喫煙疑惑で代表権を奪うべきではない

 パリオリンピック代表の体操女子、宮田選手の喫煙疑惑が報じられ、宮田選手に対して日本体操協会が調査に入ったとの報道がなされている。

 細かい事情が不明なので、あくまで現時点で得た情報に基づく私個人の見解なのだが、仮に万一喫煙の事実があったとしても、宮田選手の代表権を奪うべきではないと考えている。

 まず、20歳未満の者に喫煙を禁じている法律は、次のように定められている。

明治三十三年法律第三十三号
二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律
第一条 二十歳未満ノ者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス
第二条 前条ニ違反シタル者アルトキハ行政ノ処分ヲ以テ喫煙ノ為ニ所持スル煙草及器具ヲ没収ス
第三条 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者情ヲ知リテ其ノ喫煙ヲ制止セサルトキハ科料ニ処ス
② 親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル者亦前項ニ依リテ処断ス
第四条 煙草又ハ器具ヲ販売スル者ハ二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ防止ニ資スル為年齢ノ確認其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス
第五条 二十歳未満ノ者ニ其ノ自用ニ供スルモノナルコトヲ知リテ煙草又ハ器具ヲ販売シタル者ハ五十万円以下ノ罰金ニ処ス
第六条 法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人、使用人其ノ他ノ従業者ガ其ノ法人又ハ人ノ業務ニ関シ前条ノ違反行為ヲ為シタルトキハ行為者ヲ罰スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シ同条ノ刑ヲ科ス

 カタカナで分かりにくいが、大まかに言えば、

第1条で、20歳未満の者に対して喫煙を禁止し、
第2条で、20歳未満の者が喫煙をした場合、タバコや器具を、行政処分で没収する、
第3条で、親権者や親権者に代わって未成年者を監督する者が喫煙を止めなかった場合は科料に処する、
第4条で、タバコや器具の販売業者は20歳未満の者が喫煙しないように年齢確認などの措置を採ること、
第5条で、20歳未満の者が自分で使用することを知って、タバコや器具を販売した者は50万円以下の罰金に処する、
第6条で、第5条違反の行為について両罰規定を定める、

ということである。

 注目すべきは、実際に喫煙した20歳未満の者に対しては、行政処分でタバコ等は没収されるものの、喫煙行為に対して何ら刑事処罰が定められていないことだ。
 つまり法律は、20歳未満の者が喫煙をしてもその喫煙行為自体を刑事的処罰の対象にしていないのである。
 20歳未満での喫煙は、法律違反ではあるものの、処罰するまでには至らないというのが立法者の考えだと読むのが素直だ。

 これに対し、科料・罰金は、刑法で定められた刑であり(刑法9条)、刑が科される行為を犯罪だとすれば、親権者や監督者が未成年者の喫煙を止めない行為や、販売業者が20歳未満の者が自分で使用することを知ってタバコや器具を販売する行為は、れっきとした犯罪と評価されるのだ。
 なお、没収は刑法9条で付加刑とされているが、この法律の第2条は行政処分で没収すると定められているので、刑法上の刑ではない。

 確かに日本代表に選出された選手は、子供たちの憧れとして品行方正であることが求められるのかもしれないが、果たして法律が処罰すべきではないとしている行為を行ってしまった場合にまで、努力に努力を重ねて勝ち取った代表権を奪うことを正当化できるのだろうか。

 インターネット上の情報で、『為末大氏が、「問題だったとは思いますが、代表権を奪うほどではないと思います」との私見をつづり「どうか冷静な判断をお願いします」と体操協会へ呼びかけた。』との報道があったが、私も為末氏と同意見である。

裁判は事実を明らかにするとは限らない

 今回の都知事選の結果、石丸伸二候補の得票数の多さに驚いたのか、メディアでは石丸バッシングが開始されているように、私には見える。

 その中には、市長時代の裁判でも負けているのに、とか、裁判で負けても最高裁まで争っている、等という批判も見受けられるようだ。

 上記のような批判をする方は、裁判は事実を明らかにしているはずだ、それに反する主張を石丸氏が続けて、最高裁まで争うのは問題がある、という前提に立っているのではないか、と私には感じられる部分がある。

