天才、ついに立つ!?

 来年の兵庫県弁護士会会長選挙に、私が以前ブログ(2008.2.1 「早すぎた天才」)でご紹介した、武本夕香子先生が、立候補される決意を固められたようです。

 武本先生は、法曹人口問題に関し深い分析と正確な洞察により、従前から警鐘を鳴らされていた方です。あちこちの弁護士会、弁護士連合会などで、法曹人口激増の弊害を指摘する提言がなされていますが、武本先生の論文「法曹人口問題に関する一考察」(弁護士寺本ますみ先生のブログ

http://t-m-lawyer.cocolog-nifty.com/ で読むことが出来ます)は、各地の法曹人口問題を研究するチームに大きな影響を与えた論文であったと思います。

 私も、武本先生にお会いしたことがあるのですが、武本先生の鋭い洞察力と論理力、類い希なる行動力には感服しました。また、「是は是、非は非」と周囲に臆せず述べることの出来る芯の強さ、それでいながら女性らしい細やかな気配りを忘れない心をお持ちでした。またきちんと納得されればご自分の立場に固執されることもない、柔軟なお考えができる方です。一度お会いされれば、きっと理解して頂けるはずです。

 現実を全く知らない学者達が中心になって日本の実情に全く沿わない司法改革の青写真を描き、日本の司法を崩壊させつつあるなか、本当に国民の皆様のためになる司法は何か、弁護士のあり方はどうかについて、武本先生は最も真剣に考え、行動している弁護士の一人であることは間違いないでしょう。

 私と武本先生は、依って立つ立場は違うかもしれませんが、目指す方向は同じだと考えています。ですから私は、一弁護士として、武本先生が立候補された暁には、是非応援させて頂きたいと思っています。

 余談になりますが、弁護士会の会長選挙はいまだに、封建的と言っていいほど、時代から遅れた選挙です。

 私が見る限りですが、弁護士会の会長になろうと思った方は、自らの所属する会派の活動・弁護士会の委員会活動を必死にこなして、会派の中で地位を高める必要があるようです。そのためには、下っ端の頃には雑事を一生懸命にこなすことも必要ですし、ある程度地位が上がっても、食事会や勉強会と銘打った宴会を開催して会派の中での支持を集めていくことも行われるようです。まあ時間をかけた買収工作に近いようなものではないかと私は思っていますが。そして、会派の中で勢力を張り巡らせてのし上がり、会派の推薦を受けて副会長を務め、その後会長候補として推薦を受けるべき者として選出されれば、一段落です。

 しかし、会派内での競争に打ち勝ってもそれだけでは会長にはなれない場合もあります。他の会派にも同じように会長を狙う方がいるかもしれず、その相手との調整も必要な場合があるからです。他の会派が会長候補を出す場合は会派同士の調整があるようですが、調整しきれない場合は選挙になることが多いようです。

 その選挙がこれまたひどい情実選挙であること、選挙終盤には全候補者がこぞって「大苦戦」と表明して票をねだる情けな~い行動に出ることは、以前のブログ(2008.1.29など)で少し触れました。

 更に日弁連の会長まで狙う方は、現在の日弁連執行部の機嫌を損ねないように、日弁連執行部に対してごまをすりつづける必要があるようです。

 私は、「もうそんなことをやっている場合じゃない!弁護士激増による大変な時代が来ているのだ。もう、いい加減に自らの栄達ではなく、弁護士全体のことを考えなければならない時だ!今からでも遅いくらいじゃないか!!」と思うのですが、こんな簡単な現実が、今まで通りのやり方で会長の椅子を狙っている方にはどうも理解できていないようなので困ります。

 何度も言いますが、どんな名医でも死んでしまった人を生き返らせることは出来ません。生きているうちに、手遅れにならないうちに、治療しないと、後悔しても間に合いません。

平成20年度秋期司法特別演習B懇親会

 私が、関西学院大学法学部で担当している演習の参加者で懇親会が開かれました。

 演習参加者のうち数人の方は用事のため欠席ということになりましたが、普段の演習ではなかなか分からない学生の思いがけない一面などが、かいま見え、とても楽しい時間を過ごすことが出来ました。

 以前も書きましたが、学生時代の友人は本当に大きな財産になります。今回の懇親会と演習での出会いを大切にしていってくれればと思っています。

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~平成20年度秋期司法特別演習B懇親会(写真提供 山本和樹君)~

