司法試験受験予定者がね・・・

 かつて司法試験は約3万人程度の受験者で、合格者約500~600人、合格率2%であり、現代の科挙と呼ばれたこともあった。短答式試験で5人~6人に1人(上位20%前後)に絞られ、短答式試験を合格した者の中から論文式試験でさらに7~8人に絞られ、口述試験もあった。

 近時司法試験の合格者は、1500人前後に落ち着いてきてはいるものの、問題は受験者数だ。

 平成31年(令和元年)の司法試験受験予定者数は、4899名(H31.4.19法務省発表)である。昨年の受験予定者数であった5284名から400人近く減少した。

 かつての司法試験に比べて、合格者数が3倍に増加した反面、受験者数は約85%もの大幅減少なのだ。

 仮に今年の合格者が1500名程度だとすると、単純計算した合格率は約30.6%となる。ほぼ3人に1人が合格するのだ。

 この点、受験者の大半が法科大学院卒業者だから、受験生のレベルが違うとの批判もあり得よう。しかし、受験生のレベルが多少違おうが、単純に合格率だけで計算すれば、15倍合格しやすくなっている状況で、かつてのレベルが維持できるはずがないと私は思う。

 私が見る限り、短答式試験は部分点も設けられるなど点数を取りやすくする工夫もなされているほか、単純な正誤の選択肢も多く、以前に比べると明らかに簡単になっているし、合格点も全然高く設定されてはいない。だから、短答式試験で不合格の点数しか取れない受験生は、そもそも箸にも棒にもかからない。

 例えば昨年の実績では予備試験ルートの受験生の短答式試験合格率は実受験者での合格率は99.5%なのだ。予備試験合格者は法科大学院卒業者と同レベルの学識を有すると予備試験で判断された者達だから、この合格率から見ても、近時の短答式試験の合格は極めて容易であることは理解できよう。

 こんなザルのような短答式試験では、足切りの選別機能を果たすことにもなっていないようにも思われるが、豈図らんや、法科大学院ルートの受験生の短答式試験合格率は実受験者での合格率で67.3%。つまり、法科大学院ルートの受験生のうち3人に1人が、どうしようもない点数しか取れていないのだ。

 これは、受験生が悪いのではない。法科大学院にきちんとした教育能力がないからである(一部の合格率の高い法科大学院の存在は否定しない。制度全体としての話である。)。

 さて、今年の受験予定者のうち4506名が法科大学院ルート、393名が予備試験ルートだから、仮に昨年度の実績と同様だ考えると、

 法科大学院ルートの昨年の受験予定者5284名→実受験者数4805名(約90.9%)なので、今年の実受験者数は4506×0.909=4096名程度と考えられる。そのうち、短答式試験合格率が昨年並みだとすると、論文試験を採点してもらえる法科大学院ルートの受験生は、4095×0.673=2757名と試算できる。

 予備試験ルートの昨年の受験予定者442名→433名(約98%)なので、今年の実受験者数は393×0.98=385名と考えられる。そのうち、短答式試験合格率が昨年並みだとすると、論文試験を採点してもらえる予備試験ルートの受験生は385×0.995=383名

 だとすると、2757名+383名=3140名で、約1500名程度の論文試験合格を目指すことになる。

 平たくいえば、およそ2人に1人が論文試験に合格だ。

 最高裁は公には認めてはいないが、裁判所から弁護士会に対し、若手弁護士のレベルダウンがひどいので、講師はいくらでも派遣するから若手向けの研修をやってくれと依頼されているという非公式のお話があることは、実は何度も聞いている。かつて法的知識がなければまともに書けなかった2段方式の起案も司法研修所では行われていないと聞くし、2回試験も部分点が取りやすいような構成に変更されたと聞いている。

 司法試験も2回試験もレベルは落としていませんなどと建前ばかり振りかざしていたら、司法全体が転ける。

 合格者数ありきの合格判定ではなく、現実をきちんと見据えて、厳格に司法試験と2回試験を実施すべき時期に来ているように私は思う。

光の路

2015年のGWのこと。

夕方以降は、ほとんど車もすれ違うことのない、NZ南島の国道。

大きな月が、湖面に光の路を拓いたのを見かけた。

京都川端通りの桜

本日午後2時頃の、京都川端通り(今出川通りより北を望む)のソメイヨシノの並木。

おそらく、明日か明後日には満開だろう。

暖かいので、週末までもつのか少し不安だが、お天気が良ければ凄い人出になりそうだ。

ちなみに、昨年満開になったのは3月30日頃。

今年は急に冷えたため少し遅れ気味。

結局国には、物言わないってことか?

