豊かな人間性を教えることができるのか?

 中教審法科大学院等特別委員会では、プロセスによる教育の理念等、未だにほぼ20年前に定められた司法制度改革審議会意見書に取りすがった議論がなされているように見える。

 今から見れば、そもそも法曹需要の飛躍的増大が見込まれる、という出発点が完全に誤っており、その誤った出発点を前提に構築された改革意見書ということになるので、その意見書に取りすがる姿は、私から見れば、もはや滑稽でもある。

 以前も言ったことがあるように思うが、豪華客船が航海している際に、今年の冬は特に寒く、現に氷山もいくつか見られるので、進路を変えるべきだと現場の航海士が進言しているのに、船長が「20年前に決まった航路なので、変更することは理念に反する。決められた通り、高速で運行せよ。」と言い張っているようなものである。そういう主張を、当代一流の学者が、法科大学院制度維持のために主張し続けているところが泣けてしまう。

 司法制度改革審議会の意見書内で、法科大学院の教育理念について触れた部分があり、そこには以下のような指摘がある。

「法曹に共通して必要とされる専門的資質・能力の習得と、かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養、向上を図る。」
 

 考えてみれば、ものすごい記載である。法科大学院では、「かけがえのない人生を生きる人々の喜びや悲しみに対して深く共感しうる豊かな人間性の涵養」、ができるようにするってことである。

 私事になって恐縮だが、私は、関西学院大学の法学部で10年以上教えているし、大学院の法学研究科でも教えているが、いくら大学生・大学院生とはいえ、自分で勉強しようという気持ちにならないと、何にも身につかないと思っている。

 よく、馬を水飲み場に連れていくことはできても、水を飲ませることはできないというが、勉強においても同じことだと感じている。

 したがって、私もそうだったが、学生さんに無理やり勉強しろと言っても、勉強するわけではないし、学生さんだって就職活動や、恋愛や、クラブ活動に忙しい。そんな中で、いやいや勉強させてもほぼ身につかないので、その点については残念ながらあきらめているといってもいい。

 あきらめているとはいえ、講師として、さじを投げているわけではない。ひょっとして法律って面白いかもしれないね、と思う気持ちの種だけは撒けないかなと思って演習を行っている。

 ひょっとしてこれは面白いかもしれないと思えば、自分で勉強する気になる可能性が出てくるし、勉強する気になって自ら勉強を進めていくうちに、「ん?こいつは面白いとこあるやん?」と思えれば、しめたものだ。
 ゲームにはまる人を見ればわかると思うが、人間って生き物は、面白いと思うことついては、睡眠を削ってでものめりこんでしまうものだし、面白いことであれば頭も働く。もちろん理解も早いし記憶もしやすくなる。

 私は、できるだけ面白いかも?と思えるような題材を提供できないかと思って演習をするよう心掛けている。学者(学説)の対立構造、裏話、法律それ自体ではなくても法律関連で面白いことがあれば、こいつは面白いかもと、興味をそそらせることができるかもしれないからだ。

 よく、法律なんて血も涙もないと、言う人もいるが、民法の条文をみれば、様々な利害対立を解決するために、ある時は動的安全に重きを置き、またある時は静的安全との調和を図るなど、その裏側にある立法趣旨は相当人間臭い価値判断から来ているものもあるのだ。

 私は自分自身の経験から言っても、教師にできることって、対象に興味を持たせ、学生が自分で勉強していく手助けを行う、その程度だと思うのだ。

 もちろん教える立場にある以上、できることはその程度といっても、私としては質問については、可能な限り誠実に答える。わからない質問にはわからないと答えて、調べて回答できるならそうするし、調べてもわからない場合はどこまで調べたかを伝えて、分からなかったことを正直に答える。誠実さは失ってはならないと思っている。

 私は、自分自身が大した人間ではないことは、わかっているつもりなので、豊かな人間性や幅広い教養などを学生に教えることは到底できない。
 また、少なくとも私が学んだ京都大学では、「私の持っている豊かな人間性を学べ!」などと恥ずかしすぎる態度をとる教授など皆無だったし、今でもそんな、オタンコナスの教授は、いるはずがないと信じている。

