司法試験の選抜機能の低下の懸念

 今年の司法試験合格者数は1592名とのことだ。

 最高裁判所の令和7年度概算要求には、司法修習78期(令和7年修習開始)のテキスト部数として1535部が予定されていたことから、合格者は1500~1550人くらいではないかと私は予想していたが、予想を少し上回った結果が出た。

 昨年、法科大学院在学中受験制度開始に配慮して1781名の合格者を出してしまったことから、司法試験委員会としては、各所におもんばかって、合格者の急減という印象をできるだけ抑えたかったのだろうと推測する。

 とはいえ、今の司法試験は、ほぼ4人に3人が合格できる短答式試験を突破すれば、2人に1人以上が最終合格してしまうし、総合点で受験者平均点を26点下回っても合格できてしまう試験なので、今の司法試験が選抜機能をきちんと果たしているのかについては、疑念が拭えない

 この点、受験者の質が向上しているから、構わないとの反論もあるだろう。

 

しかし、短答式試験は昔に比べて簡単になっており、その得点率から見ても、上記の反論はあたらないと私は考えている

 平成30年8月3日 司法試験委員会決定
「司法試験の方式・内容等の在り方について」
には、次のように書かれている。

『4 出題の在り方
短答式試験は,裁判官,検察官又は弁護士となろうとする者に必要な専門的な法律知識及び法的な推論の能力を有するかどうかを判定することを目的とするものであるが,その出題に当たっては,法科大学院における教育内容を十分に踏まえた上,基本的事項に関する内容を中心とし,過度に複雑な形式による出題は行わない。

 今の司法試験短答式試験は、昔と違って、基本的事項に関する内容が中心で複雑な形式も取らない、要するに簡単な形式で、基本的な事項に関連する問題しか出さないと司法試験委員会は明言している。
 その短答式試験(175点満点)では、全受験者の平均点が112.1点であるところ、93点取れば合格できてしまう。

 基本的な問題でも、全受験者の平均得点率は64%しかなく、さらに53%しか得点できなくても、短答式には合格できてしまうのだ。

 仮に医師国家試験で、基本的な問題であるにもかかわらず53%しか正解できない受験者を医師にして良いか?と問われれば、国民のほぼ全てが「ダメ」と答えるのではないだろうか。

 基本的な試験問題しか出されないのであれば、64%の得点率でも、もっと実力をつけてからでないと医師になって欲しくないと考える国民は多いはずだ。

 そして前述したように、司法試験短答式試験に合格すれば、約54%、半分以上の受験生が最終合格してしまう。

 今の司法試験が適切な選抜機能を持っているのかについて、疑念を持っているのは、私だけではないはずだ。

「ミカン買占め作戦」と闇バイト

 子供だった頃、ウルトラマン・ウルトラセブンなどの円谷プロの特撮番組の他、仮面ライダー、人造人間キカイダー、超人バロム・1(ばろむ・わん)など、戦隊モノの前身とも言うべきTV番組があり、毎週楽しみに見ていたものだ。

 大体、悪の秘密組織が世界征服を狙って様々な活動を行うのだが、ヒーローに阻止されるストーリーが多かった。
 

 確か、キカイダー01(ゼロワン)で、世界犯罪組織シャドウが、世界征服のために、ものスゴイ作戦を敢行したことがあった。

 名付けて「ミカン買占め作戦」

 ミカンを買い占めることにより、ミカンを品薄にする。
 ミカンを食べたい子供たちはミカンを奪い合うようになる。
 ミカンの奪い合いにより、子供たちは友達を裏切るなどするようになり、他人を信用せず、自分のことしか考えられなくなる。
 そのような子供たちが大人になれば、他人を信用せず、自分中心の性格の大人ばかりになり、争いだらけの社会になる。
 争いだらけの社会になれば、世界は滅びに向かい、世界はシャドウの思い通りにできる。

 というのが「ミカン買占め作戦」の大体のストーリーだった記憶がある。

 「ミカン買占め」といいつつ、シャドウの怪人ハカイダーは、ミカン運搬車を襲って運搬中のミカンを強奪していたので、実際には、ミカン強奪作戦で、買占めなどやっていなかったのが少し笑える。
 しかし、社会の連帯を断ち切れば世界が滅びに向かうという点においては、着眼点としては優れていたように思う。

