新規登録弁護士研修

 大阪弁護士会には、平成12年度に設けられた新規登録弁護士研修制度があり、平成12年度以降に大阪弁護士会に新規登録する弁護士は、その研修を受講する義務を負っている。

 そもそも、新規登録弁護士研修制度は、実務家としての弁護士が最低限必要とする基本的知識及び能力を具備させることを目的として、大阪弁護士会会則で受講義務が定められているものだ。

したがって、この研修を履修していない会員は会規違反を続けていることになる。

 ところが令和2年1月時点で、上記の新規登録弁護士研修制度の未履修者は1039名で、履修を完了しなければならない者のうち、なんと38.2%が未履修者になっている。

 要するに、大阪弁護士会に所属している弁護士で、新規登録弁護士研修を受講しなければならないはずの者のうち約4割弱が会規を無視しているということになる。法律家として情けない数字と言わざるを得ない。

 資料によれば、特に未履修者の割合が高いのは60期代後半の弁護士となっているそうだ。

 未履修者からすれば、面倒くさいかもしれないし、既に知っていることだとタカをくくっているのかもしれないが、研修を受けてみれば何か一つくらいは役立つノウハウは見つかるものだ。

 むしろ、新人弁護士の状態では知っていることの方が、たかが知れているものなのだ。

 法律家なんだから、自分の所属している弁護士会の研修規則くらい守ろうよ。

 

 新人弁護士の頃から会規をナメているようでは、遵法精神に甘さがあるという可能性もあるし、将来さらに身勝手になって問題を起こしてしまう危険性も高いと思われちゃうぞ。

 

弁護士業務実態報告書2020から~1

(弁護士のうち12人に1人は弁護士業をしていない!)

 日弁連から、「弁護士業務の経済的基盤に関する実態調査報告書2020」の内容で、アンケート調査の結果をまとめた、「自由と正義」の臨時増刊号が届いた。

 アンケートは2020年3月から6月にかけて、層化無作為抽出法で日弁連会員名簿から抽出された、標本数12000に対して郵送で行われ、有効回答数が2192人(回収率18.3%)なのだそうだ。

 そもそも全会員に向けたアンケートでもなく、回収率も2割以下なので、どこまで実態を反映しているのかは明確ではないが、なかなか面白そうな内容がありそうなので、私自身も読みながら紹介していこうと思う。

1.弁護士業務に従事していない弁護士が7.8%も存在する。

 2019年に弁護士活動に従事していたかどうかについてのアンケートでは、弁護士業務に全く(もしくは殆ど従事していなかった)と回答した弁護士が、7.8%を占めている。

 およそ12人に1人の弁護士が、弁護士業務をやっていないということだ。

☆弁護士業務に従事しなかった者の弁護士経験年数


 ・5年未満             10.5%
 ・5年~10年未満          27.5%
 ・10年~15年未満         10.5%
 ・15~20年未満           6.4%
 ・20~25年未満           9.9%
 ・25~30年未満           0.6%
 ・30~35年未満           4.1%
 ・35~40年未満           1.8%
 ・40年以上             28.7%

 ※高齢者と若手に集中していることが分かる。

☆弁護士業務をやらなかった理由については以下のとおり(複数回答)。

 ・年齢上の理由                  37.4%
 ・弁護士以外の事業や経済的活動に専念するため   24.6%
 ・健康上の理由                  22.2%
 ・弁護士として活動しても依頼が少ないため     18.7%
 ・家事、育児、介護に専念するため         15.2%
 ・弁護士の仕事に情熱をもてないため         9.4%
 ・公職に就いているため               7.6%
 ・学業、研究に専念するため             4.1%
 ・その他                     22.2%
 ・特に理由はない                  1.2%

 ※弁護士業務をやらなかった人の内、およそ5人に1人が弁護士として活動しても依頼が少い(生活できるだけの収益が上げられないという意味だと思われる)と答えている点が昨今の弁護士激増による問題点を示しているように思われる。

(続く)

正解のない課題

 私は、関西学院大学の法学部と、大学院法学研究科で非常勤講師を勤めさせていただいている。

 法学部では司法実践演習という科目名で演習を担当している。個人的趣味もあるのだが、動物(ペット)と法律の関係などを題材に使って、演習を行っている。

 この司法実践演習では、出席して議論してもらうのが主眼なので、出席点がメインとなるが、それでは点数が足りない人の救済の意味も込めて、レポート課題を毎年課している。

 課題内容は、最高裁判例解説に掲載されている、ある判例について書かれた最高裁調査官の解説内容に対して、貴方なりに批判的に論評せよ、というものであり、10年以上前から同じ形式で課題にしている。