 もちろん、それぞれの先生には、それぞれの生き方があったわけで、その先生に魅力的な生き方や人間性があると思うのなら、それを取り入れることは学生さんの自由だ。
 しかしそれを、個々の学生に強要してはならないと私は思う。仮に、大学教授が「自分には豊かな人間性がある!」と、恥ずかしすぎる(ある意味傲慢な)信念を持っていたとしても、それは自分だけの思い込みで、周りが見えていないだけの完全な独善かもしれないじゃないか。

 そもそも豊かな人間性や教養など、学生が自らの努力・経験などから獲得したり作り上げていくものであり、誰かが教えたところで身につくようなものではないと思う。
 仮に万一、豊かな人間性を大学で身に付けさせることができるのであれば、高等教育機関を経た人間は全て素晴らしい人間性を持つということになるだろうが、そのような事実がないことは、誰だって分かる。

 偉そうに人間性など教えようとする人間こそ、人間性を欠いている場合が多いように私は思う。

 以上の私の経験からいえば、法科大学院に通わないと人間性が豊かにならないとか、予備試験を目指す学生の心が貧困であるなどという発言があるとしたら、それは、自分のできることを過大評価しすぎた思い上がりの発言だとしか思えない。

 そういう思い上がった発言をする教師の下で、長期の法科大学院生活を送らなければならないとするのなら、それはとても不幸なことではないだろうか?

今朝の出来事

 今朝、5時半頃だったと思うが、隣からハトの鳴き声と羽ばたきがひどく聞こえてきて目が覚めてしまった。

 何事かと思って、外を見ると、おぼつかない足取りと羽ばたきで塀にすがっている2羽のハトと、近くで鳴き声を上げている1羽のハトが原因だった。

 キジバトなどではなく、普通の土鳩である。羽ばたきはするものの、なかなか飛び立てず、うろうろしているところから見て、巣立ちをしようとしているのだろうとわかった。

 こちらが、窓から見つめていると、若鳥が慌てて塀の上で方向転換しようとして、危なく落ちそうになったので、巣立ちを見守ることはやめて、そっとカーテンを閉めた。

 数分のち、大きな羽ばたきと鳴き声が少し聞こえたのち、静かになった。

 カーテンの隙間から覗いてみると、もうどこにもハトはいない。
 周りを見ても、地面に降りているわけでもなさそうなので、どうやら無事に巣立ったようだ。

 ノアの箱舟の大洪水の際にも、確かハトがオリーブの枝を咥えて戻ってきたという話があったように記憶しているが、現実には繁殖しすぎてフン公害の原因となっていたりする。

 私が事務所から昼食を食べに外に出る際にも、ハトフンがたくさん落ちている近くに、土鳩が十数羽も寝そべっている(実際に、足で立たずに地べたに寝そべっているのである!)場所があるのをみると、環境的にはプラスじゃない生き物かもしれないなと、つい思ってしまう。また、人を怖がるどころか、人がよけて当然でしょと言わんばかりの態度が見えて、普段ならあまり好きな連中ではなかった。

 マンションのベランダで野生のハトを餌付けした住民がいたため、大量のハトが押し寄せるようになり、部屋の使用差し止めなどの訴訟に発展した事例もあったはずだ。

 おそらく、今日巣立ったハトも野生の環境の中では、生き延びるのは、そう簡単ではないだろう。残念だが土鳩は、あまり好きな種類の鳥ではないし、鳥類全てを博愛主義的に大事にできるほど、私はできた大人ではない。