 キカイダー01がTV放映されていた時代から、半世紀が経過した。

 新自由主義が推し進めてきた、市場万能主義により、ごく一部の富裕層が世界の富の大部分を独占し、大多数の庶民の富を枯渇させる状況に、社会を追い込んでいるように見える。
 日本の政治家達も、選挙の際にはほぼ全員が、弱者救済、中小企業対策の重要性を唱えるが、実際には、大企業の内部留保は増大、法人税は減税、企業献金は廃止しない、その反面消費税を増税するなど、一部の富裕層に富が集中する現実を招く政治を行ってきた。

 富が枯渇している大多数の庶民としては、生活するだけでも大変な状況になれば、他人を思いやる余裕は当然失われ、自分や家族を守るために、自分中心の考えに傾いても仕方ないだろう。
 近時の闇バイト問題も、富が偏在しすぎている現実の影響から、自分中心の考えが生じて事件を起こしている可能性を捨て切れまい。

 自分中心の考えを持つ大人たちばかりになれば、争いの絶えない社会になり世界は滅びに向かうというのがシャドウの狙いだったが、シャドウの狙いが新自由主義経済の下での政治で、まさに実現しつつあるのではないか。

 社会の連帯を断ちきり、世界が滅びに向かえば、困るのは富裕層も同じじゃないか、とぼんやりと思うのだが。

新海誠監督 「雲のむこう、約束の場所」 放送決定

 10月13日午後7時から、BS-TBSで、新海誠監督の映画、「雲の向こう、約束の場所」が放送されるという報道を目にした。

 

 映画自体は、2004年公開だったと思うから、もう20年になる。当時思春期だった人たちも30代後半~40代に近づいているだろう。

 私は公開当時この映画を見ておらず、後で、DVDを購入して見た。

 まだご覧になっていない方には、強くお勧めする作品である。

 もう13年も前になるが、私は2011年10月27日に、映画を見た私は、ブログに少し長めの感想記事を投稿している。思い違い等もあるかもしれないが、映画鑑賞直後の新鮮な私の受けた印象を記載しているので、「へぇ~、この映画について、こんな見方をする奴もいるんだなぁ~」程度で読み流してもらえれば幸いである。

 但し、私のブログ記事は、ネタバレを含むので、まだ映画を御覧になっていない方で、気になる方は、映画を見てからお読みになることをお勧めする。

(私のブログ記事~映画の感想・ネタバレあり~ここから)

以下、ネタバレを含む私の感想である。私はDVDを見ただけであり、パンフレットなどの関連書籍等も一切読んでいないので、思い違いや不正確な部分があるかもしれないし、後で考えが変わるかもしれないが、映画を見た者としての現時点での感想として、お許し頂きたい。

最初に、この映画を見終わったときに、まず、ノスタルジックで美しいという印象を受けた。しかしその中で、いくつかの違和感を感じた部分があった。

違和感に関連するのは、

まず、主人公ヒロキの「あの遠い日に、僕たちはかなえられない約束をした。」というモノローグである。

つぎに、冒頭に大人になったヒロキがタクヤと一緒に飛行機(ヴェラシーラ)を作っていた思い出の地を訪れるのだが、そのときヒロキが一人であり、決して楽しそうな表情を浮かべているわけではない、ということ。

サユリが廃駅跡から落下しそうになったときにヒロキが手をさしのべるが、そのときサユリが「以前にも私たち・・・・」と語ること、

ユニオンの塔まで飛行する前日の眠りで、夢の中の教室で再会したサユリに対して、ヒロキが帰ろうとする際に、「おやすみ」と声をかけること、

そして、ユニオンの塔まで飛行し、長い眠りから覚めたサユリが、夢の中でヒロキ君と呼んでいたにも関わらず、目覚めたときにヒロキに対して藤沢君と呼びかけること。

彼女はいつも何かをなくす予感があるといっていた、というモノローグ、

等である。

「雲のむこう、約束の場所」という映画の題名から考える限り、ヒロキのモノローグで言うところの「約束」とは、タクヤと一緒に作った飛行機ヴェラシーラで、サユリをユニオンの塔まで連れて行くことと解釈するのは素直かもしれない。しかし、ヒロキは実際にはタクヤの協力を得てヴェラシーラを飛ばし、ユニオンの塔までサユリを連れて行きサユリの長い眠りを覚まさせているのである。

つまり、上記の意味での約束であるならば、約束はかなえられているのだ。

だが、ヒロキの「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というモノローグは、その経験の後において語られている。