 しかし、裁判は事実を明らかにするとは限らないのである。

 例えば、民事裁判において、
 原告が「事実はAだ。だから被告は損害賠償すべきだ。」と主張して訴えを起こし、
 訴えられた被告が「事実はAではなくBだ。だから損害賠償する必要がない。」と反論した場合を例にして、極めて簡単に考えて見る。

 この場合、裁判官が事実を映し出す魔法の鏡でも持っているなら話は簡単だ。
 魔法の鏡を見れば、事実がAだったのか、Bだったのかがはっきりするので、そのはっきりとした過去の事実に対して法律を適用して判決すれば足りるからだ。

 しかし、現実には、そんな魔法の鏡は存在しないし、時間を巻き戻して観察することもできない。
 もちろん、裁判官がなんの根拠もなく適当に、良く分かりませんが事実はこっちにしましょう、と勝手に判断されたら当事者としては、たまったものではない。

 そこで、原告に対しては「原告が事実をAだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」、被告に対しては「被告が事実をBだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」として、それぞれ証拠を出させて判断するしかないのである。

 仮に、原告がa b c d、被告がe f g hの証拠を提出した場合には、裁判所としては、それらの証拠のなかで信頼出来ると思われる証拠を選別し、信頼出来る証拠からみれば、「原告と被告との争いに関しては、こういう事実があった」と判断するのである。

 より簡単に言えば、「信頼出来る証拠をレゴのブロックのように考えて、そのブロックを組み合わせて、どういう事実があったのかを判断(構築)する」のだ。

 つまり、(本当の事実は分からないのだが)提出された証拠等から、「この裁判では、こういう事実があったことにする」、と判断し(この結果を「認定事実」という。)、この認定事実に法律を適用して結論(判決)を出すのである。

 だから、何らかの事情で事実がBであることを証明する証拠が不足し、事実がAであったような証拠の方が多い場合は、本当の事実がBであっても、裁判所はAという事実があったものと認定して、それを前提に判決してしまう場合も当然ありうるのだ。

 そしてこれが、人間が行う裁判の限界なのである。

 裁判に負けたから、虚偽の事実を主張していたとは限らないのである。

GW休暇

 このGWに、久しぶりに休暇を頂いて、北海道を車で走ってきた。

 名古屋から仙台経由で苫小牧までフェリーで移動。

 北海道内は、旭岳温泉、丸瀬布温泉、知床、十勝岳温泉、白老温泉など、温泉宿ばかりめぐった。

 学生時代、大型バイクで何度か北海道を走りに出かけたことはあり、その頃はユースホステルや、「とほ宿」を中心に宿泊していた事を想い出した。北海道には桃岩荘(礼文島)・岩尾別ユース(知床)・襟裳岬ユース(襟裳岬)と3大キチガ○ユースがあるといわれていた時代だ。今は、この3つの内、桃岩荘しか残っていないようだ。

 若い頃は、温泉なんて見向きもしなかったが、今では温泉にゆっくり浸かり、身体を休めることができるのは、有り難いものだとしみじみ感じる。大体一日に200キロ以上走ったが、4日目くらいには、自動車なのに少しくたびれた気がしたものだ。

 バイクで一日300キロ以上、10日くらい走っても、どうってこと無かった学生時代に比べれば、なかなか自覚できていないが、やはりそれだけ、歳をとってしまったということなのだろう。

 バイクで全身に風を受けながら走り回る爽快さも捨てがたいが、多分、いま、バイクでツーリングに出かければ、爽快さよりも、疲労困憊してしまうリスクの方が高いように感じる。

 オープンカーとはいえ、バイクに比べれば、爽快さと開放感は1/5くらいだろうか。それでも、屋根付きの車に比べれば、外気の温度や鳥の鳴き声など、外界の変化を感じながら走れたのは楽しかった。

大雪山系を望む一本道

日弁連の感覚はズレまくっている?!

