まさかとは思うけど

 日弁連が、女性の日弁連執行部への参加を推進するために、クォータ制による女性副会長の席を2つ設けていることは、ご存知のことと思う。

 私は相当前から日弁連代議員も務めているから、クォータ制が導入されてからの日弁連代議員会(副会長等を選ぶ会議)にも全て参加しているが、私の知る限り、クォータ制の日弁連女性副会長は、主流派が押さえている弁連等から推薦された方がこれまでずっと就任してきているはずだ。

 日弁連執行部への女性参加をより強力に推進するためであれば、弁連等で推薦されるのを待っている受動的な方よりも、意欲を持って能動的に参加を希望する方、つまり自ら立候補された方を優先すべきであるのが素直だと思う。

 しかも、立候補するには相当数の弁護士の推薦が必要であり、その推薦を自力で集めなければならないという高いハードルも設定されているので、なおさら立候補するためには強い意欲と行動力がないと困難なのである。

 ところが、今年も日弁連は立候補した女性弁護士をクォータ制副会長に選出しないと判断したそうだ。

 先日もご紹介した、武本夕香子先生のことである。

 武本先生は、長年、伊丹市、尼崎市及び芦屋市において、女性のための専門法律相談員を務めてこられた。しかも、上記各市における男女共同参画推進審議会委員等を務め、男女共同参画問題についても取り組んできている。武本先生の依頼者の9割近くが女性で占められており、弁護士業務においても、市井の女性の人権擁護の活動に取り組んでこられた。さらにこれまで、6名の女性弁護士を雇用する等しており、近年の女性弁護士の置かれている状況等についても深い理解があることから、クォータ制副会長候補者に適している。兵庫県弁護士会の会長経験もある。
 しかも、今回の立候補においては、短期間で全国から500名以上の弁護士の推薦を得ており、人望も篤い。

 そうであるにもかかわらず、日弁連のクォータ制副会長を選ぶ委員会は、武本先生を落選させたようだ。

 理由を聞いても、日弁連執行部は、どうせ、総合的な判断の上であるとか、人事に関する事項だから回答を差し控えるなどと言って、武本先生の落選理由をまともに説明しないだろう。

 しかし、武本先生程の経歴と資質と行動力と人望を持ちながら、クォータ制副会長に相応しくないというのであれば、逆に言えば、クォータ制副会長に相応しいといえる人物には武本先生を超越するだけの経歴と資質と行動力と人望が必要ということになる。

 殆どスーパーウーマンでなければ、そのハードルは越えられない。そうだとすれば、クォータ制副会長に適する候補者はごく僅かの女性弁護士に絞られてしまうだろう。

 要するに日弁連執行部は、武本先生を落選させる以上、武本先生以上のスーパーウーマンをクォータ制副会長にもってこなければ、理屈に合わないことになる。

日弁連執行部からすれば武本先生を落選させたのは、大人の事情なのかもしれないが、私はそういうのは大嫌いなので敢えて日弁連の本心を推察して言ってやると、「日弁連はクォータ制の副会長であっても、主流派執行部に従順な女性副会長を希望している。」ということなのではないか。

 より分かりやすく言えば、女性の視点を取り入れるためにクォータ制の女性副会長制度を設ける、但し、執行部の意向に従順な女性弁護士に限る、ということなのではないだろうか。

 この私の推測が正しければ、日弁連執行部の意向に従順という条件が、女性の意見を取り入れるという本来の目的よりも上位に存在することになりそうだ。女性に従順を強いるのは、男女共同参画から最も遠いような気もするが、どうも日弁連執行部はそのように考えているとしか思えないのだ。

 クォータ制女性副会長制度は、制度としては、やむを得ないのかもしれないが、現状の執行部のように、執行部に従順という見えない条件が絡まっているのだとしたら、それは女性参加に名を借りた執行部の地盤固めにすぎない。

 まさかとは思うが、仮に私の推測が万一、正鵠を射ていたとしたら、日弁連とはなんと器の小さい組織なのであろうかと、嘆息を禁じ得ない。

弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~2

 ところが、日弁連は弁護士は社会生活上の医師であるから、全国津々浦々に弁護士がいた方が社会にとって良いと考えているようだ。だからこそ司法過疎解消をしきりに唱えたがるのだろう。確かに司法制度改革審議会意見書にも、法曹は「国民の社会生活上の医師」の役割を果たすべき存在であるとの指摘もある。

 この点について、私は残念ながら、弁護士像を理想化しすぎた日弁連・司法制度改革審議会の誇大妄想ではないかと思っている。弁護士が過疎地を含めて常に身近にいるだけで社会が良くなるなんて思い上がりも甚だしい。

 確かに医師であれば戦う相手は病気であり全人類の敵である。病気をやっつければやっつけるだけ人類の幸福は増加する。この意味で、明らかに医師は正義の味方といえるのである。

 しかし弁護士はどうか。戦う相手は、依頼者以外の個人であり企業等である。例えば、ある訴訟で依頼者の為に弁護士が全力を尽くして戦い、勝訴した場合を考えて見よう。
 その弁護士に依頼した者にとって、自分の言い分を裁判所に認めさせてくれた弁護士は救いの神である。しかし、相手側にとってみれば、自分の言い分を否定し尽くされ、裁判所の判断を誤らせた、魂を悪魔に売り渡した悪徳弁護士以外の何物でもない場合もあるだろう。

 弁護士が裁判で勝てば勝つだけ、その勝利の数に応じて、裁判での争いに負ける相手方があふれるのだ。

 日弁連は、勝つべき事件だけ勝ち、負けるべき事件は負けるという、客観的正義を実現するような、ある意味理想の弁護士像を描いているのかもしれないが、負けるべき事件だから負けましょうという弁護士に、誰が依頼をするだろうか。

