トランスジェンダーの方に関する、最高裁第3小法廷令和5年7月11日判決を斜め読みしただけなので、特にまとまった内容ともいえず、ボヤッとした感想である。
第1審から控訴審、そして本判決まで全部精査すれば感想は変わるかもしれないが、あくまで現時点の感想として記載しておく。
上告人のトランスジェンダーの方は、性転換手術は受けておらず身体は男性であるが心は女性とのことであり(MtF)、自分の勤務部署のある階と、その上の階の女性トイレについては、勤務部署の女性職員が実際に使用していること等から、使用を制限される処遇を受けていた。
もちろん、それ以外の階の女性トイレなら使用できたようである。
最高裁第三小法廷は、上記の使用制限処遇を違法と判断した。
おそらく論点としては、経産省が、他の女性職員が上告人と同じ女性トイレを使用することに対する違和感・羞恥心等を重視してとった対応が、上告人の自らの性自認に基づいて社会生活を送る利益に対する制約として正当化できるかという点なのだろう。
古いと思われるだろうが、私は、女性トイレ使用制限を違法としなかった高裁判決の結論に説得力を感じる。
確かにトランスジェンダーの方が自らの認識する性にしたがって生きていく利益は重要である。しかし、トランスジェンダーの方の生き方に対して、周囲の人間が違和感・羞恥心を刺激されることがあるのも、また自然である。そのような違和感・羞恥心を感じることも、自らの性自認に基づいて社会生活を送っているからこそ感じるものなのではないのだろうか。
いくらMtFトランスジェンダーの人だと頭で理解していても、女性の姿で勤務していたとしても、肉体的に男性である方が、同じ女子トイレを使うとしたら、直感的に違和感・羞恥心を覚える女性の方が多いのではないか。
私の感覚では、その感情は、肉体的特徴から性を判断してきた生物学的な見地からは、極めて自然であり多数派が有する感情なのではないかと思われる。
このようにトランスジェンダーの方が自らの生き方を貫こうとし、今までと違う配慮を周囲に求める場合、周囲の人の性自認に基づく違和感・羞恥心とぶつかることは当然考えられる。
その場合、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた生き方と、トランスジェンダーに対して周囲の人間の抱く違和感等について、その価値に差があるのだろうか。
私は双方に価値の差はないような気がするが、現実的には、トランスジェンダーの方の自らの性自認に基づいた行動の方を特別に優先・保護すべきような風潮が強いように(あくまで感覚としてだが)、私は感じている。
(続く)
ポテチ1つちょうだい〜いやだ!と似てるかも。