緑の占領?

 叔父が急逝し、仮通夜のために、とりいそぎ田舎に戻った。普段は自動車で帰省するのだが、急だったこともあり、久しぶりに列車での帰省にならざるを得なかった。

 寂しさを紛らわすかのように、あれこれと忙しく動き回っている叔母の姿や、型どおりにお経を上げる坊さんを、何故だか少し現実離れしたような感覚で私は受け止め、焼香をして叔父に別れを告げた。仕事の都合で、仮通夜しか出席できなかったのだ。

 翌日、郷里の無人駅から、事務所に向かうために、私は特急列車を待っていた。

 国鉄時代、常に3人以上の駅員がいたこの駅も、ずいぶん前から無人駅になっている。この路線は、確か私が小学生の頃に電化されたのだが、電車だけでなく、汽車も多く走っていた。

 かつて私は、高校への通学のために、この駅から汽車(電車ではない。)に乗り、この駅から駿台模試を受験するためだけの目的で、夜行列車に乗り込んだこともあった。高校の生徒会長を補佐して文化祭の準備をするために、朝5時頃の列車に乗り込んで高校へと向かったこともあった。もう覚えておられないとは思うが、当時私がお手伝いした生徒会長は、鎌倉円覚寺管長の横田南嶺老師となられている。

 冷暖房の効く急行型車両(キハ)の通学もそれで楽しかったが、電気機関車(EF58)が牽引する古めかしい客車での通学は、今思えば相当風情があった。ドアは手動で、いつでも開けられたし、開いているままのことも多かった。最後尾の客車のデッキからは、遠ざかる線路が何の障害もなく見え、いつでも飛び降りることが可能だった。トイレは、水は流れるがそのまま線路に排泄物を落とす仕組みで、鉄橋などを通過する際には、下からの光が見えるときもあった。
 もちろん、冷房などはなく、夏になると窓を全開にし、天井の扇風機を回すくらいしか、涼をとる手段はなかった。扇風機も確か、カバーにはJNR(日本国鉄)の頭文字が残ったままだった。
 その扇風機が、それぞれ個別の方向に向かって、そして、少し腹立たしいほどゆっくりと、首を振っている様子を、窓から吹き込む夏の暑さとともに、高校時代の私は眺めていたのだと思う。

 当時よりも、さらに過疎化が進んでいることから、民営化したJRは当然のように列車の本数を減らしたようで、駅の隅に張り出された時刻表には、空白の時間帯が目立っていた。いずれ複線化されるのではないかと噂もあったが、複線化は白浜まででストップし、そこから先の複線化は放置されたままであり、今後もそれは変わらないだろう。

 私は駅の階段をゆっくりと上り、ホームの端まで歩いてみた。
 もっと広くて大きかったような気がした階段だが、実はそうでもないように感じた。自分が高校時代から物理的に、格段に大きくなったわけではないのに、この感覚のギャップは妙におかしかった。

 ホームの端まで歩きながら、今までなかったものが、線路にあることに、私は気付いた。

 雑草が線路の中に生えているのである。

 線路内に雑草が生えている状況は、これまで、廃線区間でしか見たことがなかったので、少し驚いた。

 少なくとも私が高校生の頃はこのようなことはなかった。
 もちろん、走行列車の本数が激減したことも影響しているのだろうが、JRは線路内の雑草を放置するようになったのだろうか。

 かつて、二酸化炭素だらけで生物がいなかった地上に、最初に上陸したのは植物だと何かの本で読んだことがある。
 最初は、植物が地上を支配していたのだ。

 線路に生えた雑草の姿は、植物がかつて地上を支配したときのように、人間が過疎化した土地を植物が静かにゆっくりと取り戻そうとしているかのようにも思えた。

 そう遠くない未来に、ひょっとして郷里の駅や線路は、人々にかつての想い出だけを残して、緑に占領されてしまうのかもしれない、そんな幻想を抱きながら、私は少しだけ遅れて到着した列車に乗り込んだのだった。

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