 弁護士全てが、金のなる木をもっていて、未来永劫生活に絶対困らないのならともかく、職業が生活の糧を得るための手段であるという厳然たる事実を直視すれば、自営業者にそのような態度をとるように求めることは、不可能を強いるものだ。

 弁護士資格でさえ取得するために、多くの時間と費用がかかっているのである。

 このように、(冤罪事件など一部は除かれるが)弁護士が実現出来るのはせいぜい相対的正義なのである。

 確か、「こんな日弁連に誰がした?」(平凡社新書)の著者である小林正啓先生が述べておられたと思うが、弁護士は社会生活上の医師などではなく、あくまで依頼者の為にだけ働く傭兵のような存在なのだ。弁護士が傭兵として活躍すれば依頼者の為にはプラスになる場合が多いが、攻撃の標的とされた相手としては、たまったものではないはずだ。

 実際の弁護士像と日弁連の想定する理想の弁護士像がずれたままで弁護士増員だけが進行しても、実際には飢えた傭兵が社会の中に増えるだけで、社会正義の実現はもちろんのこと、司法過疎の解消には全くつながらないと私には思われる。

 ここで歴史を遡ると、司法制度改革の支柱となった司法制度改革審議会意見書では、今後の法曹需要が飛躍的に伸びると予想されていた。そのことは、同意見書の「今後の社会・経済の進展に伴い、法曹に対する需要は、量的に増大するとともに、質的にも一層多様化・高度化していくことが予想される。(中略)その直接の担い手となる法曹の質・量を大幅に拡充することは不可欠である。」との記載からも明白である。

 しかし実際はどうか。

 2019年裁判所データブック(法曹会)によれば、全裁判所の新受全事件数(民事・行政事件は件数、刑事事件は人数、家事事件は件数、少年事件は人数で計算)は、司法制度改革審議会意見書が出された
 平成13年度で、5,537,154件であった。
 最新のデータとして記載されている
 平成30年度は 3,622,502件である。

 実は1,914,652件という減少なのだ。年間200万件近くも裁判所に持ち込まれる事件が減っているということなのだ。

 この点、裁判手続きは紛争解決の一部にすぎず、裁判手続以外での解決が進展しているはずだという反論があるにはあるが、そのような解決が多くなされているという具体的証拠は一切示されておらず、何らデータのない感覚的な反論にすぎない。現実に裁判の新受件数が減少しているというデータがあるということは、素直に見れば法曹需要は減少しているということだ。

 現実を見れば分かるとおり、司法制度改革審議会意見書の想定していた法曹需要の飛躍的増大は全くの的外れであり、したがって、法曹需要の飛躍的増大を想定して法曹人口(といっても中心は弁護士人口)の拡大を図った政策は、その出発点においてとんでもない見当違いの方向を向いていたということになる。
 率直に言えば、司法制度改革審議会はそもそもの方向性からして誤っていた阿呆でした、ということになろう。(さらにいえば、既に出発点が間違っていることが明らかになっている同意見書を、なんとかの一つ覚えのように繰り返し主張して、法科大学院制度維持のためになりふり構わぬ論陣を張る学者さん達もなんだかな~と思うがここでは論じない。)

 一方、実際には誤っていた法曹需要の飛躍的増大を前提に、法科大学院制度を発足させ司法試験合格者を増加させたことから、この間に弁護士人口は、18,246名から40,098名と2倍以上に増えたのだ。

 このように、裁判所に持ち込まれる事件数が17年前と比較して年間で200万件近くも減少し、その一方で、弁護士が倍以上に増加しているにも関わらず、弁護士過疎が解消していないということは、もはや弁護士増と弁護士過疎の解消は関連性がないとみるべきだと私は思う。

(続く)

弁護士増員で司法過疎は解消できるのか~1

 現在、日弁連で法曹人口検証本部が立ち上げられ、法曹人口(といってもメインは弁護士人口)が過大かどうか検証するということをやっている。

 私を委員に選んで頂ければ、いいたいことは山ほどあったのだが、残念ながらお声かけ頂けなかった。

 さて、伝聞であり間違っていたら申し訳ないのだが、その検証本部で、いわゆるゼロワン地域(地方裁判所の支部が管轄する地域区分内に、法律事務所などを置く弁護士の数が、全くいない又は1人しかいない地域。ちなみに 日本国内には地方裁判所およびその支部が203ある。)が未だ解消されていないとして、弁護士人口をもっと増やすべきだとの主張が執行部側からあるようだとの噂を耳にした。

 実際には、0地区はもはや解消されており、ワン地区も一度は解消され、2020年4月時点で僅か2カ所かのワン地区があるだけのようだが、未だ執行部側はワン地区の存在を理由に弁護士人口は過大ではないと主張したいのかもしれない。

 上記の推測が仮に当たっているとしての話だが、弁護士過疎は弁護士増員で解消できるものではないと私は考えている。

 理由は簡単だ。

 弁護士は、公務員でも会社員でもなく、自営業者だからだ。

 当たり前だが、自営業者は自らの商売で稼いだお金で生活をしなくてはならず、ある日、たまたま自分が担当している仕事がなくても他の日にしっかりやっていれば月給をくれることもないし、体調を崩して休業しても誰かが休業手当をくれるわけではない。

 したがって、きちんと仕事があって収入が上げられる可能性がある場所でしか開業できないのである。

 司法過疎地と呼ばれる地域は、過疎化が進行し産業も低調で、法的紛争も多くはないところが多い。そのようなところで開業しろと言われても、生計が成り立たないからそもそも不可能なのだ。

 そもそも、あれだけ訴訟大国であり、100万人以上の弁護士がいるとされるアメリカでも司法過疎は解消されていないとの報告もなされている。

 また、国民の皆様がどれだけ真剣に弁護士を必要としているのかもはっきりしない。

 マスコミやら日弁連は、やたら地方の弁護士不足を大声で喧伝するが、本当に弁護士過疎地域の方が心の底から弁護士が来ることを切望しているのだろうか。死活問題として弁護士を求めているというのではなく、「近くにいたら便利」程度の希望なのではないだろうか。

 例えば、無医村が高給を出してでも医師を募集している事例はよく耳にするところだが、弁護士ゼロワン地区の住民や自治体が高給を出して弁護士を誘致する活動をしているとの情報は、少なくとも私は一度も聞いたことがない。

 住民の皆様が本当に弁護士が必要だと真剣に思うのなら、無医村における医師のように高給を出してでも弁護士を誘致しても不思議ではないのだが、残念ながらそこまで真剣に弁護士を必要としてくれる過疎地は見たことがないのである。

                                                       (続く)

現実を見た方が良いのでは?

