新型インフルエンザ

 新型インフルエンザウイルスに対して、タミフルが有効であることは知られている。しかし、デンマークでタミフルに耐性を持った新型インフルエンザウイルスがついに現れたという報告があったらしい。

 ものの本によると、インフルエンザウイルスは体内の細胞に侵入し、そこで増殖して細胞外に放出され、更に別の細胞に侵入して増殖するという過程をたどって爆発的に増殖するようだ。
 そして、タミフルには体内の細胞に侵入しそこで増殖したインフルエンザウイルスが細胞の外に飛び出す際に必要な酵素を作らせないようにして、増殖したインフルエンザウイルスが細胞の外に飛び出すことを防ぐ働きがあるそうだ(ノイラミニダーゼ阻害薬~したがって、ノイラミニダーゼを用いずに増殖するC型インフルエンザにはタミフルは効かない)。

 誤解を恐れずに簡単に言えば、タミフルにより、インフルエンザウイルスが、他の細胞に増殖するのを抑えているうちに、体内の免疫機能の作用が追いついて、侵入してきたインフルエンザウイルスをやっつけるという、いわば時間稼ぎをやってくれる薬のように考えても良さそうだ。

 しかし、そもそも、病原性のウイルスとは一体どういう目的で出現し、増殖するのだろう。増殖して人間の身体の機能に害を与えるが、ひとつとして人間の身体に役立っているわけではないように思う。とにかく人間の身体の細胞にとりついて増殖し、他人に伝播し更に増殖をする。ウイルスの働きだけを見れば、自己増殖以外の何らかの目的があるとは思いにくい。また、ウイルスが下手に増殖しすぎれば人間が死んでしまって、自らも運命を共にしなければならなくなる危険もある。

 「ウイルスよ、一体、何考えてんねん。」というのが私から見た正直な感想だ。

 と、ここまで考えたところで、地球から見た人間の存在が、人間から見たウイルスにちょっと近いことにふと思い至った。

 人間は子孫を残して増殖しつつある。日本はともかく世界的には爆発的な人口増加といわれている。その過程で人間は地球に穴を穿って地下資源を掘り出し、自然を破壊し、海洋や大気を汚してきた。かといって地球に役に立つことを何か一つでもしてきたかというと、ちょっと思いつかない。

 地球から見れば、「人間よ、一体、何考えてんねん。」といわれても仕方がないような気もする。

 ひょっとして、仮に万一、地球にも自らを守る免疫機能があったとしたら、その免疫機能を使って人間を排除しようとしても不思議ではないだろう。

 案外、地球自身がその免疫機能として、人間という地球にとって有害な存在を排除するために、人に有害な病原性ウイルスを自然界の作用を用いて生み出している可能性があったりするのかもしれない。

 新型インフルエンザは、豚や鳥など自然界に存在する動物に感染しているうちに、人間にも感染する能力を得るとも聞いた。そうだとすれば、人にとっての病原性ウイルス=地球の免疫作用?説もあながち突飛な発想とまでは言い切れないような気もしてくるね。

裁判所の温度

 今日の大阪は最高気温が32℃ほどあったようです。そうはいっても、気温の測定は確か、昔は白色の百葉箱(地上1.2~1.5mに設置された、屋根付き全面鎧戸で風通し良好の箱)で観測されていたはずです。私の通っていた小学校・中学校にも設置されていたと思います。最近あまり見なくなったと思っていたところ、どうも現在は 別の方法で測定されているようです。ただ、やはり日陰で風通しをよくして測定していることには変わりないようです。

 発表される最高気温は、このように日陰且つ風通しのよいところで測定されているため、実際の体感気温とは大きくずれているように思われます。大阪はアスファルト地獄ですから、今日のように32℃が最高気温でも、カンカン照りの日には、地面からの熱気と直射日光でクラッとなるくらい、熱せられる気がします。

 一方この時期、裁判所はお役所ですから、どうも28℃に空調の温度設定をしているようです。ですから、この時期でも、晴天の日の午後1時頃に裁判があって、裁判所に行った際には、外の気温より低いので少しだけ涼しさを感じることができます。しかし汗がすぐ引くことはないので、汗っかきの私はハンカチかタオルが必需品になってしまいます。