 私が参加出来なかったが、常議員会での報告を聞く限り、3月1日の日弁連臨時総会で、菊地日弁連会長が、いわゆる谷間世代問題に関して、会員が長年拠出してきた会費から20億円のお金を谷間世代にばらまく議案を可決させ、そのかわり日弁連は谷間世代問題について国に対する給付を求めていかないと述べたようだ。

 結果的に、菊地日弁連会長のやり方は、谷間世代に日弁連会費から20億円ばらまくことと引き替えに、国に対する谷間世代の行動に水を浴びせた(日弁連は、谷間世代のために国に給付を求める行動をとらないことを明らかにした)格好になる。

 結局、菊地執行部のやり方は、他人の(会員の)お金を用いて、谷間世代に目先のお金をばらまき、その給付によって谷間世代の国に対する行動についての火消しを行ったのではないかと思われるが、正確には議事録を見てみないと分からない。

 なお、引き続き国に対して公費を用いた業務拡大を求めていくと述べたようだが、これとて、今まで業務拡大を求めてきた行動となんら変わりはしないので、特に谷間世代に対する対策とはいえないと考えられる。

 さらに、菊地会長は今回の20億円バラマキの他に、更なる谷間世代への施策を考えるとも述べたようだが、ちょっといい加減にしてもらいたい。この件でさらに日弁連のお金を使うのであれば、他の世代も黙っていまい。

 日弁連に備蓄されたお金は、長年、高額の日弁連会費賦課に耐えながらなんとか支払ってきた世代が主に負担したお金と考えてもおかしくはないだろう。

 日弁連会費は、日弁連全員のお金であることをまず考えて欲しい。

 ええカッコするのも勝手だが、他人の(みんなの)お金を湯水のように使わないでもらいたい。

 やるなら、あんたの金でやってくれ。

司法試験の合格レベルが「がた落ち?疑惑」

 司法試験合格者の実際の答案を公表すればすぐ分かることだとは思うのですが、おそらく現時点での司法試験合格最低レベルは相当落ちているはずです。

 私はときどき、司法試験採点者の採点実感を引用してその危険性を示してきたつもりですが、平成30年度司法試験の採点実感を読んでみてその思いをさらに強くしました。

 特に民法は、私法の一般法であり私的なトラブルにおいては全て民法が基本になると言っても過言ではありません。会社法だって、労働法だって、いわば基本的には民法の特別法なのだから、おおもとの民法の理解があやふやであるならば十分な理解は難しいのです。根や幹がない木に花が咲くはずはないのと同じです。民法の基本的理解が不足しているのであれば、実務家としては使いものにならない危険すらあります。

 だから司法試験でも民法は、超重要科目といって良いはずなのです。

 ところが、平成30年度の採点実感は最後にこのように述べています。

・設問3で親族法・相続法を主たる問題とする設例が出題されているが,上記のとおり,基礎的な知識が全く身に付いていないことがうかがわれる答案も多かった。
・財産法の分野においても,一定程度の基礎的な知識を有していることはうかがわれるとしても,複数の制度にまたがって論理的に論旨を展開することはもとより,自己の有する知識を適切に文章化するほどには当該分野の知識が定着しておらず,各種概念を使いこなして論述することができていない答案が多く見られた。

 要するに、親族法の基礎的知識がない受験生が多いうえに、財産法においてもまともに論述するだけの知識がない受験生が多い。という指摘です。

 小問ごとにみていくと、もっと恐ろしい記述が目白押しです。少し長くなりますが引用します。

小問(1)関連

・種類債務が特定をし,その後特定した目的物が滅失したというケースについては,適用法条は,民法第534条第1項ではなく,同条第2項となるが,このことを正確に指摘することができていない答案が少なからず見られた。(坂野注:超基本的条文です。また、少なからずとは、辞書によれば「かなりある」という意味です。)このほか,危険負担の債権者主義を定めた規定である民法第534条については,かねてより立法論的な批判が極めて強く,その適用範囲を狭めるため,これを制限的に解する見解が有力であるが,この見解に従った答案は少なかった(坂野注:条文の記載通りに読むと不合理な結果をもたらすため制限的に読むことが私達の時代から常識でしたが・・・。)。

・(過失)の有無の判断の基準となる売主の負う注意義務について,民法第400条の善管注意義務に言及することができていない答案が相当数見られ,受領遅滞等の効果としての注意義務の程度の低減にも言及することができていない答案も多かった。また,そもそも,本件においては受領遅滞が生じているという事実関係に気が付くことすらできていない答案も相当数見られた。(坂野注:受領遅滞は本問のメイン論点といっても良いものです。受領遅滞に気づけないだけで実務家としてはアウトでしょう。しかもそのような答案が相当数あったというのですから、どれだけ恐ろしいことになっているのでしょうか・・・。)

小問(2)関連

・所有権に基づく妨害排除請求権が問題となるところ,その点の指摘がないものや,妨害排除請求権の相手方となるべき者が抽象的に言えばどのようなものであるのかについて分析がされていない答案が多く見られ(坂野注:そもそもEの請求を主張するための根拠であり、請求する対象のお話しなので、これらが指摘できないと何もはじまりません。ところが、それすらも書けていないということです。しかも多くの答案で!!),論述の前提となるべき事項を的確に押さえていない傾向が見られた。また,Dの地位は所有権留保売買の売主の地位にあることをどのように評価し,妨害排除請求の可否と結び付けていくのかが小問(1)における主要な課題であるが,この点を意識することができていない答案が見られた。

