特にモンテスキューは、「恐るべき裁判権」と表現していて、裁判権を行政権から分離させた方が良いと考えていました。
モンテスキューが目にしていた当時の裁判は、官房司法(君主が行う裁判)と呼ばれ、政府が行う行政の一環として裁判がなされていました。もちろん政府が裁判を行うわけですから、当然政府の味方をする裁判であり、決して公平・公正な裁判ではなかったのです。ですから国民が、政府相手に裁判を起こしても結果は政府の勝訴とほぼ決まっており、決して公正な裁判は行われず、国民は裁判では救われないし、他に救われる道も見出しにくい状況でした。
このような裁判が行われる国では、政府がどれだけ国民の人権を踏みにじっても、裁判で政府の行為を正すことができないので、国民の人権は守ることはできません。
人権保障に反するのです。
また、モンテスキューの時代ではなく、近代の立憲民主国家であっても、選挙で多数を占めた人たちの意向で法律は決まりますし、行政は法律に従って実行されますから、力の強い人たち(多数派)が政治部門(立法・行政部門)では優位に立っていることになります。
多数派の人たちは、自分達にプラスになるように法律を作ったり、行政を行いますから、その過程で少数派の人たちにマイナス面を与える場合もあります。
このような場合、多数派ではなく、少数派の人たちの人権をどうまもればいいのでしょうか。
多数派が決めたことがどんなに少数派にとって理不尽でも、少数派の人たちは従わなくてはならないのでしょうか。
仮にそうなら、少数派の人たちの人権は保障されているとはいえません。
近代国家では、少数派の国民の人権を無視して良いわけではありません。国民は個人として尊重されますから、多数派だけでなく国は全ての国民の人権を保障する必要があります。
とはいえ、先程述べたように政治部門(国会・内閣)では、どうしても多数派の意向に添わざるを得ない状況は変えられません。
このように、政治部門が多数派の意見に添わざるを得ないことは動かせませんから、その状況下でどうやれば、少数者を含めたすべての国民の人権保障ができるのでしょうか?
これは難題といえそうです。
でも、裁判所(司法権)が、多数派(政治権力)に全く影響をうけないのであればどうでしょう。
裁判所においてだけは、政治的な力の強弱ではなくて、どちらの主張が理に適っていて正しいのかという面だけで判断してくれる、すなわち裁判所が権力に影響されない公平な立場で、公正な判断をしてくれるのであればどうでしょう。
仮に多数派の人たちが政治勢力により、少数派の人たちを理不尽な目に遭わそうとしても、裁判所により少数派の人たちの人権が守られる可能性が出てくるのではないでしょうか。
だからモンテスキューは、人権保障のために、裁判について、他の権力からの影響をゼロにしたかったのだと考えられます。
多数派に牛耳られることのない裁判所(権力に影響されない、純粋な法原理機関としての裁判所)が、多数派の意向ではなく、どちらの主張が理に適っていて正しいのかという観点だけから判断をして判決するのであれば、(少数派を含めた)全国民の人権保障に役立つはずです。
裁判所が人権保障の最後の砦といわれるのは、概ねこのような理由もあるからです。
日本国憲法も司法権の独立(裁判官の独立)を明言し、他の権力が裁判に影響を及ぼすことを禁じています。
(続く)