 しかし、たまにではありますが、曇りの日で、風が吹いていたりする日の午前中に裁判があったりすると、外は気持ちがいいのに、空調が効いているはずの裁判所の中に入った方がムッと暑く感じる場合もあります。

 今日の午前は、珍しく、裁判所の中の方が暑く感じる日でした。

 確かに地球環境も大事ではありますが、ただでさえ、人生の一大事ともいうべき大変な事件をかかえた方が来られる可能性があるのが裁判所です。心配事をかかえてやってくる人に、せめて涼しさくらい与えられるように、もう少し柔軟に温度調節できないものかと、私は思ってしまうのですが・・・・・。

5教科7科目でも(共通一次)

 共通一次試験というと歳がばれるのですが、私が高校生の頃は共通一次を受験しなければ国公立大学を受験することはできませんでした。

 しかも私が受験していた頃の共通一次試験は、5教科7科目が必須とされていましたので、英語・国語・社会一科目の合計3科目だけで足りる、私立文系大学の受験生が羨ましく思えたこともありました。

 共通一次の5教科7科目とは、

 英語                          200点

 数学Ⅰ                        200点

 国語(現代国語・古文・漢文)           200点

 理科(物理Ⅰ・化学Ⅰ・生物Ⅰ・地学Ⅰなどより2科目選択) 100点×2

 社会(政治経済・倫理社会・日本史・世界史・地理Aなどより2科目) 100点×2

 合計1000点満点

というもので、平均点は600~630点くらいだったと思います。

 私は、理科の科目として物理Ⅰ・地学Ⅰを選択し、社会の科目としては倫理社会・日本史を選択していました。

 理科科目選択の理由は、単純でした。化学Ⅰに関しては、モル・アボガドロ数という概念がよく分からなかったのと、生物Ⅰに関しては遺伝は面白かったものの、TCA回路あたりがよく分からなかったので、消去法的に物理Ⅰと地学Ⅰを選択することになっただけなのです。

 しかし、物理は自然現象を物理法則で説明するということが面白く、非常に興味を持って勉強できました。地学についても星を眺めることが好きだったので結構抵抗がなく取り組めました。ただ、ひとつの問題は、私の通っていた高校では、地学を教えてくれる先生が一人もいなかったということでした。

 仕方なく地学は、予備校の夏期集中講習を受けて、その後、独学で勉強することになりました。地学は、私にとっては非常に面白かったものですから、そんなに苦にもなりませんでした。ですが、模擬試験では学校内で地学選択者が私しかおらず、いつ受験しても、地学に関しては校内順位1位/1人中、校内偏差値50、という時期が続いたように思います。

 遠い受験時代の勉強なので、当時の記憶は殆ど忘却の彼方にかすんではいるのですが、ときおりTVなどで、物理に関係する番組や、地学に関係する番組に接すると、当時の知識が蘇ってきて、結構興味深く見ることができますし、理解も早いように思うのです。普通だとあっさり聞き流して分かったつもりになってしまう番組でも、違って感じられるのです。

  共通一次は、5教科7科目と受験生にとっては結構大変な負担ですし、マークシート方式なので画一的な人間を作ってしまうのではないかという批判もあったようです。しかし、その批判の一方で、若者に敢えて多くの科目を勉強させ、将来にわたって多方面に興味を持つ可能性を残すという、別の効果があったのかもしれません。

 受験地獄、受験生の過重な負担などと、いろいろ言われますが、私はゆとり教育には反対で、若者に可能性を残す意味でも、多少辛くても、若者にはできるだけ幅広く多くのことを勉強させた方がよいように思っています。

最も簡単に懲戒処分を受ける方法

 私が以前勤務していた法律事務所で、ボスだった先生から冗談で、「坂野君、最も簡単に弁護士会の懲戒を受ける方法を知ってるか?」と聞かれたことがあります。

 そのとき私がどう答えたのか忘れましたが、先生の仰る正解は、「会費の滞納」ということでした。

 弁護士は弁護士会費を毎月納める義務があり、その額は馬鹿になりません。大阪では、現在、日弁連会費と合わせると毎月5万円弱の弁護士会費が必要になり、滞納すると懲戒処分を受ける危険があります。

 ただ、病気で仕事のできない方や出産で休業されるなどの方にまで、弁護士会費を納めるよう強く求めることは問題があるので 、申請により会費減額・免除をしてもらえる場合があります。