 ご存じのとおり、最高裁調査官は、裁判官の中でも相当エリートに属する優秀な方が務めるものとされており、裁判官出身の最高裁判事にはその経験者が多いといわれている。

 そのような切れ者の調査官が書いた解説に対して、一介の学生に批判させるなんて、いわゆる無茶ぶりのような課題じゃないか、と思われる方も多いだろう。

 もちろん、「貴方なりに」と記載してあげていることからわかるように、それぞれの学生さんが、自分なりにきちんと筋道立てて論評していればそれでよいのであって、正解は存在しない。

 正解の存在しない課題に意味があるのか?と考える人もいるかもしれないが、私には、正解などなくても、学生さんに敢えて最高裁調査官の解説について立ち向かってもらうことに、狙いがある。

 相手の権威や肩書にとらわれることなく、自分で考え、自分で判断してほしいという狙い(願い)である。

 相手が高名な学者であるとか、政府関係の有識者であるなど、何らかの権威を持つ人(いわゆる偉い人)が発言したような場合には、人間は弱いもので、自分で考えることを放棄して、その人の言うことを鵜呑みにする場合がある(多い)のだ。考えることを放棄して他人の言うことに唯々諾々と従っていたのでは、何が正しいのかも分からなくなり、何の是正もできなくなり、大げさに言えば民主主義は崩壊する。

 特にこれからの未来を担う学生さんには、肩書に惑わされることなく、自分自身で考え、自分の内的基準に照らし、是は是、非は非として判断できるようになってもらいたいのだ。

 そもそも、政府の有識者会議だって、私から見ればの話だが、かなりのものが茶番である。最初の人選の場面から、政府の意向を実現する方向の委員が選ばれる傾向にあるのだから、有識者会議の結論などほとんど、政府の意向通りになることは、目に見えている。

 時折、最初の見込みと違って、政府の意向に真っ向から反対する委員が混じってしまう場合もあるようだが、そのような場合でも、安全弁がちゃんとある。 

 多くの委員会では期限が設けられていたり、委員の任期が決められているから、その期限が来ればその委員会は終了したものとして解散させたり、委員の任期が来るまで我慢すればいいのである。そして、ほとんど同じような名称で違う委員会を立ち上げたり、再任する委員から反抗的な委員を外すなどして、政府の意向に沿わない委員を排除してしまえばいいのである。

 法科大学院に関する法務省・文科省の会議などにおいても、法科大学院擁護派がずらりと顔をそろえていて、反対派といえる委員の方は、私の見る限り一人もいないように思う。

 かつて、和田吉弘弁護士(元裁判官・元青山学院大学法科大学院教授)が、法曹養成制度検討会議で明確に法科大学院制度を批判されたが(批判内容は、「緊急提言 法曹養成制度の問題点と解決策」~花伝社)、和田先生は、その後委員として再任されることはなかったはずだ。

 法科大学院を維持する決意を持った人だけで議論すれば、現実には、どれだけ法科大学院に問題があろうと、法科大学院制度維持の結論になるに決まっているではないか。

 そもそも、有識者会議の本来の目的は、政府の意向にエビデンスを提供するためのものではなく、賛成派・反対派も含めて議論を重ね、より良い解決を目指すものではないのか、と私は思うのだが、どうも現実は違うようなのだ。

 私に言わせれば、発足以来20年近くたっても、未だにその教育内容の改善を議論しなければならない法科大学院制度など、失敗の最たるものだと思うし、同じような顔ぶれの委員が雁首揃えて何年も議論しても、まだ改善ができないという有様なのだから、(学者や実務家としての能力はともかく)当該委員たちが少なくとも法曹養成制度の改善という問題に関して無能であることは、既に明らかだと思うのだ。

 例えば、民間の企業で大規模な改革が必要だと主張して、何名かの幹部が鳴り物入りで改革に着手したものの、20年近くたっても成果は出せず、未だにその改革方法について改善すればうまくいく、と言い張って、制度をいじろうとしていても、その言葉を誰が信じてくれるのだ。

 その幹部を全員、さっさと首にして、現実をきちんと把握でき、現実に対して本当に対処できる人間を代わりの幹部に据えるほうが、よほど健全な企業といえるだろう。

 話が少し脱線してしまったが、なぜこのようなお話をブログに書いたのかというと、瀧本哲史氏の「2020年6月30日にまたここで会おう」(星海社新書)を先日読んだからである。

 私は、瀧本氏ほど優秀明晰な頭脳はないし、明確に若者に伝える術も持たない。もちろん瀧本氏と何の面識も持っていないが、大変僭越な話なのだが、私がゼミの学生さんに伝えたいと考えていたことは、瀧本氏が新書で熱く語っておられる内容と一部重なる部分があるようにも感じられた。

