は飛びつくように試験問題に取りかかる。

 ・・・・・・? 後ろの方から、妙な押し問答が聞こえる。

 「君、帽子を取りなさい。」

 「取りません。」

 「もう一回いうけど、試験の公正さを保つために、帽子を取りなさい。」

  「いやです。」

  「きみ、・・・・」と三度目の注意をしようとした試験官の言葉を遮って、帽子の主は大声で言った。

  「服装の自由は憲法13条の幸福追求権で保証されているはずです!」

 その後のことは、覚えていない。幸い私は、問題に集中できたので、その後のいきさつは覚えがない。

 試験後、その帽子の主の周辺で、呆然としている受験生が何人かいた。おそらく、この騒ぎで集中できなかったのだろう。一発勝負の競争試験である短答式試験で集中できなかったということは不合格とほぼ同義である。まさに、運が悪かったとしかいいようがない。

 他に受験仲間から聞いたところ、試験開始前から終了後までずっとひどい貧乏揺すりをされて困ったとか、臭い奴がとなりで集中できなかったとか、一問解くたびにガッツポーズをする奴がとなりにいて泣きそうになったとか、僅か3時間あまりの試験時間にとなりの奴が6回もトイレに立ったのでそのたびに通してやらねばならなかったとか、みんな様々な苦難に直面していたようだった。

 今年の司法試験・新司法試験の受験生も、私達と同じでGWなど関係ないだろう。大変だろうが、頑張ってもらいたい。