 大阪弁護士会会則161条の運営準則一、(一)、(1)には、会費の減額・免除が可能な場合(のひとつ)として、こう書かれています。

「会員が疾病その他やむを得ない事情により、弁護士業務の執務不能等となり、会費の支払いをなすことが経済的に困難であると認められるとき。」

 つまり、長年弁護士をやってこられてある程度の資産も形成されたA弁護士が、病気で執務不能となった場合に会費減免を申告すれば、A弁護士は会費減免が認められる可能性が高いことになります。

 一方、苦学して合格し即独された新人弁護士Bさんが、どんなに仕事をしても営業努力しても赤字であり、受験時代にこさえた借金もあり、弁護士会費の捻出が困難であるとします。B弁護士のような方も今後は出てこられる可能性は否定できないでしょう。

 さて、B弁護士さんは上記の規定で、月額5万円弱もの弁護士会費を減免されるのでしょうか。

 運営準則を素直に読めば、会費減免が認められる要件は①疾病その他やむを得ない事情により、②弁護士業務の執務不能等となり、③会費の支払いをなすことが経済的に困難であると認められるとき、の3要件です。

 仮に即独して一生懸命努力しても赤字経営の方の場合、③は明らかに満たすでしょう。①は一生懸命に営業しても仕事がないのであれば、それは即独弁護士Bさんのせいではないので、「やむを得ない事情」に読み込むことは不可能ではないかもしれません。

 最もクリアーしにくいのは②の要件です。①を受けてやむを得ない事情により弁護士業務の執務不能等にならなくてはなりません。執務不能ではなく、執務不能等ですから、ちょっと無理かもしれませんが、仕事不足も仕事をしたくてもできないという面で執務不能と同じだからと理屈をこねて、執務不能等に読み込んでしまえば、条件クリアーとなる可能性は(極めて低いですが)ゼロではないかもしれません。しかし、おそらくそこまでは解釈を拡大することは困難でしょう。

 確かにA弁護士は弁護士としての業務ができない状態ですから弁護士としての活動はほとんどないでしょうし、弁護士会も利用しないでしょう。これに対して、B弁護士は、弁護士としての活動を一生懸命していますから、弁護士会費を払うべきだという考えにも一理あるでしょう。

 しかし、現実の問題として、A・Bのいずれの弁護士が弁護士会費免除を受けるに相応しいかというと、素朴な疑問が生じます。A弁護士は長年弁護士資格を用いて資産形成もできており、(病気は心配ではありますが)今後の生活はそう不安はありません。一方、B弁護士の方が今まさに現実の生活において明らかに困窮しているからです。

 私は個人的には、若手会員の会費減免という、その場しのぎの策では事態の根本的解決にならないという意味で、若手の会費減免には反対です。

 しかし、私の個人的意見とは別に、上記のとおり、純粋にどちらが困っているかという観点からA・Bを見たときに、免除すべきなのはB弁護士の会費なのかもしれない、という素朴な疑問が生じてしまいます。

 その疑問が生じる理由は、会費減免規定が、弁護士は食うに困ることはないという前提で作成されているからではないかと考えられます。「弁護士稼業を一生懸命にやっていれば生活に困ることはないだろう。だから、弁護士稼業を行っている以上弁護士会費を払うべきである。」という考えがこれまでの弁護士達の根底にあるのではないでしょうか。

 また、弁護士会費が増大の一途をたどり、月額5万円弱までふくらんでしまったのも、「弁護士会の費用が不足するならば、会費を値上げすればいい。弁護士が食うに困ることはないはずだから。」という考えが根底にあったような気がしてなりません。強制加入団体でこれほどまで高額の費用を徴収する団体はおそらく他にはないでしょう。

 もし、私の考えが当たっているとするならば、弁護士をさらに増員し、もっと競争を激化させようとされる先生方は、会費大幅削減・会費徴収に関する手当も提案していく必要があるように思うのです。どうも弁護士の潜在的需要はある、今までの増員ペースで問題がないと仰る方は、何故か時代(状況)の変化を、ある意味で無視し続けているような気がするのです。