 だが、恐怖に打ち勝ち、思い切って飛び立った今日の巣立ちを、なぜだか祝ってやりたくなったのは、私が歳を取ったからなのかもしれない。

 巣立ちのハトに早朝に起こされ、ひどく寝不足を感じながらも、私はそう思っていた。

小さいツバメ

 数年前まで、毎年春になると近所の喫茶店のテントの内側で、ツバメのつがいが子育てをしていた。

 テントといっても、キャンプなどで使うものではなく、お店の入り口でお店の名前などを入れて宣伝がてら、お客が雨に濡れないようにしているテントである。

 テントの構造や、喫茶店が営業しているときは人の出入りが激しいので、天敵のヘビやカラスが来ないのだろう。ずいぶん前から毎年、子育てをしている姿を見ることができた。お店の方も、お客への注意書きや、フンが落ちないような受け皿を作るなどツバメを大事にしている様子がうかがえた。。

 ところが、子育て上手のつがいが引退したのか、ここのところ春になっても、ツバメが子育てに来なくなっていた。確か一度、つがいがやってきて以前よりも形の悪い巣を作ったが、あいにく大雨に遭ってしまい巣が落ちてしまったことがあった。それ以降は、ツバメが巣作りをすることもなく、私は、何となく寂しい思いをしていた。

 ひと月ほど前、ジョギングの帰りにテントを覗いてみると、2羽のツバメが、寄り添うようにテントの内側で眠っていた。
 この場所に戻ってきたということは、少なくともどちらかは、以前ここで育ったツバメなのだろう。

 この2羽がつがいならば、新たな巣作りをするかもしれない。私は、少し期待をしていた。

 ところが、2羽で眠っていた姿を確認できていたツバメが、数日ほどで突然姿を見せなくなった。その後何度か覗いたが、やはりツバメはいなかった。

 ところが1週間ほど前に、未練がましい気持ちでテントの内側を覗いてみると、ツバメがいた。

 だが、眠っている姿は、1羽だけだ。

 周囲には、子育てをしているツバメや、子育てを終えたツバメたちもいる中で、そのツバメは、おそらく自分が生まれ育ったテントの中で、一羽で眠っているのである。

 ツバメに何があったのか私にはわからない。一緒に寄り添っていた相方となぜ、どういう理由で一緒にいないのかもわからない。

 巣立ちを終えた若鳥や親鳥は、河川敷や葦原などに集まり集団生活をすると言われているが、この子はどうして集団を離れ一人でここにいるのか、その理由もわからない。

 ただ、私には、そのツバメが、なんだか、とても小さく見えた。

黒川検事長の賭け麻雀

 黒川検事長の賭け麻雀が大きな話題になっている。

 麻雀と聞くと、すぐ悪い遊びだという人もいる。麻雀放浪記や麻雀劇画に出てくるように麻雀にはまって家庭を壊したり借金まみれになったりするイメージがあるのかもしれない。

 しかし、麻雀をやったことがない人には分からないと思うが、麻雀それ自体は、相当面白いゲームである。

 高得点の手役を狙おうとすれば、仕上げるのに時間がかかる上、ツキも必要だし、ガードががら空きになりがちだ。他の人に先に上がられてしまう可能性も高くなる。他人に上がられてしまえば、いくら最高得点の手役が手の内で出来上がっていても無得点だ。
 一方、安い得点の手役は、手の内で仕上げることに時間はかからないことが多いが、いくら上がっても、一発でかい役を上がられてしまえば、逆転されてしまう。

 その中で、状況を読みながら自分に最も有利になる戦い方を選択していくのが楽しいのだ。もちろん相手がいることなので、相手の状況や心理も加味して、いま自分がとるべき行動を選択する必要があるのが麻雀であり、それ故に面白いのだ。

 ゲーム自体の面白さだけではない。運気の流れが見えるように感じられる場合もある。
 ツイているときは、狙った方向にどんどん進展する。失敗したはずなのに、その失敗すら、よりよい結果に結びつくこともある。下手な人でもツキさえあれば、経験者をあっさり食ってしまうこともある。一方ツイていないときは、どんなに足掻いても、ちっとも好転してくれない。何も失敗しているつもりはないのに、持ち点だけは減っていくような場合もある。