 なお瀧本氏は、昨年8月に病没されたとのことである。

 若い方だけでなく、教育に携わる方、若い人と話す機会が多い方には、是非一読されるようお勧めする新書である。

 私も今年の6月30日には、もう一度、上記の新書を読み直してみようと思っている。

無理して弁護士数を増やす必要はない

 日弁連や大阪弁護士会は、弁護士の利用が浸透しない理由として、弁護士数が少ないとか偏在があるなどという点を上げたりすることが多いように思う。

 しかし現場の感覚としては、既に弁護士は多すぎるように思う。

 当事務所に来られたお客様にお聞きしても、ネットで調べたら弁護士がたくさんありすぎて、困ったと仰る方が多いのだ。

 つまり、弁護士数が足りないから選べないのではなく、弁護士の情報がありすぎるし、基本的にどの弁護士もインターネットでは良いことばかり書いているので、結局どの弁護士を選んだら良いのか分からないという状況だったという方が多い。

 これまで弁護士をどんどん増やして自由競争させろと、規制改革会議やマスコミも言ってきたが、自由競争とは、お客が提供されるサービスの質を的確に判断できることが大前提である。そうでなければ自由競争によってよい弁護士が選ばれて生き残るということにならないからである。

 そして、弁護士の質は正直言って一般の方には判断できないと思われる。我々同業者であっても、書面を一見しただけでは、弁護士の質を判断することは容易ではない。
 一見ひどい内容の準備書面しか提出してない弁護士であっても、無理筋の事件をボスから命じられるなどして引き受けさせられてしまい、止む無く内容のない書面しか提出できない場合だってあるからだ。

 これまで、マスコミや学者は、弁護士資格をどんどん与えて弁護士も自由競争すべきだと主張し、一般国民の方もその論調に流されてきたように思う。

 しかし、マスコミも学者も、医師だって資格に甘えるべきではないから、医師資格をもどんどん与えて自由競争すべきだ、とは言わない。

 それは、医師資格を濫発して医師にも自由競争を持ち込めば、実力不足の医師が淘汰されるためには、当該医師が医療過誤を頻発して多数の被害者を出さなければ淘汰に至らない。つまり自由競争が成立する過程で多くの被害が出ることが、一般の国民の皆様にも容易に分かるからである。

 そして、仮に多くの犠牲の上に実力不足の医師が淘汰されたとしても、自由競争の名目で医師資格が濫発され続けた場合は、実力不足の医師がさらに医師界にどんどん入り込んでくるから、いつまで経っても淘汰など終わりはしないのである。

 医師と同様に、実力不足の弁護士を大量に生み出せば、一般国民の皆様に与える被害は甚大となる。

 しかし、一般の国民の皆様は、自分が弁護士を利用する機会を容易に想像できない、若しくは自分が弁護士を利用することになる事態に陥ることがあるなどとは思ってもいないため、マスコミや学者がいうところの、弁護士も自由競争すべきだとの主張に流されてしまって、現在の状況に至っているように思う。

 そこが、マスコミなどの狡いところでもある。

 一般の国民の皆様が判断が困難な場面においては、国が資格を与える際にきちんとその実力を計り、国民の皆様にご迷惑をおかけしない実力を持った者しか資格を与えるべきではないのである。

 そうだとすれば、司法試験受験者(途中欠席せず最後まで受験した者)が僅か3664名にすぎないのに、閣議決定で示された1500名に近い1450名も最終合格させている(受験者の平均点以下の得点でも合格できる)司法試験委員会は、資格を与える時点での選別をきちんと行っていないと言われても仕方がないであろう。

 そんなはずはないと仰る方は、現状の短答式試験と平成元年以降の短答式試験を比較してみれば分かるだろう。

 法務省が明らかにしているように、現状の短答式試験は基礎的な問題に限定されて出題されている。
 「その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わない。」と明言されているのだ(平成30年8月3日 司法試験委員会決定)。

 つまり昔の短答式試験問題よりも簡単にしているのだ。

 そして昔の短答式試験では、ほぼ75~80%以上の得点をしなければ合格できない試験であり、そこで5人に1人くらいに絞られ、その短答式試験に合格した者達だけで競う論文式試験でさらに6~7人に1人に絞られたのである。

 確かに、現在の短答式試験は論文式試験と同時に行われるから、現行受験生の方が負担としては大きいともいえる。とはいえ、出題が基礎的な問題に限定されているのなら、やはり75~80%は得点して欲しいところだ。

 175点満点で80%の得点率なら、140点、これを上回った受験生は270人にすぎない。

 同じく75%の得点率なら131.25点、これを上回った受験生は566名しかいない。

 しかし、昨年度の司法試験最終合格者は、1450名なのである。

 もはや、弁護士バッジを当てにすることができない時代が来ているのかもしれない。

 それでも、弁護士数の増加が必要なのだろうか。

これでいいのか?日弁連法曹人口検証本部。

ずいぶん昔にブログに書いた記憶があるのだが、次の簡単な問題を考えて頂きたい。

 ある船に4万人が乗っていた。
 今年1500人乗船し、500人が下船した。
 船に乗っている人の数は増えただろうか、減っただろうか?

 さらにその翌年、同じ船に1000人乗船し、500人が下船した。
 船に乗っている人の数は増えただろうか、減っただろうか?