・所有権留保が担保のためにされるものであることを理解できていないことがうかがわれる答案や,所有権留保売買の法的性質は譲渡担保そのものであると誤解をした答案なども見られたことは(坂野注:これだけでアウトです。私の時代の旧司法試験ではその答案一通で不合格になっていてもおかしくありません。),所有権留保売買が債権担保の手法として社会で広く活用されている現状に照らすと,非典型担保であって実定法に基づくものでないことを差し引いても,残念な結果であった。

・小問(2)においては,Dは自動車登録名義を有するものの実質的には所有者ではなくなっているという前提で答えることが必要であるが(坂野注:これは問題文に、はっきり分かるように記載されていますが、そのことにも気づけないほどだということでしょう。),このような地位にあるDに対する妨害排除請求に関して,これを当然に対抗関係にあるとして処理することはできないのであり,この点は判例・学説が一致しているところである。それにもかかわらず,(中略),何の留保もなくEとDとが対抗関係に立つことを前提としてしまった答案がかなり多く見られた(坂野注:判例学説が一致している問題なのに!)。これは一面において,民法第177条(道路運送車両法第5条)の「第三者」の意義についての理解が十分でないことを表しているものであり(坂野注:対抗関係が分かっていないということは物権の基礎が分かっていない事と同じです。大問題です。),他面で,不動産と動産とで違いがあるとはいえ,最判平成6年2月8日民集第48巻2号373頁という重要な関連判例を意識することができていないもの(坂野注:判例百選にも載っています。)であって,基本的な判例の知識の定着の観点から難があるといわざるを得ない(なお,(中略)、中には登録には公信力があるとまでする答案も見られ,非常に残念であった。)。→坂野注:参照条文(道路運送車両法5条)が問題文に掲載されており、その条文にも明確に「対抗できない」と明記してあるのに、車両登録に公信力があると論じることは実務家としてはあり得ないものです。

小問(3)関連

・「遺産分割」,「遺産分割方法の指定」,「相続分の指定」,「廃除」といった基本的な概念についての理解が極めて不正確な答案が少なからず見られた。(中略)遺言において遺産中の財産の帰属先を指定することを「遺産分割」と誤解するものや,「廃除」がされたと認定しながらもHについて債務の相続承継を論ずるものなども少なからずあり,予想以上に基本的な概念を理解することができていないことがうかがわれた(坂野注:この誤りを実務家がやれば、十分弁護過誤に匹敵します。)。

・請求の根拠について全く記載のない答案や曖昧な論述・混乱した論述に止まる答案が多く見られた(坂野注:請求根拠もなく請求できるはずがありません。請求根拠も記載せずに訴状を出しても、おそらく裁判所は訴状の受理すらしてくれないのではないでしょうか。むしろ請求根拠の記載もない答案に何が書かれているのか興味が湧きます。)。

・分割して承継されるとしながら連帯債務であるとするなど債権総論の分野である多数債務関係に関しても十分に理解することができていないことがうかがわれた答案も見られた。(坂野注:分割して承継されながら連帯債務になるなんて全く意味が分かりません。太陽は東から昇るが西からも昇ると言っているようなものです。こういうことすら平気で書いてくる答案があるということなのでしょう。旧司法試験では間違いなく短答式試験で落とされているレベルだと思います。)

・問題文に記載された事実からは引き出すことのできない強引な事実関係の解釈・認定をする答案が散見された(坂野注:きちんとした法的な解釈を示すことができないから、都合良く解釈できるように無理矢理事実をねじ曲げて、答案の形を整えればいいという態度です。このような態度が実務家として相応しいとは到底思えません。)。

(採点実感ここまで)

 現在、法科大学院はギャップターム問題などを言い出して、さらに教育期間を短くしようとしていますが、今の教育期間ですら、基本中の基本である民法の基礎的理解が身についていないのに、どうしようというのでしょうか。
 質、量とも豊かな法曹を産み出すのが司法改革の目的ではなかったのでしょうか。上位はともかく、中途半端な実力しか持たない(というより、弁護過誤が頻発することがほぼ必至という低レベルの)法律家を粗製濫造することが法科大学院の目的ではないでしょう。

 さらに付言すると、平成30年度の採点実感では、例年指摘があった、法律家の文章以前の問題としてはおろか日本語にすらなっていないという酷評が、なぜかどの科目でもみられなくなっています。

 上記の採点実感から考えれば、受験生のレベルが急に上がったとは考えられないので、おそらく当局からそのような指摘をするなとの指示があった可能性があるように思います。

 しかし採点者達も、流石に今の現状はまずいと思ったのでしょう。答案の評価の点で、間接的に受験生のレベル低下の危機を訴えています。例えば民法の小問2では次のように記載されています。