 私は大学の頃、クラブの連中に教えてもらって、よくやったが、やはり面白いゲームだった。

 ゲームセンターに行くと、麻雀のアーケードゲームがあり、よくあるパターンだが、勝つと一枚ずつ漫画の女の子が服を脱いでいくようなものもあった。もちろん、あと数枚までたどり着くと、急にコンピューターが強くなり、なかなか勝てなくなるのが常だった。今はもうない、北白川バッティングセンターだったと思うが、コンティニューを続けてあと1枚までたどりつき、最後のコインでコンティニューしたところ、牌が配られた瞬間にコンピューターに「ロン!」といわれ、詐欺のようなテンホウを食らって、撃沈された記憶もある。

 ちなみにテンホウとは、配られた牌で上がっている状態である。つまり、コンピューターがテンホウで勝つということは、お互いに牌を配った時点で勝負が決まり、お金を入れたはずのこちら側は、画面を見ていただけで、何一つできなかったということだ。

 多分、麻雀ゲームでテンホウを食らったことのある人は、ほとんどいないと思われる。

 ただ、怒られるかもしれないが、麻雀は確かに少しだけ賭けた方が絶対に面白いのは事実だと思う。

 全く失うものがない場合の麻雀は、どれだけ相手に高い手を上がられても痛みがないので、相手に気を使わずに自分が高い手だけ狙うことができてしまう。どんなに相手に放銃(相手の当たり牌を出してしまい、相手に点棒を支払わなければならないこと)してしまおうと、全く平気だからだ。
 みんながみんな自分のことだけを考えて戦っても、麻雀は面白くない。

 大きなリターンを狙うにはリスクを伴う。その状況下で他人と駆け引きしつつそのリスクを管理していくのが麻雀の楽しさの一つだからだ。

 ただ、今回、検察庁方の改正などで、渦中にあったといって良いはずの黒川検事長が、緊急事態宣言の中、自ら進んで、賭け麻雀を行ったとは考えにくい。想像だが、黒川検事長は、麻雀に誘われ、大したレートではないから楽しくするためにやりましょうなどといわれて賭けることになったのかもしれない。おそらく気心の知れた中であったか、何らかの信頼関係があった上でのことだったと考えるのが自然だと思う。

 一応刑法上賭博罪も規定されてはいるが、競馬・競艇・競輪・オートレースなど公営賭博が堂々と適法に行われ、街中にはパチンコ店も多数存在する中で、賭博行為に処罰に値するだけの法益侵害があるのかにつき、疑問がないわけではないが、「賭け麻雀」という見出しがマスコミに踊れば、当事者の失脚は免れない。

 もし、黒川検事長が嵌められたとすればの話だが、そのような機会を提供した側には信頼関係を裏切って相手を地獄に蹴落としてでも、自らの利益を図るという空恐ろしい計算が見えるようで、私は好きではない。

ベネチアの夜

 ベネチアは、深夜のほうが、素顔に近い。

 4~5回しかベネチアに行った経験がない若輩者のうえに、ここ10年ほどは人の多さに嫌気がさしてしまい、行ってもいないくせに、私は生意気にも、勝手にそう思い込んでいる。

 ご存じの通り、ベネチアは世界的観光都市だから、昼間の混雑は相当なものだ。ヴァポレット(水上バス)にあふれんばかりに観光客が乗っていることもあるし、土産物店などが集中している地区では、すれ違うのもやっと、ということもある。

 しかし、私が何度か行っていた頃のベネチアでは、夜の飲食店が店を閉めた後の深夜は、人通りも少なくなり、少しだけ静かな時間が戻っていた、と記憶している。

 大体、どこの観光都市でも道路が近くを通っていることが多く、人通りがほとんどなくなった深夜でも、遠くからごぉーっという、自動車の走る低い響きが聞こえてくるところがほとんどだ。私は京都に住んでいるが、京都だって、この音から無縁ではいられない。

 ところが、ベネチアにはその響きがない。深夜で運行本数が減ったヴァポレットが響かせるディーゼル機関の音がときおり遠くで聞こえるくらいなのである。
 自動車が入れない街だから当然なのだが、そこが、まず、かなり素敵に感じられる。