 中教審の法科大学院等特別委員会の議事録をときどき読んでみるのだが、何時も法科大学院制度は素晴らしいはずだという現実離れした前提を当然としたお話しがほとんどなので、どうしてなのか疑問に思っていた。

 ふと気になって、議事録の他に委員に配布される配付資料の項目を見てみたところ、ある点に気付いた。

 私が項目だけを見た限りではあるが、司法試験の結果(合格率・法科大学院別合格率など)に関する資料は多数配布されているようだが、司法試験受験生がこんなに問題のある答案を書いているという事実を摘示する唯一の資料ともいえる、採点実感等については、どうやら法科大学院等特別委員会では配布されていないようなのだ(配布されているかもしれないが、きちんと検討して法科大学院教育を反省するような議論は見たことがない。)。

 採点実感を見れば、最近の司法試験受験生(しかも短答式に合格したはずの受験生)の答案が如何にひどいものかが幾つも指摘されている。ほとんど全ての科目で論証パターンの暗記ではないかとの指摘がなされているし、基本的知識がない、基本的理解ができていない、という採点者の悲痛な嘆きを窺わせる指摘のオンパレードだ。

 良好な答案・一定水準の答案はこんな答案という例示もあるが、かなり問題のある答案であっても良好な答案のレベルと評価していたり、相当まずい答案でも一定水準の答案として評価している事実も示されている。

 令和元年の公法系第1問では、仮想の法案の立法措置についての合憲違憲が問われたが、そもそも問題文に記載されている仮想の法案の内容を誤って理解して論じた答案が多数あったと指摘されている。
→簡単に言えば問題文が理解できずに答案を書いた人間が多数いるということだ。

 同年公法系第2問でも、問題文や資料をきちんと読まずに回答しているのではないかと思われる答案が少なくなかったと指摘されている。「問題文を精読することができないのは,法律実務家としての基礎的な素養を欠くと評価されてもやむを得ないという認識を持つ必要がある」とまで指摘されているのだ。
 ちなみに、少なくないという表現は極めて控えめな表現であり、実際には多いということだ。

 民事系科目においても状況は同じである。

 第1問「不動産賃貸借の目的物の所有権移転による賃貸人の地位の移転について当然に承継が生ずるのは,賃借人が対抗要件を備えている場合に限るという基本的な理解が不十分な答案が多く見られた。」
 →こんな知識は、私が受験生の頃であれば、予備校の入門講座で押さえるべき知識である。

 「(不動産の)設置又は保存の瑕疵と材料の瑕疵とを混同する答案が少なからずあった。また,所有者の責任は占有者が免責された場合の二次的なものであることを理解していなかったものも相当数見られた。」
 →条文を確認すればすぐに分かるレベルのものである。

「・多くの受験生が,短時間で自己の見解を適切に文章化するために必要な基本的知識・理解を身に着けていない」
 →短時間と留保をつけてはいるが、要するに(短答式試験に合格している受験生であっても)その多くが基本的知識も、基本的理解もできていないということである。

 第2問においても、

 「基本的事項について、条文に沿った正しい理解を示していない答案が少なくなかった」

 「問いに的確に答えることができることが必要であろう」

 「問題となる条文及びその文言に言及しないで,論述をする例が見られ,条文の適用又は条文の文言の解釈を行っているという意識が低い」

 等と、もはや問題文で提示されているのが、どの条文の問題かすら明確にできないし、問いに答えることすらできていないという指摘まであるのだ。

 もっと書いてやりたいが、あまりに指摘すべき点が多いので、詳しくは法務省のHPにある司法試験の採点実感を御覧頂きたい。
 いまの司法試験論文式が、如何に選別能力を失っているかが良く分かる。

 このような指摘が現場からなされているにも関わらず、法科大学院教育の成果を見るために最も適した資料であるはずの採点実感を、何故法科大学院等特別委員会で検討しないのか。

 何ら実証されていない、プロセスによる教育の理念とやらを振りかざし、予備試験を敵視して気炎を上げるのも良いかもしれないが、まず自分達の教育結果を素直に見てみたらどうだ。

 かつてあれだけ、大学側が敵視していた論証パターンの暗記も一向になくならないどころか、ますます隆盛のご様子だ。

 何やってんだ法科大学院のお偉い先生方は。

 どんな教育をしてるんだ。
 

不都合な真実に目をつぶるのも結構だが、少しは現実を御覧になったらいかがか。

伏魔殿?!日弁連クォータ制副会長

日弁連の副会長のうち、2名はクォータ制により、女性と決まっている。

 日弁連が女性が副会長になりにくい制度を採っているわけではないと思うので、私個人としては男性への逆差別ではないかと思うのだが、男女共同参画の理念からすると私の感覚がどうもおかしいらしい。

 それはさておき、クォータ制の女性副会長の選出経緯は実に複雑怪奇の伏魔殿的な様相を呈していると私は思っている。

 クォータ制女性副会長になるには、弁連等から推薦される方法・自ら推薦人を集めて立候補する方法があり、最終的には日弁連会長が座長を努める委員会で候補者から選出される仕組みだったように記憶している。