ホンダのF1撤退

 報道によると、今日、ホンダがF1からの撤退を表明した。

 一つの時代が終わった。

 思えば、私が最初に鈴鹿サーキットでF1を観戦した1987年、音速の貴公子と呼ばれたアイルトン・セナと日本人初のF1レギュラードライバーとなった中島悟は、鮮やかなキャメルイエローのロータスホンダで鈴鹿を駆け抜けた。セナが2位、中島が6位という好成績を挙げた。私は自由席で、座って観戦することもままならず、レース中ずっと立ちっぱなしで応援を続けた。その対象は、F1という自動車レースの最高峰で戦い続けるホンダでもあった。

 その翌年、ホンダはマクラーレンと組んで、16戦中15戦で優勝を飾った。

 ホンダという会社が日本に存在することが嬉しかった。

 確かに2000年から始まった、第3期のホンダのF1活動は苦戦続きだった。マシンの改良によっても思うような効果が得られず、ドライバーの奮闘だけでは勝利を得られない状況が続いてしまった。そのような状況に加えて、このサブプライム問題である。いくらホンダがチャレンジング・スピリットに溢れていたとしても、営利社団法人としての会社としては、撤退は、やむを得ない選択かもしれない。

  しかし、どうしても寂しい思いが残ってしまう。

 世界の多くが明らかになってきた現代。自らの力で新たな天地をめざそうとする冒険家の時代は終わり、何らかのスポンサーを背負ってでなければ冒険すら不可能になりつつある、そのような時代の流れが、ホンダを呑み込んでしまったような、そんな気がしてしょうがない。

 夢を追うことすら困難な時代が来ようとしているのかもしれない。

出来ることと出来ないこと

  今日、少年鑑別所を出たのは、おそらく面会に来た人たちの中で最後だったのだ、と思う。既に携帯電話や荷物を入れておくロッカーの鍵は、私が使っているロッカー以外は全て未使用状態になっていたし、途中の一般の方の面会室にも誰もいなかった。

 鑑別所の方に「お疲れ様です」と声をかけて、外に出ると、夕暮れが迫り、薄い三日月が光っていた。

 少年は、一生懸命に反省に向けて努力している。真面目に反省して、事件の原因が自分のどこにあったのか探ろうとしている。突き詰めて考えていくからこそ、事件について自分で分からないところも出てくることがある。

 当たり前だ。

 私だって、自分の心の全てが、分かるはずもないのだから。

 未成熟の少年が、事件当時の自分の気持ちを省みて、分からない部分があって当然である。

 しかし、その分からない部分を質問されると、調査官や鑑別技官にうまく説明が出来ず、きちんと事件に向き合っているのか疑われてしまう場合もある。

 出来るなら少年の心を真っ二つに割って、何が書いてあるのか知りたい。知ることができれば、もっと上手く、少年にヒントを出してあげられるかもしれない。

  しかしそれはかなわぬ願いである。

 付添人としてもっと出来ることはないかと思いつつ、現実に、悩むこともある。

中森先生ゼミ同期会(2008)

 私の恩師でいらっしゃる、中森喜彦先生(刑事法)が、今年京都大学を退官された(京大名誉教授にもなられたようです。)ということで、ゼミの同期生のうち、時間が取れた6名が集まって、先生お疲れ様の会(同期会?)のようなものを催しました。

 先生が次に奉職される(既にされている)、近畿大学法科大学院・研究室を先生にご案内して頂いて、その後、奈良の料理屋さんで、夕食。

 先生は、「君らは、僕が京大を離れることがそんなに嬉しいのか?」等と冗談を言いながら、かつての学生であった私達と、楽しく話して下さいました。

 翌日は、奈良に泊まった4名(私を含む)で、午前中に薬師寺・唐招提寺を拝観し、中森先生と合流後に昼食をとり、よもぎ餅屋を見物した後、徒歩で若草山の旧道をのぼり紅葉を楽しむ、といった二日間でした。

 若草山とはいえ、体力の衰えとメタボ気味の私には、普通のハイキングよりも少しハードに感じましたが、途中の山道での紅葉や頂上からの展望は素晴らしいものがあり、奈良って良いところだなぁと再認識させてもらいました。