 早く気付いて下さい。「自分は裸の王様かもしれない。」、と。

ニューズウイーク日本版 6.24

 ニューズウイーク日本語版6.24号の、「新資本主義宣言~モラルある強欲こそ」という記事を読んだ。

 ニューズウイーク国際版編集長ファリード・ザカリア氏が書いた記事であり、アメリカ発の今回の世界経済危機の本質を問い、法的に許されることであっても道徳的とは限らない、規制強化や制度改革も必要だが最も大切なのは個人の倫理観を取り戻すことだ、と述べる。

 この記事の中に、気になる記載があった。

「この10年、世界で起こったことの大半は合法的なものだった。(中略)だが、責任を持って誠実に気高く行動したものは殆どいなかった。どうでも良いことに聞こえるかもしれないがそうではない。資本主義であれ社会主義であれ、どんな体制もその核に倫理や価値観がなければ機能しない。常識や正しい判断、倫理規範がなければどんな改革も不十分となってしまう。」
「アメリカ社会で起きている大きな変化の一つは、自主規制をする同業者組合のようなシステムが消えつつあることだ。かつて弁護士と医者、会計士は自らを公的責任を伴う民間プロフェッショナルとみなしていた。自分の事務所のためだけでなく、社会全体にとって善か否かを考えながら責任感を持って行動していた。弁護士は、時間を浪費する訴訟ややみくもな買収を考え直すよう依頼人に助言することさえあった。今や弁護士だけではなく、あらゆる専門家が変わってしまった。」

 つまり、ザカリア氏の書き方によれば、アメリカにおいては、社会全体にとって善かどうかという観点で責任感を持って行動する専門家はもはやおらず、(おそらく)弁護士が最も先陣を切って無責任な専門家へと変貌を遂げた、と読むことができる。

アメリカでのお話
(A弁護士のオフィスで)

依頼者「A弁護士さんでいらっしゃいますか?」

A弁護士「はいそうです。」

依頼者「料金はおいくらですか?」

A弁護士「簡単な質問3つで100ドルです。」

依頼者「それって高くはないですか?」

A弁護士「ちょっとは高いかもしれないね。・・・それでは100ドルになります。」

 このように冗談で揶揄されるほど、アメリカの弁護士は法律をビジネスの道具にすることに長けているようだし、そうでないと、厳しい競争下では生き残っていけないのだろう。弁護士だって、職業だし仕事をすることによって生計を立てなければならないからである。先だってブログにも書いたが、弁護士の需要は拡大していないにもかかわらず、弁護士の人口は爆発的に増加しつつある。早晩、食うにも困る弁護士があふれかえるだろう。その日は遠くない。そうなった場合、食うにも困る弁護士に、社会にとって何が善か考えて行動しろと言っても無理だろう。とにかく稼がないと明日の生活にも困るのだし、稼ぐためには法律問題を解決するしかないのだから、本来争うべきではない事件でも法律問題として争いにする他なくなってくる。

 そのように生存競争を弁護士に強いて、無責任な専門家を大量生産することが、本当に日本にとって良いことなのか。

 アメリカが訴訟社会だから大量の弁護士を必要としたのではなく、大量の弁護士の食い扶持を賄うためアメリカが訴訟社会に変わってしまった可能性は否定できまい。

 国民は無責任な専門家である弁護士を大量に求めているのか、それとも社会にとって善かどうかという観点で責任感を持って行動する需要に応じた数の弁護士を求めているのか、需要を無視して弁護士を増やせば無責任な弁護士が必然的に増加するという事実を念頭に置いたうえで、本当に求められている弁護士像を改めて問い直す必要があるのではないだろうか。

天空の鏡 ~ボリビア・ウユニ塩原~

 昨日の深夜、NHKのワンダーワンダーという番組の再放送で見ました。

 題名は「アンデス・天空の鏡」というもので、ボリビアのウユニ塩原で撮影された、地面が一面鏡のようになっている風景の映像が映し出されていました。

 その光景には、私は、見覚えがありました。

 何年も前に、どこかの写真で一度見た光景で、そのときは、一体どうやって撮った写真なのだろうと、ずっと心に引っかかっていた光景でした。あまりの光景に驚いて、撮影場所などをチェックするのを忘れてしまっていました。その後、何年間もその光景を写した映像や写真を見ることがなかったので、ひょっとしたらあの写真は合成写真だったのかと自分を納得させていたようにも思います。