・良好に属する答案の例は,優秀に属する答案との比較においては,小問(1)においては所有権留保売買が担保目的であることは理解しているものの,それがなぜ妨害排除請求権の成否に影響を与えるのかの理由付けが曖昧であるものや,小問(2)においては本件では対象財産が不動産ではなく動産であり,これが結論に何らか影響を及ぼすのかに意識を向けることができなかった答案などである。
・一応の水準に属する答案の例は,小問(1)において所有権留保売買の法的性質が担保目的であることに理解が及ばなかったとか,小問(2)においてEとDとが対抗関係に立つとするなど小問(1)又は小問(2)において大きく筋を外してしまった答案などである。

 これだけ見ると、あ~、所有権留保売買が担保目的だと理解できたら成績は良好な方なんだな~と思われるかもしれません。
 しかしそもそも所有権留保売買は非典型担保の例として必ず学びますし、担保目的であることは当たり前というか、もはや一般常識レベルの知識にすぎません。

 しかも、実は、本問の所有権留保売買が担保目的であることは問題文に明確に書かれているのです。
 具体的には問題文事実10②に、「甲トラックの所有権は、Aが①の代金債務を完済するまでその担保としてDに留保されることとし」と書かれているので、この記述に気付いたか否かだけの問題です。

 このレベルでも良好な水準として採点者が評価しなくてはならないということは、医師でいえば「風邪は手術では治らないと理解していたので、医師として良好な水準と評価せざるを得なかった」といっているのと変わりはしません。つまりそれだけ受験生全体のレベルが低下しているということです。

 ましてや、私達実務家の目からみれば、所有権留保売買の法的性質が担保目的であることを知らない時点で、答案として一応の水準どころか、法律家にしてはいけない、司法試験を受験することすらやめた方がいい、な~んにも分かっちゃいないレベルなのです。
 

 このようなレベルの答案でも、不合格にできない採点者の苦悩が滲み出ているとしかいいようがありません。

 司法試験受験生の大多数が法科大学院出身者ですから、低レベル答案の多くは法科大学院出身者が書いたものということになるはずです。

 したがって、法科大学院は直ちに自らの教育能力を再チェックすると同時に、低レベルの受験生を大量に発生させている現実を確認し反省すべきです。厳格な卒業認定をしているのなら、所有権留保が担保目的であることも分からない学生が卒業(しかも大量に!)できるはずがありません。

 このような低レベル受験生が多数輩出されていることを示す司法試験の採点実感を見る限りにおいて、法科大学院のプロセスによる教育が実効性を挙げているなどとは到底いえません。もちろん厳格な卒業認定を行っているなどとは、よほどの恥知らずでなければ、恥ずかしくて言えるはずがありません。

 したがって、そのような法科大学院に、「法曹になる本道は法科大学院である」と主張する資格も、予備試験を「本道ではない、抜け道だ」などと非難する資格もありはしません。

 なぜなら、プロセスによる教育を受け、(法科大学院がいうところの)本道を歩み、なおかつ厳格な卒業認定をパスしているはずの法科大学院卒業の受験生の多くが、どうしようもない答案しかかけていないのですから。

 より、はっきりいえば、採点実感から見る限り(もちろん上位レベルの受験生は別ですが全体的にみれば)、法科大学院は法曹にとって必要な力を学生に身に付けさせる能力がないということです。

 また司法試験委員会は1500人程度合格させよとの政府の意向があったとしても、司法試験法に法曹になろうとする者に「必要な学識及び応用能力を有するかどうかを判定することを目的とする」と明記されているのですから、法の目的を重視し、無理に合格させてはいけないと思います。

 採点者が採点実感に込めた悲痛な叫びを、私達は見逃してはならないと思います。

太地町のイルカ漁に提訴の報道

 報道によると、本日NGO団体が、太地町のイルカ漁が動愛法(動物の愛護及び管理に関する法律)に違反しているとして、漁師らの許可処分を取り消すよう、和歌山地裁に提訴したそうだ。

https://www.sankei.com/west/news/190214/wst1902140024-n1.html

 弁護団には、刑事弁護で著名な高野隆弁護士(私も高野先生の作品で勉強させて頂いたこともあり、個人的には尊敬している。)が参加されているとのことだった。

 私は太地町出身でもあるため、漁師さん達がどれだけ頂いた命に感謝しているかは、身近でみてきた。だから、イルカやクジラを可能な限り無駄にしないよう利用させて頂くことに漁師さん達は、ものすごく気を配っていることも知っている。

 クジラを乱獲した上で、単に鯨油だけ搾り取って後は捨てていたかつての欧米諸国や、動物殺しを楽しむ目的でサファリなどを敢行していた連中と、太地町の漁師は絶対的に違うと私は思っている。

 訴状での正確な主張骨子は不明だが、イルカは動愛法の愛護動物に該当するとして、追い込み漁で入江に追い込んだイルカに獣医の診察を受けさせないとかエサを与えていないことを虐待と主張したり、イルカの殺害方法が、「できる限りその動物に苦痛を与えない方法」を求める動物愛護法に違反していると訴えているようだ。