 答えはいうまでもなく、今年も、その翌年も、その船に乗っている人の数は増えている。
 こんな簡単な問題、馬鹿にするのもいい加減にしろ、と仰る方も多いだろう。

 ところが、同じ問題を司法試験合格者として考えて見ると、この簡単な問題の答えを誤る人が続出するのだ。

 よく司法試験合格者を減らせば、弁護士数(法曹人口)も減少してしまうから、合格者を減らすべきではないという議論を、マスコミや学者から聞いたことがある人も多いと思う。

 しかし、その議論は完全な間違いだ。間違いと知って、敢えて上記のように主張しているのなら、誤導であってさらに罪深い。

 つまり、長年司法試験合格者数は年間500人程度だった(少なくとも平成3年度あたりまで)。そのうち裁判官・検察官になる人を除き、弁護士に300人ほどがなっていたと仮定すると、平成3年に合格し平成5年頃に法曹になった人でも、まだ30年弱程度しか働いていないから、毎年弁護士をやめていく人の数は、おおよそ300人程度と考えることができる。

 仮に今年の司法試験で1500人が合格し、1300人が弁護士になるとすると、弁護士数の増加は1300人。
 今年1年で換算すると、1300人増加し、300人やめるから、年間1000人の弁護士の増加だ。

 では、来年の司法試験合格者を1500人から1000人に減らすと弁護士数は減るのだろうか。

 つまり、司法試験に1000人合格し、そのうち裁判官と検察官になる人を除き800人が弁護士になるとすると、弁護士数は減るのだろうかという問題だ。
 前述したとおり、毎年弁護士をやめていく人の数はおおよそ300人程度と考えることができるから、来年1年で換算すると、800人の弁護士が増加し、300人やめる。

つまり、500人の弁護士が増加するということだ。

 確かに、司法試験の合格者を500人未満にすれば、ほぼ弁護士数は横ばいから減少に転じるだろうが、現在1500人程度の司法試験合格者を1000人に減らしたところで、弁護士数は増え続けるのである。

 ところが、弁護士業をやめる弁護士数を隠したまま、司法試験合格者を1000人に減らせば弁護士数が減ってしまうと主張されると、何となくそうかな~と思えてしまうところが、マスコミや学者の狡いところだ。

 現在、日弁連で法曹人口検証本部が、法曹人口の検証を行っているが、その第6回全体会議取りまとめにおいて、某K副本部長が、上記と同じ誤導を含んだ所見を述べている。

 ご紹介したいが、会員限りの資料なので公表ができないのが残念だ。

 とはいえ、弁護士の方なら、アクセス可能な情報なので、一度確認された方が良いだろうと私は思う。

 K副本部長が冒頭の簡単な問題を誤答するレベルの思考力しかないとは考えにくいから、おそらくK副本部長、そして日弁連執行部は、誤導をしてまで司法試験合格者の減少を阻止しようと考えているのだと思われる。

 合格者増加により、弁護士資格の価値は相当下落している。今の現状を踏まえて、優秀な法曹志願者を増やそうとするなら、資格の価値を上げるほかないだろう。

 優秀な人材を得るには、富か権力か、名誉(地位)を与えるくらいしかない。ヘッドハンティング等でも分かるように、優秀な人材を得るために、やりがいだけでは限界があり、相応のリターンが必要であるのは当然である。人は、自らの仕事で家族を養い、生活していかなければならないからだ。

 日弁連執行部は、さらに弁護士資格の濫発に手を貸して資格の価値を下げ、何をしようと考えているのだろうか。

 一つ考えられるとすれば、法科大学院制度の維持だ。法科大学院制度維持のために予備試験制度をさらに制限する提言までやりかねないだろう。
 

 私に言わせれば、一度法科大学院制度導入に賛成してしまった日弁連執行部が、自らの過ちを認めることができずに、理念という名の竹槍を振りかざしたまま自爆に向かって暴走しているようなものである。

 しかし、そもそも法科大学院制度は、優秀な法曹を輩出するための制度(手段)であって、目的ではない。極論すれば、優秀な法曹が輩出できるのであれば、法科大学院制度など不要なのだ。目的を達成できるなら、手段はどうだっていいのである。

 現実には、司法試験合格率は圧倒的に予備試験組が法科大学院卒業生を上回っているし、大手法律事務所や、裁判所・検察庁でも、予備試験ルートの法曹が多く採用されている。そして、予備試験ルートの法曹に何らかの問題があるなどという話は聞いたことがないばかりか、年々予備試験ルート合格者を囲い込もうとする動きは強まっているように見える。

 つまり、法科大学院やマスコミが「プロセスによる教育」などと、実態のない理念をいくら振り回そうが、実務では法科大学院教育なんてものに価値など置いていないのだ。大手法律事務所が、予備試験ルートの合格者を囲い込もうとしていることからも明らかなように、法科大学院など出ていなくても、しっかり勉強していれば法曹実務家として十分使いものになるのである。