 日弁連委員会ニュースによれば、日弁連が近年の法曹(裁判官・検察官・弁護士)志願者の減少対策として、(法曹の)魅力発信PT(プロジェクトチーム)を設置し、積極的に活動しているとのことだ。

 最近の司法試験受験者数は、概ね5000人未満であり、私が受験していた頃の受験者数約3万人に比べると約80%も減少している。
 日弁連は、この法曹志願者減少の原因を法曹の魅力が伝わっていないと考え、様々な対応を行っているとのことだが、そんなことで法曹志願者が増えるなどあり得ないと、私は思っている。

 私が受験していた頃は、法曹の魅力なんて誰も、学生なんかに伝えてくれなかった。


 だが、当時の司法試験は、誰でも何回でも受験でき、司法試験に合格すれば、人生の一発逆転をもたらす切符と見る向きもあり、一部では人生のプラチナチケットと呼ばれており、10年以上司法浪人してでも合格を目指す人もいた。


 旧司法試験では合格率2%前後の極めて狭き門(最近の司法試験は合格率は40%を超えている。)であったが、法曹の魅力なんか宣伝されなくても、年々受験者は増加していたのである。

 それは、司法試験に合格して得られる、法曹資格の価値が高く、資格に魅力があったからだ。

 現在の司法試験は、前述したとおり合格率で言うと、20倍以上合格しやすくなっている。同じ資格を20倍以上合格しやすい試験で手に入れられるなら、受験者が増えそうなものだが、むしろ受験者は減っている。

 その理由としては、原則として法科大学院を卒業しなければ受験できないという、大学側の利権に阿った制度改悪も大きな原因の一つだが、それよりも、端的に言えば、法曹資格濫発により、資格の価値が下がったから目指す人が少なくなったと考えるのが最も合理的である。

 現実を見てみると、司法制度改革により弁護士の数は激増したが、裁判所に持ち込まれる事件の数(全裁判所の新受全事件数)は増えていない。
 全裁判所の新受全事件数は、約35年前の平成元年に約440万件であったが、令和4年には約337万件に減少している。
 この間に弁護士数は約14000人から約43000人へと3倍以上に増えている。

 わかりやすく言えば、年々減っていくパイを、年々増える(激増する)競争者達と奪い合う業界構図なのである。

 このように、仕事は増えていないのに競争相手は3倍になった(資格濫発した)ことから、弁護士も「資格で食える」資格から、「食える保証がない」資格に格落ちしたのである(月刊プレジデントだったと思うが、ずいぶん前から弁護士資格をブラック資格と正しく評価していた記憶がある。)。
 しかも、誰でも何回でも受けられた旧司法試験と違い、いまの司法試験を受験するためには原則として法科大学院を卒業しなくてはならず、費用も時間もかかってしまう。

 弁護士といえども仕事であり、職業である。自らの仕事で収入を得て、生活を支え、家族を養っていく必要がある。いくら仕事にやりがいがあっても、その仕事で食っていけないのなら(食っていけないリスクが増大しているのなら)、その仕事を目指す人間は確実に減っていく。

 終身雇用が原則だった高度経済成長時代よりも、将来の見通しが難しく未来が不安視される昨今、今後の長い人生を生きていかねばならない若者達にとって、ほぼ確実に食える可能性が高い資格に人気が集中することは明らかだ。

 現在の医学部人気を見ても明らかだろう。
 医師の仕事のやりがいが特に宣伝されているわけでもないのに、現在の医学部人気は凄まじく、医師になる道はどんどん狭く(競争率が高く)なっている。しかし、それでも医学部人気は衰える兆しが一向に見えない。

 少なくとも現時点で、資格で食っていける可能性が一番高い資格は、医師免許資格であることはおそらく異論がないだろう。このように、現時点では医師資格の価値が高いからこそ、苦労してでも手に入れる値打ちがあるし、だからこそ厳しい道でも多くの若い人材がその資格を目指しているのだろう。

 仕事が生計の手段でもある以上、仕事のやりがいだけで将来の仕事を選ぶことは、滅多にない(できない)。

 だから、日弁連がやろうとしているように、いまさら法曹の仕事の魅力を伝えたところで、法曹志願者が激増するなんてことはあり得ないだろう。

 むしろ、日弁連の宣伝に乗っかって、現実の収入面も考えずに、やりがいのある仕事だからと安易に志願する人たちが、どんどん法曹になっていく世界の方が恐ろしい気がする。

 以上から、私から端的に言わせれば、法曹志願者を増やす最も単純で効果的な手段は、資格の価値を上げることに尽きる。
 しかし、法科大学院制度維持のために、司法試験合格者を減らすことができず、ここまで資格を濫発してしまった以上、もはや法曹資格の価値を上げることは不可能に近いだろう。

 日弁連執行部は、現実をしっかり見て、法曹志願者を増やすために法曹の魅力を発信するなどという馬鹿らしいことに、我々の会費を突っ込むことは、もう止めてもらいたい。
 どうしてもやってみたければ、法曹の魅力を発信すれば法曹志願者が増加すると信じ込んでいる脳天気な人たちで基金を募ってやってもらいたい。

夜の駅(おそらくボーツェンだと思うけど記憶がはっきりしません・・・)

準備書面に認否はいらない?!