どこか引っかかる。

確かに、ヒロキとタクヤとサユリは3人で、一緒にユニオンの塔まで飛ぼうと中学生の時に約束をしている。そして、その約束はかなえられた(3人一緒という意味では約束は叶っていないが、元もとヴェラシーラは2人乗りなのでこの点は考えない。)。しかも「かなえられない約束」というモノローグは、あくまでヒロキ一人の発言でしかない。もし3人で交わした約束がかなえられていないのなら、タクヤもサユリも同じ言葉を述べていてもおかしくはない。だがそのような場面は見あたらない。

おそらく別の約束があったのではないか、そういう視点で、この映画を見てみると、ヒロキがサユリともう一カ所約束をかわしていると思われる場面がある。

サユリのいた病室で、夢を通じて惹かれあい、求め合っていたヒロキとサユリが、夢の中で再会するシーン(お互いが「ずっと・ずっと探していた・・・」と話すシーン)の続きに、ヒロキが「(正確ではないかもしれないが)これからは、ずっと一緒にいてサユリを守るよ、約束する。」という言葉を交わす場面があるのだ。その場面のあと、ユニオンの塔の活動が活発化して沈静化するシーンが描かれるが、その直後にもう一度「あの遠い日に、僕たちは、かなえられない約束をした。」というヒロキのモノローグが入る。

ユニオンの塔まで飛んだ後でも、なお、残った「かなえられない約束」という点から考えると、ヒロキのいう「かなえられない約束」とは、「これからずっと(一緒にいて)サユリを守る」という約束と考えるほうがよさそうだ。

ヒロキとサユリの約束であれば、なぜ、サユリがその約束を語らないのか。それは、夢から覚め、現実に戻ることと引き替えに、サユリは夢の中での記憶を全て失ってしまったからだ。サユリが夢の中で、その存在を感じ、求め続けていた、ヒロキへの思慕の感情、サユリはそれを目覚めるとなくしてしまうことに気づき、目覚めの直前、必死で祈る。「この気持ちをヒロキ君に伝えられたら他には、もう、何もいりません。」とまで祈るのだ。

しかし、現実に目覚めたときに、夢の中で育み続けてきたヒロキへの想いは、無残にも消え去ってしまう。だからこそ、目覚めたときに真っ先にヒロキ君と呼びかけておかしくないサユリが、藤沢君、と若干遠慮がちな呼びかけになってしまっているのではないだろうか。

確かに、サユリは目覚めた後、ヒロキに取りすがって泣く。しかしそれは、決して夢から覚めたうれしさや、夢の中で求めていたヒロキに再会できたうれしさの涙ではないだろう。夢の中で育み続けてきたヒロキとサユリの想いについて、サユリにはその想いがかつてあったことすら全く記憶から失われてしまったのだ。サユリは、もうヒロキとの夢の中であるが故に純粋に結晶化した想い自体の存在すら、忘れてしまったのだ。このときのサユリの涙は、なにか分からないが、極めて大事な何かをなくしてしまった、というサユリの漠然とした巨大な喪失感を感じているからこその涙だったのではなかろうか。

一方ヒロキにとっての現実は極めて残酷だ。サユリとの夢の中での邂逅、惹かれあい、求め合った時間、その感覚は、夢の中でのものであるというその純粋さ故に、全てヒロキの記憶に鮮明に残っている。しかし、現実に戻ったサユリの中では既にその記憶は跡形もないのだ。ヒロキはサユリが目覚めた直後、「何か大事なことを伝えなきゃいけないのに、忘れちゃった・・・・」と泣くサユリに対して、「大丈夫だよ、もう目が覚めたんだから」となぐさめる。

しかし、現実はそうではなかった。もしサユリが、夢の中でヒロキと2人で育んだ純粋な思いを覚えていてその想いが実現したのなら、ヒロキが約束通りサユリをずっと守っていられたのなら、冒頭のシーンでヒロキとサユリは二人で思い出の場所にやって来ていてしかるべきだ。

だからこそ、冒頭にヒロキは「現実は何度でも僕の期待を裏切る」と語っているのではないか。

「かなえられない約束」をした日が「あの遠い日」であるというのも、こう考えれば頷ける。一緒に約束を交わしたサユリが、そのときの記憶を失った以上、もはや、サユリと約束を交わした日は、ヒロキだけに残された遠い遠い記憶の中にしかないのだから。