 もちろん、他人に推薦されるのをじっと待っている候補者よりも、自ら女性共同参画の理念を日弁連執行部に実現するべく、推薦人を集めて立候補する人の方がやる気があるわけだし、日弁連のためにしっかり働こうとする意欲は高いと思われるのだが、実は、日弁連は推薦候補者を優先させ、立候補した候補者を落選させた前歴がある。
 さらに、立候補者がいないのであれば、弁連で推薦する、というのなら話は分かるが、クォータ制立候補者を募る公示をする前から既に弁連候補者を内定させていたという、本末転倒したようなお話(しかも、クォータ制導入する日弁連総会決議があったわずか3日後に既に弁連推薦候補者がきまっていたらしい)もあったりするのだ。

 日弁連代議員会で、何故立候補した方をクォータ制副会長に選出しなかったのかという質問も出たように思うが、日弁連執行部は政府答弁のように木で鼻をくくったようなお茶を濁した適当な説明だけをして、具体的な説明は、なにもなかったように記憶している。

 簡単に言ってしまえば、女性の積極的な参画を促しながら、積極的に立候補された、やる気のある方を排除するなど、私には到底理解不可能な選考を日弁連は行ってきたということだ。

 この点、確かに、弁連推薦のクォータ制女性副会長候補者は、弁連から推薦を受けていることからも分かるように、もともと弁連を押さえている日弁連主流派の息がかかった人材、すなわち日弁連執行部に逆らわないイエスマン的候補者だと思われるため、日弁連執行部としても、その方が楽に会務を遂行できるというメリットはあるだろう。

 しかし、そもそも何故日弁連はクォータ制女性副会長を導入したのか。

 それは、日弁連執行部の会務を円滑に行うことが主目的ではなく、女性ならではの視点を日弁連執行部に積極的に取り入れようとする目的からではなかったのか。

 だとすれば、より日弁連に女性の視点を反映させようと決意して、自ら推薦人を集めて立候補する人材は、やる気という点で弁連推薦者よりも優位に立つはずだし、能力面についても多くの会員から推薦を得られているのであれば大きな問題はないと考えられるから、明らかにクォータ制導入目的に沿う人材であると考えられる。

 
 それでも、日弁連は、クォータ制副会長に立候補した方を未だ選出したことがないはずだ。

 このように、私から見れば全然なっちゃいない日弁連のクォータ正副会長選出の経緯なのであるが、2度も立候補して煮え湯を飲まされていながら、負けずに再度チャレンジしようとする方がいらっしゃる。

 兵庫県弁護士会の武本夕香子先生だ。

 武本先生は、長年、伊丹市、尼崎市及び芦屋市において、女性のための専門法律相談員を務めてこられ、上記各市における男女共同参画推進審議会委員等を務めるなど、男女共同参画問題について積極的に取り組んで来られた方だ。

 兵庫県弁護士会の会長も務めた経験をお持ちで、経歴的にも日弁連副会長として何ら問題がない方でもいらっしゃる。会派などに阿ったりせず、是々非々で堂々と議論できる貴重な方である。
 なにより、女性の視点を日弁連執行部に反映させるために強い意思を持って再度立候補を表明されたやる気と行動力を、日弁連は汲み取るべきだろう。
 
 その武本先生が、クォータ制副会長立候補予定者として推薦人を募集しておられる。今の硬直化した日弁連執行部に対し、風穴を開け、日弁連執行部の会員無視のやり方を是正させる一筋の光となるかもしれない可能性をお持ちの方だ。

 武本先生のHPには、推薦人の書式も掲載されている。

http://www.veritas-law.jp/newsdetail.cgi?code=20201016204214

(リンクが上手く張れないので、コピーアンドペーストでお願いします。)

 推薦をして頂ける方は、お手数をおかけしますが、ダウンロードして署名(自署が必要だそうだ)、押印のうえ、武本先生の事務所宛にお送りして下さいとのことだ。

 日弁連執行部の硬直化は、おそらく誰もが感じていることだろう。高い会費を徴収しながら、会員の生活を無視してボランティアを求める執行部の施策に違和感を覚える会員も多いのではないだろうか。
 確かに、思っていても行動しなくては何も変えられない。
 しかし、自ら行動できなくても、変えようとしている方を支援することで、変化に向けた動きを起こすことはできる。
 
 そろそろ我々も、「執行部に任せていれば上手くやってくれるはずだ」という幻想から目を覚ますべきときが近いのではないか、とも思うのだが。

餃子の王将出町店、10月末閉店の報道。

「なんやこの書面は!」
「ご指示通り、訂正しました」
「全然直ってへんやないか!」

その日の半年ほど前から、このような会話の後に、私は、
「申し訳ありません、やり直します」
と答えていた。

しかし、その日は、私の我慢も限界に来ていた・・・・。

 もう20年近くも前になるだろうか。

 私がイソ弁時代のことである。

 私はボス弁3人の事務所に一人目のイソ弁(勤務弁護士)として入所したのだが、ボス3人がそれぞれ独立して事件をこなしている中、3人からあれこれ仕事を振られる状況だった。3人ともやり方が違う上に、それぞれが急ぎだといってくるので、1人のボスの仕事を片付けていると、他のボスが頼んだ仕事はまだかとせっつくなど、対応がとても困難だった。
 そこで要領悪くバタバタしていた私が気に食わなかったのか、ある時期から、1人のボスから何かにつけて(私から見ればだが)過度に叱られるようになった。

 もちろん相手はベテラン弁護士なので、新米弁護士のアラなど、探せばいくらでも出てくる。
 それをいちいち取り上げて、叱られるようになったのだ。叱られていないときはたいてい無視である。