 番組内の解説によると、ウユニ塩原は、四国の半分くらいの大きさでありながら、高低差わずか50㎝なので、雨が降ると水深1㎝くらいでほぼ均等に水が広がるのだそうです。また、水深も僅かなので水面には、ほとんど波も立たず、塩原一帯がまるで天を写すために作られた巨大な鏡のようになるということでした。

 その巨大な天空を映す鏡に空や星が映るのです。まるで全てが重力から解き放たれたかのような圧倒的な光景が画面に映し出されました。

 「世界は本当に素晴らしい」と実感させるに十分なものでした。

 ちょっと夜更かしになりますが、NHKの別番組でも紹介されるようなので、是非ご覧になることをお薦めします。

ハイビジョン特集 アンデス 天空の鏡 ~ボリビア ウユニ塩原~
BShi 6月21日(日) 午後10:00~11:30

日経新聞スポーツ欄コラム

 今、私が取っている新聞は、日本経済新聞である。当然、経済の記事が多く、テレビ欄も裏表紙ではない。テレビ欄については一般紙のように裏表紙のほうが便利だと思うが、日経新聞は頑なにテレビ欄を裏表紙にしない。

 日経新聞は名前通り経済に関する新聞であるため、スポーツ欄も小さめである。しかし、その小さなスポーツ欄の中に、往年の名選手のコラム欄があり、私は密かに楽しみにしていたりする。

 特に気に入っているのが、野球の豊田泰光さんとゴルフの杉原輝雄さんの文章だ。お二人とも、文章から豊富な経験に基づいた深い人間洞察が伺えたりして、非常に参考になる。

 今日のコラムは、豊田泰光さんの文章だった。

 題名は「9回2死に現れる人間性」。

 豊田さんはこう書いている。

 9回2死で回ってくる打席は一種の極限状況であり、様々な人間模様が現れる。そして、いい打者ほど見栄や外聞と無縁で、死に物狂いになれるのだという。

 敗戦は27個のアウトの積み重ねであり、27個目の最後のアウトも、それまでの26個のアウトと等分の罪しかないという思考では決して土壇場の力は生まれないそうだ。

 ・・・今年は、昨年にも増して、司法修習生の就職が困難を極めているという情報が流れている。弁護士会・弁護士全体にとって、それこそ極限状況が迫っている、土壇場の力を発揮しなければならない状況とも言えるだろう。

 この場合、最も先頭に立って行動すべき日弁連執行部、各弁護士会執行部は果たして、見栄や外聞と無縁で死に物狂いになれているのだろうか。憂慮すべき現状を引き起こしたのは、これまでの執行部の路線であり、その路線を継続して何が悪いという、26個目のアウトも27個目のアウトも同じ罪だという意識に陥っていないだろうか。

 豊田さんによれば、この土壇場での態度で、優れた執行部か否か、明らかにされるはずなのだ・・・・・・・・・。

「自由と正義」~幻の記事

 「自由と正義」、一般には知られていないが弁護士なら誰でも知っている雑誌である。毎月日弁連が発行し、弁護士全員に配布している雑誌であり、ベテラン弁護士の雑感や新しい法律の紹介、弁護士の懲戒事例までさまざまな記事が毎月掲載されている。

 「自由」と「正義」、いずれも弁護士が守るべき対象として必須とも言えるかもしれず、この雑誌を命名した人は、「弁護士会の雑誌の名前としては、これしかない」と思って名付けたことが想像される。

 名前からすれば、自由と正義に満ちあふれた雑誌ではないかと思っても不思議ではない。

 ・・・・・ところが、である。

 先日、弁護士武本夕香子先生の同期同クラスつながりで、愛媛県弁護士会で昨年副会長を務められた弁護士山口直樹先生と武本先生を交えてお話しする機会があった。

 山口先生は、愛媛県弁護士会・四国弁連等で、法曹人口問題について活躍されていた先生であり、お会いしてみると温厚でありながら、非常に気さくで楽しい先生であった。もちろん楽しいお話の中にも、弁護士としての凄味を時折感じさせる鋭い方でもあった。

 その山口先生とお話ししている際に、こんな話題が出た。

(前略)

 <山口先生>  

 法曹人口問題について、愛媛県弁護士会から書かせてあげるということで、「自由と正義」に記事を書いたんですが、ちょっと過激な内容だったせいか、某所から『掲載すべきではない』という意見がでて、掲載できなかったことがあるんです。

 <坂野>

 えっ、そんなことあるんですか?あっていいんですか?