このままの時間がずっと続いていくように、なんの疑いもなく感じられた思春期。この痛いほど純粋で壊れやすい思春期の記憶を新海誠監督は、ついにかなえられることのなかった、ヒロキとサユリとの第2の約束になぞらえたように思えてならない。サユリは、夢の中のあまりにも純粋であったヒロキとの心の交流(思春期の記憶)を失い、巨大な喪失感と引き替えに現実に目覚め、大人へと成長していく。

現実に目覚めることによって、大人として現実に適合していかなければならないときに、無残に失われ、封じ込められていく、あまりにも儚い思春期の記憶。

どこか切なく、ノスタルジックな、(過剰ともいえる)映像の美しさも、この人生の宝物のような思春期の記憶を表現するためだと考えれば納得がいく。

ここまで考えたとき、私は、サユリが、目覚めてからヒロキが思い出の場所を訪れるまでの間に、死んでいてくれればいいのにとさえ、思ってしまった。

仮に、サユリが死んでしまったのであれば、ヒロキも納得がいくかもしれない。あの美しい思春期の(夢の)記憶を一人でヒロキが胸に抱えたまま、しかしサユリが別の人と生き続けていたとしたら、あまりにもヒロキにとって、つらいかもしれないと思ったからだ。

だがおそらく、サユリは他の人と別の道を歩み、ヒロキは、この痛みを抱えつつ生き続けているはずだ。

映画の最後に流れる、エンディングソング「きみのこえ」の歌詞はこのようになっているのだから。

「きみのこえ」    作詞新海誠     作・編曲 天門

色あせた青ににじむ 白い雲 遠いあの日のいろ
心の奥の誰にも 隠してる痛み
僕のすべてかけた 言葉もう遠く
なくす日々の中で今も きみは 僕をあたためてる
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 僕のこえ どこかのきみ とどくように
僕は生きてく
日差しに灼けたレールから 響くおと遠く あの日のこえ
あの雲のむこう今でも 約束の場所ある
いつからか孤独 僕を囲み きしむ心
過ぎる時の中できっと 僕はきみをなくしていく
きみの髪 空と雲 とかした世界 秘密に満ちて
きみのこえ やさしい指 風うける肌
こころ強くする
いつまでも こころ震わす きみの背中
願いいただ 僕の歌 どこかのきみ とどきますよう
僕は生きてく
きみのこえ きみのかたち 照らした光
かなうなら 生きる場所 違うけれど 優しく強く
僕は生きたい

映像だけではなく、音楽も実に素晴らしい映画である。いろいろ考えていると美しい夕陽がどうしても見たくなる、そんな映画だ。

一度ごらんになることを、強くお勧めする。

(ブログ記事ここまで)

喫煙疑惑で代表権を奪うべきではない

 パリオリンピック代表の体操女子、宮田選手の喫煙疑惑が報じられ、宮田選手に対して日本体操協会が調査に入ったとの報道がなされている。

 細かい事情が不明なので、あくまで現時点で得た情報に基づく私個人の見解なのだが、仮に万一喫煙の事実があったとしても、宮田選手の代表権を奪うべきではないと考えている。

 まず、20歳未満の者に喫煙を禁じている法律は、次のように定められている。

明治三十三年法律第三十三号
二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律
第一条 二十歳未満ノ者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス
第二条 前条ニ違反シタル者アルトキハ行政ノ処分ヲ以テ喫煙ノ為ニ所持スル煙草及器具ヲ没収ス
第三条 未成年者ニ対シテ親権ヲ行フ者情ヲ知リテ其ノ喫煙ヲ制止セサルトキハ科料ニ処ス
② 親権ヲ行フ者ニ代リテ未成年者ヲ監督スル者亦前項ニ依リテ処断ス
第四条 煙草又ハ器具ヲ販売スル者ハ二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ防止ニ資スル為年齢ノ確認其ノ他ノ必要ナル措置ヲ講ズルモノトス
第五条 二十歳未満ノ者ニ其ノ自用ニ供スルモノナルコトヲ知リテ煙草又ハ器具ヲ販売シタル者ハ五十万円以下ノ罰金ニ処ス
第六条 法人ノ代表者又ハ法人若ハ人ノ代理人、使用人其ノ他ノ従業者ガ其ノ法人又ハ人ノ業務ニ関シ前条ノ違反行為ヲ為シタルトキハ行為者ヲ罰スルノ外其ノ法人又ハ人ニ対シ同条ノ刑ヲ科ス