 ボスの書面を指示通りに直せば、「工夫がない、事務員で足りる」と言われ、指示を私なりにより良いと思う表現に変更すれば「指示を守らんで、何をしている」と言われ、そのくせボスが提出する書面には私が変更・訂正した表現や理屈を使っていたりする場合が何度もあるなど、私はどうすれば良いか分からなくなり、相当精神的に疲弊していた。1人のボスは同情してくれて優しい言葉を掛けてくれたが、それでストレスが解消されるものでもなかった。

 今の時代であれば、パワーハラスメントに近いボスの行為だったと思うが、正直言って、事務所に出ること、通勤電車に乗ること、朝起きること、そして朝起きるために寝ること、その全てが辛く、そして嫌になっていた。

 ある日、駅の階段の上り下りもきつくなり、医者に行くと、肝臓の検査結果の数値が相当悪くなっているということで、強く入院を勧められた。原因はストレスではないかということだった。

 私はもう限界に近づいていた。

 もちろん、私の人間としての未熟さがあったとは思うし、社会人としては失格だったかもしれないが、ついに言ってはいけない言葉を返してしまったのだ。

 私は、ボスに対し「申し訳ありません、やり直します」と答えず、

 「いいえ、これが先生のご指示通りの訂正です」

 と答えてしまったのだ。

 思いがけない反応だったのか、ボスの顔色がさっと赤くなり、「そんな指示、わしが出すはずない!」と怒気を孕んだ大きな声が返ってきた。迫力はあった。

 しかし私も限界に来ており、もう引くに引けなかった。私は、ボスが私に渡した訂正指示の書面を、「これがご指示です」とボスの目の前に突き出した。

 その後のやり取りは、良く覚えていないが、立ったままでボスから叱責を受け続けていると、猛烈な吐き気を催してきたので、「スミマセン、ちょっと吐いてきます」とトイレに向かい、さんざん吐いた記憶は残っている。

 もう私は、疲れ切っていた。もう弁護士としては、やっていけないかもしれないと思った。苦労して司法試験に合格したのに、今の現実がとても悲しかった。

 人間とは不思議なもので、そんなときでも、理性は働く。事務所を出たあと、食欲はなくとも食べなければ、もっとダメになるという思いが私にはあった。

 私は、帰宅時に立ち寄った、いかにも職人さんという感じの店長さんがやっている中華の店のカウンターで、ジンギスカンとご飯を注文し、出てきた定食を食べていた。

 店長さんは、店長と呼ぶより大将と呼ぶ方が似合うような、また、そう呼びたくなるような方だった。私が黙ってお店のドアを押し開けたときは、学生に人気の店とはいえ、決して綺麗とはいえないお店であり、時間も遅めだったこともあり、客はそう多くはなかったと記憶している。

 普段は好きなジンギスカンもあまり味が感じられない気がしたが、薬のつもりで私は食べ始めた。

 半分くらい食べた頃だったろうか、俯いて、ぼそぼそと定食を食べていた私の前で、コトッと小さな音がした。
 顔を上げて見てみると、揚げたてで湯気の立っている唐揚げが2個、小皿に載っておかれていた。

もちろん私が注文したものではなかった。

「あの・・・」

「あ~、ええから。ええから食べ。」

 注文の間違いではないか、と言おうとした私に、大将は、片頬で笑みを一瞬だけ浮かべただけで、それ以上何も言わず、いつもの職人さんのような顔で、次の調理作業に戻っていった。

 おそらく、はたから見ても私は、相当しょぼくれて、消耗していたのだろう。

 大将は、そんな私を、私が一介の客であるにも関わらず、見過ごすことができなかったのだろう。

 そんな大将の優しさは、そのときの私には、とても、とても大きく有り難いものだった。私は、本当に久しぶりに、人には優しさがあるのだということを思いだした気がして、唐揚げを頬張りながら、他の客に見られないように嗚咽をこらえて、鼻をすすり、小さく涙を拭った。

 そして、少しだけ頑張ってみようという気持ちを、心の中になんとか、小さいながらもかき立てることができたような気がした。

 支払いのときに、私は「有り難うございます。お陰様で、もうちょっとだけ頑張れそうな気がします。」と少し鼻声になりながら、正直に感謝の気持ちを伝えた。

 大将は小さく頷いて、「がんばりや」とだけ言ってくれた。

そのお店が、「餃子の王将」出町店である。

 お金の無い学生さんに、30分皿洗いすればお腹いっぱい食べさせてくれる制度をずっと続けていたお店であり、私の知っている限りずっと大将は同じ方だった。

 そのお店が、今年の10月末で閉店するという報道を新聞で読んだ。

 大将のお名前が井上定博さんである、ということもその記事で初めて知った。
 

 閉店までにもう一度行ってみたい。
 行って、ジンギスカンを注文し(今では、餃子もつけても良いかな、という不敵な考えもある)、「お陰様でなんとか頑張れています」と伝えたい。

 こういう気持ちは私の中で強くあるのだが、また、あのときのように大人げもなく涙ぐんでしまうのではないかという、他人には言いにくい恥ずかしい気持ちもあって、私の心は揺れている。

後記:「出町柳店」ではなく、「出町店」が正しいようなので訂正しました。

司法試験の合格率はかつての20倍(!?)になりそう・・・。

 今年の司法試験受験者のうち、途中退出せず採点対象者となる人の数は、法務省発表によれば、3664人であり、昨年度の4429人よりも765名減少した。
 仮に昨年度並みに合格者を1500人程度とした場合、司法試験の合格率は、
 1500÷3664=40.94%(小数点第3位を四捨五入)となる。

 これは相当高い数字であり、かつて言われた司法試験=現代の科挙とは到底いえない合格率になっている。しかも法務省は、短答式試験は基本的な出題しかしない(要するに出題のレベルを落とす)と敢えて明言するに至っている。

 したがって、上位合格者はともかく、そうでない司法試験合格者のレベルはかなり落ちてきていることは容易に想像がつく。

 このように書くと、法科大学院擁護派の人から、今の司法試験は原則法科大学院を卒業した人が受験するので、合格率は高くとも合格者の質は維持されている、と根拠のない批判を受けることがある。
 