 前述したK副本部長の所見からすれば、日弁連の法曹人口検証本部が、日弁連執行部の意向により、法科大学院維持のために暴走する可能性は相当程度高いと私は見ている。

 いったい何時になったら、日弁連は目が覚めるのだろうか。

 いくら理念を振り回し、万歩譲って仮にその理念に何らかの意味があったとしても、弁護士業界を焼け野原にしてしまえば、意味などないではないか。

私は恐ろしい。

令和2年度の司法試験最終合格者が発表された。
 合格者は1450名、受験者数3703人に対する合格率は39.16%だったそうだ。

 しかし私は、恐ろしくてたまらない。

 以前ブログに書いたように、平成30年に法務省は司法試験の短答式試験(マークシート方式)の出題を簡単な基礎的問題に限定すると発表している。

 今年の短答式試験は、175点満点、平均点118.1点、合格点93点以上(但し各科目40%以下は不合格)とされているが、平均点を25点下回っても短答式試験に合格するし、短答式試験に合格すれば、ほぼ2人に1人は最終合格してしまう。

 短答式試験の得点別人員調を見れば、なお恐ろしい。
そもそも、法務省が発表したように短答式試験は、問題が基礎的で簡単なものしか出題されなくなっているから、相当高得点が取れてもおかしくはない。

 したがって、1科目でも40%以下の得点をとってしまうような受験生は、基本条文も知らないだろうし、極論すれば法科大学院を卒業できるはずがないレベル、司法試験受験生を名乗って欲しくないレベルというほかない(マークミスを除く)。

 さて、法務省が発表した「令和2年司法試験短答式試験得点別人員調」によれば、1科目でも40%未満をとらなかった受験生は3024名。
 そのうち、総合93点以上をとって短答式試験に合格した受験生は2793名、92.36%!なのである。

 つまり、もはや短答式試験は、実力がある受験生を選別する試験ではない。受験生ともいえない低い実力しかない受験生を弾く機能しかもっていないといっても良いだろう。

 そして、完全なザル試験になっている短答式試験に合格すれば、論文式試験で2人に1人は最終合格してしまうのである。

 短答式試験で5~6人に1人に絞られ、さらにその中からさらに論文式試験で7~8人に1人に絞られ、口述試験も課せられた、私の受験時代とはもはや全く違う。

 上位合格者の方々はそうではないだろうが、レベルの低くなった合格者が多数輩出されることは間違いない。

 本当に資格を与えて良いのだろうか。

 一般の依頼者の方が、弁護士の実力を判断することが極めて困難である以上、資格を与えてしまった後では、自由競争で淘汰されることも無理である。

私は、本当に恐ろしい。

まさかとは思うけど

 日弁連が、女性の日弁連執行部への参加を推進するために、クォータ制による女性副会長の席を2つ設けていることは、ご存知のことと思う。

 私は相当前から日弁連代議員も務めているから、クォータ制が導入されてからの日弁連代議員会(副会長等を選ぶ会議)にも全て参加しているが、私の知る限り、クォータ制の日弁連女性副会長は、主流派が押さえている弁連等から推薦された方がこれまでずっと就任してきているはずだ。

 日弁連執行部への女性参加をより強力に推進するためであれば、弁連等で推薦されるのを待っている受動的な方よりも、意欲を持って能動的に参加を希望する方、つまり自ら立候補された方を優先すべきであるのが素直だと思う。

 しかも、立候補するには相当数の弁護士の推薦が必要であり、その推薦を自力で集めなければならないという高いハードルも設定されているので、なおさら立候補するためには強い意欲と行動力がないと困難なのである。

 ところが、今年も日弁連は立候補した女性弁護士をクォータ制副会長に選出しないと判断したそうだ。

 先日もご紹介した、武本夕香子先生のことである。

 武本先生は、長年、伊丹市、尼崎市及び芦屋市において、女性のための専門法律相談員を務めてこられた。しかも、上記各市における男女共同参画推進審議会委員等を務め、男女共同参画問題についても取り組んできている。武本先生の依頼者の9割近くが女性で占められており、弁護士業務においても、市井の女性の人権擁護の活動に取り組んでこられた。さらにこれまで、6名の女性弁護士を雇用する等しており、近年の女性弁護士の置かれている状況等についても深い理解があることから、クォータ制副会長候補者に適している。兵庫県弁護士会の会長経験もある。
 しかも、今回の立候補においては、短期間で全国から500名以上の弁護士の推薦を得ており、人望も篤い。

 そうであるにもかかわらず、日弁連のクォータ制副会長を選ぶ委員会は、武本先生を落選させたようだ。

 理由を聞いても、日弁連執行部は、どうせ、総合的な判断の上であるとか、人事に関する事項だから回答を差し控えるなどと言って、武本先生の落選理由をまともに説明しないだろう。