 弁護士が思ったことを素直に載せられないなら、「自由と正義」の名が泣きますね。「不自由と不正義」なんじゃないですか?

 <山口先生>

 (苦笑) いや~、本当のことですよ。まるで検閲だよね。 

(後略)

 ということで、某所から検閲を受け、「自由と正義」に掲載差止めになった、山口先生の幻の記事を、先生のご了承を受けて以下に公開させて頂く。

 (以下、誰かに検閲されてボツにされた幻の記事)

弁護士人口問題における愛媛での取り組み

1 この原稿については、愛媛弁護士会執行部の打合せにおいて、「弁護士人口問題についての取り組みを山口さんが書いたらどうか」と言われ、「私が書いたら、日弁連等に対する悪口ばかりになりますよ」と言ったところ、「構わん」と言ってもらったことから、私の独断と偏見かつ単なる自己満足により執筆することになった。

2 愛媛のような地方においても昨今の弁護士増加は著しく、平成20年以降、新人弁護士の受入事務所が不足することが確実であり、既に絶望的状況である。このような状況の中、当会は、平成19年11月の四国弁連大会の決議として、弁護士人口問題を取上げてもらうよう常議員会で決定された。しかしながら、四国弁連理事会において、「時期尚早」を理由に提案を取り下げるよう求められた。四国弁連理事会において当会の常議員会で決まったことの取下を求めるとは納得できず、当会常議員の持ち回り決議の結果、四国弁連大会で取上げてもらうよう四国弁連理事会に再度はかった。しかしながら、四国弁連理事会での多数決の結果、否決された。また、四国弁連の規約では、議案提出権は理事会のみにあるようで、もし、会員から提案があったとしても認めないとのことであった。四国弁連理事者の状況判断能力の乏しさと議論することさえ拒否することに失望した。なお、四国弁連理事会では、その代わりに、大会の後に日弁連執行部との意見交換の時間を取ることにしたとのことであった。私は、日弁連執行部との意見交換など望んでいないので大会に行くのをやめようと思っていたが、当会の他の副会長から、「せっかくの機会だからきちんと出席して意見を述べよう」と言われて考え直し、当該副会長と二人で事前質問書を提出した。

3 四国弁連大会では、最後の30分間に意見交換が行われた。私と当該副会長は、「日弁連執行部が言っている司法過疎の解消とは、誰が、いつ、どのような状況で判断するのか。司法過疎は司法に限ったことではなく経済的合理性の問題ではないのか」等の具体的質問を行ったが、日弁連は、「3000人は決まったことだから仕方がない」というだけの内容を延々20分も使って話をした。私は、日弁連の全く誠意のない、木で鼻をくくったような回答に感情的になってしまい、「そんな話を聞きにわざわざ徳島まで来たわけではない。詭弁はやめて欲しい」と言ってしまった。

4 その後、当会では、時機を逸した感はあるが、平成19年10月に愛媛弁護士会弁護士人口のワーキンググループを立上げ、アンケート、意見交換を行い、平成20年8月の当会総会で決議を挙げるよう活動を始めた。

5 私個人の感想であるが、極めて杜撰かつ甘い需要予測、現実を直視せず失敗しても誰も責任を取らない無責任体質、どれを取っても日弁連は典型的な役所そのものだ。そして、よくここまでめちゃくちゃにしてくれたものだとつくづく思う。若手弁護士の10年後、20年後より、自らの体面、面子がそれほど重要なことなのか。私如きが偉そうに言えたことではないが、最悪の事態を想定し、そうならないよう事前に対策を立てておくのが弁護士の仕事ではないのか。「司法過疎の解消が重要だ」と言うのであれば、なぜ、会長、副会長の任期を終わられた方が率先して自ら過疎地域に赴くなり、支店を出したりしないのか。嫌なことを下に押し付けるという考えをいいかげんやめたらどうか。最後に一言言いたい。「恥を知れ」

愛媛弁護士会副会長 山口直樹

(幻の記事ここまで)