 この批判に対する回答は簡単である。
 「司法試験の採点実感を読んでください。」で事足りる。

 採点実感を読めば分かるが、基本中の基本も書けていないという指摘が目白押しだ。かつて司法試験受験生は予備校に通って論点暗記ばかりしている、法科大学院でその弊害は除去できる、と大学側は主張して法科大学院導入を推進した。しかし、結局法科大学院制度が導入されて論点暗記主義は未だ健在であり、全く関係がない論点を延々披露する答案が多数ある(しかもその傾向は年々ひどくなりつつある)ことも明らかにされている。

 要するに、法科大学院制度ができて15年以上経ったが、基本的なことも身に付いていない司法試験受験生が多いし、論点暗記主義も一向に減少していないということになる。

 しかも、司法試験受験生は減少の一途をたどり、これに伴い競争率も低下の一途である。
 これで司法試験合格者の質が維持できていると主張するのは、町内大会の上位1500名と、全国大会の上位1500名は同レベルだと強弁するに等しい。

 おそらく、今の受験生のレベルでは、かつて合格率2%程度の時代の、短答式試験で合格点(75%~80%程度)を取れる人間はそう多くはいないと思われる(合格点を取れる受験生が多いのなら、法務省が短答式試験のレベルを落とす必要もない。)。
 しかも、かつては短答式試験に合格して選抜された者(おおよそ5人に1人)の中で、さらに論文式試験に合格し最終合格にまで至るのは6~7人に1人だったのだ。

 結果を素直に見れば、法科大学院制度は、法曹志望者を減少させ、司法試験合格者レベルを落としたばかりではなく、税金を食い潰すという代物であった、ということになる。発足して15年以上も経つのに未だに教育内容の改善が急務とされていることからも、そもそも理想だけが先行した無茶な制度であったことは理解できよう。

 かつて成仏理論と称して、人々のお役に立てているなら飢えることはないなどと暢気なことを言った学者さんがいた。私はそんな無茶苦茶な話はないと思っているが、仮に彼の成仏理論が正しいと仮定した場合、経営が成り立たずに潰れた法科大学院が多数存在するという事実は、法科大学院制度が、結局、人々のお役に立てていなかった制度であったということを裏付ける、皮肉な理論になってしまったということにもなるだろう。

よくある相続の落とし穴① ~母親に相続させるために子供が相続放棄をする場合~

この記事は、当事務所HP(https://www.win-law.jp/)のブログに掲載しておりますが、皆様の参考になるかもしれないと思い転載するものです。

(相談者A、弁護士S)

A:先生、先日父が亡くなってようやく最近落ち着いてきたのですが、ちょっと相続放棄でご相談したいことがあるのです。

S:お父様は急に亡くなられたとお聞きしたので、いろいろ大変だったでしょう。相続放棄ということは、お父様に借金などがあったということなのでしょうか?

A:いえ、いえ、父は堅実なタイプなので、相当額の資産を残してくれていますし借金もありません。ただ、私も弟も事業がうまくいっていますし、経済的にも問題がないので、兄弟2人で相談した結果、全部母親に相続してもらおうと思っています。父の弟の叔父さんが親切にも相談に乗ってくれ、「それなら相続放棄が簡単でいいらしいぞ」、と教えてくれましたので、相続放棄の手続きをお願いしようと相談に来ました。

S:それは、大変! Aさんの叔父さんは、お金に困っているのではありませんか?Aさんのご親戚のことを悪くいいたくありませんが、相続の落とし穴が仕掛けられている可能性がありますよ。

A:ええっ!どういうことでしょうか!?

<解説>

 確かに、父親が亡くなって、母親と子供2人が相続人である場合に、子供2人が相続を放棄すれば、全て母親が相続できそうにも思えます。母親を大事に思って母親のためにと思い相続放棄を考えている人もいるでしょう。

しかし、それは大きな勘違いです。子供2人が相続放棄をしたばっかりに、別の人間が関与してきて、紛争が起きてしまうこともあるのです。

 つまりはこういうことです。

 相続放棄をした場合、「相続放棄をした者は、その相続に関して初めから相続人とならなかったものとみなす」と扱われます(民法939条)。要するに、父親の相続に関して母親と子供2人が相続人である場合に、子供2人が相続放棄をすれば、父親の相続に関しては、子供2人はこの世に存在しない状態として扱われてしまうです。平たくいえば、子供のいない夫婦がいて、その夫が死亡した状態と同じものとして扱われるのです。

 子供のいない夫婦がいて、その夫が死亡した場合、妻は当然に相続人ですが、子供がいないため、第2順位として夫の両親(相続分は妻が2/3、両親が1/3)が法定相続人になってきます。夫の両親が既に死亡している場合は、第3順位として夫の兄弟姉妹(相続分は妻が3/4、夫の兄弟姉妹が1/4)が法定相続人となってきます(民法889条)。

 以上から、Aさんのケースは、母親と子供2人が相続人である状況ですから、子供2人が相続放棄をした場合には、子供がいない夫婦の1人が死亡した場合と同様に扱われ、Aさんの亡父親の兄弟姉妹が相続人として名乗りを上げてくるということになるのです。

 相続放棄は撤回ができません(民法919条1項)から、Aさんと弟さんが相続放棄をした後で、叔父さんが「わしも相続人なのだから遺産の1/4をよこせ」といってきても拒めない、というかなり悲惨な状況が想定されます。