 数年前、登録4~5年目くらいの、ある若手弁護士が原告側、私が被告側で訴訟で戦うことになった際の話である。

 その、若手弁護士さんがこちらの準備書面の主張に対して、何ら認否せずに、自分の主張したいことだけ、反論したい部分だけを反論するという書面ばかり出してくることがあった。

 ちょっと話がそれるが、その若手弁護士さんの準備書面は、法的な主張や、証拠に基づいた主張をほとんどしないくせに、原告・被告間の個人的な問題などを執拗に攻撃し、こちらの準備書面のごく一部分だけを取り上げて、「被告の主張は失当である」と連呼する書面でもあり、読むのがストレスになる書面だった。
 ちなみに、訴状でも、法定果実であるにも関わらず日割り計算をせずに請求してきていた箇所があったので、第1回期日で、私から、「これは法定果実だから日割り計算に訂正して下さい」とお願いしたところ、黙り込んでしまい、「後で確認してから書面で出します」といって、3ヶ月後くらいの次々回期日でようやく訂正してくる始末だった。

 まさか大学2年生でも知っている、天然果実と法定果実の取得規定を知らなかったとまでは思いたくないが、それはさておき、こちらの準備書面に対して、認否もせずに、自分の主張したいことだけ、反論したい部分だけ記載し、裏付け証拠もほぼ皆無の準備書面ばかり出されても、双方の対立点、真の争点も明確にならず、訴訟が前に進まない。

 ただでさえ、原告側は請求側だから、訴訟を早く進行させたい側であることが多いだろうに、原告代理人がそのような行動を取る意味が、私には全く理解できなかった。

 期日において、口頭で認否するよう促しても一向にその若手弁護士は改めないので、止むをえず、私は準備書面で、「原告は、被告の主張・立証に対して、きちんと認否した上で反論されたい。」と明記して出した。

 すると、その弁護士は、次の準備書面で、このように記載してきたのである。

「認否は答弁書に対してだけすればよいのであって、準備書面に対しては、認否する必要はない。」
 

 裁判所に提出する準備書面で、ここまで自信たっぷりに「準備書面に対して認否をする必要がない。」と記載されたので、逆に、私の方が、「私が間違っているのか?!」、「いまの司法研修所教育はそうなっているのか?!」と、わずかな不安を感じてしまうくらいだった。

 念のため書いておくが、司法研修所編7訂版「民事弁護の手引」には、準備書面の要素の欄には、民訴規則を引用するなどして
 準備書面の要素として
 ① 攻撃又は防御の方法の記載
 ② 相手方の請求及び攻撃又は防御の方法(161条2項1号)に対する陳述
 ③ 証拠の引用、証拠抗弁、証拠弁論、引用文書
 があげられており、

「攻撃または防御の方法に対する陳述とは、相手方の主張する個々の攻撃又は防御の方法、すなわち、請求を理由づける事実、抗弁、再抗弁、等として主張された事実に対する認否の陳述をいう」

 と明記されている。
 
 

 別に私は(勝訴的和解もできたし)、この弁護士を非難したいわけではない。

 先だって、内田貴東大名誉教授が、「弁護士資格を持つことは(中略)競争する資格を得たにすぎないんだという発想の転換もしなければいけないでしょう。」と弁護士ドットコムのインタビューで述べていたことに反論したいのだ。

 おそらく、内田氏の述べる「競争する」ということは、競争することにより、良い弁護士が生き残るという理想的な競争状態を念頭に置いているものと思われる。
「悪貨は良貨を駆逐する」競争状態では、司法は衰退するばかりだろうから、さすがに民法で名をなした東大名誉教授であれば、そのような競争状態が良いとは主張しないだろうと推測するからである。

 仮に内田氏が念頭に置いているような理想的な競争状態が、弁護士業界において可能ならば、私の戦った若手弁護士さんは、民法の基礎的条文、民事訴訟の基礎すら把握できていないのだから、当然淘汰の対象にされていなければならないはずであろう。
 しかし現実にはそうはなっていない。