 しかし、武本先生程の経歴と資質と行動力と人望を持ちながら、クォータ制副会長に相応しくないというのであれば、逆に言えば、クォータ制副会長に相応しいといえる人物には武本先生を超越するだけの経歴と資質と行動力と人望が必要ということになる。

 殆どスーパーウーマンでなければ、そのハードルは越えられない。そうだとすれば、クォータ制副会長に適する候補者はごく僅かの女性弁護士に絞られてしまうだろう。

 要するに日弁連執行部は、武本先生を落選させる以上、武本先生以上のスーパーウーマンをクォータ制副会長にもってこなければ、理屈に合わないことになる。

日弁連執行部からすれば武本先生を落選させたのは、大人の事情なのかもしれないが、私はそういうのは大嫌いなので敢えて日弁連の本心を推察して言ってやると、「日弁連はクォータ制の副会長であっても、主流派執行部に従順な女性副会長を希望している。」ということなのではないか。

 より分かりやすく言えば、女性の視点を取り入れるためにクォータ制の女性副会長制度を設ける、但し、執行部の意向に従順な女性弁護士に限る、ということなのではないだろうか。

 この私の推測が正しければ、日弁連執行部の意向に従順という条件が、女性の意見を取り入れるという本来の目的よりも上位に存在することになりそうだ。女性に従順を強いるのは、男女共同参画から最も遠いような気もするが、どうも日弁連執行部はそのように考えているとしか思えないのだ。

 クォータ制女性副会長制度は、制度としては、やむを得ないのかもしれないが、現状の執行部のように、執行部に従順という見えない条件が絡まっているのだとしたら、それは女性参加に名を借りた執行部の地盤固めにすぎない。

 まさかとは思うが、仮に私の推測が万一、正鵠を射ていたとしたら、日弁連とはなんと器の小さい組織なのであろうかと、嘆息を禁じ得ない。

弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~2

 ところが、日弁連は弁護士は社会生活上の医師であるから、全国津々浦々に弁護士がいた方が社会にとって良いと考えているようだ。だからこそ司法過疎解消をしきりに唱えたがるのだろう。確かに司法制度改革審議会意見書にも、法曹は「国民の社会生活上の医師」の役割を果たすべき存在であるとの指摘もある。

 この点について、私は残念ながら、弁護士像を理想化しすぎた日弁連・司法制度改革審議会の誇大妄想ではないかと思っている。弁護士が過疎地を含めて常に身近にいるだけで社会が良くなるなんて思い上がりも甚だしい。

 確かに医師であれば戦う相手は病気であり全人類の敵である。病気をやっつければやっつけるだけ人類の幸福は増加する。この意味で、明らかに医師は正義の味方といえるのである。

 しかし弁護士はどうか。戦う相手は、依頼者以外の個人であり企業等である。例えば、ある訴訟で依頼者の為に弁護士が全力を尽くして戦い、勝訴した場合を考えて見よう。
 その弁護士に依頼した者にとって、自分の言い分を裁判所に認めさせてくれた弁護士は救いの神である。しかし、相手側にとってみれば、自分の言い分を否定し尽くされ、裁判所の判断を誤らせた、魂を悪魔に売り渡した悪徳弁護士以外の何物でもない場合もあるだろう。

 弁護士が裁判で勝てば勝つだけ、その勝利の数に応じて、裁判での争いに負ける相手方があふれるのだ。

 日弁連は、勝つべき事件だけ勝ち、負けるべき事件は負けるという、客観的正義を実現するような、ある意味理想の弁護士像を描いているのかもしれないが、負けるべき事件だから負けましょうという弁護士に、誰が依頼をするだろうか。

 弁護士全てが、金のなる木をもっていて、未来永劫生活に絶対困らないのならともかく、職業が生活の糧を得るための手段であるという厳然たる事実を直視すれば、自営業者にそのような態度をとるように求めることは、不可能を強いるものだ。

 弁護士資格でさえ取得するために、多くの時間と費用がかかっているのである。

 このように、(冤罪事件など一部は除かれるが)弁護士が実現出来るのはせいぜい相対的正義なのである。

 確か、「こんな日弁連に誰がした?」(平凡社新書)の著者である小林正啓先生が述べておられたと思うが、弁護士は社会生活上の医師などではなく、あくまで依頼者の為にだけ働く傭兵のような存在なのだ。弁護士が傭兵として活躍すれば依頼者の為にはプラスになる場合が多いが、攻撃の標的とされた相手としては、たまったものではないはずだ。

 実際の弁護士像と日弁連の想定する理想の弁護士像がずれたままで弁護士増員だけが進行しても、実際には飢えた傭兵が社会の中に増えるだけで、社会正義の実現はもちろんのこと、司法過疎の解消には全くつながらないと私には思われる。