 親孝行のつもりで相続放棄をしたばかりに、思いがけない相続人が財産をよこせといってくる根拠を与えてしまうこともあります。

 相続放棄をする際には、必ず弁護士さんに相談した方が良いでしょう。

 大阪弁護士会所属 弁護士 坂野 真一

児童ポルノ所持と自首

 児童ポルノ大手販売サイトの摘発報道がなされてから、児童ポルノ所持罪が心配になって相談に来られる方が、当事務所にも複数いらっしゃる。

 そのような方から聞いた話だが、児童ポルノ所持について相談すると、逮捕される可能性があるなどと相談者をビビらせて、自首を勧め、自首に同行する費用として高額の弁護士費用を要求する弁護士がいるとのことだ。

 ある相談者の方は、捜索差押や逮捕を避けるには自首したほうがいい、自首のための上申書作成と自首のための弁護士同行で、あわせて80万円もの弁護士費用が必要だと弁護士にいわれ、とてもそんなに払えないということで当事務所に相談に来られていた。

 確かに、児童ポルノ所持とはいえ犯罪態様によっては、自首を選択したほうがいい場合もあるだろう。しかし、児童ポルノ所持にも様々な態様がある。私のお聞きした相談者の方の事件内容であれば、あえて自首をする必要までは認められないと思われるものだった。

 また、自首したから絶対に逮捕されないとか捜索差押えを受けないという保証はないし、正式に自首として受理されれば、自首の手続きは告訴に準じるから、自首を受理した場合、刑訴法245条・同242条により司法警察員は速やかにこれに関する書類及び証拠物を検察官に送付しなければならないことになり、却って捜索差押を誘発する契機にもなりかねなかったりもするのである。

 もちろん、TV番組でもよくあるように弁護士によって判断・意見が異なることはありうるから、私の見立てが絶対に正しいとは言わない。
 しかし、少なくとも私が相談に応じた事案は、自首する意義がほとんどないと思われるような事案であった。

 私に言わせれば、このような事案で自首を勧めることは、一般の方に分かりやすいように病気に例えるならば、まったく虫垂炎の気配もなく、今後も特に問題は生じるとは思えない状態であるにもかかわらず、敢えて将来的に虫垂炎になる可能性を医師が指摘し、それを聞いて、「虫垂炎も手遅れになれば死にますよね」、と必要以上にビビっている相談者に対して、健康保険が適用されない自費診療での高額な予防的虫垂摘除手術を勧めるようなものである。

 とはいえ、このような手術を勧めても、違法ではないだろう。

 医師としては屋上屋を架すことになっても、念には念を入れて虫垂炎の心配を取り除くほうが良いと考える場合もあるだろうし、虫垂炎になってから手術をしても十分間に合うものの、高額の手術料を支払っても虫垂炎になる心配を失くしておいたほうが気が楽だという人も、ひょっとしたらいるかもしれないからだ。

 しかし、全くの健康体でありながらあえて高額の費用を支払ってほとんど意味のない手術をするかといえば、通常は、そのような手術を希望する人はいないだろう。虫垂炎になって手遅れになったら死ぬかもしれない、と必要以上に怖がっている人の恐怖に付け込んで手術を勧めているのからだ。したがって、この虫垂摘出手術のような例は、違法ではなくても、妥当な医療行為かと問われれば、そうではない、と私は考える。

 話を児童ポルノ所持に戻せば、逮捕される可能性や捜索差し押さえを受ける可能性がゼロであるとは、誰にも断定できない。したがって、「逮捕される可能性はあります」「捜索差押えを受ける可能性もありますよ」と伝えること自体は、嘘でも違法でも何でもない。

 しかし、弁護士から「逮捕される可能性がある」「捜索差押えを受ける可能性がある」と指摘されれば、そのような方面に知識が乏しい一般の方々は、相当な高確率で、逮捕・ガサ入れの事態が生じると誤解する可能性が高いのではないだろうか。

 だとすれば、その誤解に乗じて、健康な人に虫垂摘出手術を行うように、実質的にはわずかな意味しか持たないサービスを(相当高額な費用を取って)売りつけることが、果たして正当な弁護サービスの提供と評価してよいのだろうかという疑問が私にはぬぐえない。

 ところで、以前盛んに叫ばれた、「弁護士も自由競争しろ」、とのマスコミや法科大学院支持の学者の主張(大合唱)は、一見正しそうに見えなくもない。大新聞や偉い学者が何度もそう言っていたのだから、なおさらだろう。

 しかし、自由競争原理を弁護士業にも全面的に導入すべきだとすれば、自由競争社会では利益を上げることが最優先課題になる。利益を上げられない者は、競争に敗れるわけだから、退場するほかないからである。

 したがって、自由競争信奉者の人たちからすれば、例えわずかしか意味がないサービスであっても、(意味はゼロではないかもしれないので)そのサービスを売りつけ、高額の利益を上げる弁護士が自由市場で生き残り、その一方で、意味がほとんどない弁護サービスは敢えて行うべきではないとして相談料しか受けとらない弁護士が利益を上げられずに自由市場から退場することになっても、それは自由競争の結果として当然である、ということになるのだろう。

 しかし、上記のどちらの弁護士が、国民の皆様にとって良い弁護士、生き残ってほしい弁護士というべきなのだろうかという点から考えると、果たしてどうだろうか。

 自由競争により経済的に勝者となった弁護士が良い弁護士(国民の皆様にとって望ましい弁護士)であると即断してよいはずがない、と私は思っていたりもするのである。

新型コロナウイルス特措法案と日弁連~2

(昨日のブログの続きです。)

 ここで話を戻すのだが、新型コロナウイルス特措法案で、法テラス適用要件を緩和するということは、経済的にさほど困っていない人でも法テラスを利用できるようにしようということだ。

 法テラスを利用することにより弁護士費用が抑えられるのであれば、多くの人は健全なそろばん勘定をした上で、利用可能であれば法テラスを利用するはずだ。現に「弁護士費用を安くする裏技」などとして、法テラス利用がインターネットで紹介されていたりすることからも、法テラス利用者が激増することはほぼ間違いあるまい。