 以前から、「弁護士も競争しろ」とマスコミも学者も主張するが、弁護士業界において、良い仕事をする弁護士が必ず生き残るという理想的な競争状態は、私に言わせればあり得ない。

 理由は簡単だ。

 依頼者(顧客)に、弁護士の仕事の質が判断できる能力がほとんど無いからである。香水のコンクールで、審査員が嗅覚が効かない人ばかりだとしたら、本当に優れた香水が優勝するとは限らないのと同じである。


 依頼者(原告)からすれば、何ら法的主張を具体的にしておらず、訴訟では実質的に意味のない書面であっても、被告をなじる内容が記載されていれば、被告に対する不満が裁判所に伝えられたと感じて、良い仕事をしてくれる弁護士だと判断してしまう場合も往々にしてあるのだ。
 
 確かに内田氏や大企業であれば、弁護士の良し悪しも判断可能であろう。
 しかし、大多数の国民は、内田氏のような弁護士の能力を判断する術を持たないのである。

 その状況下で、どんどん資格を与えて競争しろとは、あまりにも現実無視の無責任な発言としか思えない。

 

 それなら、医師についても同様に言ってみたらどうだ。

 医師も資格に甘えるな。
 医師資格は競争する資格を得たに過ぎない。
 医師になりたい人には、医学部卒でなくても、どんどん医師資格を与えて競争させれば、良い医師が残るはずだ。競争過程で医療過誤などで犠牲になった人がいても、それは仕方がない。その医師を選んだ人の自己責任だ。

 例えていうならこういう内容になるだろう。

 

 このような社会が正しいとは、私には到底思えないが。

(多分)夜のボーツェン駅、20年ほど前。

詐欺被害の返金請求についての雑感

 一つ考えて頂きたい問題がある。

 あなたは、残念ながら投資詐欺に引っかかり大金を相手に振り込んでしまった。

 急いで弁護士を探し、A・B弁護士2名に相談した。
 それぞれの弁護士の回答は次のとおりだった。

 A:「返金を受けられる可能性はあります。一緒に頑張りましょう!」

 B:「ご依頼されれば返金を受けられる可能性が若干高くなると思いますが、実際にお金が返ってくる可能性はそう高くはないですよ。」

 どちらの弁護士を信頼するべきであろうか。
 追って解説していく。

 先日、ロマンス詐欺の返金請求が出来るとして、広告会社に弁護士名義を貸して業務をさせた疑いで、大阪の某事務所が検察庁から家宅捜索を受けたとの報道があった。

 詳しい業務形態は知らないが、おそらく、


 ①広告会社が、弁護士名義を利用して「ロマンス詐欺返金に強い!」「多数の返金実績!」「相談無料!」等とインターネットで大々的に広告を行って集客する。場合によっては、○○法律事務所に依頼してみた、○○法律事務所は信頼出来るのか、等の体験談を偽造することもあるだろう。
 ②相談してきた顧客に、現実には殆ど返金可能性のない事案であっても「返金を受けられる可能性はあります」と説明して、契約させる。
 ③契約の着手金(契約時に弁護士に事件に入ってもらうために支払うお金)を支払わせて、その着手金の大部分を広告会社がピンハネする。
 ④弁護士としては、形作りとして簡単な請求を行う(当然ほとんど返金されない)。
という方法だったのではないかと思われる。

 相談者に対する説明や契約についても、弁護士が行わず広告会社が行っていた可能性もあるだろう。

 詐欺にも、投資詐欺、オレオレ詐欺、ロマンス詐欺などいろいろあるが、以前ブログに書いたが、詐欺に遭った際に詐欺犯から返金をうけられる可能性は相当低いと言っていい。

投資詐欺の相談 – 弁護士坂野真一のブログ (win-law.jp)

 ただ、詐欺に強いとネットやHP等で大々的にうたっている弁護士に相談してみると、

 「返金を受けられる可能性はありますよ。」

 と説明され、藁にもすがりたい依頼者の方は、「可能性があるのなら、、、」と契約して、着手金(契約時に弁護士に事件に入ってもらうために支払うお金)を支払ってしまう場合もあるのだろう。

 

 しかし、ちょっと待って欲しい。

 