 カタカナで分かりにくいが、大まかに言えば、

第1条で、20歳未満の者に対して喫煙を禁止し、
第2条で、20歳未満の者が喫煙をした場合、タバコや器具を、行政処分で没収する、
第3条で、親権者や親権者に代わって未成年者を監督する者が喫煙を止めなかった場合は科料に処する、
第4条で、タバコや器具の販売業者は20歳未満の者が喫煙しないように年齢確認などの措置を採ること、
第5条で、20歳未満の者が自分で使用することを知って、タバコや器具を販売した者は50万円以下の罰金に処する、
第6条で、第5条違反の行為について両罰規定を定める、

ということである。

 注目すべきは、実際に喫煙した20歳未満の者に対しては、行政処分でタバコ等は没収されるものの、喫煙行為に対して何ら刑事処罰が定められていないことだ。
 つまり法律は、20歳未満の者が喫煙をしてもその喫煙行為自体を刑事的処罰の対象にしていないのである。
 20歳未満での喫煙は、法律違反ではあるものの、処罰するまでには至らないというのが立法者の考えだと読むのが素直だ。

 これに対し、科料・罰金は、刑法で定められた刑であり(刑法9条)、刑が科される行為を犯罪だとすれば、親権者や監督者が未成年者の喫煙を止めない行為や、販売業者が20歳未満の者が自分で使用することを知ってタバコや器具を販売する行為は、れっきとした犯罪と評価されるのだ。
 なお、没収は刑法9条で付加刑とされているが、この法律の第2条は行政処分で没収すると定められているので、刑法上の刑ではない。

 確かに日本代表に選出された選手は、子供たちの憧れとして品行方正であることが求められるのかもしれないが、果たして法律が処罰すべきではないとしている行為を行ってしまった場合にまで、努力に努力を重ねて勝ち取った代表権を奪うことを正当化できるのだろうか。

 インターネット上の情報で、『為末大氏が、「問題だったとは思いますが、代表権を奪うほどではないと思います」との私見をつづり「どうか冷静な判断をお願いします」と体操協会へ呼びかけた。』との報道があったが、私も為末氏と同意見である。

裁判は事実を明らかにするとは限らない

 今回の都知事選の結果、石丸伸二候補の得票数の多さに驚いたのか、メディアでは石丸バッシングが開始されているように、私には見える。

 その中には、市長時代の裁判でも負けているのに、とか、裁判で負けても最高裁まで争っている、等という批判も見受けられるようだ。

 上記のような批判をする方は、裁判は事実を明らかにしているはずだ、それに反する主張を石丸氏が続けて、最高裁まで争うのは問題がある、という前提に立っているのではないか、と私には感じられる部分がある。

 しかし、裁判は事実を明らかにするとは限らないのである。

 例えば、民事裁判において、
 原告が「事実はAだ。だから被告は損害賠償すべきだ。」と主張して訴えを起こし、
 訴えられた被告が「事実はAではなくBだ。だから損害賠償する必要がない。」と反論した場合を例にして、極めて簡単に考えて見る。

 この場合、裁判官が事実を映し出す魔法の鏡でも持っているなら話は簡単だ。
 魔法の鏡を見れば、事実がAだったのか、Bだったのかがはっきりするので、そのはっきりとした過去の事実に対して法律を適用して判決すれば足りるからだ。

 しかし、現実には、そんな魔法の鏡は存在しないし、時間を巻き戻して観察することもできない。
 もちろん、裁判官がなんの根拠もなく適当に、良く分かりませんが事実はこっちにしましょう、と勝手に判断されたら当事者としては、たまったものではない。

 そこで、原告に対しては「原告が事実をAだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」、被告に対しては「被告が事実をBだと主張するのであればそれを証明する証拠を出して下さい。」として、それぞれ証拠を出させて判断するしかないのである。

 仮に、原告がa b c d、被告がe f g hの証拠を提出した場合には、裁判所としては、それらの証拠のなかで信頼出来ると思われる証拠を選別し、信頼出来る証拠からみれば、「原告と被告との争いに関しては、こういう事実があった」と判断するのである。

