諏訪敦個展「眼窩裏の火事」(府中市美術館)~その3

 2階の個展入口で、入場券の半券を切り取る方式だ。再入場の際には、切り取られた後に残った入場券を示せば良いらしい。
 再入場不可の展覧会もあるが、実際に再入場するかどうかはともかく、再入場可の配慮は有り難い。

 個展入口で、展示作品紹介のパンフレット(8頁)をもらう。

 作品紹介によれば、展示は3章に別れている。
 第1章「棄民」、第2章「静物画について」、第3章「わたしたちはふたたびであう」とのタイトルが付されていることが記載されている他、各展示作品の題名、スペック、一部の作品には簡単な説明が作品紹介には記されている。

 会場内は、少し混んでいる。

 あれだけ各メディア等に取り上げられているのだから、これくらいの混み具合だと、まだラッキーなのかもしれない。
 ただ、開館直後の人がいない状況で観覧できた、諏訪市美術館・三菱地所アルティアムでの個展とは異なり、どうしても他の人の姿が視野に入り込むため、一つの作品を自分1人だけで独占してじっくり見るのは、ほぼ無理に近い状況ではある。

 第1部は、病床の父、小さな子供の絵の次に、大作「棄民」に向かおうとすると、展示室の真ん中に吊り下げられたスクリーンに目が止まる。
 2017年の作品集「Blue」で、「HARBIN 1945 WINTER」に至るまでの作品の流れを順を追って掲載していたと思うが、それの動画版であるようだ。次第に変貌していく様相が大きなスクリーンに映し出され、それが繰り返される。肉体が変貌していく経緯に関しては、動画の方が、よりインパクトがある。

 諏訪市美術館・三菱地所アルティアムでの個展でも展示されていた絵画もあったが、改めて、展示順を尊重しつつ一連の流れで観ると、第1章のタイトルに付された「棄民」という文字に含まれる意味を考えさせられる。
 2016年放送の、NHK・ETV特集「忘れられた人々の肖像-画家諏訪敦ד満州難民”を描く」の再放送を期待したいところでもある。

 それにしても、いつもながら作品の描写力には驚かされる。
 例えば、こども(赤ちゃん)の寝姿の作品などは、皮膚の極めて柔らかな感覚、髪の毛が僅かな空気の流れでそよぐ様子、赤ん坊特有の匂いや、その小さな息使い、そして彼が心から安心している心情までもが、視ているこちら側の感覚器官に直接放り込まれてくるような思いがする。絵を見るという、本来であれば、視覚しか刺激されていない状況なのに、そこから視る者の五感を揺さぶってくるのである。

 もともと諏訪先生の描写力については、知っているつもりだし、そこから受けるインパクトについて、自分なりに予測している面もある。しかし、いざ絵の前に立ったとき、受ける印象が、予測以上なのである。

 この点、人というものは勝手な生き物で、自分の中で勝手に期待値を引き上げてしまう存在でもある。
 例えば、初めて入ったうなぎ屋でその美味に感動し、期待に胸を膨らませて再訪したら、思ったほど美味ではなかったという経験をしたことは、多くの方もあるだろう。
 この場合、おそらく店は同じ味のうなぎを提供している。
 しかし、客側が内心で期待値を引き上げてしまうので、その引き上げられた期待値と実際の味を比較して、客は、思ったほど美味ではなかったと判断してしまうのだ。
 だから、期待通りに素晴らしいという場合は、提供者側が客が勝手に引き上げる期待値に見合うだけの進化を遂げている必要があり、その進化した内容を提供している場合に、やっと期待通りとの評価が得られるのである。

 だとしたら、期待以上のインパクトを与えるためには、芸術家は何所まで進化し続けなくてはならないのか。

(続く)

(個展入口でもらえる作品紹介 A4版8頁)

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