 確かに、どんな事件でも、勝つ可能性がゼロということは、ほぼできない。

 したがって、詐欺案件で、弁護士から見て、ほとんどお金が帰ってくる可能性がない場合でも、返金を受けられる可能性がゼロではない以上、
弁護士としては

 A:「返金を受けられる可能性はあります。」
 B:「お金が返ってくる可能性は高くないですよ。」

 という2パターンの説明が可能なのだ。

 どちらが正直な回答かは、言うまでもないだろう。

 前述の、家宅捜索を受けた法律事務所はかなり多くの件数の依頼を受けていたそうだから、おそらくAの説明をしていたのだと考えられる。

 以上から、依頼者としてはA・Bどちらの説明をする弁護士を信頼すべきかといえば、正直な回答をしているBの弁護士だろうと、私は考える。

 とはいえ、本当にその弁護士が、詐欺犯から多額の金銭を取り戻す特殊なノウハウを有しており、実際に取り戻せる可能性が極めて高いのであれば、(かつての一部の過払金事務所が成功報酬制を取っていたように)着手金を取らなくても、完全成功報酬制で事件を受任していても十分ペイするはずである。
 したがって、仮にAの回答をしていても、完全成功報酬制を取っている弁護士・法律事務所であるならば、依頼してみるのもアリだとは思う。

 ただし、私がざっと見たところ、そのような弁護士・法律事務所は、見当たらないようであるが。

ベネチアの街角

「自由と正義」の不公平な提案?!

 先日、日弁連から、「自由と正義」(弁護士会員に毎月配布される雑誌)2月号が届いた。

 9頁から36頁まで、27頁にわたり特集記事が掲載されている。

 今回の特集記事は、題して、「弁護士のシニアライフプランを考える~日本弁護士国民年金基金のいま~」である。

 一読すれば分かるが、弁護士の老後の不安をあおり、日本弁護士国民年金基金(以下「弁護士年金基金」と略する。)への加入勧誘を行っている特集記事である。掛金が上がる可能性がある(実際に今年4月から掛金が上がるようである)ので、早期加入を心からお勧めする次第である、との記載もある。

 確かに自営業者である弁護士には、基本的には国民年金しかないし、退職金制度もない。老後に備えて、何らかの準備はどうしても必要である。しかも、ここ10年間で弁護士所得の中央値は25%以上下落している(本記事のp34参照)
 それにも関わらず、日弁連は弁護士人口に関しては、弁護士ニーズはたくさんあるので、司法試験合格者の減員を主張する必要はないと矛盾したことを述べていたようにも思うが、それはさておき、制度的にも弁護士業には老後の不安があることは、多くの普通の弁護士の悩みの種でもあるだろう。

 ただ、弁護士年金基金は、不平等な制度でもある。
 当初加入した弁護士の予定利率が5.5%
 現在加入する弁護士の予定利率は1.5%

 なのである。

 誤解を恐れず簡単に言えば、掛金が同じでも、当初加入した弁護士は5.5%で計算した利率を加算して年金をもらえるが、現在加入する弁護士は1.5%で計算した利率を加算した年金しかもらえないということだろう。

 本来であれば、同じ基金に加入している以上、同じ利率で年金をもらうのが公平なはずである。しかし、当初の高い予定利率を変更できないという説明が、フォントが小さくて読みにくい注釈19に目立たぬよう、記載されている。

 そして、当初の予定利率が高すぎることから、低い予定利率の新規加入弁護士が増えないと5.5%もの高率の予定利率を維持することはできない(仮に当初の予定利率5.5%が維持できるのであれば、新規加入弁護士の予定利率が1.5%に引き下げられるはずがない)状況のようである

 同じ大阪弁護士会の山中理司弁護士も、ブログでずいぶん前からこの問題点を詳細に指摘していた。

 弁護士年金基金への加入を勧めるということは、私なりに、口悪く言わせてもらえば、
 「先輩弁護士の高い年金を維持するために、若手弁護士は安い年金しかもらえない基金にどんどん加入して犠牲になってね」
ということではないのか。

 もちろん、特集を組んだ弁護士年金基金の理事者達は、おそらく高率の予定利率で弁護士年金基金に加入している方々であろうが、山中弁護士の指摘を気にしているらしく、国民年金基金も予定利率が不公平になっている点で同じだから致し方ないとの言い訳も記載されている。