 食用目的で捕獲した野生動物が、形式的に動愛法44条4項「人が占有している動物で哺乳類・・・に属するもの」に該当するからといって、直ちに愛護動物といって良いのかは、なかなか難しい問題があるようにも思う。例えば、同条2項には、「愛護動物に対し、みだりに給餌または給水をやめることにより衰弱させるなどの虐待をおこなった者は」と規定されているように、愛護動物とは、給餌・給水を人間が行うことを前提にした動物を対象にしているという読み方も、不可能ではないように思われる。

 また、そもそもイルカを屠殺する場合に、現行の方法以上に苦痛を与えずかつ経済的合理性のある方法が可能かどうかもはっきりしないように思う。イルカが身動きできないように捕まえて、急所を突く方法などは、現実的には不可能だ。

 屠殺方法も現状では次のように改善されているそうだ。「2008年12月以降は、イルカが死ぬまでにかかる時間を短くするために、デンマークのフェロー諸島で行われている捕殺方法に改められています。この方法では、捕殺時間は95%以上短縮されて10秒前後になりました。イルカの傷口も大幅に小さくなり、出血もごくわずかになりました。」(和歌山県公式見解より)

 なにより、日本における牛・ブタ・鶏の飼育方法、輸送・屠殺の現状が、決して人道的ではない場合もあることは、次のリンクをみて頂ければお分かりになるだろう。

https://www.hopeforanimals.org/slaughter/

 イルカ・クジラ類の捕獲を批判する方々は、おそらく、動物愛護の精神に長けており、動物全体を愛護しようという崇高な精神で活動、訴訟をされているのであって、自分達の好きなイルカやクジラの生命だけを重視して、牛・ブタ・鶏の命の価値を低く見ているわけではなかろう。

 動物の命の価値に差をつけないとするならば、数にすればイルカよりも圧倒的多数の、牛・ブタ・鶏が、人間の都合で人道的でなく殺されている現状(鶏インフルや豚コレラの際の処分だって、人間の都合で罪もない大量の鶏やブタの命を奪っていることに何ら変わりない。処分と言い換えたら命を奪う行為がなくなるわけではないのである)がある中においては、非人道的に奪われる命が圧倒的に多いのだから、そちらをまず改めるべく行動するべきなのではなかろうか。

 私は問いたい。

 動物の命の重さに差をつけていないのであれば、なぜ牛・ブタ・鶏について同様の訴訟を提起しないのか。

 仮に動物愛護を謳いながら、動物の命の重さに差をつけるのであれば、その理由は何なのか。

 その理由が自らの価値観の押しつけになっていないか。

 人間という生き物は、生きるために他の動植物の命を頂かなくてはならない宿命をもった生き物であることを忘れていないか。

裁判所は正義の味方か?

 TV等で、よく「訴えてやる!!」と訴訟をあおるようなバラエティ番組があるが、裁判に訴えた側が有利だという構造は基本的にはない。むしろ不法行為など立証責任が基本的に原告側にある法的構成を採ったりすると、訴えた側が立証しきれずに却って敗訴に近づくという可能性だってあるくらいだ。

 それはさておき、法律相談などをしていると、よく、「真実はこうなのだから、自分の主張は絶対に正しく、正義は我にある。裁判所は正義の味方だから、当然裁判でも勝てるはずだ。」と仰る方がいる。
 例えば、自宅から出火して全焼したあとに損保に対して火災保険金を請求したところ、「あなたが放火したので支払わない」と言われた方などは、自分は絶対に放火しておらず、全く身に覚えのないことだから保険会社の主張は言いがかりであって、裁判所は勝たせてくれるはずだと考える方もいる。

 その人にとっては自分の主張が真実なのだから、正義の味方である裁判所が認めてくれないはずがないと考えているのだろう。

 しかし、ことは、そう簡単には運ばない。

 確かに、裁判所が魔法の鏡をもっていて、出火当時の場面を自在に写し出せるのであれば話は簡単だ。魔法の鏡に映し出された内容が真実なのだから、その事実を基に裁判所が判断すればいいのだ。

 しかし裁判は人間がやることだ。裁判官だって人間だ。そのような魔法が使えるわけがない。
 過去に起こった事件に関し、何が起きていたのか、真実はどうなのか、については、録画でも残されていない限り(録画でも改変がなされる危険がある)、裁判所が実際に知覚する手段はない。

 だとすれば、一般的には、後に残された証拠から合理的に推認して、どのような事実があったのかを認定し(事実認定)その認定した事実に法を適用して結論を導くしかない。
 その証拠についても、信用できるかどうかを裁判官が自らの常識に基づいて判断し、常識に合わない結論を導くものは排除して、最終的な結論を導く。

 誤解を恐れずに分かりやすく言えば、当事者から提出されたレゴのパーツのようなもの(証拠から)、これは納得して使えると思われるパーツを抜き出し、そのパーツを使って、その当時に生じたであろう事実を構築するのだ。(裁判官の判断はもっと直感的で、直感的に結論に到達してからその結論を導く証拠を用いるのではないかという分析もある。)そして裁判官がパーツから構築(認定)した事実に、法を適用して結論を導くのだ。