 もちろん、途中で先生と楽しく会話しながらのぼったのですが、それよりも、先生がほとんど息も切らさず、すいすいと若草山を登っていかれるのは驚きでした。

 中森先生は、まだまだ、お気持ちもお体もお若くていらっしゃるので、今回参加できなかった同期の方のためにも、また機会があれば、楽しく集まりたい、と思っています。

ユリカモメ

 今朝、出勤の際に鴨川を渡ったのですが、そのときに、ユリカモメが数羽飛んでいるのを目にしました。

 ユリカモメは、伊勢物語で「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」詠まれている「都鳥」と同じであるという見解が有力なのだそうです。

 冬になると、多くのユリカモメが鴨川にやってきます。橋の上からエサを投げてやる人も時々見られます。そして夕方になると、多くのユリカモメがぐるぐる旋回しながら上昇していく姿(鳥柱)が見られます。いつ頃からユリカモメが鴨川にいたのか分かりませんが、京都の冬の風物詩といっても良いくらい見慣れた風景になっているように思います。

 聞いた話によると、鴨川にいるユリカモメは、本来琵琶湖をねぐらとしていて、朝に鴨川にやって来て、夕方に琵琶湖に帰るのだそうです。

 ユリカモメは、見た目は白いヘルメットをかぶったような頭をしており、一件可愛らしく見えますが、実は結構性格はどう猛な面があるそうで、私が台風の時に琵琶湖で保護したユリカモメも、しきりに私の指に噛みつこうとしていた記憶があります。

 ただ、白いユリカモメが、鳥柱を作って上昇していく姿を見ると、なぜだか「いよいよ、冬なのだなぁ」と感じます。最近は暖冬のせいか、秋と冬の境がとても分かりにくくなっているように思いますが、鳥はきちんと分かっているのでしょう。

法律相談で

 私は、法律相談を行うとき、相談に来られた方が、相談に来た時よりも少しでも、気が軽くなってお帰り頂きたいと考えて相談を行うように心がけているつもりです。

 ところが、やはり相手のあることですから、必ずしもそう、うまくいくとは限りません。

 弁護士にとって困る方々としては、①こちらが事情を把握しようと質問しても無視して自分の言いたいことだけを言い張る方、②こちらが相談者の質問に対して回答している途中で話の腰を折って自分の言いたいことばかり言いつのる方、③こちらの回答の都合の良いところしか聞かない方、④自分の思うような回答が出ない、若しくは意に添わない回答をすると怒り出す方、等がいらっしゃいます。

 ①のような方では、弁護士が判断に必要な事情が把握できないので、弁護士としても回答の出しようがありません。相談者の方が重要だと思っていることが実は重要ではなく、他の点に重要な問題がある場合も多いのですが、①のタイプの方は、なかなか解ってくれず、お話しが進まない結果になることもあります。

 ②のような方は、弁護士が事情を把握した上で説明を始めているのに、その説明を聞いてくださらないのですから、こちらとしても非常に困ります。「説明途中だから最後まで聞いて下さい」とお願いして話すのですが、それでもすぐに説明途中で自分の主張を言い始められるので、結局筋道だった回答ができない場合もあり得ます。

 ③のような方も、弁護士としては辛いところがあります。「この問題は~~というリスクがあるが、○○という条件で、△△の部分がうまくいけば××の結果が出せる可能性があります。」と説明しても、××の結果が出せるという部分しか聞いてくれず、弁護士が××の結果が出せると言った、等と事実と異なることを言われたりします。

 ④の方は、無料法律相談のリピーターに多いタイプです。自分の思うような回答が出ないとしても、それは、現行法上、やむを得ない場合もあるということを理解して下さらず、おかしいと怒り出されるのです。私が相談者に対しておかしいことをしたわけでもないのですが、そのような方はまるで、その問題を私が引き起こしたかのように怒り出される方も希にあり、こちらも嫌な思いをさせられます。

 そのような方々であっても、なんとかお分かり頂くようにお話ししているつもりですが、あまりにお分かりいただけない場合は、もはやコミュニケーションが取れないので、「少しでも気が楽になってお帰り頂く」という目標が達成できない場合もあります。

 全てのかたに、分かって頂けるような魔法のような説明が出来ないか、時々考えてしまいます。

週刊東洋経済~福井秀夫教授の発言

 週刊東洋経済2008.11.22号の「設計ミスの司法改革弁護士大増産計画」という記事の中で、規制改革会議の福井秀夫政策研究大学院大学教授が、物凄い発言をされています。