 それに加えて、静かな通りを、ゆっくり歩いていると、ちゃぷちゃぷ、とか、ぴちゃぴちゃ、という、運河の波が、岸を優しくなでているような音が聞こえてくる。不思議なことに、急いだり、普通に歩いているときにはその音は聞こえず、ゆっくり歩いているときに限って、その音に気づくことができるようにも感じられる。

 どういうわけか、このような水の音を聞くと、不思議と気持ちがなだらかに、穏やかになっていくような気がする。

 おそらくこの町で眠っている人は、特に気にもしていない音かもしれないが、街の本質的属性としてこの音が、住民やこの町を訪れる観光客が眠っているうちに、ひそやかに彼らの無意識の中に深い影響を与えていくように、私には感じられたりするのだ。

 だから、深夜のほうが、街としての素顔に近いのではないか、と感じたりするのだろう。

 もちろん、治安のいい日本と違ってイタリアだし、いくら当局が威信をかけて警備に力を入れているからといっても、強盗が出ない保証もない(聞いた話では、暗殺者通り~アサシンストリートという名前の通りもあるとか・・)。したがって、あまりお勧めはしないのだが、やはりベネチアの深夜の散歩は魅力的だという思いが私には強い。

 機会があれば、是非再訪してみたい都市のひとつである。

喧嘩はいつでもできるもの

 私が弁護士になった頃と比べての実感だが、最近は、内容証明郵便や、訴訟での準備書面などでやたら攻撃的な書面を書いてきたり、電話での話し合いの際に極めて高圧的な態度をとる弁護士さんが目立つ気がする。

 意味もなく高圧的な態度で相手方に接することは、とくに弁護士が相手方代理人として就任した場合は、あまり良い結果につながらないように思われる。

 ある事件で、不法行為的な迷惑行為をしてしまった加害者側に対し、被害者側弁護士が極めて高圧的な態度をとってきたことがあった。
 私は加害者側からの依頼を受けていた。
 依頼者から聞き取った話と録音などの事件の証拠等からみれば、仮に訴訟提起されても相手方からの不法行為の立証は極めて困難だろうと考えられる案件だった。

 私は、依頼者の話が事実であれば、訴訟になっても恐らく負ける可能性は低いことを示したうえで、依頼者と協議の結果、それでも相手に迷惑をかけたことは事実なのだから相応の賠償を考えよう、という方向性で一致し交渉を始めた。

 ところが、相手方弁護士(最初の弁護士は解任され、経験の浅い弁護士が次に就いた)が何ら証拠に基づかず、極めて高圧的かつ首尾一貫しない書面をいくつも送り付けてきた。
 私は、遠回しに相手方弁護士の主張の問題点を指摘して、そのような態度に出るべきではないことをやんわりと諭した(「○○先生の△△というご主張は、~~という証拠に鑑み、事実と相違した、いささか勇み足のご主張であり、相当ではないと思料いたします。」程度の書面)が、効果はなく、例えていうなら「おまえ、被害者と弁護士様に向かって何言うとるんじゃ」と言わんばかりの書面が続いて届くことになった。

 そのような失礼な書面を連発されたことが主な原因で、当方の依頼者が話し合いをすることに最終的に賛意を示さなくなってしまった。
 したがって、相応の金額での和解が可能だったにも関わらず、結局和解はできなくなってしまった。そして、私の見立て通り不法行為責任を追及する訴訟も提起されてこなかった。
 結局、余計なことを弁護士がしたため、相手方は相応の賠償を受けそびれたのである。

 おそらく、相手方弁護士は、自分の依頼者が被害者なのだから、それを前面に押し出せば有利になると単純に考えていたのではないだろうか。そして、訴訟しても勝てると安易に思いこんでいたか、被害に関する証拠の精査を怠って訴訟になった場合のことまで考えが及んでいなかったか、のいずれかではないかと思われる。
 残念なことに、そのような高圧的な書面を書く弁護士のほうが、依頼者が「よくぞ言ってくださった!」と胸のすく思いがするためなのか、交渉段階での依頼者受けは良かったりするのである。