 しかし、本当に弁護士の老後(シニア・ライフプラン)を心配しているのなら、新規加入者の犠牲もやむを得ないと開き直るのではなく、この不公平を改めるよう努力すること、不公平を改めた上で(若しくは不公平ではない制度で)加入を勧誘することを考えるか、年金基金について制度上公平に出来ないのなら、弁護士年金基金だけを紹介して勧誘するのではなく、他の老後資金の確保方法についても説明することではないのか。

 いくら弁護士の老後の心配を配慮するように見えても、新規加入者が不利な弁護士年金基金への加入を勧めるという日弁連の裏には、ご自身(及び先行者達)の高率の年金基金を維持したい、という狙いがあるように思えてならない。
 

とべ動物園のシロクマ「ピース」

※記事と写真は関係ありません。

吉田神社の節分祭~2024

 

 今年の2月2日~4日の間、吉田神社で節分祭が開催された。

 

 昨年もブログに記載したが、私は、ほぼ毎年吉田神社の節分祭でご祈祷を受けている。
 

 その際に、少しわがままだが可能な場合は、ご祈祷を担当されている方のうち、「鈴鹿さん」にご祈祷をお願いしている。

 幸運にも、今年も、鈴鹿さんにご祈祷をお願いすることが出来た。
 

 鈴鹿さんのご祈祷の素晴らしさは、2023年2月のブログに記載したので、そちらを参照されたい。

 弁護士という仕事は、他人様の社会生活で生じた不都合が飯の種であり、訴訟になったら、勝てば相手に恨まれ、負ければ味方に恨まれることが多い、かなり因果な商売でもある。
 因果な商売だけに、次第に、人の念や、何らかの塵芥(ちり・あくた)等の穢れが、まとわりついてしまっていても、おかしくはない。

 吉田神社の大元宮において、鈴鹿さんのお祓いで清めて頂くと、お祓い後の清々しい心持ちの大きさから、やっぱり、知らず知らずのうちに1年分の穢れが染みついてしまっていたのだな・・・ということを実感する。

 それと同時に、1年間の穢れを、一気に祓ってしまう鈴鹿さんのお祓いの効果の凄さに、私は、感じ入るのである。

 今年も鈴鹿さんに、穢れを祓って清めて頂き、素の自分に戻れたような清々しい心持ちを嬉しく思いつつ、私は、多くの参拝者で混雑している吉田神社を後にしたのだった。

雪の鴨川デルタ

※写真は記事とは関係ありません。

肉体的に男性のトランスジェンダーの女性トイレ使用制限は違法、との最高裁判決に対する漠然とした感想~2

(前ブログの続きです)

 ちょっと脱線してしまったが、本判決の認定では、説明会で明確に異を唱えた女性職員はいなかったとし、その点についてかなり重視しているように読めた。しかし、仮に女性職員らが明確に異を唱えれば何らかの不利益を被る危険性も高く、明確に異を唱えにくい状況にあったと考えるのが自然ではないかと考える。

 「同性婚について見るのも嫌だ」とマスコミに述べた首相秘書官が、オフレコ発言であったにも関わらず、その事実を公にされ、世間にバッシングされ、更迭された事件も記憶に新しい。オフレコでもこの対応なのだから、説明会のように半公的な会合でトランスジェンダーに対する違和感を明確に表明したりすると、マスコミの餌食にされたりするなど、意思表明の危険性の高さは容易に想像できるはずである。特に国家の中枢で勤務する経産省の優秀な職員であれば、なおさらマスコミは喜んで記事にするだろう。
 この点最高裁は、明確に異を唱えた女性職員はいなかったのだから、特段の配慮をすべき職員の存在も認められないと形式的に判断しているようである。

 さらに最高裁は、上告人が職場と同じ階とその上の階の女性トイレを使用できない処遇を受けてから4年10ヶ月、上告人は使用している女性トイレで特に問題が生じさせていないこと、当該処遇の見直しが検討されなかったことも理由にしているようである。

 上告人が使用している女性トイレで問題を起こさないことは、問題を起こせば女性トイレを使えなくなるのだから当然である。
 そして、処遇の見直しがなされなかったことは、上告人以外の職員、周囲の女性職員も女子トイレ使用制限処遇が適切であると判断していたから、見直しの必要性を認めなかったということではないのだろうか。