 より簡単に言えば、「信頼出来る証拠をレゴのブロックのように考えて、そのブロックを組み合わせて、どういう事実があったのかを判断(構築)する」のだ。

 つまり、(本当の事実は分からないのだが)提出された証拠等から、「この裁判では、こういう事実があったことにする」、と判断し(この結果を「認定事実」という。)、この認定事実に法律を適用して結論(判決)を出すのである。

 だから、何らかの事情で事実がBであることを証明する証拠が不足し、事実がAであったような証拠の方が多い場合は、本当の事実がBであっても、裁判所はAという事実があったものと認定して、それを前提に判決してしまう場合も当然ありうるのだ。

 そしてこれが、人間が行う裁判の限界なのである。

 裁判に負けたから、虚偽の事実を主張していたとは限らないのである。

崩壊しつつある法曹養成制度2

法科大学院協会の令和元年度アンケート付記意見から


p108
・ 法科大学院に行かず、予備校で勉強したいわゆる予備試験組が学部在学中に合格したり、卒業してすぐに合格しています。法科大学院の教育は試験の合格のためには不要ということが改めて示されています。これらの合格者が何か問題があるのかというと、採用した事務所からは優秀であり評判が良いと聞きます。私のゼミでも、本当に頭がいいと思われる者は皆、予備試験から合格しています。司法修習を廃止して、2年次の3月に司法試験を行い、3年次は実務修習とし卒業を法曹資格取得の要件にし、卒業認定を厳しくするなど抜本的な改革が必要だと思いました。
→(坂野のコメント):司法試験に合格するには法科大学院での教育は不要であること、また法科大学院を経ずに司法試験に合格して実務家になっても何も問題が生じていないばかりか、むしろ、採用した事務所からは優秀であり評判が良いとの指摘があること、という法科大学院側としては認めたくない事実を明確に指摘した意見である。この事実からすれば法科大学院側がいつも振り回す「プロセスによる教育」という理念が、現実には全く意味がないお題目であることが理解できる。そもそもプロセスによる教育が法曹養成に必要だとか、効果があるなどと法科大学院側は主張するが、プロセスによる教育がなんであり、どれだけの効果があるかなど誰も実証できておらず、法科大学院賛成論者が単にそう言い張っているだけの状況なのである。だとすれば、法科大学院制度を高額な税金を投与してまで維持する必要があるのか、大いに疑問があるということになろう。

P112
・ もっとじっくり腰を据えて法律学を習得することに期待するが、試験制度全体が反対の方向を向いているような気がする。3+2年+在学中の試験では、法律学を十分に修得したと言えないのではないか。仮に、このような受験スタイルが主流になるのであれば、従来よりもさらに充実した司法修習(期間+内容)を用意する必要があるように思う。そうでなければ、ますます司法制度が弱体化してしまうのではないかと懸念する。

→(坂野のコメント):法科大学院在学中受験制度に対する危機感を示した意見である。3+2年+在学中の試験では、法律学を十分に修得できないのが普通なのに、その状態で司法試験を受験させ合格させると、レベルの低い合格者がどんどん増加してしまい、司法制度がますます弱体化するとの懸念を示してもいる。既にこの意見を述べた人から見た司法制度は、レベルの低い合格者があふれかえって弱体化が進んでおり、これに加えて在学中受験制度によるレベルダウンによって、さらなる司法の弱体化が進むおそれがあるということである。ちなみに、令和5年度司法試験では、レベル低下が懸念されている状況にありながら合格者数は増加している。さらに、合格者1781名中在学中受験合格者数は637名であった。

本当に大丈夫なのだろうか。

崩壊しつつある法曹養成制度

 法科大学院協会が行っている、法科大学院に対する司法試験に関するアンケート付記意見から、現在の法曹養成制度が崩壊しつつあることが看て取れる。

法科大学院協会平成30年度アンケート付記意見

p89
・3 年次に司法試験を受験できるようにして、卒業と同時に司法修習が 4 月から開始するように変更してもらいたい。合格者の人数は 1000~1200 人程度が適正ではないかと思います。
→(坂野のコメント):平成30年度は1525名が合格したが、この意見を記載した法科大学院教員から見れば、あまりにレベルの低い学生が合格してしまうので、合格者数を減らすべきではないかと提言している。