 ちなみに、幻の記事の掲載予定先は、

「(不)自由と(不)正義」平成20年6月号だったそうである。

矛盾

 現在裁判が行われている、土浦8人殺傷事件において、報道によると被告人は、「死ぬための手段としての殺人である」と述べ、被害者への思いについて問われると、「ライオンはシマウマを食べるとき、シマウマに何か感じるでしょうか」等と答えたという。

 私は、あまり詳しい事情は知らないし、報道が全てを正しく伝えているとは限らないが、確か前回の公判では、どうも、被告人は、「自分は才能はなく、つまらない毎日を過ごしている。どこにも生きている意味はない」と将来を悲観。「自分の人生を終わらせよう」と死を決意し、「確実に死ぬために、できるだけ多くの人を殺して死刑になろう」と動機を語っている、などと報道されていたはずである。

 「自らが生きる意味」を否定しているのであれば、自殺など直接的に自らの存在を否定する行動を取って然るべきなのに、被告人の攻撃は、自分より弱い他者に向けられている。

  表面上、被告人は自らの価値を否定してはいるが、自分が死刑になりたいがために他者を攻撃するという行動は、自分の価値を完全に否定する前に、他者の価値を否定することだ。言い換えれば他者を抹殺することで自分の存在を確認しているという極めてエゴイスティックな考えだ。「自分には価値がない」という思いと「だから他人にも価値がない(自分の目的のために殺しても良い)」という考えは決してイコールでは結ばれない。

 そこには歪んだ自己防衛、他者よりも自分が優位であるはずだという思いが隠れているように思われる(自らをライオンに例えるところからもその思いは透けて見える)。

 おそらく彼自身だけの問題ではなく、様々な問題が絡み合ってこのような悲惨な結果が生じてしまったのであろうが、彼の思考は決して許されるべき考えではない。

 もし、この事件が少年事件であり、少年との面会の際に少年から「ライオンはシマウマを食べるとき、シマウマに何か感じるでしょうか」と問われたなら、私はこう問い返したかもしれない。

 「自ら生きることに絶望して死を決意したライオンが、シマウマを食べるかい。」

日本刑法学会~中森先生のこと

 日弁連総会の翌日、明治大学で開催された日本刑法学会にも参加してきました。

 以前にも書いたと思うのですが、刑法学会に参加する楽しみの一つに、大学時代の恩師にご挨拶できることがあげられます。

 私の京都大学法学部時代の恩師(と私が勝手に思っている先生)は、中森喜彦先生(京都大学名誉教授、近畿大学法科大学院教授)、吉岡一男先生(京都大学名誉教授)のお二方です。中森先生には刑法を、吉岡先生には刑事学を教わりました。

 今回の刑法学会では、中森先生とお会いすることができました(吉岡先生はご出席されていなかったようです)。

 中森先生は、初代の京都大学法科大学院院長を務められた上に、現在近畿大学法科大学院で教鞭を執っておられるばかりではなく、法科大学院協会副理事長も勤めておられるものですから、法科大学院廃止論の私とは、法曹養成の面では意見が食い違います。

ですから、会話の途中で、法科大学院が話題に出ると、「そうや、お前はロースクールの敵なんや。変なことを書いたり、言ったりするんじゃない!」と冗談めかして仰ることもあります。

 今回は、総会前に先生にお会いしたので、先生の横の席に座らせて頂くことができました。すぐ後ろには、早稲田の曽根先生もいらっしゃって、日本刑法学会の中心を担っておられるビッグネーム、お二人の近くに座れるという幸運に恵まれました。

 中森先生も曽根先生も出入り口近くに座っておられたので、若手の研究者の方が遠慮してなんだか入りにくそうにしている様子でした。今思うと、私は中森先生の虎の威を借りて、無意識のうちに少しばかりふんぞり返って座っていたかもしれません。

 もっとも中森先生は、若手の研究者の方に気を遣われたのか、「なんだか番人してるみたいやな。」と小声で私に仰っていました。

 日本の刑法学会の重鎮でいらっしゃいながら、私のように出来の悪かった20年前のゼミ生といまだに、気さくにお話しして下さる中森先生は、(時々はきついお言葉も混じりますが)とても優しい先生です。

 同期のゼミ生も、多くの者が先生のことを慕っています。本当に良き先生に恵まれたと、中森先生にお会いするたびに思う次第です。