 ここで歴史を遡ると、司法制度改革の支柱となった司法制度改革審議会意見書では、今後の法曹需要が飛躍的に伸びると予想されていた。そのことは、同意見書の「今後の社会・経済の進展に伴い、法曹に対する需要は、量的に増大するとともに、質的にも一層多様化・高度化していくことが予想される。(中略)その直接の担い手となる法曹の質・量を大幅に拡充することは不可欠である。」との記載からも明白である。

 しかし実際はどうか。

 2019年裁判所データブック(法曹会)によれば、全裁判所の新受全事件数(民事・行政事件は件数、刑事事件は人数、家事事件は件数、少年事件は人数で計算)は、司法制度改革審議会意見書が出された
 平成13年度で、5,537,154件であった。
 最新のデータとして記載されている
 平成30年度は 3,622,502件である。

 実は1,914,652件という減少なのだ。年間200万件近くも裁判所に持ち込まれる事件が減っているということなのだ。

 この点、裁判手続きは紛争解決の一部にすぎず、裁判手続以外での解決が進展しているはずだという反論があるにはあるが、そのような解決が多くなされているという具体的証拠は一切示されておらず、何らデータのない感覚的な反論にすぎない。現実に裁判の新受件数が減少しているというデータがあるということは、素直に見れば法曹需要は減少しているということだ。

 現実を見れば分かるとおり、司法制度改革審議会意見書の想定していた法曹需要の飛躍的増大は全くの的外れであり、したがって、法曹需要の飛躍的増大を想定して法曹人口(といっても中心は弁護士人口)の拡大を図った政策は、その出発点においてとんでもない見当違いの方向を向いていたということになる。
 率直に言えば、司法制度改革審議会はそもそもの方向性からして誤っていた阿呆でした、ということになろう。(さらにいえば、既に出発点が間違っていることが明らかになっている同意見書を、なんとかの一つ覚えのように繰り返し主張して、法科大学院制度維持のためになりふり構わぬ論陣を張る学者さん達もなんだかな~と思うがここでは論じない。)

 一方、実際には誤っていた法曹需要の飛躍的増大を前提に、法科大学院制度を発足させ司法試験合格者を増加させたことから、この間に弁護士人口は、18,246名から40,098名と2倍以上に増えたのだ。

 このように、裁判所に持ち込まれる事件数が17年前と比較して年間で200万件近くも減少し、その一方で、弁護士が倍以上に増加しているにも関わらず、弁護士過疎が解消していないということは、もはや弁護士増と弁護士過疎の解消は関連性がないとみるべきだと私は思う。

(続く)

弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~1

 現在、日弁連で法曹人口検証本部が立ち上げられ、法曹人口(といってもメインは弁護士人口)が過大かどうか検証するということをやっている。

 私を委員に選んで頂ければ、いいたいことは山ほどあったのだが、残念ながらお声かけ頂けなかった。

 さて、伝聞であり間違っていたら申し訳ないのだが、その検証本部で、いわゆるゼロワン地域(地方裁判所の支部が管轄する地域区分内に、法律事務所などを置く弁護士の数が、全くいない又は1人しかいない地域。ちなみに 日本国内には地方裁判所およびその支部が203ある。)が未だ解消されていないとして、弁護士人口をもっと増やすべきだとの主張が執行部側からあるようだとの噂を耳にした。

 実際には、0地区はもはや解消されており、ワン地区も一度は解消され、2020年4月時点で僅か2カ所かのワン地区があるだけのようだが、未だ執行部側はワン地区の存在を理由に弁護士人口は過大ではないと主張したいのかもしれない。

 上記の推測が仮に当たっているとしての話だが、弁護士過疎は弁護士増員で解消できるものではないと私は考えている。

 理由は簡単だ。

 弁護士は、公務員でも会社員でもなく、自営業者だからだ。

 当たり前だが、自営業者は自らの商売で稼いだお金で生活をしなくてはならず、ある日、たまたま自分が担当している仕事がなくても他の日にしっかりやっていれば月給をくれることもないし、体調を崩して休業しても誰かが休業手当をくれるわけではない。

 したがって、きちんと仕事があって収入が上げられる可能性がある場所でしか開業できないのである。

 司法過疎地と呼ばれる地域は、過疎化が進行し産業も低調で、法的紛争も多くはないところが多い。そのようなところで開業しろと言われても、生計が成り立たないからそもそも不可能なのだ。

 そもそも、あれだけ訴訟大国であり、100万人以上の弁護士がいるとされるアメリカでも司法過疎は解消されていないとの報告もなされている。

 また、国民の皆様がどれだけ真剣に弁護士を必要としているのかもはっきりしない。

 マスコミやら日弁連は、やたら地方の弁護士不足を大声で喧伝するが、本当に弁護士過疎地域の方が心の底から弁護士が来ることを切望しているのだろうか。死活問題として弁護士を求めているというのではなく、「近くにいたら便利」程度の希望なのではないだろうか。

 例えば、無医村が高給を出してでも医師を募集している事例はよく耳にするところだが、弁護士ゼロワン地区の住民や自治体が高給を出して弁護士を誘致する活動をしているとの情報は、少なくとも私は一度も聞いたことがない。

 住民の皆様が本当に弁護士が必要だと真剣に思うのなら、無医村における医師のように高給を出してでも弁護士を誘致しても不思議ではないのだが、残念ながらそこまで真剣に弁護士を必要としてくれる過疎地は見たことがないのである。

                                                       (続く)

現実を見た方が良いのでは?