 確かに弁護士も客商売だから、依頼者受けも大事なのだが、私は、紛争解決のお手伝いをするのが弁護士本来の仕事であろうと考えている。

 訴訟を起こせば絶対に勝訴でき、しかも回収が絶対に確実であるというような特殊な状況があるなら別かもしれないが、そうでない場合、やみくもに高圧的な態度に出て、相手方をぶん殴っておけばいいというものではない。

 紛争の相手方だって人間だ。

 人間は感情のある生き物だ。

 感情をさんざん逆なでされた挙句に、和解したいので譲歩してくださいといっても到底応じてもらえまい。

 私だって、あまりに高圧的かつ依頼者に対して無礼な書面が来た場合には、依頼者の意向を確認の上、同様の内容で打ち返すことはあるにはある。しかし、自分の方から、積極的に高圧的な行動をとることはしないように心掛けている。

 物事には、喧嘩以外の解決方法も存在し得るのだ。

 喧嘩はいつでもできる。

 しかし、一度喧嘩を売ってしまえば、他の解決の道を、極めて狭くしてしまう。

 このような簡単なことに気づけない弁護士さんがいるのは残念だ。

思い違いをしていたこと

 つい最近まで、何となくだが、思い違いしていたことがある。

 それは進化についてのことだ。

 例えば、どうしてキリンの首は長くなったのか?と聞かれたときに、私は、「キリンは、高い木に茂った葉を食べるために長い首に進化した」、とつい考えてしまっていた。確か、テレビの動物番組でも、「○○という動物はこのような苛酷な環境に適応するよう進化してきました」等とナレーションが入ったりするので、つい、生き物が環境に適応するよう進化してきたと思い込んでいたのだ。

 実は違うようだ。

 考えてみれば当たり前のことだが、キリンが「首が長くなればいいなぁ、首さえ長くなれば高いところにある葉っぱが食えるのになぁ」、などと思って、何世代にもわたって進化の方向性を決定づけ、自らの子孫について次第に首を長くしていくことができたはずがない。
 「この苛酷な環境に耐えられれば天敵がいないのに」と、ある動物が考えて、その苛酷な環境に耐えられるよう進化していったはずもない。

 つまり、キリンの例で言えば、遺伝子がコピーミスすることによって生じる突然変異の結果、首が長くない両親からたまたま首が長いタイプのキリンが生まれ、その環境で首が長い個体がたまたま生き残りやすかったため、生存競争のなかで首の長いタイプが多く生き残り、何世代も子孫を残していく過程で、首の短いタイプは消えていっただけなのだ。

 言ってしまえば実も蓋もないのだが、全ては偶然の遺伝子のコピーミスから生じ、結果的にその突然変異の特徴を持つ個体が、その突然変異が生存に有利に働く環境下にいたため、たまたま生き残り、その特徴を維持・発展する結果になった動物を、後から見て「進化してきた」と呼んでいるだけなのだ。

 つまり、進化とは、徹頭徹尾偶然の産物であり、徹頭徹尾結果論ということになるのだろう。

 確かに遺伝子のミスコピーが生じないのであれば、生命も産まれなかったかもしれないし、仮に生まれたとしても、遺伝子のミスコピーが生じない以上、ずっと同じ原始的生命体のままだっただろう。

 そう考えると気の遠くなるくらいの遺伝子のコピーミスによる、生命の試行錯誤?の上に、今の生物たちがいるということになる。

 例えば犬などは、人間がある特徴が顕著な犬を人為的に交配させるなど、少し手を加えたりしたため、もともとオオカミだったはずの犬が、今や、オオカミとは似ても似つかぬ姿になっていたりする犬種も存在する。このように少し手を入れるだけで随分と違った形質を有する生物が生じるのだから、遺伝子のコピーミスによる生命の試行錯誤は、単なるコピーミスで片付けられないほどダイナミックなものなのかもしれない。