 仮に同じ職場の女性職員が、上告人と一緒に女子トイレを使用することについて、違和感も羞恥心も刺激されず、何の違和感も羞恥心も感じずに受け入れられる状況になっていたのであれば、説明会で上告人が女子トイレを使用したいという要望を聞いていたのであるから、「私たちは大丈夫なので上告人に是非とも使わせてあげて欲しい」と、女性職員から上層部に申し入れることもできたはずである。
 そのような申し入れがなかったということは、周囲の女性職員としては上記の処遇について必要且つ適切と判断していたことになるだろうし、職場環境として必要且つ適切なら見直しの必要性は認められなかったのではないか。

この点、宇賀克也裁判官補足意見によれば
「上告人が戸籍上は男性であることを認識している同僚の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対して抱く可能性があり得る違和感・羞恥心等は、トランスジェンダーに対する理解が必ずしも十分でないことによるところが少なくないと思われるので、研修により、相当程度払拭できると考えられる。」

と説示するが、果たして本当にそうなのか。

 何の根拠もないが、上記の違和感・羞恥心は、極めて本能的な感覚に近いものであり、教育・研修を受けた程度では簡単に払拭できるものではないように思う。そしてその違和感・羞恥心は、抱いてはいけないものなのか、払拭しなければならないものなのか。

 第三小法廷の最高裁裁判官は、全員一致で判決を下しているが、「人は理性的であり、キチンと教育を受ければ理解できるはずだ」という理想論を振り回し、実際に周囲が感じると思われる直感的な違和感・羞恥心について、配慮が少ないように私は、感じる。また、トランスジェンダーの方の生き方を認めるのが先進的であるという強迫的観念にも囚われているのではないかとも感じる。

 もちろん、トランスジェンダーの方をトランスジェンダーだという理由で差別することは許されるべきではない。
 しかし、周囲の人間に求めることができるのはそこまでであって、トランスジェンダーの方に対して直感的に抱く違和感まで持つなというのでは、行きすぎであり、思想良心の自由を制限しかねない発想につながりかねないのではないか。

肉体的に男性のトランスジェンダーの女性トイレ使用制限は違法、との最高裁判決に対する漠然とした感想~1

 トランスジェンダーの方に関する、最高裁第3小法廷令和5年7月11日判決を斜め読みしただけなので、特にまとまった内容ともいえず、ボヤッとした感想である。
 第1審から控訴審、そして本判決まで全部精査すれば感想は変わるかもしれないが、あくまで現時点の感想として記載しておく。

 上告人のトランスジェンダーの方は、性転換手術は受けておらず身体は男性であるが心は女性とのことであり(MtF)、自分の勤務部署のある階と、その上の階の女性トイレについては、勤務部署の女性職員が実際に使用していること等から、使用を制限される処遇を受けていた。
もちろん、それ以外の階の女性トイレなら使用できたようである。

 最高裁第三小法廷は、上記の使用制限処遇を違法と判断した。

 おそらく論点としては、経産省が、他の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対する違和感・羞恥心等を重視してとった対応が、上告人の自らの性自認に基づいて社会生活を送る利益に対する制約として正当化できるかという点なのだろう。
 古いと思われるだろうが、私は、女性トイレ使用制限を違法としなかった高裁判決の結論に説得力を感じる。

 確かにトランスジェンダーの方が自らの認識する性にしたがって生きていく利益は重要である。しかし、トランスジェンダーの方の生き方に対して、周囲の人間が違和感・羞恥心を刺激されることがあるのも、また自然である。そのような違和感・羞恥心を感じることも、自らの性自認に基づいて社会生活を送っているからこそ感じるものなのではないのだろうか。

 いくらMtFトランスジェンダーの人だと頭で理解していても、女性の姿で勤務していたとしても、肉体的に男性である方が、同じ女子トイレを使うとしたら、直感的に違和感・羞恥心を覚える女性の方が多いのではないか。
 私の感覚では、その感情は、肉体的特徴から性を判断してきた生物学的な見地からは、極めて自然であり多数派が有する感情なのではないかと思われる。

 このようにトランスジェンダーの方が自らの生き方を貫こうとし、今までと違う配慮を周囲に求める場合、周囲の人の性自認に基づく違和感・羞恥心とぶつかることは当然考えられる。

 その場合、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた生き方と、トランスジェンダーに対して周囲の人間の抱く違和感等について、その価値に差があるのだろうか。


 私は双方に価値の差はないような気がするが、現実的には、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた行動の方を特別に優先・保護すべきような風潮が強いように(あくまで感覚としてだが)、私は感じている。

(続く)