 だから、当事者からみれば、完全に真実と異なる事実を裁判官に構築され、ありもしない事実があった、と判決中に認定されてしまうことだってあり得るのだ。

 裁判になっている以上、通常、判決ではどちらかを勝たせる結論を出さなくてはならない。それは即ち勝訴した側の主張はほぼ認められるが、敗訴した側は自分の言い分を全て否定されるような判決内容になることを意味する。それは白黒つける以上やむを得ないことだ。

 残念ながら、それが人間の行う裁判の限界なのだ。

 よく、裁判官が相手方から何らかの便宜を図ってもらっているから負けさせられたのではないか、と敗訴した方からの苦情を聞くこともあるが、少なくとも、私の知る限り、日本の裁判官には、そのようなことはない。

 確かに、どうやったらこんな認定が出来るのかと思うような、へんてこな事実をレゴのパーツから作り上げて、認定してしまう裁判官は、たまにいるように思う。 しかし、これは世界に誇って良いことだと思うが、訴訟当事者から何らかの便宜を受けて判決を曲げる裁判官はないと断言してよいと思う。

 以上述べたように、裁判所は残念ながら、弱者の味方ではないし、正義の味方でもない。

 しかし、裁判所は、一個人であろうが、大企業であろうが、権力者であろうが、基本的には対等な当事者として扱い、同じ土俵で主張と立証を闘わせ、公平にジャッジしてもらうことができる(敗訴した側はそう感じないことが多いのだが)、貴重な場なのである。

IWC脱退報道に関して。

 私は、和歌山県太地町出身であることもあり、捕鯨容認派である。

 今回のIWCからの脱退報道に接して、ようやく脱退に踏み切ってくれたかとの感想を持っている。

 私の立場は、以前イルカの追い込み漁に関して記載したブログをもとに、作られた下記の記事を参照して頂きたい。

https://news.biglobe.ne.jp/trend/0614/bdc_150614_1793192415.html

 また、太地町で町民を挑発したり盗撮して作成されたザ・コーヴという映画の虚偽、欧米の傲慢さを暴き立てることに成功した映画「ビハインド・ザ・コーヴ」についてもブログで触れたのでこれも参照されたい。

 http://win-law.jp/blog/sakano/2017/11/post-209.html

この映画を御覧頂ければ、いかに欧米反捕鯨国が身勝手な主張をしているか、理解して頂けるだろう。

 特に、かつて捕鯨国であったアメリカも、ある時期から反捕鯨運動をとるようになるが、その動機はベトナム戦争の環境破壊問題から目をそらせるためだったという事実(もちろんその証拠も映画の中で提示される)もあるし、反捕鯨の立場をとりながらも、ある時期まで宇宙開発に不可欠であったマッコウクジラの鯨油について、アメリカは日本から輸入していた事実もあるそうだ。
 その際に、輸入品の名目としては「高級アルコール」と名前をつけ反捕鯨の立場と矛盾しないような小細工も弄していたという。

 また、捕鯨を批判する方には、まず、「いのちの食べ方」という映画を見て欲しいと強く思っている。

 人が生きていくためにはどうしても、食料として他の生き物の命を奪わなくてはならないこと、そして食料とされる他の生き物の命がどう奪われ、現実にはどう扱われているのか等につき、いかに私達が無知であることが少しは理解できるのではないか。

 自分達は食用にしない動物について、それを食用とするのは野蛮だという発想には、自己の価値観が絶対であるという尊大な考えがその裏に潜んでいる。

 もちろん国際協調は必要だが、価値観の押しつけに屈する必要はないはずだ。

 私の知る限りではあるが、「鯨資源の保存及び捕鯨産業の秩序ある発展を図る」という設立目的から、いつの間にか、かけ離れた行動に終始してきたこれまでのIWCの活動から見れば、むしろ遅すぎるIWCからの脱退だといってもよいのではないだろうか。

ギャップターム問題ってホンマにあるのかな?

法科大学院制度改革の一つとして、近時ギャップターム問題が盛んに取り上げられているようだ。

 いわゆるギャップターム問題とは、法科大学院修了(卒業)の3月末から、5月に行われる司法試験、司法試験合格を経て、11月末頃から開始される司法修習までに、約8ヶ月程度の期間が存在するが、この期間の存在が法曹志願者の時間的経済的負担になっていると指摘するものである。

 そしてこのギャップタームが解消されれば、激減した法曹志願者が回復に転じるという見通しの下、法科大学院在学中に司法試験の受験を認めようとする制度変更が議論されているようだ。