p92
・ロースクールへの入学者数、受験者数が極めて減少傾向にあるなか、現在の合格者1,500 人の枠は、法曹の質の維持の観点からみて、大いに問題がある。この傾向にあっては、合格者数を 1,000 人程度に制限することが望ましいものと考えられる。
→(坂野のコメント):1500名の合格者では法曹の質の維持ができないことを明言しているコメントである。もはや、1000名程度まで合格者を絞らないと法曹の質が維持できないと考えられるほど、合格者の質の低下は進行しているのである。経営上の観点からいえば、司法試験合格者を増やして欲しいという傾向が強い法科大学院関係者から、このような発言が出ること自体、事態は深刻ということである。

p92
予備試験に関しては、国家試験の公平性、優秀な人材の確保、法曹の質の維持の観点から、今後、さらに合格者枠を増大することが必要である。
→(坂野のコメント):法科大学院関係者が基本的に敵視し続けている、予備試験合格者を増やさないと、優秀な人材も確保できないし、法曹の質も維持できないとのコメントである。法科大学院制度維持だけを念頭に置けば、合格率でどの法科大学院よりも圧倒的に上回る予備試験合格者を制限せよとの立場を取ることになるのが普通であり、多くの法科大学院教員はその立場を取る。しかし、法科大学院制度は優秀な法曹を排出するあくまで手段にすぎないのであり、目的はあくまで優秀な法曹を世に送り出すことなのだから、優秀な法曹を世に送り出すために法科大学院制度が桎梏となっているのなら、予備試験ルートの門戸を広げるべきであるとする大局を見据えた意見である。法科大学院維持に傾きがちな法科大学院関係者から、このような発言が出されていることは注目すべきであろう。

p96
・近い将来、在校生に受験資格を与える制度改革がなされるようであるが、法科大学院制度を根底から覆しかねない制度改革であると思料する。一方で、5 年先の効果を見越した取組を要求され(文科省)、他方で、5 年先に抜本的なカリキュラム改正が必要となる制度改革を行う(法務省)という、両立不能な対応を、教育現場である法科大学院に一方的に押し付けているという認識を持って頂きたい。
一部の法科大学院を中心に、そこのみが受け入れ可能な司法試験制度改革を行い、他の法科大学院には自主撤退せざるを得ない状況に追い込み、制度設計者が責任を負わずに各法科大学院に責任をとらせるようなやり方には、およそ納得がいかない。
責任の所在を曖昧にするような制度改革をするくらいなら、制度設計のミスを認め、「法科大学院+現行司法試験」という現行制度を廃止し、「法学部+旧司法試験」という旧体制に戻す方が、崩壊しかけている法曹養成システムの立て直しに資すると思料する。

→(坂野のコメント):もともと法務省・最高裁が関与していた法曹養成制度に、文科省が関係するようになったことから、省庁間の権力争いもあって、法科大学院が憂き目に遭い、法曹養成システムが崩壊しかけていることの指摘である。法曹養成制度に法科大学院制度を導入した制度設計がミスであると堂々と喝破し、旧司法試験制度にもどした方が、法曹養成システムの崩壊を止められるとまで述べている。それほど現在の法科大学院を中心とした法曹養成制度の現状は崩壊していることの証左であろう。

 以上のような付記意見が、法科大学院関係者から出ていることに注目すべきだ。

 法科大学院関係者であるということは、法科大学院が維持されないと困るから、法科大学院制度万歳、法科大学院による法曹養成制度は全くもって素晴らしい、と主張していてもおかしくはない立場にある人たちである。

 現に、中教審の法科大学院等特別委員会の委員である法科大学院教員のほぼ全ては、法科大学院による法曹養成制度は全くもって素晴らしい、となんの根拠もなく主張を続け、素晴らしい制度といいながらも、改善が必要であるとして15年以上も改善の主張を継続し続けるも成果が上がらず、予備試験ルート受験生に惨敗を続け、弥縫策に終始しているように私には見える。

 法曹養成という大局的な面から見て、手段としての法科大学院が成果をあげられないのなら、法曹の質の低下という国民の利益を損ないかねない問題を解決すべく法科大学院制度廃止を含めた大胆な手術が必要なのではないか。

 私は上記の付記意見を提出した、法科大学院関係者の方の慧眼に敬服する。

「疑惑 JAL123便墜落事故」       角田四郎 著

 その事件を、私は、千葉県関宿町(現在野田市)の河川敷にある関宿滑空場で知ることになる。

 1985年8月当時、私は京都大学体育会グライダー部に所属する大学1回生で、関宿滑空場でのグライダー部夏合宿中に、日航ジャンボ機の墜落事故を知った。
 ムッとする熱気の立ちこめる盛夏の河川敷で、班長から指示されて車座に座り、教官から事故の発生について伝えられた。その日の西に傾く夕陽の光が、やけに赤く感じられたような記憶がある。