 中教審の法科大学院等特別委員会の議事録をときどき読んでみるのだが、何時も法科大学院制度は素晴らしいはずだという現実離れした前提を当然としたお話しがほとんどなので、どうしてなのか疑問に思っていた。

 ふと気になって、議事録の他に委員に配布される配付資料の項目を見てみたところ、ある点に気付いた。

 私が項目だけを見た限りではあるが、司法試験の結果(合格率・法科大学院別合格率など)に関する資料は多数配布されているようだが、司法試験受験生がこんなに問題のある答案を書いているという事実を摘示する唯一の資料ともいえる、採点実感等については、どうやら法科大学院等特別委員会では配布されていないようなのだ(配布されているかもしれないが、きちんと検討して法科大学院教育を反省するような議論は見たことがない。)。

 採点実感を見れば、最近の司法試験受験生(しかも短答式に合格したはずの受験生)の答案が如何にひどいものかが幾つも指摘されている。ほとんど全ての科目で論証パターンの暗記ではないかとの指摘がなされているし、基本的知識がない、基本的理解ができていない、という採点者の悲痛な嘆きを窺わせる指摘のオンパレードだ。

 良好な答案・一定水準の答案はこんな答案という例示もあるが、かなり問題のある答案であっても良好な答案のレベルと評価していたり、相当まずい答案でも一定水準の答案として評価している事実も示されている。

 令和元年の公法系第1問では、仮想の法案の立法措置についての合憲違憲が問われたが、そもそも問題文に記載されている仮想の法案の内容を誤って理解して論じた答案が多数あったと指摘されている。
→簡単に言えば問題文が理解できずに答案を書いた人間が多数いるということだ。

 同年公法系第2問でも、問題文や資料をきちんと読まずに回答しているのではないかと思われる答案が少なくなかったと指摘されている。「問題文を精読することができないのは,法律実務家としての基礎的な素養を欠くと評価されてもやむを得ないという認識を持つ必要がある」とまで指摘されているのだ。
 ちなみに、少なくないという表現は極めて控えめな表現であり、実際には多いということだ。

 民事系科目においても状況は同じである。

 第1問「不動産賃貸借の目的物の所有権移転による賃貸人の地位の移転について当然に承継が生ずるのは,賃借人が対抗要件を備えている場合に限るという基本的な理解が不十分な答案が多く見られた。」
 →こんな知識は、私が受験生の頃であれば、予備校の入門講座で押さえるべき知識である。

 「(不動産の)設置又は保存の瑕疵と材料の瑕疵とを混同する答案が少なからずあった。また,所有者の責任は占有者が免責された場合の二次的なものであることを理解していなかったものも相当数見られた。」
 →条文を確認すればすぐに分かるレベルのものである。

「・多くの受験生が,短時間で自己の見解を適切に文章化するために必要な基本的知識・理解を身に着けていない」
 →短時間と留保をつけてはいるが、要するに(短答式試験に合格している受験生であっても)その多くが基本的知識も、基本的理解もできていないということである。

 第2問においても、

 「基本的事項について、条文に沿った正しい理解を示していない答案が少なくなかった」

 「問いに的確に答えることができることが必要であろう」

 「問題となる条文及びその文言に言及しないで,論述をする例が見られ,条文の適用又は条文の文言の解釈を行っているという意識が低い」

 等と、もはや問題文で提示されているのが、どの条文の問題かすら明確にできないし、問いに答えることすらできていないという指摘まであるのだ。

 もっと書いてやりたいが、あまりに指摘すべき点が多いので、詳しくは法務省のHPにある司法試験の採点実感を御覧頂きたい。
 いまの司法試験論文式が、如何に選別能力を失っているかが良く分かる。

 このような指摘が現場からなされているにも関わらず、法科大学院教育の成果を見るために最も適した資料であるはずの採点実感を、何故法科大学院等特別委員会で検討しないのか。

 何ら実証されていない、プロセスによる教育の理念とやらを振りかざし、予備試験を敵視して気炎を上げるのも良いかもしれないが、まず自分達の教育結果を素直に見てみたらどうだ。

 かつてあれだけ、大学側が敵視していた論証パターンの暗記も一向になくならないどころか、ますます隆盛のご様子だ。

 何やってんだ法科大学院のお偉い先生方は。

 どんな教育をしてるんだ。
 

不都合な真実に目をつぶるのも結構だが、少しは現実を御覧になったらいかがか。