 確かに、法科大学院卒業と同時に司法修習を開始しようとすれば、法科大学院在学中に司法試験を受験させ、合格させておかなくてはならないことになる。

 しかし、そもそも法科大学院は、司法試験という点の選抜は弊害があると主張し、法科大学院でのプロセスによる教育が法曹に必要だと主張していたはずだった。学生が法科大学院で勉強中であり、卒業もできていない段階という、プロセスによる教育課程の途中で、司法試験を受験させることを主張することは、自ら法曹に必要だと主張したはずの、プロセスによる教育が実は不要であったことを自認するに等しい。

 以前から指摘しているように、大手法律事務所は予備試験ルートの司法修習生を優遇する就職説明会を開催しているし、ついには東京地検までが、予備試験に合格しただけで、まだ司法試験を受験していない者に対して、体験型プログラムを実施する等、検察庁も予備試験合格者の囲い込みに動き出した。

 つまり、法科大学院が、「法曹には法科大学院におけるプロセスによる教育が不可欠なのだ」と、いくら主張しても、実務界では、法科大学院におけるプロセスによる教育などには、全く価値を置いていないというべきなのだ。

 実務の役に立たないうえに、税金食いの制度など、マスコミなんかがすぐに批判しそうなモンだが、法科大学院はマスコミを利用して宣伝をしてくれるスポンサーでもあるためか、ちっともまともな批判をしないのは、見ていて悲しくなる。

 そもそも、ギャップターム問題を言うなら、旧司法試験時代だってそれ以上のギャップタームはあった。5月に短答式試験を受験し、7月に論文試験、10月に口述試験を経て最終合格し、司法修習開始は翌年の4月からだった。それなのに、ギャップターム問題それ自体を誰1人問題視することなく、法曹志願者も増加の一途だった。

 それはつまり、当時は、法曹になれば少なくとも食いっぱぐれはないと考えられており、法曹資格はプラチナチケットと言われるだけ法曹という資格に魅力があったのだ。だからこそ、合格率2~3%という狭き門であっても、ギャップタームが大きく存在したとしても、法曹志願者は増加の一途をたどっていたのだ。

 断言しても良いと思うが、いまギャップタームを解消したところで、法曹志願者が急に増加に転じることはないだろう。法曹の職業としての魅力を上げない限り、優れた人材が法曹界を志願しない傾向は変わらないだろう。

 当たり前のことだが、良い人材を得るためには、それに見合った対価が必要だ。ヘッドハンティングをしようとするときに、金か名誉か権力か、とにかく魅力のある提案をしないと良い人材は得られまい。努力や能力に見合ったリターンが得られない道を選択する人間は極めて少ない。

理由は簡単だ。

職業は生活を支える手段でもあるからだ。

 だとすれば、法曹志願者を増やすことは簡単だ。

 現在志願者が激増している医師と同様、その資格の魅力を上げればよいのだ。

 なぜこのような簡単なことがわからないのか。

 いや、分からないふりをして、議論していないのだろう。法曹資格の価値を上げようとするなら、(今さら遅いかもしれないが)司法試験合格者を減少させて資格の価値を上げることが最も効果的だが、それでは法科大学院を卒業しても司法試験に合格できない生徒が激増することにつながり、法科大学院制度の自殺にもつながるからだ。

 法科大学院を維持しようとすることが、いまや、法曹養成制度の桎梏となっていることを直視する必要があるだろう。

  それに、こんなに制度をいじくり回したら、受験生は予測可能性を失い、さらに志願者が減少するだろう。

 もういい加減、(法科大学院維持派の)学者の先生方による、現実無視の議論は止めてもらいたいものだ。

岡口裁判官に対する分限裁判についての雑駁な感想

 岡口基一裁判官の下記のツイッター投稿に関して、最高裁は10月17日に戒告の処分を下した。裁判官の独立や表現の自由の問題もあるが、最高裁の判断について、雑駁な感想を述べておきたい。(詳細な主張書面を読んでいるわけではないので、誤解などもあるかもしれないことを予めお断りしておきます。)

問題のツイートは次の通り。

公園に放置されていた犬を保護し育てていたら,3か月くらい経って,
もとの飼い主が名乗り出てきて,「返して下さい」
え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・
裁判の結果は・・

 この記事には、裁判の結果を伝える報道記事にリンクが貼られ、このツイートを見た人が報道記事を容易に読めるようになっていた。

最高裁は、上記のツイートに対し、
「本件ツイートは,一般の閲覧者の普通の注意と閲覧の仕方とを基準とすれば,そのような訴訟を上記飼い主が提起すること自体が不当であると被申立人が考えていることを示すものと受け止めざるを得ないものである。」

と判断している。

 つまり最高裁は、上記のツイートを一般人が普通の注意をもって閲覧すれば、「岡口裁判官が犬の返還を求めた飼い主の提訴自体が不当であると表明している」という内容として読むはずだと断定したということだ。

 果たして本当にそうなのだろうか。

 私は弁護士であって法律家だから一般人ではないのかもしれないが、私が素直に読むならば、犬の返却を求められた犬を保護した人(以下「保護者」という。)の反論または感情を要約して表明したものに読めてしまう。