 本書は、その日航ジャンボ機事故について、運輸省(当時)事故調査委員会の報告である、圧力隔壁破壊原因説の結論に異を唱え、その真相に迫ろうとする本である。
 絶版になっていたそうだが、現在は、Amazonのオンデマンド出版で入手が可能となっている(kindle版もある)。

 若干誤植が多いのが残念であるが、著者の角田さんの熱い想いに貫かれていて一気に読ませる力があり、説得力も相当ある。詳しい内容は、私などが述べるより、本書を読んで角田さんの語りに耳を傾けるべきであろう。

 近時この事件に関して、青山透子さんが多くの本を出されている。私は青山さんの本を多く読んだわけではないが、青山さんの主張も、四半世紀前に出されたこの本に影響を受けているのではないかと感じられる部分が少なからずあるような気がした。

 この事件に少しでも興味を持たれた(持っていた)方には、是非一読されることを、お勧めする。

シベリア上空(写真はブログ本文と関係ありません)

一枚の写真から~103

 最近は円高などもあり、海外に出かけることがなくなっているが、海外旅行は嫌いではない。

 旅行社が主催するパック旅行ではなく、勝手に出かける個人旅行なので、普通なら当然押さえているはずの、名所・旧跡を見落としていることも多くあるように思う。

 もちろん美術館は好きだが、それ以外にも動物園とか、人形劇場とか、墓地とか、一般的な観光客があまり興味を持たないところを見て回ることも多い。

 若い頃は、観光名所なんてものは、歳をとってパック旅行しか行けなくなってからでも良いではないかという思いもあったが、今の京都のオーバーツーリズムを目の当たりにすると、引率して連れて行ってもらう観光名所は、人の群れを見に行くようなものかも知れない、と残念ながら少し億劫に感じてしまう。

 写真は、プラハの人形劇場の出口から歩道方面をみたところ。

 おんなじテントウ虫の帽子を被った子供たちが人形劇を見たあと、帰ろうとしていた。

 みんな、楽しそうにわいわい話していたので、満足していたのだろう。こちらもついニコニコしながら見送った。

 子供たちの楽しそうな姿は、どこで見ても、素晴らしい。

 この子は、男の子と手をつないで、子供たちの一団の一番最後を歩いていた。

 敢えて逆向きに少し斜めに帽子を被ったところに、こんなに小さくてもお洒落に気を配っている様子が窺える。

 この子のさらに後ろに、引率の先生の一人がいたと記憶している。

プラハの人形劇場前にて。

GW休暇

 このGWに、久しぶりに休暇を頂いて、北海道を車で走ってきた。

 名古屋から仙台経由で苫小牧までフェリーで移動。

 北海道内は、旭岳温泉、丸瀬布温泉、知床、十勝岳温泉、白老温泉など、温泉宿ばかりめぐった。

 学生時代、大型バイクで何度か北海道を走りに出かけたことはあり、その頃はユースホステルや、「とほ宿」を中心に宿泊していた事を想い出した。北海道には桃岩荘(礼文島)・岩尾別ユース(知床)・襟裳岬ユース(襟裳岬)と3大キチガ○ユースがあるといわれていた時代だ。今は、この3つの内、桃岩荘しか残っていないようだ。

 若い頃は、温泉なんて見向きもしなかったが、今では温泉にゆっくり浸かり、身体を休めることができるのは、有り難いものだとしみじみ感じる。大体一日に200キロ以上走ったが、4日目くらいには、自動車なのに少しくたびれた気がしたものだ。

 バイクで一日300キロ以上、10日くらい走っても、どうってこと無かった学生時代に比べれば、なかなか自覚できていないが、やはりそれだけ、歳をとってしまったということなのだろう。

 バイクで全身に風を受けながら走り回る爽快さも捨てがたいが、多分、いま、バイクでツーリングに出かければ、爽快さよりも、疲労困憊してしまうリスクの方が高いように感じる。

 オープンカーとはいえ、バイクに比べれば、爽快さと開放感は1/5くらいだろうか。それでも、屋根付きの車に比べれば、外気の温度や鳥の鳴き声など、外界の変化を感じながら走れたのは楽しかった。

大雪山系を望む一本道