 命というものの、不思議を感じずにはいられない。

 このように、理屈の上ではおそらく、進化はあくまで結果論ということになるのだろうが、人間に関しては、私は、少し違うような気もしないではない。

 日本人の体型は、大きく変化し欧米化していると聞いたことがある。私の見る限りだが、顔立ちも(整形や化粧といった要素もあるだろうが)かなり欧米化する傾向にあるようにも思われる。

 仮に顔立ちの欧米化が認められるとしての話になるのだが、確かに体型変化には、栄養状態の変化や食べ物の欧米化で説明もつくだろう。しかし、それだけでは顔立ちの欧米化は説明できないように思われる。

 女性の美しさに対する強い思いなどを見ていると、結果論だけの進化ではなく、生物の強い思いによる変化も(進化かどうかは別にして)あったりするのではないか、と想像してみたりするのだが、想像が過ぎるだろうか?

駐車場にいた犬

 先日、映画のレイトショーを見た後の深夜、月極で借りているお寺の境内の駐車場に車を入れようとしたところ、いつもと違う影が車の前を通り過ぎた。

 大体、野良猫数匹が、決まった車の下を寝床にしている(幸い私の車は寝床ではないようだ)ので、猫ならすぐに分かるのだが、どうやら違う動物のようだ。

 一瞬タヌキかなと思い、自分の駐車スペースに車を駐め、降りようとしたところ、その影が近づいてきた。

 犬だ。

 その犬は、5mほど近くまで寄ってきたかと思うと、すぐに方向を変え、木の陰に戻っていく。

 私は、駐車場から出ようとしたが気になって戻ってみると、やはりこちらに近づいてきては、5m程のところで身を翻し木の陰の方に逃げていく。

 私は以前にもコンビニの駐車場で似たようなシチュエーションに出会ったことがあるのでぴんと来た。

 その犬は、ご主人とはぐれたのだ。

 そして駐車場でご主人を待ち続けているのだ。

 車や人が近くに来るとご主人が迎えに来てくれたのかと思って近づいて確認しては、がっかりすることを繰り返していたのだろう。

 首輪はしているようだったので、首輪に連絡先があるかもと思い、身をかがめて近づいてみたがどうにも警戒しているようで、どんどん逃げていく。疲れ果てているだろうに、ご主人がきっと来てくれると信じて、他人に容易に心を許さないのだろう。

 このままお寺の境内から出てしまえば、外は道路だ。道路では眠ることも出来ないだろう。

 私は、犬のことを心配しつつも、下手に手出しをして犬により大きな負担をかけるわけにはいかず、後ろ髪を引かれる思いで駐車場を出たのである。それ以来、車を使っておらず駐車場に足を運ぶ機会がないので、あの子がどうなったかは分からない。

 あの子は、ご主人に会えたのだろうか。

同感、同感・・・

 同業の弁護士の方にしか分からないかもしれないが、月刊弁護士ドットコムという雑誌がある。

 巻頭には「フロントランナーの肖像」というコーナーがあり、毎号、ちがう弁護士に対するインタビュー記事が掲載される。

 私は結構、他の弁護士さんの思いや経験談を読むのが嫌いではないので、このコーナーを楽しみにしているが、今回取り上げられた榊原富士子先生のお話しには、つい、「そうだよね~」と大きく頷いてしまう部分があった。

「・・・受任の最初に電話一本入れて話し合いをすれば済むケースなのに、いきなり弁護士がついて提訴したり、当事者に上から目線の内容証明を送りつけたりし、当事者がびっくりして相談に来られるケースが珍しくなくなりました。当事者の裁判なのに、相手方弁護士の批判を展開し始める代理人もいます。代理人がわざわざ紛争を拡大するのは、家事事件にはおよそ似合わないやり方ですよね」(月刊弁護士ドットコムvol49 P11)