 公園に放置されている犬を可哀相に思って保護し、愛情をかけて育てていた保護者が、3ヶ月ほど経過した後に、いきなり「本当の飼い主は私だから犬を返せ」と請求されたら、誰だって「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?3ヶ月も放置しておきながら何言ってるの?」と反論することは当然だろう。

 実際に、犬の所有権を巡る裁判の判決は、「原告はいったんはこの犬飼えないとして、公園に置き去りにし、被告が保護したときは雨中泥まみれで口輪をされていた状態」と認定されていた。(ただし、原告の所有権放棄までは認めず、被告に対して元の飼い主への引渡を命じた。)

 この裁判の認定のように犬が雨の中、何も食べられないように口輪をされ、泥まみれで放置されていたのであれば、そのような飼い主から犬を返せといわれた保護者は、なおさら「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ?ひどい状態で公園に置き去りにした上に、3ヶ月も放置しておきながら何言ってるの?可哀相な犬のためにも返すことは出来ません。」と反論することは想像に難くない。というより可哀相な犬を保護するだけの人であれば、ほぼ確実に犬のためを思って、捨てた飼い主に反論するだろう。ちなみに愛護動物を遺棄する行為は、動愛法44条3項で100万円以下の罰金とされている。

 だからこそ、話し合いで決着がつかずに裁判に至ったはずだ。

 したがって、私が出来るだけ素直に「え?あなた?この犬を捨てたんでしょ? 3か月も放置しておきながら・・」の部分を読むとしたら、犬の保護者からなされるであろう当然予想される反論か、保護した人が当然持つであろう心情を要約して表したものとしか読めないのである。

 ツイート自体の構成からしても、「え?あなた?・・・」の部分が岡口裁判官の主観であると判断することは困難だ。
 ツイートの構成から見れば、「返して下さい」という飼い主の主張に続いて、「」の記載はないものの、保護した人が当然抱くであろう心情または当然行うであろう反論を表現した文章が記載され、その内容も「あなた」との呼びかけがあることからも分かるように、保護者から所有者に対する主張と見る方が自然だ。さらにその後に行を変えて、「裁判の結果は・・・」とつながっており、当事者同士が裁判になったことが示されている。
 つまり、ツイートの構成から見ても、飼い主・保護者のお互いの主張が平行線となり、裁判に至ったという経緯が記載されているだけと読むのが自然だ。だからこのツイートが岡口裁判官の原告への評価を明確に示した記載には到底読めないのだ。

 最高裁からすれば、私の上記の考え方が、一般の閲覧者の普通の注意と閲覧の仕方ではないということになるのだろうが、どうしても私には解せない。

 なお、最高裁は、飼い主が東京高裁に対してツイートで傷ついたと主張して抗議してきたことを記載しているが、判断基準として一般人の受け取り方を問題としていながら、一般人ではない当事者の抗議を補足的に記載していることもイマイチな感がある。

 私事になるが、むかし歯医者で、「痛いなら言って下さいね」と言われたので、素直に「あ、ひょっろ、いらいれす(あ、ちょっと痛いです)。」といったら、歯医者から「痛くない!!」と断言され、それ以上「痛い」といえなくなってしまったことがある。なんとなく、今回の最高裁の判断を読んだとき、この歯医者での経験を思い出してしまった。

 今回の最高裁の断定は本当に正しいのだろうか。えらい裁判官の判断だからといって鵜呑みにせず、きちんと考えてみる必要があるようにも思うのである。あなたの権利が誰かに侵害された場合、冤罪で起訴された場合、最後の砦になるのは、裁判所だけなのだ。

 最高裁としては、仮に懲戒不相当の判断になれば、懲戒を申し立てた東京高裁長官のメンツが丸つぶれになるところでもあったので、岡口裁判官を戒告するためには、どうしても岡口裁判官が不当な評価を飼い主に対して与えていることにしなくてはならなかったのかもしれないが、私自身が判決をざっと読んだ上での雑駁な感想としては、余りに強引な認定ではないかとの思いを禁じ得ない。

 また、さらに残念なのは、全裁判官が一致しての見解だということだ。誰かが反対意見を書くのではないかと思っていたが、全員一致とは、ちと恐ろしい。

 もし、多くの方が今回のツイートに関して、私と同じような受け取り方をされるのであれば、それが一般の方の受け取り方に近いということになるかもしれない。

仮にそうだとすれば、「最高裁の裁判官が全員一致で考えた一般人の受け取り方」と、「本当の一般人の受け取り方」に大きなズレがあることになる。

 万が一そうであるならば、最高裁は一般人の常識が欠けた人たちばかりで構成されている危険があるということにもなりかねないのだ。

 なお付言するが、私自身としては、岡口裁判官のツイート全てが問題がないと思っているわけではない。厳重注意を受けたツイートなどは、私から見てもどうかなと思うところはなきにしもあらずである。

 しかし、今回の最高裁の判断は、個人的な意見として言わせて頂ければ、非常に残念に思うものであったりもするのだ。