(以下記事の引用)

 政府の規制改革会議の福井秀夫・政策研究大学院大学教授は「ボンクラでも増やせばいい」と言う。「(弁護士の仕事の)9割9分は定型業務。サービスという点では大根、ニンジンと同じ。3000人ではなく、1万2000人に増やせばいい」。

(以上引用終わり)

 弁護士の仕事について福井秀夫氏がどこまでご存じか知りませんが、上記の発言を本当に福井秀夫氏がしたのであれば、福井氏は「弁護士の仕事は99%が定型業務である。」と述べておられることになるでしょう。

 少なくとも私が行ってきた弁護士の経験から言えば、どんな簡単な契約チェックでも、契約対象、相手方、依頼者の希望、その他様々な点で、全く同一というものは、まずありません。訴訟についても、同じ類型の訴訟であっても、言い分や事実、証拠の有無、相手方の対応で、千差万別であって、裁判所に提出する主張書面は、全てがオーダーメイドです。何一つ同じ訴訟というものはありません。

 定型的に近い処理が出来る可能性があるのは債務整理業務でしょうが、それが弁護士の仕事の99%を占めていることは、特殊な法律事務所以外考えられません。

 福井秀夫氏には、知らないことを、さも知ったかぶりで言うことはやめて頂きたいと思います。

 それでも福井秀夫氏が、弁護士の業務は99%が定型的だと仰るのであれば、弁護士登録して頂いて、福井秀夫法律事務所を開設し、受任する仕事の99%を定型的に処理して見せてもらいたいものです。

 通常の法律事務所のように様々な事件を取り扱っていれば、99%の事件を定型的に処理することはまず不可能です(同じ離婚訴訟だからと言って、以前の離婚訴訟で使用した書面を、事情の異なる別の離婚訴訟にそのまま使えるはずがないのは、子供でも分かるでしょう)。もし、福井秀夫氏が弁護士登録して自分の法律事務所で、様々な事件のうち99%の事件を定型的に処理し続ければ、その処理方法自体が福井秀夫氏がボンクラ弁護士であることの証となるでしょう。

 ただ、福井秀夫氏の発言を、無理矢理にでも善解すれば、定型的という意味を非常に広く考えておられて、訴訟自体が一つの定型的な類型、法律相談を一つの定型的な類型、・・・・というふうに表現している可能性もひょっとしたらあるかもしれません。しかしそれでは福井氏の発言自体に意味がないことになります。

 つまり、福井秀夫氏のいう「定型的仕事」が非常に広い概念であると仮定すれば、次のようにも言えるでしょう。

 大学教授の仕事は研究と講義(学生への教育)であり、定型的な仕事である。だから大学教授はボンクラでも良い。

 医師の仕事は、診断と治療であり、定型的な仕事である。だから医師はボンクラでも良い。

 新聞記者の仕事は、取材と記事の執筆であり、定型的な仕事である。だから新聞記者はボンクラでも良い。

 どう考えたって、このような主張はおかしいでしょう。

 ただ、救いなのは東洋経済の記事を書かれている方が、冷静に福井教授の暴言に対応しておられることです。

(福井教授の発言のあとに)「だが、庶民が弁護士に依頼するのは一生に一度か二度の買い物だ。たまたまハズレ、ではたまらない。」

 冷静に考えれば、この記事を書かれた方の言うとおりでしょう。

いまだにもったいないと思う事

 15年以上も前の話である。

 京都に下宿して、司法試験をめざしていたS受験生は怒っていた。

 学生街という宿命か、それとも◎ホバの証人の集会所が近くにあったせいか、自宅で勉強している時に、いろんな宗教の勧誘がしょっちゅうやってくるからである。

 奴らは無遠慮にブザーをブーブー鳴らし、住人が根負けしてドアを開けるまで鳴らし続ける。つまり、S受験生の勉強を容赦なく邪魔をするのである。

 そして、S受験生が怒りに燃えてドアを開けると、わざとらしい笑顔を見せつけて様々な勧誘文句を言うのである。

 「悩みはありませんか、楽になれる方法があります。」

「今すぐ司法試験に合格させろ、そしたら最大の悩みは解決じゃ!」(S受験生の心の叫び)

 「貴方の健康を祈らせて下さい、血がキレイになりますよ。」

 「何で病院でやらんのや!」 (S受験生の心の叫び)