 そんなことを書いてきたら紛争がより先鋭化しちゃうじゃないか、とにかく相手に感情をぶつけることが優先事項で、根本的な紛争解決などどうでもいいと思っているのか?と疑うような書面を書く弁護士を、最近立て続けに(2人は若手、1人はベテラン)相手方にしたからである。

 そのような弁護士からの書面は、事実に立脚せず主観を根拠に自己中心的な主張を言いつのる傾向が強く、また過度の感情的表現が満載であるばかりでなく、相当上から相手を見下したような書きぶりをしているものだから、読まされる方は非常にストレスを感じる。

 もちろん、そのような書面を送りつけられた側の当事者は、怒り心頭、徹底的に戦って欲しいという気分がわき起こり、双方で妥協できそうな落とし所があっても、感情面を傷つけられたことから迅速円満な解決が遠のいていくことが多いのだ。

 無茶な書面を書いてもらった依頼者からすれば、弁護士が言いたいことをさらに過激に言ってくれるので、胸のすく思いがするのかもしれないが、そのような書面が現実の紛争解決に役立つことは通常考えにくい。また私の経験からしても、そのような書面を送りつけられて紛争解決に役だったことは、一度もない。

 弁護士が少し気をつけて書面を作成すれば足りるはずだが、そのような配慮をしていない(配慮の必要すら気付けない?)と思われる弁護士が増えてきているのかもしれない。

 その点で、私は榊原富士子先生の実感に、同感することしきりなのである。

 当事者が喧嘩している段階であれば感情的な言い合いがあっても良いのかもしれない。

 しかし、弁護士は、例外的な場合(例えば交渉を決裂させて欲しいという依頼がある場合等)を除いて紛争を解決するために依頼を受けたはずである。だとすれば、無思慮な批判的・感情的表現を相手方に浴びせることは、本来の目的に反する可能性があるはずだ。また、上から目線の言い方は間違いなく相手方の感情を刺激し、事件の解決を困難にする方向に向かわせる。

 上記のようなことに配慮し、その上で表現行為を行うだけの慎重さ・冷静さが、弁護士には求められているように思うのだがなぁ~。

 だって、我々の目的は基本的には、紛争拡大じゃなくて、紛争解決のお手伝いでしょ?

大学の非常勤講師

 私は京都大学出身だが、縁あって、関西学院大学の法学部と法学研究科(大学院)の非常勤講師をさせて頂いている。

 私は紀州犬が好きなので、法学部ではペットに関連する法律問題を演習形式で教えている。大学院の方は、ビジネス法務特論ということで、主に会社法のコーポレートガバナンス関係の演習を担当している。

 本業はもちろん弁護士なので、我が儘を言って、隔週開講・2コマ連続での講義をお願いしていたが、数年前から法学部の方はそのカリキュラムだと学生が授業をとりにくいとの指摘があり、法学部の方は毎週開講とせざるを得なくなった。

 最近の大学は、学生をお客様とみなして顧客満足度を高めようとしているらしく、学生による授業評価を毎年のように行っている。

 某えらい先生にお聞きしたところ、「学生に講義の質なんかわかりゃしないから、学生の評価なんて気にしたらダメですよ」、とのことらしいが、一応平均以上の評価を頂けているので、学生の方には少しはお役に立てているのではないかと思っている。

 なお、非常勤講師の給与はとても、と~っても低い(と思う)。

 授業のためのレジュメ作り等の準備や、課題・レポートの評価等にかかる時間を含めて計算すればマクドナルドの時給にも届かない。

 噂では、関関同立の非常勤は特に安いとも聞いたことはあるが、真偽の程は明確ではない。

 ただ、それであっても興味深い(だろうと思う)知識を提供して、学生さんがそれを吸収していく姿を見るのはとても嬉しいものだ。

 ということで、先日、大学側から来年度の授業をお願いされたので、私は、学生さんの成長見たさに、またもや引き受けてしまった。

 全然割に合わないよね~という心の声も(そこそこ大きく)聞こえるが、それよりも、来年度も新しい学生さんと、勉強できることを私は楽しみにしているようなのだ。