 これは、弁護士業界に、提供する法的サービスに応じた報酬が得られない仕事が激増することと、同義である。また、多くの国民の皆様に弁護士費用の内的参照価格を大きく引き下げてしまう(弁護士費用は法テラス基準が普通であり、通常の弁護士費用の方を常に高価だと多くの方が感じてしまうようになる)というデメリットもある。

 野党の新型コロナ特措法において、法テラス基準の緩和を日弁連の方から申し出たという情報が事実なら、日弁連は、新型コロナウイルスで打撃を受けた人は被害者であり、被害者は救済してあげなければならない、とお人好しにも考えたのであろう。その意気やよし、である。
 しかしその考えは、裏を返せば弁護士業界にペイしない仕事を大量に導入させ、かつ将来の顧客の減少にもつながる愚策でもある。

 もっと解りやすい言い方をすれば、日弁連は、新型コロナウイルスで打撃を受けた人の生活や財布は心配してあげようとしたが、高い会費を支払って日弁連を支えている弁護士それぞれの生活や財布は心配しなかったのだ。

 もちろん弁護士が、特権的に保護され、全員が経済的に豊かであり、老後も含めて生活していくのに何の心配もない、という牧歌的な状況であれば、そのような夢物語を語っても許される場合があるのかもしれない。

 しかし現実は違う。

 法曹需要が伸びない現状を無視して弁護士の激増政策を継続した結果、弁護士の所得は減少の一途をたどっている。

 日弁連の弁護士白書によれば、2006年と比較して、2018年の弁護士の所得の平均値・中央値とも半減している。最も多い所得層は、所得200万円以上500万円未満である。弁護士には退職金もない。健康保険は国民健康保険で、年金も国民年金(平均支給額月額5万5千円)だ。もちろん会社が半額負担してくれるわけでもない。
 そして、今後、急に訴訟社会が到来する等、弁護士需要が激増するとの見込みも全くない。

 このように、自らの将来の生活を見通すことすら大変な状況で、日弁連執行部は、なお、弁護士は弱者を救えと言い張ったということなのだ。

 私にいわせれば、アホとしかいいようがない。

 やってることが完全に逆だからだ。

 他人の財布を心配できるのに、日弁連を支えている、所得急減中の会員達の財布を心配できないのは愚の骨頂である。日弁連執行部は、弁護士が金のなる木を持っていると勘違いしているのかもしれないが、日弁連執行部にお勤めのエライ先生方と違って、普通の弁護士は金のなる木などもっていないのである。

 日弁連は弁護士から会費を取って運営しているのだから会員である弁護士を守らなくてどうするというのだ。

 理想を追うのも結構だが、きちんと足下(会員の状況)を見た上で、できれば多くの国民の皆様の利益に沿う方向で、かつ、弁護士にとって利益のある提言をするべきだ。
 いくら弱者救済の理想を掲げても、経済的裏付けのないボランティア仕事を増やすことは弁護士制度の将来的な維持存続にとっても百害あって一利無しである。

 また、日弁連や弁護士会が掲げる理想が国民の皆様の意向に沿っていない可能性だってある。これまでも日弁連は理想に燃えて人権のため、社会正義のためと称して弁護士に負担をかけてきた。市民のためにと、大阪弁護士会が公設事務所として設けた大阪パブリック法律事務所(通称大パブ)もその一つである。

 私とて大パブの意義を否定するものではないが、これら弁護士らの努力が国民の皆様方の意向に沿っていて評価を受け、弁護士・日弁連等に感謝してくれているのであれば、もっと一般社会から日弁連や大パブに寄付が集まってもおかしくないはずだ。大学などに何十億円も寄付する実業家が存在するのだから、現実に社会のお役に立つ行動をとっていたのなら日弁連だって、大パブだって寄付の対象になってもおかしくはないだろう。

 ちなみに大パブは15年間で5億8800万円の自腹を大阪弁護士会に切らせたが、人権擁護などを主張するマスコミや、実業家などから大パブに高額の寄付金支援があったという話は、私は聞いたことがない。

 それでも、日弁連執行部が特措法を推進するなら、提案がある。特措法推進によって、仮に法テラス適用要件が緩和されたのであれば、日弁連執行部にいらっしゃる先生方、およびその賛同者の方々で、その仕事を(もちろん法テラス基準で)担当してもらいたい。

 口が悪い私に言わせてもらうなら、執行部の先生方は、勝手に理想をぶち上げておきながら、その理想実現という困難な問題を若手など他の弁護士に丸投げしているように思えることがある。

 その昔、弁護士過疎の問題が出た時に、若手に過疎地に行けと号令をかけたり、過疎地に行ってくれる弁護士の援助方法を検討している執行部の先生方はたくさんいたが、自ら過疎地に行こうとする先生はいなかった。

 私も、かなり前であるが、大阪弁護士会の常議員会で、弁護士過疎の対策が必要と力説する某会長に向かって「そんなに過疎対策が必要なら、会長や会長経験者が出向けば解決するでしょう。過疎地も会長まで務めた立派な先生が来てくれたらとても喜ぶでしょう。」と申しあげたこともあるが、結局、過疎地対策の必要性を力説する会長経験者が過疎解消のため自ら過疎地に出向いた例を、寡聞ながら知らない。
 

 日弁連は理想を追う前に、まず足元をきちんと見るべきだ。業界全体で見たときに、わずか10年ほどで所得が半減し、さらに弁護士増員が止められず、新たな需要も見いだせていないという危機的状況に目を瞑った状態で、どんなに気高き理想を唱えそれを追っても、現実は(そして会員も)、日弁連執行部の後に、ついていけないのである。

 いい加減に目を覚ましてもらいたい。

 あなた方と違って、普通の弁護士は金のなる木を持ってはいないのだ。
 会員のための施策を行わないのであれば、いずれ日弁連は瓦解する可能性が高いだろう。

 賢明な方には、既にその足音が聞こえているはずだ。