 「聖書に興味ありますか」

 「そしたら聞くけど、あんた、司法試験六法に興味あるんかい!」(S受験生の心の叫び)

 とにかく、勉強を中断されては、宗教への勧誘を撃退する日々が続いていた。

 そんなある日、東京から高校の友人がやってきた。彼の話によれば、何でも、××寺とかいうお寺の「幸福御守」がいろんなことに絶大な効果があるという。彼の先輩もその御守りで公認会計士試験に合格したという。宗教勧誘と戦い続け、荒んでいた受験生の心には、その話がいかなる宗教の勧誘よりも魅力的に思えた。

 そんなに効果があるのなら、 買ってみようと思い立ってもS受験生の罪ではあるまい。

 S受験生は、友人と××寺に向かいその幸福御守りを手に入れた(買った)。けったいな事に幸福御守一つにつき、お願い事は一つだけなのだそうだ。しかも願いがかなったらお礼にくるようにとまで書かれていたような記憶がある。また、××寺の境内にはわらじを履かせた、そんなに古そうには見えない地蔵菩薩がまつってあった。説明書きによると、このお地蔵様が、歩いて家までやって来て、幸福を授けてくれるのだそうだ。昔の人は変わったことを思いつくものである。

 まあいいや、とにかく御守りを買ったのだから。気休めくらいにはなるだろう。S受験生は自宅にもどり、いつものように勉強を再開した。

 しかしである。

 その夜遅く、S受験生が勉強しているとまた、下宿のブザーがブーブーと鳴る。

 「こんな遅くにどいつや!」と思って、ドアを開けると、そこにはまた笑顔の人影が。どう見ても、宗教関係者の出で立ちである。

 「宗教の勧誘なら結構です!」と冷たく言い放って、ドアを閉めようとするS受験生の意識に若干の違和感があった。「このままドアを閉じてはいけない」と何かが叫んでいるが、「宗教の勧誘=ドアを閉める」と条件反射的に凝り固まったS受験生の行動は急には止められない。

 ドアは閉まった。

 「しまった!なんて事を!」 慌ててドアを開けたが、もう人影はいなかった。

 笑顔の人影は地蔵菩薩だった。

 それが違和感を感じた原因だった。

 S受験生は、せっかく幸福を届けに来た(かもしれない)、お地蔵様を門前払いしてしまったのである。

 というところで目が覚めた。

 その夢を見てから、合格まで更に何年か要した事は言うまでもない。

法曹人口と訴訟件数

 日弁連の統計表をみると、弁護士数は2008年現在25062人、1996年時点では約15500人程度のようです。

 従来から弁護士数は少ないと、言われ続けてきていましたが、本当にそうだったのでしょうか?

 この点に関して、面白いデータがあります。

 最高裁判所事務総局が1996年時点での、法曹一人あたりの民事第一審訴訟件数(法曹が一年間にどれだけの民事訴訟を担当するか)を比較調査した結果、次の通りだったとのことです。

 フランス31.2件

 イギリス28.3件

 ドイツ18.9件

 アメリカ16.2件

 日本21.4件

 訴訟の手間にもよりますが、法曹一人あたりの民事訴訟の件数だけで見ると、既に1996年時点で日本には諸外国と比べても、民事訴訟を十分担うだけの法曹(弁護士)が既に存在していたことになります。

 単に人数や人口比だけを比較して、弁護士数は少ないと主張するのが、弁護士数を増加させようとする人たちの手法です。しかし、本当に日本の社会で弁護士数が少ないかどうかを判断するためには、実際に弁護士を利用したいと思う人が利用できるだけの弁護士が存在するか否かで判断すべきではないでしょうか。

 そうだとすると、1996年時点で既に、諸外国と比較して、第1審の民事訴訟を十分こなせるだけの弁護士数がいたとも言えるのです。

 その後2008年まで弁護士数は激増しました。約162%の増加です。これまで以上に、弁護士数を増加させて何か良いことが本当にあるのでしょうか。

 かつて痛みに耐えて構造改革といわれたことがありました。みんな必死で痛みに耐えたはずですが、その痛みに見合った結果は出たのでしょうか。今でも、弁護士会でもお偉方は、歯を食いしばってでも司法改革と主張されますが、ここまで歯を食いしばってきた若手にその痛みに見合う何かを与えることができたのでしょうか。

 魅力ある司法、国民が利用しやすい司法が達成できたのでしょうか?